ありがとう、おばあちゃん
学校の帰りに食材をスーパーで買ってから加奈はおばあちゃんの家に向かった。家に向かう上り坂の途中振り返って街並みを見た。
空には真っ赤に染まった夕陽に雲が朱に染められ、とても美しい光景だった。あまりにもきれい過ぎて怖いくらいだった。おばあちゃんの家に着き、スライド式のドアを開けて玄関をくぐる。
居間に行くとおばあちゃんが窓辺の縁側に座って身動きせずにじっとオレンジ色に染まった庭を見ていた。ちょうど洗濯をしていたらしいおばが居間に入ってきたところだった。
加奈を見るとブスッとした表情で遅いわよと言った。加奈とおばが交代する形でおばは家に帰っていった。加奈は鞄を置いておばあちゃんに駆け寄った。
「ただいま、おばあちゃん。今日はおばあちゃんの大好きな煮物料理にするから楽しみにしててね。」
おばあちゃんは庭の方を向いたまま返事がない。加奈はまゆをひそめておばあちゃんの前に回りこんだ。
「おばあちゃん?」
「ああ、加奈ちゃんお帰り。」
ようやく加奈のことに気づいたようにゆっくりと笑みを浮かべて言った。
「すぐご飯作るから待っててね。」
台所に向かおうとする加奈の手をおばあちゃんがつかんだ。加奈は立ち止まりおばあちゃんの顔を見つめた。
「どうしたの?」
「御飯はもう少し後でもいいから、少しここに座って話をしないかい・・?」
でも、と加奈がためらったが、おばあちゃんの気配にただならぬ色が混じっていた。
相手を怖じ気づかせるような高圧的なものではなかったが、それでも有無を言わせず、頷いてしまうような静かな迫力があって、加奈は気圧されてしまった。
何か祈るような、切実なものを感じた。
おばあちゃんがそうしたいというならと頷いて、部屋の隅にかけてあったカーディガンを持ってきておばあちゃんに冷えてきたから、とかけてからおばあちゃんの隣に座った。
しばらく二人で綺麗に夕陽に照らされた庭を黙って見つめていた。穏やかな夕暮れだった。加奈は目の前の綺麗な光景に見入って特に話をしなくても気まずくはならなかったのでそのまま黙っていた。
おばあちゃんもそう思っていたのか、すぐには話し出そうとしなかった。どこかで赤い空を飛び立っていく鳥の鳴き声がして、家の前を楽しそうにはしゃいで子供たちが掛けて行くのが聞こえた頃、おばあちゃんがようやくゆっくりと口を開いた。
「ごめんねぇ、加奈ちゃん。」
「え・・・?」
加奈は首を傾げて横に座るおばあちゃんの横顔を見つめた。何かを悔いるように表情を歪めている。どうしておばあちゃんが謝るのだろうか、加奈には分からなかった。
「今まで加奈ちゃんにあの家に住むことで辛い思いをさせてしまった。こんなに近くにいながら私はそんなことに気づいてあげれなかった。」
おばあちゃんは俯いて後悔しているような悲しそうな表情になって、目に涙を浮かべた。
加奈は動揺した。加奈はばれるような行動をとった覚えはない。
「おばあちゃん、何のことを言っているの?私が辛い思いをしてる?そんなことないよ。おじさんも、おばさんも愛ちゃんも皆、私によくしてくれてとても感謝してるんだよ。」
おばあちゃんは目を閉じ、首を何度も左右に振った。
「もう、いいの。いいんだよ。無理をしなくても。私は全て知ってるんだから。」
全て知られてしまっている。おばあちゃんにはもう何を言ってもこれ以上真実を隠し通すことは不可能であると悟って、加奈は動きが停止したようにしばし愕然とした。
全身の力がずるずると抜けていくような感覚に襲われた。加奈はずっと、おばあちゃんがたとえ死ぬまででもこのことは隠し通すつもりだったのに。せめて余計なことは知らずに安やかに最後を遂げて欲しいと思っていたのに・・・。
「どうして・・・?」
肩を落としうなだれたまま、加奈は低くかすれた声で聞いた。
「立川さんの息子さん夫婦に全て聞いたよ。加奈ちゃんが私の息子夫婦や孫の愛からひどいことをされてるってね。」
加奈はようやくあの日、立川さん息子夫婦が来た後におばあちゃんが沈み込んでいた理由がわかった。これは加奈の推測だがおそらく立川さんが亡くなる間際、遺言を残すように息子さんに、加奈がおばたちに苦しめられていることをおばあちゃんに伝えて欲しいと言ったのかも知れない。
生前の立川さんは心底、加奈のことを心配してくれていたようだから。ずっと気にしてくれていたのだろうか。後からわかったことだが、立川さんは入院中、愛やおばが加奈を非難してる会話の場面を何度か目撃していたらしい。
どれだけ多くのことを立川さんが知ったのかわからないが、聞くにきかねて、いてもたってもいられなくなり、死が間近に迫って心残りにしたくなく、黙っていることが出来なくなったのだろう。
おばあちゃんは立川さんの訃報と共に真実を知らされた時も、そして今も、自分に確実に迫り来る死よりも何よりも加奈のことで心を痛めてくれているのだ。加奈は胸が締め付けられるように切なくなった。
「取り返しがつかないことをしてしまったよ、本当に・・ごめんねぇ・・・ごめんねぇ・・・。」
おばあちゃんは目を強く閉じて涙を流し、加奈の腕にしがみつくようにして謝り続けた。
「私が加奈ちゃんを引き取るように言ったばっかりに・・・・加奈ちゃんをこんな目に合わせてしまった。」
加奈は目頭を熱くしながら強く首を左右に振った。
「ううん、おばあちゃんのせいじゃないよ。私おばさんたちに引き取られたことを後悔なんてしてない。だってこんなに素敵なおばあちゃんにめぐり会えたんだから。おじさんやおばさんたちにひどいことをされて辛くなかったって言えば嘘になるけど・・
でもそれ以上に私、たくさんの幸せをもらえたもの。お母さんが死んでもう誰にも私が生まれてきた事を祝ってくれる人はいないって思ってた時におばあちゃんが祝ってくれたこと、私本当にうれしかったんだから。辛い時もおばあちゃんが側にいてくれたから今まで私何とか生きてこれたんだよ?」
おばあちゃんはしばし言葉を失ったような表情をし加奈を見つめた後、顔をさらに歪めて言った。
「加奈ちゃんは本当に心の優しい子だよ。」
「本当は知ってたんだよ、あの子達が私にあまりなついてなかったこと。でもまさかこんなことをするなんて・・・。でもあんな子でも私の大切な息子だから、私の面倒を見てくれたから、そのお嫁さんも孫も皆、私の大切な家族なの・・だから許してやって・・・・加奈ちゃん。」
加奈がうん、と笑顔で頷くとおばあちゃんも笑顔になって涙を流して加奈の肩にもたれてきた。
「ありがとう、加奈ちゃん。」
おばあちゃんは今まで体を支配していたかたさがスッと消えたように安堵した表情になって、笑んだ目尻からひとしずくの涙が頬を伝った。
加奈はおばあちゃんと寄り添うようにして、おばあちゃんの手を包み込むように握った。おばあちゃんは幸せそうに目を閉じて加奈の肩にもたれる様にして言った。
「私は本当に幸せ者だよ・・・最後に加奈ちゃんに・・・出会えてよかった。」
くっつけた肩越しにおばあちゃんの安らかな息使いが加奈に伝わってきた。
「おばあちゃん・・・・・。」
「加奈ちゃんのお母さんに会ったら・・・加奈ちゃんはこんなに優しく立派に育ちましたよって伝えるわね・・・・。」
おばあちゃんの話し声が徐々に小さくなっていく。穏やかな寝息へと変わり、それもだんだん小さくなっていく。
「おばあちゃん、もう冷えてきたし中に入ろ?」
おばあちゃんの返事はない。
小さな呼吸さえも聞こえなくなったおばあちゃんの顔はとても穏やかに、夕陽に照らされ、そしてとても綺麗な顔をしていた。
「おばあちゃん・・・・。」
加奈は嗚咽を漏らすこともなく、静かに涙で頬を濡らして、おばあちゃんの手をぎゅうっと強く握った。おばちゃんが握り返してくれることはもうなかった。
今はまだ温かいこの手も次第に冷たくなっていくことが加奈を一層悲しみの底に沈めさせた。
「ありがとうね、おばあちゃん・・・安心して眠りについてね。私もおばあちゃんに出会えてとっても幸せだったよ。天国にいるお母さんによろしくね。」
陽に夜の闇がわずかに混ざっても、鮮やかだった風景はより泣きたくなるくらい美しい風景に変わったように見え、優しく二人を包み込んでいた。
加奈はしばらくおばあちゃんと手をつなぎ寄り添って美しく赤い赤い光景を見つめていた。いつまでもおばあちゃんとこうして手を握って寄り添っていたかった。
誰にもこの瞬間を邪魔されたくはないと加奈は強く思った。
穏やかなこの一瞬は加奈とおばあちゃんだけのものだ。
それは誰にも冒すことは出来ない。




