お母さんがきいてくれるなら
加奈は彼が側にいるのも構わずに涙を流した。夢でも幻でもいい、またこうして出会えたことがうれしかった。薄く白いもやに包まれた母の姿は、透けて見えて今にも儚く夕闇に消え入ってしまいそうに思えた。母はゆっくりと椅子から立ち上がり、その側に立った。
手を椅子の方にかざして加奈をそこへ招くようにしてみせた。お母さん・・・お母さんは今加奈にピアノを弾けって言うの・・・?あの時のようにお母さんが聴いてくれるんならいくらでも加奈は弾くよ・・。
「どうしたの?」
少し戸惑ったような声が聞こえて加奈は彼の方を見た。彼には母の姿が見えないのだろうか。ピアノの前で起こったことに気づいた様子は全くない。やはり加奈にしか見えないらしいと視線をピアノの方に戻すとそこにはもはや母の姿はなかった。
そこには元通り、夕陽を受けたグランドピアノと無人の椅子があるだけだった。白いものも跡形もなくなって、より赤みを増した空間だけがそこにあった。
「もしかして、僕なんかに演奏を披露するのは泣くほどに嫌なのかい?そうなら僕も無理にとは言わないよ。」
動揺した彼に加奈は涙を拭きながら微笑んだ。
「いえ、違うんです。そうじゃありません。昔亡くなった母がピアノを聴かせてくれたことを思い出してそれで・・・。」
「そ、そうかい?ならいいんだけど・・・。ってええっ?」
彼は納得した後、加奈が母を亡くしていることに驚いていたようだ。
「私、ピアノ弾きます。ちゃんと聴いてくださいね。」
笑顔でピアノに近づいて行きながら加奈は言った。
椅子に座り、ピアノの重さのある蓋を持ち上げた。整然と並ぶ鍵盤を見渡す。彼女がいつもここでこの鍵盤に触れて演奏しているんだ。そう思うと加奈は鳥肌がたった。ピアノ発表会の時と同様に驚くほど加奈の心は落ち着いていて集中していた。
波風のたたない一つのさざなみも波紋もない湖のように静寂が支配していた。静かに、そして慎重に手を下ろして曲の始めの一音を奏でた。それに連なるように、つむぎだされるように鍵盤を弾いていった。
もちろん、演奏曲は母が教えてくれた、夢で少女が弾いていた、そしてここに来た彼女がいつも弾いていた、あの曲だった。
まるで側で母が聴いてくれているような感覚を覚えて加奈は思う存分、演奏をして終えた。心地よい爽快感があり、心が軽くなったような気がした。ゆっくりと鍵盤から両手を下ろして目を閉じ、深い息を一つ吐いた。
ピアノの側の席からパチパチパチと拍手する音が聞こえて加奈は目を開け、彼の方を見やった。
「とてもすばらしい演奏だったよ、どうもありがとう。彼女の演奏もいいいけど君の演奏も僕は好きだな。」
ニコニコ顔をさらにニコニコさせて彼は満足そうに加奈を賞賛した。加奈は今になって急に気恥ずかしくなり顔を赤くさせたが素直に嬉しかった。
小学生のピアノ発表会の後、おばあちゃんや亜沙子に演奏を聴かせてあげたことがあるくらいで、それ以外は誰かに聴かせてあげるという経験がなかったので何だか新鮮だった。
「演奏を聴いて君が何故彼女にひかれたのか、わかった気がするよ。」
「どういう風にわかったんですか。」
そういえばどうして加奈は彼女の演奏にみいられたのだろうか。演奏する彼女が夢の光景と重なったから?幼い頃の母に彼女のピアノを弾く時の優しい表情が似ていたから?もちろん両方だと思った。
それに演奏から感じ取れる感覚は夢の中の少女も母も、彼女のものと重なった。やはり夢の中の少女は彼女なのだろうか・・・。それに加奈の演奏を聴いて彼は納得したようだったが、どのように理解したのだろう。加奈にはよく分からなかった。
「ふふ、君のピアノの演奏の中にその答えははっきりあらわれていると僕は思うんだけどね。」
「・・・・・?どういうことですか?」
何度問うても、彼はそれ以上何も言わず、話題を変えた。
「ところでどうしてその曲を選んで弾いたんだい?他の自分の得意な曲を弾いてもよかったんだろうに。」
疑問が消化不良気味だったが気を取り直して加奈は答えた。
「母が幼い頃の私に初めて教えてくれた曲なんです。母との思い出がたくさん詰まっていて私の一番得意な曲で、一番好きな曲だからです。」
彼は意外そうな表情をして驚いた。
「へえ・・そうなんだ。彼女もこの曲が一番好きでよく弾くんだよ。彼女から聞いた話だけれど、君と同様に彼女もこの曲に強い思い入れがあるみたいだよ。昔、大好きな人に教えてもらったらしくてね。」
加奈は心臓が止まるかと思った。世界が灰色に覆われて時が止まったかのように加奈の心の時間は停止した。
彼女も加奈のように、この曲を愛している、特別な思い入れがある・・・。偶然、彼女が得意な曲として頻繁に弾いていただけだと思っていた。現に加奈が音楽室に来ていた時、彼女はこの曲に限らず、様々な曲を弾いていた。
彼女が弾くどの曲も彼女の心から滲み出てくるような優しさが心に響いてきて好きだったが、やはり母との思い出の曲が一番好きだった。この曲を弾く頻度は多かったがただ好きだから弾いていると思っていた。
何故加奈が夢に導かれるようにこの高校にやってきて、彼女と出会ったのか。何か加奈のうかがい知れない人智も及ばないところで、見えない力が働いているような気がした。
これをどんな言葉で表せばいいだろうか、運命とでも言えばよいのか。何者かが我々が出会うように引き合わせたのではないか。偶然とはとても思えない、必然のように感じられた。加奈はしばし呆然としていたが彼の声で意識の半分が引き戻された。
「彼女に会ってみたらどうだい?前にも言ったことだけど、君あの後すぐ帰っちゃったから。」
彼女に会うのが怖い。加奈は首を縦に振ることが出来なかった。
「いいんです。彼女に会うつもりはありません。」
「どうして?同じ曲が好きってことは気が合うと思うんだけど。」
加奈は返事をせず黙り込んでしまった。




