やっとわかった?!この高校に来た意味が
今日も学校の一日が終わり、加奈はあの家に帰らなくてはならないことを思うと本当に頭が熱を帯びたように重く感じられる。まるで足に鉛を取り付けられたかのように帰路に向かう足取りが遅くなっていた。
おばあちゃんが病気の告知を受けて退院し、自家で過ごすようになって数日が過ぎた。加奈はおじやおば、愛たちと交代でおばあちゃんの家に泊りがけで通って世話をしている。おばあちゃんの体は次第に弱まっていて、御飯を作るだけでもかなりの負担になっていた。
加奈は毎日でもおばあちゃんの世話をしてもいいくらいだったがおばとおじがそれを許さなかった。確かに加奈に全部任せきりではおじたちは負担がなくなっていいであろうが、やはりおじにとっておばあちゃんはこの世でただ一人の母親だし、居候一人に実の母を世話させてるとは何事だという世間の目もあるからだろう。
愛やおばの家に帰るくらいなら、ずっとおばあちゃんの側にいたいと思った。もちろんおばらがいて家に帰りたくないからおばあちゃんのところに行きたいという事ではない。仮にありえないことだが、おじらがいい人達で家での生活が快適であっても、加奈は同じようにおばあちゃんと残されたわずかな時間を過ごしたいと思っただろう。
今日はおじが仕事休みだったので、朝からスーツや鞄を持っておばあちゃんの家に行っていた。昨日、泊まっていたおばと交代して、おばが帰って来た。おじは次の日おばあちゃんの家から直接会社に通うのであろう。
明日は、午前中はおばがおばあちゃんの家に行って世話をして、午後からは愛が行くことになっていた。加奈が行くのは明後日だった。家に帰れば、加奈を召使のようにつかってやろうとおばと愛が待っているだろう。そう思うと足がさらに重くなる。教室を出て夕陽が差し込む廊下を歩く。
開け放された廊下の窓からは、秋の訪れを感じさせる少し肌寒い風が入り込んで加奈の髪を揺らしていった。窓から見える沈んで黄昏ていく夕陽は一層加奈を暗い気持ちにさせた。希望の光は沈み行きこれから絶望という名の夜が訪れる。
ふとどこからかピアノの音がかすかだが加奈の耳に聞こえてきた。どこからと探すでもなくピアノの音なのだから間違いなく音楽室から聞こえてきたのだろう。加奈はその流れてくる音に立ち止まった。
普通ならただ誰かが音楽室でピアノを弾いているんだな位にしか思わず、通り過ぎているであろう。しかし加奈の足を止めさせる理由が流れてきた音楽には確かに存在していた。
懐かしいメロディ。
決して忘れるはずはないであろう曲が足早に加奈の足を音楽室へと急がせた。いつのまにか夢のことを忘れていた。以前に何度も見た、今はもう見なくなった夢が唐突に脳裏にリアルに蘇える。
音楽室の前までやってくると加奈は息を一息ついた。ここまでやってくるのにただ夢中でどうやってきたかよく覚えていない。はっとするともう音楽室の前という感じだった。
心臓の鼓動がさっきから跳ね上がり耳にまで聞こえて来る。この耳に届くメロディは確かに私のよく知っている曲のものだった。音楽室の入り口のドアは半分だけ開けられ、教室内から夕陽がオレンジ色に廊下までその影を伸ばしていた。
廊下からドアにゆっくりと歩み寄り中をそっと覗いた。一人の少女がピアノの前に座り私の大好きな音楽を奏でていた。
首の中あたりまでの長さの髪をかすかに揺らして少女は優しげな笑みをたたえて滑らかに鍵盤の上で指を躍らせていた。
廊下の反対側の窓から差し込む夕陽が赤く少女とピアノがある教室を優しく照らしその姿の輪郭をなぞるように光らせていた。
少女と少女のつむぎだす曲を間近に聴いた瞬間、加奈はその光景に魅入られ身動きすることができなかった。何故何度も同じ夢を見たのか、合格することは不可能とまで言われたこの高校を努力して入学した意味、理由がやっと今はっきりとわかった。
少女がピアノを弾き、少年がそれを静かにたたずんで側で聴いていて、加奈を温かく迎えてくれた夢の情景、そしてはるか昔に何度も見た情景、懐かしくて忘れたことなど一度もない、忘れてなるものかとこの目に焼き付けた映像が脳裏に蘇り今、目のあたりにしている光景と重なった。
加奈が幼い頃に母がよく加奈に聞かせてくれた曲。
母がピアノを弾く隣に加奈が座り、母に屈託のいない笑顔で笑いかける、母が加奈に柔らかに優しく微笑みかける。今でも忘れられない母の温もり。
優しい夢とたくさんの思い出とたくさんの気持ちがひとつになり加奈の中で凝縮され、加奈は溢れ出す涙を止めることができなかった。嗚咽はなくただただ瞳から涙が溢れ出した。少女が母に似ていたわけではない。
母が死んで今まで何人かの人が同じ曲を弾くのを聞いたことがあったがこんなにも引きつけられ、魅入られ母という存在を強烈に鮮明に描き出されることはなかった。しかしこの少女の作り出す曲から感じられるものは母のそれと酷似していて、夢の中の少女の温かさとも重なった。
夢の中のあの少女は今加奈が目にしている彼女なのだろうか、加奈をこんな気持ちにさせるなんて何者なのだろうか・・・・。加奈には分からなかった。ただ彼女の演奏をずっと聴いていたかった。
「お母さん・・・・・」
加奈は無意識にそうつぶやいていた。このまま穏やかに演奏を続ける彼女の側まで近づいていきたい、不安も苦しみも何もかも委ねてしまいたい、加奈の全てを受け入れて欲しいという衝動に駆られた。それは死んだ母になのか、夢で見た少女になのか、加奈にもはっきりとは分からなかった。
入り口に立ち尽くしていた足を一歩中に踏み出そうとした。しかし胸の奥から突き上げてきた衝動と相反するように同時に、加奈を激しい恐怖が襲った。踏み出した足を留めて後ろに後退した。
幼い頃、母は加奈を無条件にその優しいまなざしで、愛情で受け入れ包みこんでくれた、何度も繰り返し見た夢の少女も近づいていくことを躊躇う加奈を笑顔で迎えてくれた。だが今現実に目の前でピアノを演奏する少女が、母のように夢の少女のように加奈を受け入れてくれる保障や確証はどこにもない。
このまま近づいていってもし加奈が少女が受け入れてくれずに拒絶したらと思うと、足先から頭のてっぺんまでまでを駆け抜けるように加奈の体を恐怖感が支配してそれ以上、足を進めることが出来なくなった。
少女はそんな加奈には気づかず、心地よさそうに演奏し続けている。いつの間にか少女に近づく男子生徒が一人。少女に気を取られていたせいで音楽室に彼がいることに気づかなかった。彼はもしかして夢で見た少年なのだろうか。
このままでは二人に見つかってしまう。後退した足をさらに後ろに下げて踵を返し、急いで加奈は音楽室を後にした。受け入れて欲しい欲望と拒絶される恐怖が絡み合った、複雑な思いを胸に足早に廊下をかける。
加奈は最後に見た少女の笑顔を思い出す。やってきた男子生徒に向けた幸せそうな顔が今も脳裏に焼きついてはなれない。加奈の心の深い部分がひどく疼いた。夢で見た人達もあんな笑顔をしていたんだろうか。
放課後あの日少女と出会って以来、加奈はあの少女が音楽室でピアノを弾いていないか見におばあちゃんの世話の当番ではない時に、音楽室に足を運ぶようになった。
誰もいない時もあれば少女がこの前のようにピアノを静かに弾いてることもあった。少女がピアノを弾く横でこの前見た男子生徒が美術で用いるキャンバスをさげ絵を描いていることもあった。見に行くといってもこっそりと見つからないように中を覗くだけである。
加奈は教室の掃除を済ませて音楽室に向かった。距離が近づくにつれてピアノの流れてくる音がはっきり聞こえてきて、進む足が速まる。音楽室のドアは閉まっており、中から音楽が聞こえていた。今演奏されている楽曲は三連譜の連なりが美しいベートーベンの月光だった。
彼女は加奈の好きな曲に限らず、たくさんの曲を弾いていて主にクラシックが演奏されていた。初めて彼女に出会った(こちらから覗いているだけだが)時、あの曲を聴いたのは偶然だと思う。あの曲が演奏されている時に加奈がたまたま気づいてここまでやってきたのだ。
彼女の弾くピアノはどの曲も加奈にとって好ましかった。母が昔色々な曲を聴かせてくれた時に感じた穏やかな感覚が彼女の演奏を聴いても同じように感じられ心が豊かになって癒された。だから加奈の一番好きな曲が演奏されるのはまだかといらいらしたりすることはない。
コンサートを最初から最後までたっぷり満喫するような感じだった。ドアにはまっている小窓から中を覗いてみると少女が一人でピアノの前に腰掛けていた。しばらく流れてくる音楽に耳を傾けていると、突然少女が演奏をやめてピアノから顔を上げた。加奈をまずいと咄嗟にドアの窓から身を隠した。
加奈の存在がばれたのか、あるいはいつも一緒にいる男子が来るのはまだかと待ちかねている態度なのか加奈には正確には分からなかった。少しの間、身を竦ませてから恐る恐るそっと小窓を覗くと少女が演奏を開始したようで、加奈は自分の存在がばれたのではないことを知り胸を撫で下ろした。
どうやらあの男子学生は今はいないようである。そう思って安心した矢先、急に後ろから何者かに声をかけられた。
「君。確か前もここから僕らのこと見てたよね?」
心臓が胸を突き破って飛び出すのではないかと思うくらいに跳びあがりそうになった。
振り返り声をかけてきた主を見据えた。
加奈は目を大きく見開き彼を見た。そこに立っていたのは少女といつも一緒にいた男子学生だった。
「あ、あの、私・・・・・ 」
意表を突かれたように身動きできずうまく声を発することができなかった。彼は手に大きなキャンパスノートを携えていた。覗き見を怒っているようには見えず、顔にはニコニコと笑顔を浮かべて加奈を見つめていた。
だが返って笑顔なのが加奈には不気味に見えて十分戸惑わせた。彼の言葉から加奈が今まで何度かここに足を運んでいたという事がばれている。否定はできないし、かといってひどく動揺していたのでどうしてこんなことをするのかうまく理由を言えそうにない。
どうしようか、なんて言えばいいのだろうか、と思い迷っていると彼が口を開いた。




