何もかもを悟ったおばあちゃんのわがまま
加奈は六時間目の授業中、ふと窓から外を見つめた。おばあちゃんには早く元気になって欲しい、退院はいつになるんだろうかと加奈はぼんやり考えていた。
学校の帰り、加奈は美味しくて人気がある和菓子屋でおばあちゃんのお見舞いのために,
店頭に並ぶとすぐに売切れてしまうという和菓子を運よく購入できた。
おばあちゃんは一般的なお年寄りと同様に洋菓子より和菓子を好んでいた。加奈も和菓子が好きでおばあちゃんとよく家であったかいお茶を飲みながら和菓子を食べて楽しい一時を過ごした。
和菓子が入ったお店のロゴ入りの茶色い紙袋を通学鞄と一緒に提げて病院の玄関をくぐった。病院の受付にいる看護師さんとは何度も来ているのですでに顔なじみになり、笑顔で挨拶を交わした。階段で三階まで上がっていき、廊下に出て歩いていった。
途中に患者の病室ではない部屋があって、ドアが閉まっておらず、外から中に開く様式のドアのようでわずかにあいていて中から照明の光が漏れていた。そのまま加奈はその部屋の前を通り過ぎようとしたが、部屋から知っている人間の声がかすかに聞こえてきたのでふと足を止めた。
中からおばの話し声と医者らしき男性の声が聞こえてきていた。おばあちゃんのことで話をしているんだろうかとドアの脇に身を隠すように部屋の中からは見えないように壁に背中をつけて、聞こえて来る会話に耳をそばだてた。
加奈が聞かされたおばあちゃんの病状は高齢という事もあり、体調を崩していろんな悪条件が重なって倒れたという事だった。大事をとって一応入院することをすすめれた。何やら医者の声には深刻な色が含んでいて加奈は嫌な予感がしていた。
「今のところ抗がん剤を常与して状態を維持していますが、前にも申し上げた通り、現在の医療技術では助かる見込みがほとんどありません。」
「後もってどれくらいの命なのでしょうか・・・・、ええ、覚悟は出来ていますからはっきり仰って下さい。」
おばが息を飲むように言う声。
「大変申し上げにくいのですが、長く生きることが出来て半年、いやもっと短いかもしれません・・・。」
加奈は呆然として手に提げていたお見舞いの紙袋を床に落とした。それまで聞こえた辺りの騒音がピタリと消えたかのように加奈の耳に聞こえなくなった。
おばと医者の会話さえも、一切の音を遮断して。頭の中に白いもやがかかる。
え・・・・?どういうこと?
抗がん剤・・・・・?何のこと?体調を崩しただけじゃなかったの・・・・?
加奈は立ち尽くし頭の中が真っ白になって混乱し、物事をうまく考えることが出来なかった。あと少しの・・・命・・・・・・?
嘘でしょう?
だって今のおばあちゃんを見ていたらとても数ヵ月後に死んでしまうなんて、この世からいなくなるなんてとてもじゃないけど信じられない。
おばあちゃんが死んでしまうことなんて今まで考えたことがなかった、いや、母を失ったことで加奈を襲ったあの時の喪失感を再び味わうことになるのを無意識のうちに恐れていたかもしれなかった。これ以上大切な人を失うことへの恐怖、不安から目を逸らし、忘れようと無意識に蓋をしていたのかもしれない。
まともに正面からこのことを考えれば加奈は心の平静をとてもじゃないが保てないだろう。情緒不安定になり精神が崩壊してきっとどうにかなってしまいそうな気がする。
「それではこれからも先生、よろしくお願い致します。」
はっと我に返るとおばが医者にお礼を言う声が聞こえて、二人が椅子を立ち上がる音がした。おばと医者が部屋から出てきそうになったので加奈は慌てて床に落とした紙袋を拾い上げて、廊下を駆け出しその場を離れた。
角を曲がり見えないところまで来ると足を緩めた。走ったことと重大なことを知ったことで激しく高鳴る胸の鼓動を押さえて加奈はおばあちゃんの病室とは反対の方向に向かった。
加奈は病院の中庭にあるベンチに一人腰を下ろしていた。そこは緑の芝生が豊富で、いたる所に木々が植えられていた。患者らしい人々がちらほらと加奈のようにベンチに座っていたり、車椅子に乗って看護師に押されている患者が散歩しているなどして過ごしていた。
加奈はベンチに座り目を閉じ腕を組んで額に当てていた。このままおばあちゃんに会って加奈はいつも通り平静を装って接することが出来るだろうかとお見舞いに行くのをためらった。
しかしほぼ毎日病院に通っている上、しかも昨日はお見舞いに来ていなかったので今日行かなかったら、連日見舞いに来なかったことになり、そのことがかえって不自然だと加奈は思った。おばあちゃんもどうしたんだろうと思うかもしれない。
迷いに迷ったが加奈は見舞いに行くことを決めた。出来るだけ自然に振舞わなければならない。おばあちゃんに加奈が動揺していることを決して悟られてはいけない。加奈はゆっくりとベンチから立ち上がると、おばあちゃんのいる病室に向かった。
病室の前まで来て加奈は深呼吸をして意を決するとノックして扉を開けた。中に入ると窓際にはおばあちゃんがベットにいていつもと変わらない様子で、老眼鏡をかけて本を読んでいた。しかし病室の様子がいつもと違っていた。
加奈は入ってすぐに気がついた。おばあちゃんの窓際と逆、立川さんのいたベットに立川さんの姿がない。それどころか、ふとんが綺麗さっぱりとなくなっていて、ベットの脇にある机と棚にも立川さんの使っていたものがきれいに消えたようになくなっていた。
おばあちゃんは加奈が来たことに気づき、本を脇に置いて立川さんのいなくなったベットをじっと立ち尽くして見つめている加奈に説明するように話し出した。
「立川さんね、体の容態が急変して集中治療室の方に運ばれたんだよ、加奈ちゃん。」
おばあちゃんは悲しそうな顔をしてその声は憂いを帯びていた。加奈はおばあちゃんのベットに駆け寄って言った。先程の動揺と不安が胸の奥から這い上がってきた。
「一体いつ?一昨日までは何でもないように見えたのに。私、帰りに立川さんと話したんだよ。」
「本当、突然のことだったよ、昨日の夜さあ、もう消灯の時間で寝ましょうって時になって立川さんが体の異変を訴えて苦しみだしてね、私が慌ててナースコール押して看護師さん達を呼んだんだよ。」
「そんな・・・どうして・・。よくなったらまたこの病室に戻ってこれるのかしら。」
加奈の体が小刻みに震えだし、それに従うように声も震えだした。抑えようとしても止めることは出来なかった。
「さあ、どうだろうねぇ。そうなることを願ってやまないけど。私は立川さんの病状をよく知らないし。昨夜、立川さんのご家族の方がお医者さんに呼ばれたんでしょう、お見えになってたわ。」
振り返って加奈は空になったベットを見て胸が苦しく締め付けられるのを感じた。せっかく縁があって仲良くなれたのに立川さんがこのまま良くならなくて亡くなってしまったとしたら・・・
さっき医者とおばの話を聞いたせいなのか加奈は悪いほう悪い方にしか想像力を働かせることしか出来なかった。そしていずれ遠くない未来にはおばあちゃんが立川さんのように・・・・・・。そのことが一番加奈の心を打ちのめし、不安の渦に引き込み、苦しめた。
不安と苦悩、悲しみの色に顔を歪めて立川さんのベットを見つめていると、おばあちゃんが加奈の心内を察したからなのか、静かにぽつりと呟いた。
「私ももう、この先長くはないかもしれないねぇ。」
老眼鏡をゆっくりとした動作ではずすおばあちゃんを目を見開き瞬きもせず凝視した。震えたままそのつぶやきを聞いて加奈は愕然とした。医者の言っていたことの上に、更におばあちゃん当人の口からそんな言葉を聞いて加奈は大きな塊で殴られたようなショックを受けた。
「何を言ってるの、おばあちゃん・・そんなことあるわけないじゃない。ほら元気になったら二人でどこかに旅行にでも行こうよ。」
目を細めてここではないどこか遠くを見つめるようなまなざしでおばあちゃんはつぶやいた。
「ゆっくりとだけどわかるんだよ。体の症状が良くなるどころか悪くなっているのが・・・自分の体のことだからねえ、なんとなくわかってしまうものなんだよ。」
加奈は胸が苦しくなり、すがりついて今にも泣き出しそうになるのを堪えておばあちゃんの腕をとり言った。
「そんな悲しくなること言わないで、おばあちゃん。」
「命あるものはいずれ皆死んでいくんだよ、加奈ちゃん。辛くて悲しいことだけど。」
悲しげな笑みを浮かべて加奈を諭すようにおばあちゃんは言った。
「そんな・・・・私おばあちゃんが死んじゃったらどうしたらいいのか・・。きっと耐えられない。死んじゃやだよぅ・・。お母さんが死んだ時すごく悲しかった。まるでこの世界が終わってしまったような気持になったの。もう大切な人を失うのはいや・・・。あんな思いをするのはもういやなの・・・。」
いつの間にか加奈はおばあちゃんにしがみついて涙を流して泣いていた。喉をしゃくりあげて体が小刻みに震えていた。おばあちゃんが震える加奈の背中を優しく擦ってくれた。まるで幼い子供が大声でわんわん泣いているのを穏やかにあやすように。
「大丈夫だよ。加奈ちゃん、加奈ちゃんをわかってくれる人、味方になってくれる人は必ずこの世界にいるよ。世界はこんなにも広いんだもの。そんな人と出会うことをあきらめずに心を開いていればいつか必ず出会えるよ。私がいなくなっても大丈夫。」
窓から差し込む黄色い陽に照らされたおばあちゃんの笑顔があまりにも悲しすぎるくらい優しく見えて加奈は更に涙が次から次へと溢れ、おばあちゃんに抱きついて泣いた。自分が死んでいくことよりも加奈を元気付かせようといつまでもおばあちゃんは微笑みを絶やさず抱きしめてくれていた。
加奈がおばあちゃんの余命が後わずかしかないと知った数日後、おばあちゃんは担当医とおじ、おばに自分はもう長くないことはわかっている、余生を有意義に過ごしたいから是非、病状と余命を教えて欲しいと自ら打ち明けた。
医者もおじたちも最初おばあちゃんの告白に戸惑っていたが、本人がそこまでわかっているならと病名と余命を告知した。
おばあちゃんは驚きも落胆も動揺も、悲しみも苦しみも、どんな表情も表さずにあきらめとは違う、ただ悟りを開いたような、既に死を自分のものとして受け入れているような静かに落ち着きはらった表情で告知を聞いていた。
病院のベットの上で残りの人生を過ごして少しでも長く生きるよりも、生きることのできる与えられた時間が減ってもいいからおばあちゃんはおじいちゃんと長年住んだ自宅でその生涯を閉じたいと希望した。医者は本人の意思を尊重して許可を出した。
ただし容態が悪化したら再度、病院に入院してもらうことになるかもしれないという条件を付けられた。おばあちゃんはその点だけは妥協して条件を飲んだ。退院して自宅で過ごすことになり、いつまた緊急事態になるとも限らない。
おばあちゃんを自宅で一人にしておくことは出来ないのでおじやおば、愛、加奈が交代でおばあちゃんの家に泊まりこむことになった。加奈は自分がずっとおじやおばの分もおばあちゃんの側にいたいと思ったが、おじやおばがそれを許してはくれなかった。
だから加奈の番以外、おじやおばがおばあちゃんのところに泊まる時も加奈はおばあちゃんの家に日帰りで通い続けた。おばらの家の家事や食事の用意をしなくてはいけなかったのでその時は泊まることは出来なかった。
「みんな、私の勝手を聞いてくれて悪いねぇ。でも私の人生最後のわがままだと思ってのお願いよ。ありがとうねぇ。」
面倒を見に来る全員におばあちゃんは感謝の言葉を惜しみなく告げた。おばや愛はどう思っているか知らないが、加奈はおばあちゃんに会いに来るのを負担に思ったことは一度もない。
後わずかしか一緒に過ごせない時間をとても貴重に感じていた。共有できる瞬間の数々を一つも見逃してなるものかと、この目に焼き付けようとしたのだ。




