第1章「パジャマの勇者」
「えっ……?」
思わずわたしは、開いた口が塞がらなくなった。
それはわたし――井上香澄が、いつもより少し早めにお風呂入った日。
風呂上りにお気に入りのウサギ柄のパジャマに袖を通し、ソファに腰を掛け、『ふーっ♪』と一息つきながら、愛用しているマグカップで牛乳を飲んでいた。
火照った身体の中にひんやりとした感じが広がって、その気持ちよさが癖になる。
自然と安らかな気持ちになって目を閉じる。
いつものことだ。
嫌なこととか面倒なこととか、この瞬間だけは忘れられちゃうなぁなんて、ほんのささやかな極楽を満喫していたときだった。
さてもう一口と、再びわたしは目を開けた。
目の前に広がるのは、蛍光灯で明るくて照らされていた家の居間とは似ても似つかない、石造りでどこまでも高い天井と、だだっ広い部屋の端に飛び飛びに設置された松明の火。
ひんやりとした感触がお尻の下にあって、自分が床に座っている姿勢であると認識する。
右手には猫ちゃん模様のマグカップの代わりに、少年漫画の主人公とかゲームの勇者が持っていそうな、金色の装飾が施された両刃の剣。
レイヤー趣味の友達に強制連行されたお店にあったのとは違って、ずっしりとした質感と存在感がある。
もしかして本物?
そんな馬鹿げた考えが頭の片隅から浮上して、しかしすぐにありえないと否定する。
ってか、『本物』って何よ?
けれどそれらは全て、わたしにとっては瑣末な問題だった。
わたしは自分のうなじに冷たい汗が流れ落ちるのを感じる。
「グアァァァァァァァァァッ――――――」
人間の声では到底ありえない、低く枯れたような、それでいてドスのきいた声が響く。
見上げるとそこには、黒とも赤とも似つかない霧のようなもので覆われた巨体。
五メートルはあるのではないかというその身体に、龍の顔に山羊の角を生やした頭、部屋を端から端まで覆いつくさんというぐらいのカラスのような六枚の翼。
血のように赤く光る双眸が、ぎょろりとわたしの顔を覗き込んでいた。
その姿はまるで、物語に出てくる悪魔か魔王のようだった。
「異世界転生した瞬間、目の前に魔王がいるんですけど、それってちょっとヒドくないですか?」
東池袋三丁目『乙女ロード』を聖地と崇める友人から、『人気作みたいだから買ってみたけどやっぱり合わなかった』と押し付けられ、わたしも面白さがよく分からなくて結局半分も読まないまま古本屋に売っ払った転生ものの小説では、ゲームのように町の端からレベル1状態でスタートしていたはずだ。
ということはつまり、井上香澄という人間はレベル1状態で臨戦態勢の魔王の目の前に放り出されたということだ。
うん、死ぬ。
間違いなく死んじゃう……
しかも部屋を一周するように甲冑を着た兵士が三十人以上。
魔王の後ろにはさらに三人ほど魔王の仲間が控えている。
あれって幹部とかいうやつなんじゃないの?
なんで幹部すっとばして、いきなり魔王戦に突入しちゃってるのよ!
「カクゴ、シロ……」
魔王の声にわたしは顔を上げる。
赤黒い靄の合間から覗くのは、まるで刃物のようにギラリと光る爪。
大きく振りかぶられた魔王の腕が、これから自分に振り下ろされるであろうことは、わたしにも容易に想像がついた。
周囲を見回すが、だだっ広い部屋には助けになりそうなものは何も無い。
部屋の扉らしきものはあるもののかなり遠く、到底逃げ切れるとは思えない。
そのときふと、わたしは自分の右手が握っているものの存在に思いつく。
金色の装飾が施された両刃の剣。
今この場から助かるには、これしかないと思った。
座り込んでしまっている腰を浮かせる。
冷たい石の床を、裸足の足で踏みしめる。
ずっしりとした重量のある剣を両手で握り、左足を一歩前に踏み出す。
チャンスは一瞬。腹は括った。
「ユウシャァァァッ、シネェェェェェェェッ!」
叫び声と共に、目にも留まらぬ速さで振り下ろされる魔王の腕。
それと同時、わたしは両腕で思いっきり引っ張って、大きく身体を捻る。
魔王の声でわたしは確信した。
やはりこれは勇者の剣だ。
どのようなものか定かでではないし、どんな能力を持っているのかも分からないけど、ただひとつ確信できたことがある。
この剣は、魔王が恐れるに値する代物なのだ。
魔王の爪がわたしの身体に届くまでのほんの一瞬。
そこにこの剣を振り抜いて割り込ませればいい。
「うぉぉりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
ただひとつ計算外だったのは。
わたしが全力を振り絞っても持ち上がらないほどに、その剣が重かったということだ。
「……とっとっと、きゃぁっ!」
剣を大振りする気満々だったわたしは、想定外の事態にバランスを崩し、尻餅をついて再び倒れる。
ズガァァァァァァァァンッ!
「――――――っ、」
わたしの足の爪先から僅か数センチのところで、石床を抉って深々と大きな爪痕が刻まれる。
もしも直撃していたら、わたしは身体を切り裂かれてぐちゃぐちゃにされてしまっていたことだろう。
冗談キツいんだけど……
信じられない。何で生きてるの、わたし?
「あれは……勇者の剣ですか?」
魔王の後ろにいた幹部のうちの一人が言う。
「セイリュウゥ……」
青龍? 東方を守護するという、あれだろうか?
青龍と呼ばれた青年はタキシードのような服に身を包み、背中には龍のような黒い翼が一対。その右手には時折、雷のような光がパチパチと弾けている。
整った顔立ちに白い肌、背丈は高く、しかし微笑んだその笑顔はゾッとするぐらいに冷たい印象を受けた。
「まぁ、まともに使えているとは到底言えなさそうですが」
それはまぁそうでしょうとも。
だって持ち上げられないもん。
ホント、心折れそうなんだけど……
「さっきまでの威勢はどこいったんだよ、テメェ」
「――――――っ、」
別のもう一人の幹部が、僅か数歩でこちらとの距離を詰め寄り、目の前に立っていた。
二メートル以上あるのではないかという、肩に虎を模った装備をした屈強そうな大男の声。
その威圧感に自然と全身の筋肉が跳ね上がったまま硬直する。
「俺達全員、一人で相手してくれんだろ? それが使命だとか言ってたじゃねぇか、勇者さんよぉ?」
えぇっ、ちょっと待って!
なんで魔王と幹部相手に同時に喧嘩売ったことになってんの?
無理無理無理無理っ! ってか意味わかんないし!
そもそも、明らかに下っ端っぽい甲冑の兵士さえ、一人一人の眼光は鋭く、目が合っただけで萎縮してしまいそうだっていうのに!
絶望的な状況としか言いようが無くて、わたしは頭の中が真っ白になりそうになる。
「それにしても、この魔王城に人間の女だなんてね」
風を感じたかと思うと、翼を広げた青龍が大男の隣に降り立ち、わたしは慌てて飛び退く。
魔王に加えて、幹部が二人……
しかし助かったかもしれない。
青年の方がまだ、大男よりも話は通じそうだ。
あなた達に喧嘩を売ったのは自分ではありません!
争う気も毛頭ありません!
そんなことを伝えたくて、わたしは一縷の期待を込めてタキシードの青年に眼差しを送るが……
「それにしても、装甲を弾き飛ばしたら、まさか勇者の正体が女性だったとは。しかもこんな子供……鎧の中は小動物の模様をあしらった寝巻きのような格好ときたものです。
そんな君が、僕ら誇り高き魔族を相手に、よくもあそこまで言ってくれたものですよね?
どうしましょう白虎。この女をただ死なせるだけでは、僕の気が治まりそうにありません。せめて僕の手で消し炭にしてもよろしいですか?」
ガッデム―――――― !
超怒っていらっしゃる!
自分はどれだけ失礼なことを言ったことになっているのだろうか。
しかし今はそれを考えている場合じゃない。
今大切なことは、誰一人として勝てる気のしない相手に盛大に包囲されていて、その全員が青年と同様にマジ切れ状態にあるのかもしれないということだ!
「本気で殺される……」
だって、大男も青年も魔王も三十人の兵士も、みんなみんな目がイっちゃってるし!
「ざけんなよ青龍。コイツは俺の獲物だ!」
先ほど白虎と呼ばれていた大男が、その大きな拳を振りかぶる。
そのときわたしが見たのは、大男の拳に纏う、湯気とも光とも似つかない赤いオーラのようなものだった。
まずい! これは本当にマズい!
直感に従い、わたしは立ち上がると身体の前で剣を構える。
攻撃の構えではない。あくまで身を守るためだ。
十キロは優に超えるのではないかという重さだったが、四の五の言っている暇は無い。
わたしは剣を立てると震える右手で柄を握り、刃の腹に左手を添えた。
次の瞬間、
「死にさらせや人間っっっっっ!」
大男の拳が目にも見えない速さで繰り出される。
怖い!
思わず一歩後ろに下がったところで足を滑らせ、身体が僅かに右に傾く。
しかしそれが功を奏して、大男の拳は剣の腹に打ち込まれる。
次の瞬間、風のようなものに身体を押されたような気がした。
勇者の剣は黄金色の光を放ち、白虎の拳に纏う赤いオーラを掻き消していく。
風は――いや、衝撃はこの剣と白虎の拳の邂逅するそこから噴き出していた。
「ぬぅおぉぉぉぉらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
白虎の咆哮。
わたしは力比べで押し負けて、剣ごと後ろに弾き飛ばされる。
けれどその瞬間、確かにわたしは、白虎が苦そうな顔をしたのを見たのだ。
この剣は、魔王や幹部にダメージを与えることができる。
だとすれば、まだ望みを捨てるには早いということだ!
吹っ飛ばされたわたしは、石の床の上を数回跳ねるように転がって倒れる。
剣は少し離れたところで、垂直に床に刺さっている。
わたしは急いで起き上がると、剣のある位置まで駆けた。
全身が痛む。肩も腰も石に打ち付けて、一歩踏み出すたびにズキズキと響いてくる。
それでもここから生き延びるためには、あの剣が必要なのだ。
わたしは床に刺さった剣を両手で握る。
振れないにしたって、引きずって動かすことぐらいはできる。まだまだ反撃はこれからなのだ。
そう、反撃はこれから……
「あれ? 抜けない……」
剣の柄を両手で握り、足を踏ん張り、何度も引き抜こうと試みる。
それでも剣はびくともせず、そんなことをしてる間に、大男はこちらへと近づいてきていた。
「なんで、どうしてっ!」
「がっはっは! とうとうその剣にも見離されたようだな」
「……なによ、見離されたって」
「それは勇者を選定するための剣、ブレイブキャリバーだろ? 勇者以外には何人たりとも抜くことはできないと言われる聖剣だ。つまりはそういうことだろ?」
大男がニヤリと笑う。
慌てるわたしの姿は、大男には大層滑稽に見えていたことだろう。
よく見ると剣の腹には、"Violence is not strength,and compassion is not weakness"という文字が刻まれている。
「……ってか、そういうことは先に言ってよね。わたし勇者じゃないんだから、こんなパクリカリバー抜けるわけないじゃん(ぼそっ)」
「ん、何か言ったか?」
「いいえ、何でもないです」
とりあえず重要な事実はただひとつ。
もうこの剣は使えないということだ。
「三十六計、逃げるに如かずっ! ってかもう無理っ!」
わたしは剣の柄から手を離すと、ただひたすらに走った。
けれど当然ながら、わたしよりも大男の方が足は速い。
兵士達が行く手を阻もうとする中、わたしはどうにか助かる術は無いものかと部屋中を見回し、
そしてふと、大人しそうな顔の男の子の姿が目に入る。
部屋のほぼ全員が敵意むき出しの目線を向けてくる中、一人だけおどおどしながらわたしたちの動きを目で追っている、黒髪に小柄な男の子。
白虎や青龍と並んで立っていた男の子だが、まさかこの歳で幹部ということも無いはずだ。
わたしはその男の子に駆け寄ると、
「助けてっ!」
と、その男の子の背中に隠れるようにしがみつく。
「えっ、ぼ、僕ですかっ?」
「もう君しかいないの! お願い、なんとかならないかな……」
「そ、そんなこと言われても……」
「勇者だとかなんとか言ってるけど、わたしにはさっぱりだし、あなたたちを侮辱した覚えも全く無いの。気がついたらここにいただけなのよ!」
「で、でも僕は白虎さん達の味方だし、その……」
男の子がたじろく。
男の子は少し迷ったあと、「ごめんね」と言って立ち上がろうとしたので、わたしは男の子の服を引っ張って引き止める。
ここでこの男の子から離れてしまったら、それこそ待っているのは死だけなのだ。
「テメェ、汚ねぇぞ!」大男が言う。「玄武、そこをどけ!」
「ぼ、僕もどきたいんですけど、このお姉さんが放してくれなくて……」
「駄目、行かないで。殺されちゃう……」
「これだから人間って奴は! 何が勇者だ、子供を盾にする奴のどこに勇ましさがあるってんだ!」
「だからわたしは、勇者なんかじゃないって……」
そのとき。
まさに一瞬だった。
大男の前に割り込んで、黒いマントの少年が現れる。
速いとか、そんな感じさえしなかった。
気がついたときにはそこにいたと、そう感じてしまうほどだった。
「魔王様……」
白虎がそう声を漏らす。
少年はまるで作り物のような、上品な笑顔で微笑む。
「悪いが私は、煩いのは嫌いなんだ。少し静かにしていてもらえるかな?」
パチン――――――
顔の前で少年の指が弾かれ、わたしの意識は暗闇へと堕ちていく。
少年の瞳は、魔王と同じ赤い光を放っていた。
すてらです。まずは、読んでくださった皆様に感謝を。ありがとうございます。
これから香澄のドタバタな冒険が始まります。
アホの子ばかり出てきますが、みんな基本的には頑張り屋さんなので、応援していただけると嬉しいです。
※設定裏話※
香澄は転移とか転生とかよくわかっていません。
オタクな友達に押し付けられた小説がたまたま転生ものだっただけです。
ですが実は、この物語は「転生」が正解です。
現段階でのネタバレここまで。この先は内緒です。






