覚醒
入院中の蓮見はなすすべもなく……。
「そういや鴻池は生きてたぞ。今もこっちにむかってるはずだ」
「そうかい。あのときは混乱していたからね、彼女のことがとりあえず心配だったんだ。生きていてくれたなら、それはよかった」
春川が部屋に入ってきて、私にペットボトルのお茶を差し出してきた。何も言わずに受け取って一口飲んだ。彼女は仁志にも同じ物を買ってきていて、それを彼に渡していた。
「興奮を収めなさい。体によくないわ」
春川がいれた連絡によってその後、知り合いがたくさんやってきた。おかげで果物や花は見飽きてしまうことになったのだが、やってくる人たちが一様に私の姿を見るなり喜んでくれたのは、へこんでいた気持ちを復活させるいい薬になった。
有華ちゃんもやってきた。あの日はどうやら午後からは茜ちゃんの墓参りに行っていたそうだ。
「ご心配をおかけしたみたいで」
「いいんだよ。それにかけた心配なら私の方が大きい」
彼女も事件の決着には納得いってないようだ。荻原治が犯人だとは思えない。ただ、私と同じでそれを否定できる材料を持っていなくて、彼女の中ではそれが屈辱らしい。
「結局、茜の仇はどうなるんですか……」
荻原治が犯人にせよ、そうじゃないにせよ、結局彼女の望みは果たされない。
大学の友人たちや先輩たち、高校の後輩たちが駆けつけ終わってひと段落していると仕事が終わった兄が来た。
「親父がへこんでた」
開口一番にそんなことを言うのだから、たまったものじゃない。
「そうかい。知らないよ」
「親子喧嘩なんて珍しいな」
そう言われれば中学生の時以来になるか。あのときはまだ私も子供で、父が口うるさくて仕方なかったので、それに対していちいち応戦していた。ただ高校になると聞き流したり、軽口で誤魔化したりしていたので喧嘩にはならなかった。
兄はそれ以上この話題をせず、丸イスに座って心配そうな目を向けてくる。
「顔の傷は大丈夫なのか」
「お医者様の話だと痕は残らないらしいよ」
それを聞いて安心してくれたみたいで、ほっと息を吐いた。兄は私の顔に傷が残るのが怖かったらしい。確かにそれは私だって嫌だけど、生きているだけありがたいんだからそれくらいいかと今なら思える。
「明日はオフクロがくるよ。今日はいいって」
「母上、戻ってきてるんだ」
「親父が呼び戻したんだよ。オフクロはずっと、生きてるんだから心配ないって言い張ってたけどね。今日だって目が覚めたって教えたらな、当たり前でしょって返されたし」
そのエピソードは面白い。いかにも母らしく、聞いているだけで何か元気が出てきた。しかし、同時に怖くもなる。私は母の旅行の邪魔をしたわけだから、下手をすると母の逆鱗に触れているかもしれない。それはとんでもなく大変なことだ。本気で怒ると父なんかとは比較にならない人だから。
これは気が重いことができてしまった。
兄が帰った後はもう誰も来なかった。なんとも評価し難い病院食をたいらげて、ベッドを半分だけ起きあがらせ、窓の外をじっと見ていた。納得できないことが多すぎて、どこから考えていけばいいかも分からない。
荻原治が犯人になったと聞けば、小野夏希はどんな表情をするだろうか。きっと彼女なら待ち合わせの論理を駆使して全力で論破にかかってくるだろう。ただ仁志の話によれば彼女はまだ起きていないらしい。依然として危うい境界線の上で眠り続けているらしい。
私も今日までそこにいたわけだ。なのに私だけ先に戻ってしまった。それに意味があるんだろうか。単なるたまたまか、神様とやらが私に何か与えてくれたのか。全く、バカバカしい考えだ。
ノックがして一人の若い女性の看護師が入ってきた。
「包帯を換えましょうね」
一日で何度か包帯を買える必要があるのはちゃんと聞いていた。ただその前にどうして聞いておきたいことがある。
「質問なんだけど」
「はい」
「アルコール類はあるかな」
タバコでもいいんだけど、今はやけ酒が飲みたい気分だった。いっそ酔ってすべて忘れてしまい、その後また情報を入れ直すというリセットをした方がいい推理が出来そうな気がする。もちろんこんなの詭弁で、ただ呑みたいだけど。
彼女はそんな分かりきった質問に動じることなく、笑顔を保ったまま答えてくれた。
「ええ、消毒ならいくらでも」
やられた。いや、確かにそれも必要なんだけどね。
2
「ずっとその調子ね」
三日後、春川はビニール袋を持って病室に入ってくるなり、そんなことを口にした。私のベッドの横のテーブルはこの三日のうちにお見舞いの品で賑やかになっていて、彼女はその横の丸イスに座った。
「その調子というのは何かな」
「窓の外を見ては、思いふけってる。いつものあなたらしくないわ」
彼女に説明を求めたものの、自分がどういう状態かくらいは自覚があった。ただ、悔しいことに今の私にはこうすることしか出来ないのが現実で、あろうことか私にはそれに刃向かう気力も失せていた。
警察はあの事件を終結させた。荻原治が未成年だったことから、犯人の実名発表などは行われなかったが事件関係者ならまちがいなく彼だと分かる発表の仕方だった。被疑者が死亡したことで捜査本部は大きく縮小され、今は裏付け捜査にあたっているそうだが、それを本気でしているのかは知らない。
父もまだ捜査本部にいるらしいが、私は結局連絡を取っていない。兄や母を介して会わないと宣言している。だから見舞いにも来るなと。完全に拗ねた子供のやることだった。
結局、被害は今のところ止まった。被害者だけで死者三名、けが人が私と小野夏希で二人。まさしく大事件だ。ただ警察は、被害者は四名と発表した。その一人は麻由美君で、彼女は結局被害者として換算された。恐らくは、彼女の望み通りに。そうなれば彼女はしばらく動かないだろう。ただずっとというわけではないだろうが。
私の方はようやくミイラのような姿から解放されつつあった。足は自由がきくようになり、もう歩くのには支障がなかった。ただ走ったりすることはまだ当分は無理。腕の方もまだ包帯は取れないが、もう手を握ったり開いたりという単純作業や指の自由は確保していた。
ただそれでも、体を動かす気にはなれない。
「小野って子はまだ眠り続けてるわ」
私の代わりに動いているのがこの友人だった。頼みもしないのに一度も会ったことのない小野夏希の見舞いに毎日行っているし、その報告をしにここへ毎日足を運んでいる。
「……眠ってる方が幸せかもね」
少なくとも恋人がえん罪を被って世間に晒されている現実は、彼女にとっては辛すぎるだろう。
春川は私の言葉に反論しようとはせず、さっきのビニール袋から大学ノートを取り出した。そしてそれをおもむろに膝の上に広げると、何かを書いていく。
「何をしてるんだい」
「大学の授業よ。いくらなんでもあなた、今度授業出たときついていけないでしょう」
どうやら彼女は私のためにノートを作ってくれるらしい。しかも何も見ずに。授業の内容は全て頭に入っていて、それを要約しているみたいだ。超人技だ。私はそんなに真面目に授業を聞いたことは無い。断じて、ない。
「もういいよ、そんなことしなくても」
「ダメに決まってるじゃない。進級できなくてもいいの」
「君に後輩扱いされてかわいがられるのも良い」
「言っておくけど、私はあなたが進級できなくなったら付き合いをやめるから」
相変わらずの母性本能だ。全く、世話好きなのも大概にしないといけない。彼女だって暇な訳じゃない。大学生だから授業もあるし、バイトもサークルも、彼女に至っては大学の自治会にまで入っている。正直、一日が二四時間では足りないだろう。今は多くのことを休んで私に尽くしてくれているが、それもいつまで出来るか。
ただ私はもう本当にどうでもよかった。全身にある敗北感が、無気力を駆り立てた。このまま退院して、大学に戻る……。そんな生活、嫌だ。
大学に戻ったところで授業などろくに聞かないだろうし、どうせまたタバコと酒に明け暮れるだけだ。そしてたまに厄介事を……引き受けるのか。いや、今のままじゃ断るだろう。解決できる自信がないし、誰かのために動くという覇気がもうどこにもない。
ため息を吐いて備え付けの冷蔵庫から缶コーヒーを取り出して、一口含んだ後、春川にも何か飲むかいと尋ねた。
「飲み物はたくさんあるんだよ。皆してお見舞いにきてくれるのはありがいけど、見舞い品までいらないのにね」
「あなたが好かれている証拠よ」
「君もかい。一緒に寝てみるかい。ちょうど無駄に大きなベッドもあるし」
ガーゼが貼っていない左の頬を思いっきり抓られた。恐らくは加減をしてない。
開放された後、母が持ってきてくれた手鏡で腫れていないかをチェックする。母曰く、入院中は身だしなみがおかしくなるから、これで整えときなさいとのこと。母がそんなことを気にするなんてと驚いたが、考えてみれば母はまだ若いときに二度入院しているんだ。兄と私のために。その間に色々と学ぶことがあったんだろう。
ガーゼのサイズも小さくなって、それを押さえるためテープが漢字の「井」の形で貼られている。そして頭の包帯は無くなったが、まだ額に応援団か昔の受験生みたいに残っていた。
「乙女の大事な顔を抓るなんてひどいね」
「乙女と思うならあんな発言はしないで」
頬を摩りながらまた一口缶コーヒーを飲むと、同時に春川の腕が止まっているのに気がついた。彼女は眉間に皺をよせて難しい顔をしながら自分が書いた文字を追っていき、しばらくしてああと声を漏らした。
「やっちゃたわ、ミスよ。変なところで間違えちゃった」
これはすごく珍しい。彼女がミスをするなんて、そうそうあることじゃない。いやもちろん彼女だってミスくらいはするんだけど、彼女の場合はそれが人より圧倒的に少ないから。
「珍しいね」
「別の授業とごちゃ混ぜになっちゃった」
彼女によると彼女が別で受けている授業と、少し内容が似ていたそうだ。ただ似ていただけ。難しさでいうと彼女が受けている方が数倍難しいらしい。しかしながら、ここで彼女の悪癖が出てしまった。
「君は難しく考えすぎるときがあるからね。簡単な問題を、頭の中で勝手に難しくしちゃうんだよ」
「言い返せないわね。恥ずかしいわ、このミスは何回やっても治せない」
彼女にも少しは人間らしいところがあって安心した。あまり完璧すぎると、怖いからね。はははと笑っていると、頭の中に一本の細い糸が見えた。一体これは何だろうかと思っているうちに、頭の中で勝手にありとあらゆる記憶が自動再生されていく。そして、一本の糸を掴むと、その先にある人物がいた。
「え――」
彼女が何かに気付いたようですね。




