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急転

更に悲劇はつづく

 救急車には私と有華ちゃんが乗り込んだ。仁志はすぐ病院に向かうからと言って乗らなかった。それは車内で繰り広げられる処置を想像して、彼なりに配慮した結果だったんだろう。彼の想像通り、確かに車内では上半身を裸にされた小野夏希の救命処置が繰り広げられた。

 病院に着くと、担架に乗せられた小野夏希は看護師や医者たちの手によってとんでもないスピードで手術室へ入れられた。手術室へ入る直前、一人の医者がマスク越しに言った。

「全力は尽くします。ただ、覚悟はしておいてください」

 医者はそれだけ言うと自動扉をくぐり抜けて、生死の境目を漂う彼女をこちら側に引き戻す作業をするため消えていった。

 その覚悟とはどれくらいのものなのか。見知った少女の死を耐えられるほどの覚悟など、一人の人間の体に収まるものなのか。そもそもそんなものを、この状況でどこから絞り出せというのだろう。

 くだらない。こんなことを考えてもどうしようもないのに、そんなことに考えを巡らすのは今の現実を直視したくないからだ。

 ドラマでよく見る様な手術室の前。「手術中」と赤いランプで照らされたプレートをぼうと見ながら、冷たい脚いすに腰掛けていた。隣では俯いた有華ちゃんが鼻をすすっている。

 そんな時、仁志が到着した。どこの病院かは無意識のうちに彼にメールしていた。自転車を全力でこいで来たのか、息が荒いし髪の毛も乱れていた。額にはいくつもの汗が浮かんでいて、それをふき取ってもすぐまた同じことになる。

「しっかりしてくれよ、あんたが死にそうだ」

 そうかけてくる声も、それを言うのが精一杯というものだった。

「すまないね……さすがにきつい」

 今、私の心を浸食している魔物が二匹いる。一匹は不安という魔物だった。このまま小野夏希が死んだら、私は彼女の最後の声を聞いた者になり、最後に彼女の笑顔を見た人間になる。それはずっと私の人生に残っていくことになるだろう。それはただの少女の声や笑顔ではなく、私が救えなかった子の最後の肖像として。それはきっと、いつか私を壊していく。別にそれはいい。私がどうなろうが、それはどうでもいい。ただ、最後の目撃者というのはあまりに重荷だ。

 そしてもう一匹は後悔というものだ。どうして一瞬でも彼女から目を離してしまったのか。そもそも彼女が一人でいるのが危ないからと思い、駆けつけたのに少しの慢心で警備を怠り、結果として彼女は心臓を刺された。私が目を離さなければ、私がちゃんと側にいれば、私がちゃんとしていれば彼女は今も元気でいれたはずだ。

 その二匹が徐々に心を蝕んでいき、それを止める手だてを今の私は思いつけないでいた。

 それに裏切られたというショックも引きずっている。小野君のすぐ側にあった『箱』は血でぬれてしまっていたが、あれは間違いなく彼女のものだろう。それに防犯ベルなんて物を持っていたということは、自分の身に危険が迫っているのを分かっていたからだろう。そしてそれが、彼女が"cube"だったという確信へと繋がる。

「わかるけどさ……」

 この付き合いの長い仁志にしてもどう言葉をかけていいものか分からない様だ。

「……顔、洗いに行けよ」

 言われて初めて自分の姿を見つめた。両手は乾いた血で真っ赤になっていて、服に付いた血も赤黒く、そしてまるで大陸の形が整っていない世界地図のような模様になっていた。顔は見られないが、仁志がこう言っているのだからそれなりの量の血液が、顔にもついているんだろう。

「人間は血液の三分の一を無くしたら死ぬらしいね」

「縁起でもねぇこと言ってんじゃねぇよ」

「だね」

 そこで会話が途切れてしまう。いつもならもっと喋れるのに、今はからかう元気どころか、単純に話すということだけでも体力がいる。

 隣で鼻をすすっている有華ちゃんを赤く染まった右手でそっと抱き寄せる。彼女の方も寄ってきて、私の胸に抱きついてきた。そしてそのまま声を上げず泣き始めた。

「まだ決まったわけじゃないよ。彼女はしぶとい」

 そんな言葉を有華ちゃんというより自分に言い聞かせていた。

 しばらくして二人の走ってくる足音が聞こえてきた。まだ四十代半ばくらいの男女で、母親の顔つきが小野夏希に似ていたとこから彼女の両親だと分かった。二人は血まみれの私を見て一瞬、目を見開いた。ただ制服を着た仁志と有華ちゃんが側にいたので、犯人とは思われなかったみたいだ。

 立ち上がって、頭を下げるとすかさず頭を下げかえしてきた。流石は彼女の両親だなんて感心してしまう。

「小野君の知り合いの者です」

 細かい説明は省き、そうとだけ自己紹介しておく。相手も私の素性などどうでもいいらしく、娘はと震えた声で尋ねてきた。

「左胸を刺されていました。病院まではなんとかもちましたが……どうなるか私にはちょっと……」

 そしてさっき医者に告げられた言葉を、今度は私が使った。

「ただ、覚悟はしておいた方が良いと」

 その覚悟という言葉を聞いた途端、母親の方が父親に倒れ込んだ。父親の方も相当ショックを受けていたのに、それを何とか支えてイスに妻をそっと座らせる。二人とも顔が蒼白になってしまっていて、血の気が伺えない。

 娘を亡くす覚悟なんて、どこからも生まれはしないだろう。それでも彼らはそうしないといけない。それは生き地獄と比喩できる。

 私はまだ泣いている有華ちゃんの手を引っ張って、彼らから距離をとった。絶望や悲しみを他者と比較するなんてことはしたくないけど、失うものの差があまりに歴然としていて、彼らの側にいることが何か申し訳ない様な気がしてならなかった。

 それに聞かれたく話しがあった。

「二人とも、よく聞くんだ」

 何とか平常心を取り戻そうと半ば躍起になりながら、私は二人を自分の前に立たせた。

「あんまり時間がないと思う」

「意味がわかんねぇ。時間がないってどういうことだよ」

「いいから黙って聞きなさい。すぐに分かるから」

 救急車で小野夏希が処置される姿を見ながら、私はあるシナリオに気づいた。もっと前に気づけばそれを書き換えることもできただろうが、もう私にはどうしようもないところまでそれは進んでいた。だから、私にはあまり時間がない。

 やっぱり、事態はいつだって最悪だ。

「小野君が助かろうがどうだろうが、ターゲットはあと一人いる。けどいいかい、よく心に刻んでくれ。君らは明日から何もするな」

 泣いていた有華ちゃんの涙がとまり、仁志の拳がぎゅっと強く握られた。二人が納得してないことはよく分かるし、そんなの想像できた。けど言っておかないといけない。

「なんでだよ。被害者がまたすぐ出るかもしれねぇんだぞ」

「そうですよ」

 二人の反論はもっともだったが、私にはまだ見ぬ被害者より大事な者がいた。

「君らが危ない。これ以上は危険すぎる。それに……私は盾になれない」

「は、蓮見さん、それってどういう……」

 有華ちゃんの言葉が途中で切れた。そして同時に、複数名の足音が聞こえてくる。少し早歩きで、その力強さからみて恐らくは全員男性だ。だんだんとこっちに向かってきた。やっぱり、こういうことになったか。

 すぐに目の前に男性五名が現れた。真ん中に立つのはスーツを着込んで、メガネをかけてオールバックの若い男。そしてその周りに同じような服装の四十代から五十代のひげを生やした、いかにも刑事ですという風貌の男たちが立っている。その内の一人は、父だった。

 父は私と目を合わすとどこか悲しげな目をして、申し訳なさそうに目を伏せた。それは父が生まれて初めて娘の私から逃げた瞬間だった。ただ責めるつもりはない。悪いのは私なんだから。

 前に立たせていた二人をどかせて、そのスーツの男と向き合う。

「蓮見レイ君だね」

 いかにも日頃から他人を見下して生きていますと言わんばかりの高圧的な態度だった。

「ああ、そうだよ」

「私は須藤という者だ。この一連の事件の捜査指揮を任されている」

 その名前は父から聞いたことがあった。今、捜査を指揮しているのは若手のエリートの須藤という奴だと。思わず怒鳴りたくなった、お前が警備の数を減らすなんてことをしたからこんなことになった、と。ただそれを口にも顔にも出さない。

「それはそれは。父が日頃からお世話になっているね」

 私の軽口が気にくわないのか、須藤はレンズ越しの目を細めて不快感を露わにする。

「分かっているとは思うけど君の父親より階級は上だ」

「そうかい。それでそのお偉いさんがわざわざどういうご用件かな。こんなに部下の方を引き連れているんだ。被害者のお見舞いってわけじゃないよね。それとも、美人で聡明と有名な私に、何かご用があるのかな」

 彼らの目的なんて分かっているのに、そんな無駄口を叩く。そして少し挑発的な視線を送ってやると、彼は私がこれから起こることに予想がついていることに気づくと、唇をゆがめた。

「覚悟は出来ているみたいだな」

 口調が一変し、覚悟という言葉が出ると仁志と有華ちゃんが直感的に何か良くないことが起こると察したのだろう、私の横について心配そうに見つめてくる。私はそんな二人を引き離して、また一歩前に出る。

「蓮見レイ――」

 須藤もまた一歩前に出て、顔と顔とを近づけてくる。私たちの間には数センチしかない。

「君に任意同行を求める」

直下。

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