8:野獣を説得してみました。困りました。
ドアの前で溜め息のような深呼吸をひとつ。胃を抑えて、もう一度。今度はゆっくりと深呼吸をして、私はドアをノックした。開いたドアの中から覗いたのは少しくたびれてやさぐれ気味のノーマン隊長だ。
「何の用だ」
「その、少し飲みませんか?」
背後に隠していた酒瓶を掲げると、ノーマン隊長は目を丸くして私と酒瓶を交互に見遣る。騎士隊が持って来た備品の中に酒はない。ノーマン隊長が出発前にそのことをぶーたれていたのだから驚いて当然だ。苦笑したいのを隠して、代わりにいたずらっ子のように笑ってみせた。
「山小屋の備品を失敬してきました」
さらに目を見開いたノーマン隊長に、今度こそ苦笑が漏れた。そりゃそうだろう。自分でも自分の行動に少々驚いている。それでも、ノーマン隊長はすぐに悪い顔で――しかしどこか嬉しそうに――笑って私を中へ招いてくれた。だが、さすがに女性の寝所で飲むわけにはいかない。私達は山小屋の裏手のテラスで飲むことにした。ここなら、他の騎士に見つかることもそうそう無いだろう。
拳をふたつ重ねたくらいの小さな酒瓶を空け、ノーマン隊長に渡す。しかし何故か、瓶底を少しこちらに向けるようにして掲げたまま、口をつけようとしない。
「飲まないんですか?」
「乾杯しねぇのか?」
不思議そうな顔で言われ、面喰らう。乾杯は慶事くらいのものだと思っていたので、そのように告げると、傭遊士は挨拶がわりに気軽にやるのだと返された。しかも、慶事の乾杯はただ掲げるだけなのに対し、傭遊士のそれは瓶底やジョッキの底を打ち鳴らすという。彼らにとって乾杯は友愛の証なのだそうだ。ちなみに飲み口同士を合わせるのは恋情の証や夜のお誘いなのだとか。
コンと鳴った瓶の音が真っ暗な森に吸い込まれ、何故か少しばかり面映い。
「そんで?あたしを説得して来いってか?」
「お見通しでしたか。まぁ、命令ではなく自主的なものですが」
にやにやと笑うノーマン隊長に、苦笑する。考えればすぐ解ることだ。ただ、私はそれだけをするつもりはなかった。
「説得もですが、それ以上にノーマン隊長と話をしてみたかったんです」
「ふぅん?」
「どうして、あの場でアダラを見せなかったんですか?」
「……」
最上級依頼達成者に許される刺青を見せれば、クリフ隊長だって多少考えを改めたかもしれない。なのに、それをしなかった。私にはそれが不思議でならなかった。
「ピエール」
「はい」
「あたしのくだらねぇ話に付き合う気はあるか?」
「ええ。喜んで」
きっと、アダラを見せなかった理由に繋がるのだと、私は真面目な顔で返事をする。ノーマン隊長は「くだらねぇ話だっつったろ?」と苦笑し、くぴりと酒瓶を傾け、椅子の座面に右足を引き上げて頬杖をついた。するりと視線が流れ、ノーマン隊長は彼女の過去を眺めているようだった。
「あたしはこの国…ヴァルファチャータの国籍を持ってはいるが、傭遊士の資格はハク帝国のモンだ」
「え?」
「あたしはこの国で生まれたが、物心ついた頃にいたのはハク帝国だ」
「ハ…ハク帝国…それはまた…」
「まぁ、驚くよな。それはちと置いといて、あの国にアダラはない。なんでか知ってるか?」
「…いいえ」
「女がちゃんと、男と同列だからだ」
意外な言葉、いや、いっそ衝撃的な言葉に、私は目を見開いた。
ハク帝国とはヴァルファチャータ王国があるペフィヴィ大陸の海を隔てて東側にあるリョウカク大陸の国だ。25年ほど前に広大なひとつの大陸を平定し、一国家にまとめるという偉業を成した前代未聞の大帝国だ。
しかし、彼の国と我が国の国交はそこまで盛んでないため、詳しい文化風習や内政までは聞き及ばない。市井の噂では、リョウカク大陸は蛮族の住む戦争ばかりの大陸とすら言われていた。騎士道が一般市民にも浸透しつつある我がヴァルファチャータ王国以上に男女平等である国があるなど夢にも思っていなかった。
「ここで問題だ。ヴァルファチャータの傭遊士にアダラの習わしがあるのはなんでだと思う?」
「…もしかして、女性の為なんですか?」
「逆だよ。女が男社会に潰された名残だ」
予想だにしなかった答えに私は再び目を見開いた。違うだろうと思いながら答え、返って来た本当の理由に驚いただけではない。それを吐き捨てるように言ったノーマン隊長にも、私は驚きを隠せなかった。
「傭遊士が資格制になるちょっと前、今から40年くらい前の話か。ある女が傭兵として生きる為に、男に化けた。女だと荷運びの仕事すら取れなかったからだ。けど、どんなに男装をしても顔立ちで疑われた。だからその女傭兵は彫り師を騙して刺青を刺したんだ。その頃、刺青はならず者の男くらいしか刺してなかったからな。
女傭兵は段々と強くなり、名をあげた。そのうちそいつは最上級依頼しか取らなくなったらしい。それに憧れた他の傭兵が最上級依頼をこなしたら、女傭兵の彫った刺青に似たモノを刺すのが流行った。それが栄誉を意味する刺青、アダラの始まりだって言われてる」
「…そうだったんですか」
「ハク帝国からヴァルファチャータに戻って来て、アダラの話を聞いて思ったよ。
――なんってくだらねぇ話だ。ってな」
「……ッ」
ぞっとするほど冷たい瞳が、どこを見るでも無く虚空を貫いていた。今ほど彼女と視線があっていなくて良かったと思ったことはない。それほどに、強い感情が乗った視線だった。――なぜそこまで。その答えは彼女によってすぐにもたらされた。
「この国は女を人間だと思ってねぇ」
――ふざけたことを!
私は怒りを覚えた。そんなことはない。なんてことを言うのか。この国は女性を大事にしている。人間だと思っていないなどなんという暴言か。そう怒鳴り、訴えたかった。
だが、と思いとどまる。我が国が女性を人間だと思っていないと〝我が国の女性〟がそれを言ったのだ。男である私が否定したところで、それは彼女に届かない。何故そう感じたのか、それを知らない私が否定することは出来ないのだ。私は震える拳を握るに留めて沈黙を守り、必死に冷静を装って彼女の語りに耳を傾けた。
「アダラの元になった女傭兵は全盛期の真っ只中で女だとバレた。その後そいつがどうなったか想像できるか?」
「…いえ…」
「どっかのお貴族様の愛人にされたあげく、自害したってよ」
「そんな…!」
「巷に流れてる話は自害したってとこまでは語られねぇで、位の高い貴族のご婦人になったって成功物語みたいに言われるのがほどんどだ。だがな、そんな綺麗な話じゃねぇよ。女ってだけで生き方を捩じ曲げられ、自由を奪われて絶望して、無念のうちに死んだんだ。悲劇じゃねぇか」
「……」
「今でこそ、多少マシにはなってるらしいが…あたしに言わせりゃ大差ない。戻って来たこの国で、女だからって理由で依頼斡旋所で仕事を取れなかったなんて片手で足りやしねぇ。だから、あたしはハク帝国でやった最上級依頼でアダラを刺した。それでもひとつじゃ納得されなくて増えてった。そしたら今度は『女がそんなにこなせるわけがねぇ。股開いて彫り師を丸め込んだんだろう』って言われたんだぜ?どう思う?」
彼女は嗤った。
美しいはずの彼女の顔は醜く歪んでいた。女性蔑視への軽蔑と抑えきれない怒りが滲んだ悲しい嘲笑。私は、言葉を発することが出来なかった。彼女は右の袖をするりと捲くってアダラを私の目に映す。
「あたしのアダラを信じてくれた相棒と出会えたからここまでこれた。逆に言やあな、ジャックがいなきゃあたしは伸し上がれなかった。アダラがあってもだ。
そんな国で、これを見せたって何の意味がある?」
ノーマン隊長がアダラを積極的に見せなかった本当の理由を、私はようやく理解した。散々悔しい思いをして来ても、真っ正面からクリフ隊長にぶつかった。あれはノーマン隊長の気性からの衝突だけではなかったのだろう。少なからず〝騎士団なら〟というささやかな期待があったのだ。だからこそ、頑なに女性であることを理由に拒まれたノーマン隊長は、アダラを見せる気にならなかったのだ。例えそれが〝女性を守る〟という思惑から来ていたとしても。
さわと森を揺らす風はひどく冷たい。私は悲しいのか、悔しいのか、それとも怒っているのか解らない感情に身を震わせた。
何も言えなかった。
あまりに根深いこの国の問題。男である私は、問題だとすら感じていなかった。ぐるぐると肯定と否定が脳内を巡る。
ことり、と空き瓶が床に置かれ、次いでノーマン隊長のブーツがテーブルの上に乗った。同時にぎぃと椅子の背もたれが鳴く。ノーマン隊長は頭の後ろで両手を組み、空を見上げて苦笑した。
「悪かったなぁピエール」
「え?」
「さっきの作戦会議。ちぃーっと、大人げなかった。…ような気もする」
「……」
「おいおい黙んなよ。そこは『そうですね』って言うとこだろ」
ひょいと足を降ろし、テーブルに前のめりになるようにしてノーマン隊長はカラカラと笑った。私は、一体どんな顔をしているのだろう。反応出来ずにいる私を、ノーマン隊長は暁の瞳を和らげて見つめた。
「話をしようって誘ってくれて嬉しかった。話聞いてくれたからよ、スッキリした」
「……」
「明日の作戦会議。後方支援に回れって言われても大人しくしとくよ。だからそんな心配すんな」
「……よろしいの、ですか…?」
「バカかおめぇ。言うなよおめぇ。人がせっかく大人の対応しようと頑張ってんだからよぉ」
「…申し分け、ありません」
「ふふ。…まぁ、仕方ねぇよ。まだ騎士団を辞めるわけにゃいかねぇしな…」
諦めた顔で笑うノーマン隊長。私は何故か見捨てられたような焦燥感に駆られた。
そろそろ戻るか、と立ち上がるノーマン隊長を呼び止めようと手が宙を掻く。だが、声が出ない。なんと言えば良いのか解らず、口ははくはくと動くばかりだ。焦りが募る。このままではいけない。なのに。
山小屋の中に続く扉に手をかけたノーマン隊長が、一瞬ドアの前で立ち止まった。
「…第三のやつらと暴れたかったなぁ…」
ぽそりと呟かれた言葉。聞かせるつもりはなかったのだろう。しかし、それは風に乗り、確かに私に届いた。ノーマン隊長から何事も無かったかのように告げられた「おやすみ」に返事も出来ないまま、静かにドアが閉じる。
私はテラスの真ん中に、ぽつねんと立ち尽くしていた。