第7章
雨が降りそうな雲行きだ。
そこは凛宗総本山の奥にある上屋敷と呼ばれる建屋の大広間だった。巨大な庭に面しており、その重く黒い雲がよく見える。
杉浦はひっきりなしに携帯から電話を掛けていたが、相手が電話に出ることはない。既に数十回は掛けている。杉浦は十二氏会のメンバーが全くこの場所に居ないことが気になっていた。所在を確認しようとしていたのだ。
広間の奥には大机が置いてあり、そこに凛の君は座っている。凛の君は杉浦の様子をしばらく眺めていたが、やがて口を開いた。
「他の十二氏会のメンバーね・・・三位までの人間は毎朝六時に拝謁に来るのがルールだけれど、今日は来なかった・・・楊准将側に寝返ったのかしら?」
凛の君はそう言った。大して気にしていないという言い方だった。だが、杉浦はその言葉に即座に反応した。
「いえ、それはないはずです。我々十二氏会は先祖より千年以上も凛の君にお仕えしている身です。裏切る訳がありません」
「そう・・・」
凛の君は短い返事をした。
本当かしら・・・そんな理由で忠誠を誓い続ける人間なんて、それこそ私は希少だと思うわ。
凛の君はそう思った。
「だったら、どういうことなのかしら?」
「あまり考えたくはありませんが、民族保存会の連中に・・・拉致された、もしくは既に殺されている可能性があるかと・・・」
あの連中だったら何でもありだろう。仲間を平気で何人も殺してきたのだから・・・。
杉浦はそう思うと言いようのない怒りがこみ上げてきた。
「昨晩の会議でも、劉前加奈子さんの事故に関して、彼らと衝突しました。邪魔と見なされたのかもしれません」
凛の君はそれを聞いて黙り込んだ。そして口を開いた。
「無駄な内部の争い・・・そして大陸主導の内戦を前提とした独立運動・・・これで私達凛の民は何が得られるというのかしら」
自分の民の愚かさに心が痛む。民族保存会の暴走した人間もまた自分の民なのだ。
凛の君は目を閉じた。そして大木の気配を追った。
彼の力が必要だわ。
あっ・・・。
「大木君の力がやっと発動した・・・」
凛の君はそう呟いた。
「これで神の扉を開くことが出来る・・・」
ほっとしたように独り言を言った。
「神?」
杉浦は意外な単語に驚いて聞きなおした。
「そう、神の・・・」
「何のことです? 大木君の力と何の関係があるのですか?」
凛の君はふっと我に返った表情になった。そして呟くように言った。
「鎌倉時代・・・凛の民の反乱は失敗に終わり、幕府軍に凛の民は押され、根絶やしにされそうになった」
「それは知っていますが・・・」
何を話す気なんだ?
「ではいったい、どうやってその中を凛の民は生き抜いたのかしら?」
突然の質問で杉浦は戸惑った。
「根絶やしと言っても、数万もしくは十万近くの人間を処刑することは、現実的ではありません。実際はリーダー格の人間だけを処刑したのではないでしょうか?」
「じゃあ、リーダーって何? 凛の君は現代の私の代まで無事に皇位を引き継いでいる。それに旧貴族家の十二氏会の祖先もまた無事でいる。過去に何度も反乱を起こし、しかも鎌倉期は守護まで討ち取ったにも関わらず、何故、祖先たちは生き延びることができたのかしら?」
「・・・」
確かに疑問だった。反乱が失敗続きという結果で、何故凛の君や十二氏会の祖先が生き延びることが出来たのか・・・。
「では、どう説明付けるのですか?」
「皇帝記の記録には、そのとき凛の君が神の扉を開いたとあるわ。そしてその扉の鍵は龍であるとも。まあ、それ以上のことは何も分からないのだけどね」
ついていけない。だいたい、いきなり神って・・・。
凛の君が何を意図しているのか分からなかった。
凛の君は、困惑な表情を浮かべている杉浦を見て頷いた。
「神の扉を開くというのは、本当に神が現れるのかもしれないし、武器を示しているのかもしれない。記録が明確でない以上、現時点では何も分からないわ」
凛の君は席を立った。そして杉浦のところに歩いてきた。
「ただ私はそれが精神世界のようなものと思っている。あの龍のような生き物は、精神世界で通じているわ。そのお陰で今大木君がどういう状況かなのか、私には分かる・・・」
凛の君は言葉を続けた。
「その彼らが鍵だと言うのであれば、神の扉を開くというのは、精神世界の扉を開けるということと考えられるわ」
杉浦には良く分からなくなってきた。
「つまり、その精神世界を開けば、大規模な洗脳が可能になると私は思っている。貴方の記憶を操作したときのようにね。おそらくその力を使って、鎌倉期の反乱のとき制裁的な根絶やしは起きなかった。だからこそ私達の祖先も無事でいられたのではないのかしら」
「・・・」
杉浦はその言葉に衝撃を受けて絶句した。
本当なのか・・・? いやそれ以上に・・・。
「凛の君・・・あなたは自分の民を洗脳させ、この独立運動を収束させる気なのですか? それも大木君の力を使って」
「私の力は絶えようとしている。彼の力に頼るしかない。私はこの独立運動を収束させるためだったら何でもする。今、止めなければ日本との戦争が始まり、多くの命が失われることになるのよ!」
凛の君は強い口調で杉浦に反論した。
「でも洗脳された側の人権は? 個性は? 私にはとても正義とは思えません」
「でも命には代えられない!」
更に強い口調だった。一歩も引かない覚悟が伺える。杉浦は凛の君に圧倒された。
それは命が重いに決まっている。
杉浦はそれ以上何も反論出来なかった。
凛の君は大広間から庭を見た。そして今にも降りそうな空を眺めて
「杉浦九位、大木君を迎えに行って下さい。目的は達成されたわ」
と言い放った。
十数人の凛の民たちは、緑の二匹の龍を警戒するように遠巻きで、大木たちを囲い、見ていた。
「くそっ」
その若いリーダー格の人間は苛立っていた。そして大木と加奈子の周りを廻っている緑の二匹の龍を睨み付けた。
「あれを撃つとどうなるんだ?」
そう呟くと突然、自動拳銃を大木に向け、三発の銃弾を撃った。
大木はその発砲の音を聞き、反射的に加奈子と身をかがめた。目を閉じ、本能的に自分の死を覚悟した。
そして何故自分がここで銃弾に倒れることになったのか、何故死ぬことになったのか、その理不尽さに憤りを感じた。両親と弟、加奈子の顔が思い浮かんだ。
きっとこれが走馬灯というのだろう。
そう思った。
だが、銃弾は大木には届かなかった。
大木は発砲の直後、弾丸が壁に衝突するような大きな音を三回聞いた。その三回の音はすぐ自分の手前で起きた様子だった。
大木は目を開け、ゆっくり周りを確認した。銃弾は潰れ、床に転がっているのが見える。それが三つあった。
「いったい・・・」
二匹の龍のような存在は、大木と加奈子を守るかのようにその周りをゆっくりと廻っている。
「お前たちなのか・・・」
大木はそう呟くと、二匹は大木の顔を見て頷いた。
銃を撃った男は言った。
「その後ろの女を引き渡せ」
「・・・」
銃弾の恐怖はあったが、大木はしっかりと首を横に振った。
「ちっ」
リーダー格の男は舌打ちをした。そして怒りを押し殺したように言った。
「先ほどは失礼した。上からの命令で方針が変わった。殺しはしない。彼女の身の安全は保障する」
「あなた達の事情は知りません。引き渡しは出来ません」
「じゃあお前、死ね」
大木の反応に頭にきたのか、その男は今さっき経験した不可解な現象を気にもせず、銃弾を撃ち続けた。 だが、二匹は周りに見えない壁を作っているようだった。弾はそこで止められ、大木に届くことはない。
「その女を引き渡せ!」
男はもう一度同じ言葉を放った。
「嫌だ!」
大木は即座に叫ぶ。男はその言葉に苛立ちを感じた。
「渡すんだ!」
そう叫び、その男は銃弾を撃った。男の表情は怒りに満ち、目は釣り上がり、地獄の鬼のようになっていた。
二匹が大木と加奈子の周りを廻りながら、空に向かって鳴く。その男に威嚇している様子だった。
突然、後方からパン、パンという複数の銃弾が発砲される音が聞こえた。それと同時に銃弾が弾かれる音が鳴った。
複数の発砲者が後ろにも居たのか!
大木は焦った。
防戦だけでは何も進まない。一匹を攻撃に廻すことは可能だろうか?
「一匹は後方から発砲している人間を抑えてくれないか?」
大木がそう相談するように言うと一匹が頷き、長さ三メートルの巨体をすばやく発砲者の方へ向けた。
後方の発砲者はその迫り来る緑の龍に弾丸を何発も撃ったが、龍は全く意にせず、その尾の一振りで発砲者を数メートル跳ね飛ばした。「ぐえ」「うう」などの苦しそうな呻き声が聞こえる。
そして逃げる他の発砲者を追った。だが狙いをはずし、緑の龍は病院の建屋にぶつかる。「どん」という音と共に窓ガラスが割れ、サッシは捻じ曲がり、一階部分のコンクリートはえぐり取られるように破壊された。
「すごい破壊力だ・・・」
大木はそう思った。
もう一匹は大木と加奈子の側から離れず、そのまま彼の周りを廻っていた。
なんとかなる。
大木は少し安堵に似た感情を感じていた。
楊は病院の建屋二階の窓から、その様子を見ていた。少し前に劉前加奈子の情報が飛び込んできた。それは大木という高校生スキーヤーとこの病院から逃亡しようとしているというものだった。
今まで行方が分からなかったが・・・。
凛の民族保存会が勝手に事故を起こし、その事故に巻き込まれた女子高校生・・・。
張参謀に素性を調べさせていた。そして彼の調査結果は全く予想外のものだった。もしその調査報告が正しければ、手持ちのカードで一番すばらしいものが手に入る。
楊准将はすぐに無線と携帯で民族保存会の人間に、彼女の身柄の安全確保を命令した。
それがついさっきの出来事だった。
楊准将は中庭での民族保存会の人間の手際に苛立ち、一連の攻撃に関して指示を出し始めていた。
「今だ、やれ!」
大木の横側にいた人間に無線で指示を出し、横からの攻撃も仕掛させた。
楊は二匹を引き離せば対象の防御は弱くなると考えていた。実際、防御が甘くなっていたのかもしれない。龍の回転の速さが足りなかったのかもしれない。
一発の弾丸が大木の頬をかすった。
「うおおお」
大木は痛みでしゃがみ込んだ。火の着いたような痛みだ。手で頬を押さえたが、血は止まることなく溢れる。
「大木君、大木君、大丈夫?」
加奈子が取り乱し、そう叫んだ。前後左からの発砲は続いている。攻撃に転じていた一匹は、大木の悲鳴を聞き、すぐに大木の側に戻り、再び二匹で大木たちの周りを廻り始めた。
「ちっ」
建屋の中で楊准将は舌打ちをした。
「大木君、大木君、大木君!」
加奈子の悲痛とも言える叫び声が響く。
それを見てリーダー格の若い男は、楊准将の指示通りの言葉を言った。
「さあ来るんだ。そうすればもう攻撃は止めよう」
「劉前さん・・・」
大木の苦しそうな声が聞こえた。
「攻撃はされているけど、この二匹が居れば大丈夫・・・奴らに耳を貸すことはない」
加奈子は動揺していた。大木は加奈子の手を強く握った。
「大丈夫だ」
大木は片手で頬を押さえながら強い口調で言った。頬から流れた血は喉を伝わり、シャツを赤く染めている。加奈子はその痛々しさを直視することができなかったが、大木の手の感触によって徐々に落ち着きを取り戻していった。
バン、後方で拳銃の発砲とは異なる大きな音が鳴った。大木は振り返った。
クロカンタイプの車がものすごい勢いで近づいてくる。銃に撃たれたのか、右後ろの窓が割れ、左後ろの窓はくもの巣のようなひびが入っていた。左前はどこかに衝突したような大きな凹みがあり、ヘッドライトは割れているのが見えた。
車は大木と加奈子の傍で急停止した。二匹の龍は車も含めた格好で、大木たちの周りを廻り始めた。
「早く乗るんだ」
運転席から男の声がした。杉浦だった。
大木と加奈子は言われるがまま、後部座席に座った。杉浦はそれを確認するとギアをバック入れた。
「運転している人間はだれだ!」
楊は無線に怒鳴りつけた。
すぐに回答が帰ってきた。
「凛の十二氏会の杉浦です!」
「唯一の取りこぼしか! くそっ」
楊は無線で指示を出した。
「撃て!」
二匹の龍の内、一匹は一番近い敵に向かった。その尾で二人の発砲者を同時に跳ね飛ばし、車前方のリーダー格の男を見た。龍は狙いをつけ、リーダー格の男に向かった。龍は体当たりを試み、地面に激しく衝突し、地面は木の枝が広がるように割れた。男は紙一重でその攻撃をかわしたが、足場の悪さに倒れ、数メートル転がっていった。
「くそっ、全員撃て! 撃て!」
新たな方向から杉浦の車に向かって発砲が加えられた。龍はそれらの敵に向かい、その尾で彼らを排除していった。
もう一匹は車の進行方向の敵の排除を行っていた。その尾で発砲してくる人間を次々に跳ね飛ばしてゆく。
大木と加奈子は銃弾を避け、後部座席で身をかがめていた。車はバックギアのまま猛スピードで走る。杉浦は必死の形相で運転を続けた。そして突然Uターンを行い、ギアをバックからドライブに変え、アクセルを全開に踏んだ。
「よし」
杉浦は自分自身に言い聞かせた。そしてそのまま敷地内を一気に走り抜けた。前方にいる大木の龍は障害を排除し、もう一匹の龍は後方の追っ手を意識して、地面を尾で割り、車がとても通れない状態にした。
大木と加奈子は心臓の大き過ぎる鼓動を抑えることが出来なかった。だが、安全が確保されたのだと自分自身が認識するようになると、その鼓動は徐々に収まっていった。
二人は強く手を繋いだ。
無事に立原中央病院を脱出することが出来たのだと認識した。
大木の二匹の龍はいつのまにか消えてしまっていた。
逃げるのに必死でいつ消えてしまったのか、大木には分からない。
そもそも、あの濃い緑で龍のような生き物はなんだったのか・・・。
凛の君の白い空間と、あの緑の空間は共通項があるような気がしていた。
凛の君は何か知っているはずだ。
杉浦に連れられて、大木は凛宗総本山のある建屋の長い廊下を歩きながらそう思っていた。加奈子が大木に寄り添うように歩いていたが、今さっきの特異な経験に恐怖を感じたのか、何も話さなくなっている。怪我をしていない彼女の左手は大木の手をしっかり握っていた。
銃弾がかすった頬がまだ痛い。血は止まったが、線状の生々しい傷があった。血で染まったシャツの襟はまだ乾いておらず、首にその冷たい感触を覚えるたびに、今さっきの戦いが現実のものだったことを認識させられた。
春川さんたちは無事でいるのだろうか?
大木は答えが分からない質問を何回も自分に投げ掛けていた。
雨がぽつぽつと降ってきた。建屋内に居てもその音は聞こえる。
加奈子と大木は、凛宗総本山の上屋敷と言われる建屋に連れてこられていた。その屋敷には何十畳もある広い畳敷きの大広間があり、その真ん中に凛の君が立っていた。
大陸古来の服を着ている。紫の下地に豪華な金の模様がところどころ刺繍され、それはこの女性が凛の皇帝であることを示していた。
「凛の君、大木君と龍前さんをお連れしました」
「ありがとう、杉浦九位」
杉浦は黙って頭を下げた。その様子を見て凛の君は頷く。そして大木の方を向いた。
「大木君、力が発動したわね」
いきなりの質問だったが、大木は黙って頷いた。前のような反感は感じない。凛の君の態度が、今までとは全く違うような気がしたのだ。今までの高飛車な態度は消えていた。
「濃い緑の・・・三メートルくらいのが二匹・・・」
凛の君はそれを聞いて、しばらく考えていた。大木には軽い溜息が聞こえたような気がした。そして凛の君が口を開いた。
「私も同じ力を持っている・・・」
一呼吸して言葉を続けた。
「大木君、私の目もあなたの目と同様、色が見分けることができないわ」
「僕と同じ・・・目を・・・」
その言葉に大木ははっとした。 凛の君の今までの謎賭けような質問の意図を初めて理解した。
凛の君は自分と同じ能力を僕が持っているのか確認しようとしていたのだ・・・。
「あの龍のような存在はいったいなんなんです?」
「よくは分からないわ・・・悪魔かもしれないし、妖怪かもしれない。ただ確かなのは、宿主が見ている色を食べていて生きているということ・・・」
やはり凛の君の様子は以前のものと変わっている。高圧的な態度はなくなっていた。
「凄まじい力を持っていて、従順で、宿主に無条件に従う・・・それでいて自分で考える力を持っていて、命令なしでも宿主のために動く。だけど、わたしには、この存在に相当する名前を思いつくことができないわ」
大木はさっき目撃した龍の戦いぶりを思い出していた。コンクリートを壊す破壊力、銃弾のものともしない防御力・・・どれをとっても現実離れしている。それに車での脱出のとき、勝手に前後に分かれ役割を分担していたのを思い出した。
知能も、力もある。
「けれども・・・彼らは呼んでも今は呼応してくれません」
「でも、あなたの目は何も変わっていないはずよ」
凛の君は呟くように言った。
「あなたの中に今も彼らは存在しているわ。何故、呼応しないかは分からないけど・・・」
そして少し考えてから言葉を続けた。
「ただ、この能力は一種の精神世界を通して発揮される。だから・・・」
「だから・・・他の人間の記憶をも変えてしまうことも可能なのよね」
それまで後ろで黙っていた加奈子が突然言葉を発した。怒りを抑えているような声だ。
大木は振り返った。加奈子は、大木が貸した紺のウィンドブレーカーの前襟を左手で強く握っている。手は震えていた。
凛の君はすぐには返事をせず、加奈子を見つめた。
しばらくの沈黙があった。
「やはりあの事故で記憶が戻ってしまっていたのね」
凛の君は言った。
「母と弟は・・・」
「あなたの記憶が戻ると同時に元の記憶が戻ったはずよ。それが彼らの記憶が戻るための鍵だったから。だからもうあの家にはいない・・・一年前の本当の居場所に戻ったと思うわ」
「くっ・・・」
加奈子は泣き始めた。大粒の涙が目からこぼれてゆく。やがて立っても居られず、彼女は泣き崩れた。
大木には何が起こっているのか理解出来なかった。
「ひどい・・・どうして、姉さん・・・」
加奈子は凛の君にそう言った。 その言葉に大木と杉浦は驚いて凛の君の顔を見た。
「どうしてなの! どうしてこんなこと!」
「・・・」
凛の君は黙ったままだった。
雨が突然激しくなった。屋根瓦を叩く音、地面を叩く音がやけに大きく感じる。
沈黙が続いていた。
雨の音が鳴り続ける。沈黙に耐え切れず、杉浦が言葉を発した。
「姉さんって・・・どういうことなんです? 凛の君、確か妹君は一年前に亡くなったはず・・・」
「・・・」
「凛の君!」
杉浦は沈黙する凛の君を問い詰めた。凛の君は視線を逸らしていたが、やがて諦めたように口を開いた。
「大陸が・・・」
躊躇っている様子だった。
「一年前・・・今回の独立を補助する保障に人質を求めてきたのよ」
凛の君は言葉を一旦止めた。
「彼らは人質として私の妹を要求していた」
「それは覚えています・・・ただそのときに妹君は急病でお亡くなりに・・・」
そこまで言うと杉浦は気がついた。
「つまり、亡くなったことにしたと。そして劉前加奈子としての記憶を植え付け、家族として同じ新しい記憶を植え付けた人間を用意して、かくまったと・・・」
凛の君は頷いた。
大木には輪郭が見えてきた。
だからあの夜、劉前さんの家に凛の君が居たんだ・・・そして今回の独立騒ぎには大陸が関与していた。
あの拳銃を撃ち続けたリーダー格の男も、劉前さんが凛の君の妹と知ったのだろう。だからこそ計画を変え、身柄を要求したのだ。
大木は点と点が繋がってゆくのを感じていた。
「あの記憶が、たった一年のものだったなんて・・・あの楽しかった記憶が・・・その家族も、もういないなんて・・・」
加奈子は泣き続けている。大木はしゃがみ、加奈子の肩を抱きしめた。
記憶が戻ってから今までずっと我慢していたのだろう・・・辛かったちがいない。信じていた存在が実際は虚無なものだったとは・・・。
自分だったら、果たして耐えられるだろうか・・・。
大木は泣き続ける加奈子を見ながら、そう考えていた。
「華南・・・あなたを人質に出すことなんて絶対にできなかった」
凛の君は加奈子に向かってそう言った。加奈子はその言葉に反応することなく、泣き続ける。強い雨音がその悲しさに同意しているようだった。
仕方がなかった・・・だが、全てが言い訳になる・・・。
凛の君は話を続けた。
「全ては一年前、独立に大陸の関与を了承してしまった私のミスから始まっている。華南を苦しませ、凛の民族保存会は暴走し、私の民は大陸の筋書き通りに操られている・・・」
大木には凛の君が自分自身に反省を求め、自身を責めているように見えた。
この人も苦しんでいたのか・・・。
そう思った。
凛の君は泣き崩れている加奈子と肩を抱く大木を見ながら言葉を続けた。
「そしてこれから内戦が始まり、多くの民が死ぬことになる。これが大陸の先の大戦の日本への復讐・・・本当の大陸の望みなのよ!」
そう言うと大木の顔を見た。
「私はこのばかげた独立騒動を止めなければならないと考えている・・・」
そして突然凛の君は大木に頭を下げた。その様子に大木は驚いた。大木どころではない、杉浦や遠巻きに立っている側近までも凛の君の態度に驚いていた。
「華南をこの立原から、いえ、K地方から脱出させて欲しい。あなたに彼女を守って欲しい」
その言葉にそれまで黙っていた杉浦は驚いた。
凛の君は大木君の力を借りたいのじゃなかったのか?
それなのに何故・・・。
杉浦は凛の君の顔を見た。彼女の真意を確かめたかったのだ。
「華南が大陸側に人質に取られてしまっては、私はもう何も出来ない・・・私はなんとしても、この独立騒ぎを収束させる。あなたの大切な仲間である四条電機スキー部のメンバーも必ず救出するわ。だからお願い・・・華南を助けてください」
凛の君は大木に頭を下げたまま言った。以前のあの上から目線は全く感じられない。誠意ある全くの別人の行動だった。
「凛の君・・・」
大木は凛の君の言葉と行動に戸惑いを感じていた。
僕に劉前さんを守れるのか・・・緑のあの龍たちは今や呼応すらしてくれないというのに。それに春川さんたちの救出は・・・。
「大木君・・・私は・・・」
加奈子は顔を上げて大木を見た。目が赤く涙目だった。
「私は大丈夫・・・」
自信を失った力のない言い方だった。悲しい響きに聞こえた。
大木は両手で加奈子の肩をそっと掴んだ。そして思い切って言った。
「劉前さん、僕は君が好きだ。一目見たときから、君と時間を共有し、一緒に笑い合えたら、どんなに幸せだろうと思っていた。僕は君と手を繋ぎ、キスをした。それは僕にとって尊いことで、幸せなことで、支えだった」
「!」
加奈子は大木を驚いて見つめる。その言葉は元気付けられる言葉だった。恥ずかしくもあったが、暖かい気持ちにさせられる言葉でもあった。
「僕は君を守り続ける。どんなことがあっても。それが君を好きになった僕の責任でもあり、義務なのだから」
「・・・」
加奈子の目からはうれしさの涙がこぼれ、それが止まることはなかった。大木に静かに抱きつく。
「ありがとう、大木君・・・私もあなたが好き」
そう言った。
凛の君は突然の成り行きに唖然として二人を見ていたが、杉浦の方に振り返り、笑って見せた。
杉浦は憮然としていた。
凛の君の言うことが正しければ、大木君が居なければ扉を開けることはできない。それでは独立運動の進行をこのまま許してしまうことになる。
それは最も避けなければならないことだと思っていた。凛の君はその杉浦の表情に小さく首を振った。
大木は言った。
「分かりました」
加奈子がここに居ることの危険性を考え、彼は了承した。
首に襟のまだ乾いていない血の冷たさを感じる。そして頬に銃弾が走った時のあの強烈な痛みと恐怖を思い出したが、こぶしを強く握り、その痛みでなんとか抑え込もうとしていた。
「その代わり・・・春川さんたちスキー部のメンバーをよろしくお願いします」
それに対して凛の君はしっかり頷いた。彼女も覚悟を決めていたのだ。
装甲車が二台、ゆっくりと凛の総本山に入ってきた。
境内がざわつく。
境内にいた多くの人間が動きを止めた。装甲車に注目が集まる。もう夕暮れを過ぎ、辺りは暗くなっていた。大粒の雨となっても、境内には独立運動に関係した人間で溢れている。
合羽姿の警備の人間が装甲車に走り寄った。
「装甲車なんて聞いていませんよ」
警備の人間は、装甲車を運転してきた人間にそう言った。自衛隊からもってきたものだろう、キャノン砲まで備わっている。
「凛の君がここにはおわしますからな。これくらいの警備は必要と思ったんでしょう。俺はペーペーだからよく分からないです」
装甲車の運転者はそう答えて、にやっと笑った。警備の人間はその笑いを見て不快に感じた。
「中を見せてもらっていいですか?」
警備の人間がそう言うと装甲車の人間は困ったような顔を見せた。
「おいおい、同じ凛の民同士じゃないか、そんなこと必要ないだろう?」
装甲車の男はにやにや笑いながら言った。何かをごまかしているように見える。
「ここには凛の君が居ます。甘い警備は出来ません。中を見せて貰ってもいいですかね?」
他の警備の人間が走ってきた。
「いいんだ、この装甲車のことは聞いている。凛の君の護衛用だ。悪いな、通っていいぞ」
その人間は装甲車の男に境内の地図を渡し、進行場所を指定していた。
その警備の人間は大陸から派遣された人間のようだった。日本語の発音が少し異なっている。ここには何人も大陸から送り込まれた人間がいた。
警備の男は更に不快になった。
その後、続けて数台の車が境内に入ってきた。数十人の警備の人間が一斉にその車に走り寄ってゆく。暗闇の中、相当数の水が跳ねる音が続いた。それらの人間は皆、大陸から配備されている人間のようだ。
「あれは?」
最初に装甲車の男を質問した警備の人間は、近くの同じく警備担当の男にそう聞いた。
「分からんな、ちょっと混じって聞いてくるわ」
その男はその集団に小走りで走り寄った。
車から数人の人間が降りるのが見える。同じような黒の合羽を着ていた。
彼らの会話を盗んできた男が、戻って来た。
「楊准将らしいぞ。大陸の言葉は良く分からなかったけどな」
「どうしてここに・・・? 本部は中央病院のはずじゃないか」
「凛の君に拝謁にでも来たんじゃないのか? それとも戦況報告かな?」
その警備の人間は違和感を持ちながら、その一群を見つめていた。大粒の雨が合羽を叩きつける。
まるで大陸の人間が偉いような振る舞いだ。楊准将が来ることや、装甲車が来ることも我々に連絡がないなんて・・・。
多くの凛の民が、大陸側の人間が主導権を握って、今回の独立運動を扇動していることに不満を思っていた。大陸からの支援の期待がなかったら誰も従ってはいなかっただろう。
そして二台の装甲車が動き出し、境内の奥へとゆっくりと向かって行った。大陸からの数十人の警備の人間、そして楊准将らが装甲車の後ろについて行く。
周辺はもう暗い。黒い合羽をきた数十の集団は、暗い境内の奥に行くにつれ、周りの景色に同化し、やがては何も区別がつかなくなっていた。
強い雨音と共に闇に消えていったのだ。
「凛の君、大木君をどうして!」
大木と加奈子はこの場を去って行った。側近の一人に連れられてゆく様子を黙って見ていた杉浦だったが、彼らがいなくなったのと同時に凛の君に駆け寄り、問い詰めた。
「彼の力が必要ではなかったのですか?」
「私だけの力で神の扉は開ける。私の中の存在はまだ生きている・・・なんとかなるわ」
そう言った凛の君の声は硬く、苦しい表情をしていた。その様子から厳しい状況であることはすぐに分かった。
凛の君は静かに話はじめた。
「二週間前、大木君がこの立原の街に来たとき、私の中の存在が、彼が同じ力を持つ仲間であることを教えてくれたわ。そんなことは初めてだった。私以外にこんな稀有の力を持っている人間が居るなんて・・・本当に驚いたわ」
凛の君は大広間を庭に向かってゆっくり歩き、止まり、そして広間から見える暗い庭を見つめた。
激しい雨音が聞こえる。
「私の力は弱っていたから、扉を開くためには、なんとしてでも、彼の力を借りる必要があった・・・」
そして考えるように僅かな時間だけ目を閉じた。凛の君は言葉を続けた。
「でも、そのときの大木君の力はまだ覚醒していなかった」
杉浦は黙って凛の君の話を聞いていた。暗闇の中で降り続ける雨は、何か気味の悪いものに感じる。
「そう・・・でも時間がなかった。どんな手を使ってでも、彼の力を発動させる必要があった・・・」
「・・・」
「華南が事故に巻き込まれたことは、すぐに私の中の存在が教えてくれた。深い考えもなしに同胞までも手に掛ける、あの凛の民族保存会の人間たちが私は本当に憎い・・・」
凛の君は暗闇で何も見えない庭を見続けていた。
「でも私はそれを利用した・・・」
とても悲しい声だ。
「凛の君・・・」
そう声を掛けられ、凛の君は唇を噛んだ。
「力を発動させる鍵は、感情の不安定、動揺、怒り、悲しみなの」
杉浦は凛の君に苦しそうな表情を見た。目線を足元に落とした。長い髪が前に垂れる。
「私の母上は私が九歳のときに亡くなった。突然の死だったわ。悲しく、感情は落ち込み、動揺し、そしてそれが鍵となって、私の力は発動した」
凛の君はそのときの悲しみと動揺を思い出した。そして急に力が発動したことも。白く龍のような生き物が、突然、自分の目の前に現れたのだ。
凛の君は言葉を続けた。
「華南に好意を持っている大木君だったら、華南が事故に会い、しかもその後は行方不明となれば、不安を覚え、動揺し、怒りを感じ、力が覚醒すると思っていた」
「だから、彼を挑発するような態度をとっていたのですね」
「上手くは行かなかったけれどね・・・覚醒させる役目は結局、楊准将たちが代わりにやってくれたわ・・・」
しばらくの沈黙があった。
「どうして予定を変えたのですか?」
杉浦は質問した。凛の君は姿勢を正し、振り返った。
「・・・華南は、絶対に彼らに拘束されてはならないの・・・もし彼らが、楊准将が、華南の存在に気づいたら、必死に華南の行方を探すに違いないわ」
そう言って凛の君は唇を強く噛んだ。
派手な脱出劇に頭の切れる楊准将ならば気づいたかもしれない。劉前加奈子の正体が分かってしまっている可能性があるわ。それどころか既に華南を捕らえる算段をつけているかもしれない・・・。
不安が次から次に凛の君を襲っていた。
「華南が人質になってしまったら、私は何も出来ない・・・父上も母上ももうこの世にはいない。華南は残された私のたった一人の家族なのよ・・・」
「それで華南様を守るために大木君を一緒に行かせたのですね」
確かに大木君のあの緑の生き物がいれば、何も恐れることはないだろう・・・。
杉浦はそう思った。杉浦の言葉に凛の君は黙って頷いた。
「私が馬鹿だったばっかりに・・・華南を二回もこの独立騒ぎに巻き込んでしまったわ。私にもっと先を見る目があったら・・・私が凛の民の独立という夢を少しでも持ったばっかりに」
悔やみ、彼女は悩んでいた。
杉浦は凛の君に人間らしさを感じた。初めて会ったときは、とてもこの人について行けないと思った。だが、今思うとあの高め目線な行動はわざとらしい仕草ばかりだ。
へたな芝居だったな・・・。
杉浦はそう思い返していた。
「凛の君・・・あなたは馬鹿などではありません。現に凛の愚鈍な民を正しい方向に導こうとしているではありませんか。華南様を守ろうとしているではありませんか。貴女は立派な方です。立派な君主です」
「ありがとう・・・杉浦さん」
凛の君はそう答えた。杉浦には彼女の目が涙目のように見えた。凛の君を抱きしめて支えたい衝動に襲われた・・・それは決して気の迷いではなかったと思う。
慌しく廊下を走る者が居た。振り返ると側近の一人が息を切らせながら走ってくるのが見える。
「凛の君! 大変です。楊准将らしき人間とその配下が境内に入って来ました。数は二十から三十です。キャノン砲を装備した二台の装甲車と一緒にこの上屋敷に向かっています」
それを聞いた凛の君は、予想していたとは言え、この状況の悪さに天を仰いだ。報告を行った側近は肩で息をしながら、凛の君を見た。
「やはり来てしまったのね・・・」
あの頭の切れようは異常だわ。さすが今回の独立運動の指揮を任されているだけはある。民族保存会の暴走までも上手く利用し、この状態まで彼はもってきたのだ・・・。
彼さえいなければ・・・。
凛の君は本当に心からそう思った。
私の弱った龍たちで彼らと戦闘を行い、彼らを打ち破るのは不可能だわ。どうすればいい? いったいどうすれば・・・。
凛の君が悩む様子を見て、すぐに杉浦は凛の君に言った。
「凛の君、悩まないで下さい。最善の策を考えましょう。きっと大丈夫です」
凛の君はその声をありがたく聞いた。そして杉浦の目を見て強く頷いた。
やるしかない・・闘うしかない。
そして言った。
「神の扉を開けに行きましょう。こうなってはもう時間がない。私の中の存在が地下の祈祷所に行くことを強く望んでいるわ」
雨足が時折強くなり、弱くなり、強くなる。雨が降る黒く暗い闇を見ていると、その雨音さえもその黒さに吸い取られてゆく感じがした。
大木と加奈子は中年の男の側近に連れられ、凛の君の屋敷から地下の坑道を通り抜け、外に出た。
大木と加奈子は用意された雨具を着て、靴も雨靴に履き替えた。加奈子の右手のギブスには、水が入らないように側近によって、二重三重にビニールのカバーがされる。その作業はより丁寧に行われた。
そして三人はワゴンタイプの黒い車に乗り込んだ。
「市の境までお車でお送りしますが、そこには検問が設置されています。これを避けるには、先程お教えしました山道を歩き、市外に脱出する方法しかありません」
運転席に座った側近はそう言い、山道の詳細を後部座席の二人と再度確認をした。
車は大雨の中をゆっくり走り始めた。
大木は山を越えに不安を覚えていた。加奈子を見た。加奈子は自分の足元を見ている。暗い感じだ。不安を感じない訳がないと思った。
加奈子は呟くように話し始めた。
「一年間前・・・私の記憶を改ざんするときの姉さんは、涙を流していたわ。私たちは、数人の側近と十二氏会の三位以上の者としか接触できない。会話するのは本当に限られた人間だけだった。だからこそ、私たち姉妹はお互いを支え合い、本当に大切な存在だと思っていた・・・」
加奈子の声は弱かった。
「皇帝の家族とは言っても、公的に認められていない。私たちはまるで罪を犯した人間のように拘束され、隠されてきたわ・・・」
車を運転していた中年の側近の男は、加奈子の言葉に何回か小さく頷いていた。おそらく共感できる部分があったのだろう。
「私はまた姉さんに会えるのかしら・・・?」
加奈子はそう言った。
「私は・・・姉さんが居なくなったら、どうすれば・・・」
加奈子の目から涙が流れていった。その不安に耐えられず、大木の手を探し、強くずっと握っていた。
雨は合羽を強く叩いていた。
楊准将らと二台の装甲車は、総本山の上屋敷と呼ばれる場所に向かっていた。
楊准将は、情報部からのレポートに凛の君が超能力のような力をもっているという報告があったことを思い出していた。
洗脳が可能で、接触は出来るだけ避けるようにと指示が書かれていた。実際この地に来てから九ヵ月、楊准将は彼女に二回しか拝謁していない。もっとも簾越しで顔も分からない状態ではあったのだが。
それ以外に重要なことが記載していた。それは本来人質として、担保とされるべきだった凛の君の妹が生きているかもしれないというものだった。そのレポートその顔写真と張参謀に調べさせた龍前加奈子の報告書の顔写真とそっくりだった。
同一人物と見てほぼ間違いはないだろう・・・。
そして楊は装甲車の後を歩きながら、今日起きた出来事、特にあの緑の得体のしれない生き物を思い返していた。
「あの生き物はいったい・・・」
あの若い二人・・・一人は凛の君の妹、一人は四条電機スキー部の高校生選手だ。あの生き物はおそらく彼らのどちらかに因るものだろう。そして十二氏会の人間が現れ彼らを救出した。凛の君が関与していると見ていい。
それにしても、あの緑の龍の現実離れした攻撃力と防御力はいったい・・・。
境内は明かりが少ない。黒い合羽の集団とその先頭を走る装甲車は、当事者である楊でも不気味な感じがした。
横には李中佐が歩いている。
「あの生き物は・・・妖怪か何かなのでは?」
李は楊にそう返事をした。
「聞こえていたのか・・・」
「ええ」
李中佐は自分の足元を見ながら、言葉を続けた。本殿を通り過ぎてから大分歩いたような気がする。
「あの生き物は、彼らが病院を脱出してすぐに透明となり、消えました。とてもこの世のものとは思えません。それにあの破壊力ですが、物理を無視しているようにも思えます」
「そうだな・・・」
「妖怪という言葉が適切かと」
李がそういうと、楊は少し笑ったように見えた。楊は大陸で読んだ数多くのレポートを思い直してみたが、思い出してみるまでもなく、妖怪の類の記述はない。
「だとしたら、どうゆう部類の妖怪なのだ?」
「そうですね・・・龍といったところでしょうか」
楊は「うむ」と言った。そして
「あれが何だとしても、私たちはあれと今から戦わなければならないのだな」
と言った。李は聞いた。
「この場所でドンパチをやったら、下の社務所に集まっている凛の民はどう行動しますかね? やはり我々を背後から襲ってくるでしょうか?」
李は楊にそう聞いた。
「どうだろうな。ただ、ここにいる彼らは訓練もされていないし、武器もない。それに何より指揮官がいない。集まってきたとしても、大したことは出来ないだろう。我々は自分の目的を達成さえすればいい。どんな手を使ってもな」
李中佐はその言葉に頷き、そして前方を見た。
雨の先に塀に囲まれた屋敷のようなものが見えてきた。複数の建屋が重なり合っている。楊は言った。
「凛の君はそこに居るのか?」
「屋敷の見張りの者からは十二氏会の杉浦と、凛の君の妹と四条電機の高校生スキーヤーがこの中に入ったとの報告を受けています。凛の君がいると考えてよいかと思います。凛の君の顔が分かっていれば、仕事が楽になるのでしょうが」
「そうか・・・」
楊は以前から凛の君が妙な動きをしていることを知っていた。そしてそれが独立を阻害させる動きであることも。
早いうちに芽を摘まなければならない。
楊は言った。
「凛の君をこのまま自由にしておいては今後の計画に支障が出る。この作戦でなんとしてでも凛の君の妹、もしくは凛の君本人を確保するのだ」
だが、あの得体のしれない生き物はきっと出てくる・・・。
そう思った瞬間、雨が頬を伝って首に入ってきた。冷や水のように感じられた。
「前に凛の君に拝謁したのは確かにあの奥の建屋だったな。もっとも顔は拝ませてはくれなかったが」
楊は自分の緊張を隠すようにそんなことを言った。そして停止の合図を出し、各人の配置の指令を下した。黒い合羽の集団は一台の装甲車から銃を手早く受け取り、数人のグループに別れ、それぞれ担当の場所へと闇の中に消えてゆく。
楊准将らは上屋敷の正門から二十メートル離れたところに、二台の装甲車と二十人程の部下とで待機した。配置完了の無線が次々に入る。
楊は無線を取り、四方からの催涙弾の射撃を命じようとした。「?・・・・」
目を凝らしてみた。
一匹の白い細長い生き物が正門の前にいた。
「いつの間に・・・」
その龍のような生き物はしばらく動く様子を見せなかった。
が、突然、宙に飛んだ。
「速い・・・」
楊は白い龍を目で追うが、その速さで追いきれない。龍は旋回をしながら宙にのぼり、折り返し、一気に地上に向かう。
そしてその勢いを借りて、正門の両側にある直径一メートル超の杉の巨木を二本なぎ倒し、簡易的なバリケードを築き上げた。
音を立て、巨木が倒れてゆくのを楊は唖然と見ていた。二本の巨木は装甲車のすぐ手前で倒れた。
「准将!」
李中佐は叫んだ。
楊は持っていた無線に指示を下した。
「催涙弾を撃て!」
一斉に催涙弾が屋敷内に打ち込まれた。白い煙が屋敷のいたるところから立ち上っている。この暗闇でもそれが分かった。そして楊准将は、装甲車に乗っている人間に命令した。
「キャノンの照準をあの白い生き物に定めろ!」
「了解」
命令された人間は一〇五ミリキャノンの狙いを正門の前に戻った白い龍に定めた。呼吸が荒く、その場から動く様子はない。
あの龍は弱っているのか?
楊にはそう見えた。
「撃て!」
楊は命令を下した。
装甲車の兵士はもう一度狙いを確認し、キャノンのトリガーを引いた。「ドン」という音と共に装甲車が揺れる。弾は正確に白い龍に向かい、当たった。爆発音が聞こえ、灰色の煙が立つ。
「やったか?」
楊は確認するように部下に言ったそのとき、装甲車が大きく揺れ、横に倒され、最後には逆さになった。
白いあの龍のような存在が真横にいる!
楊は焦った。
龍はしばらく楊の顔を観察するように見ていたが、宙に昇り、やがてその姿を消した。楊には龍が苦しそうな表情を浮かべているように見えた。そして龍の尾が切れ、青い血のようなものが流れているのを見た。
キャノンでやられたのか・・・。
雨音が急に帰ってきた。
いやこれまで同じ調子で降り続けていたはずだった。彼は雨が降っていたのを忘れていた。
緊張していたせいなのか・・・?
「ちっ」
楊は舌打ちをし、下唇を噛んだ。楊の部隊は完全に恐れに飲み込まれてしまっていた。楊は倒されなかったもう一台の装甲車に乗り込んだ。そして命令した。
「門に向かって、キャノンを撃て」
「しかし・・・あの白い龍がもう一度現れたら・・・」
「だが今は居ない。撃て!」
楊は怒鳴った。
装甲車にいた男は前方を見た。確かにあの白い龍はいない。
「分かりました」
男はキャノンのトリガーを手にした。そして正門に狙いを付けた。白いあの生き物が脳裏に浮かぶ。手の震えが止まらない。男は自分の手を自分の手で殴りつけ、震えを何とか押さえつけた。
そしてトリガーを引いた。ドンという音と共に門に向け弾丸が走った。門に命中した。門は一気に爆破され、跡形もなくなくなった。
「やった!」
男は歓喜の声を漏らした。
「続けて壁を撃ち崩せ!」
楊は叫ぶ。そして装甲車の一〇五ミリキャノンは壁をスキャンするように弾丸を撃ち放し、屋敷の壁を広範囲に撃ち崩した。
楊の配下の人間達はその様子を見て、自身を取り戻してゆく感覚を覚えた。
だが、おかしい・・・。
楊は周りが活気づく中でそう感じていた。
何故さっきの白い生き物は出てこない? それに何故、中から何も反応が返ってこない?
楊は装甲車を降りた。
何故だ・・・。
「何も反応がありませんね」
駆け寄ってきた李中佐がそう言った。
「李中佐」
「はっ」
「何かおかしい。陽動の可能性がある」
雨が強く全てのもの叩き続けている。
「すぐに装甲車に拘束している十二氏会の幹部の口を割らせろ。何か知っている可能性がある。そうだ、有能と自分で言っている民族保存会の人間を上手く使うといい」
楊はそう言ってにやりと笑った。
あの同胞殺人を犯してしまう馬鹿な連中をか・・・。
李はそう思った。醜い人間模様を見る予感がした。
「残りの人間はこの屋敷の制圧に当たれ!」
楊准将は大声でそう部下に指令を出した。
雨の音と風の音が時間と共に激しくなってゆく。まるで台風のようだ。李は何人かの部下を連れ、吹き荒れる雨に打たれながら、装甲車の裏に廻った。そして装甲車の後部ドアを勢いよく開けた。
李は中の淡いオレンジ色の電球の明かりを見て、ほっとした感情を持った。だがこれからしなければならないことを考えると憂鬱な思いに襲われた。
拘束した凛の十二氏会のメンバーがそこにはいた。七人の男が装甲車の長椅子にうな垂れて座っているのが見えた。拘束したときに怪我をした他のメンバーは立原中央病院に残しておいたが、肝心な情報を持っている三位以上の幹部連はここに連れてきている。
どう口を割らせるか・・・やはりあの頭の悪い連中を使うべきなのか?
自分を警戒している人間が目の前にいる。相手の目が落ち着きなく動いていた。それは嫌な光景だった。