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第6章

 そして夜が明けた。

 大木は合宿所の自分の部屋にたどり着いてすぐ、そのままベッドに倒れ、眠ってしまっていた。

 朝の六時だ。

 大木はゆっくり目を開ける。

 加奈子への告白、加奈子の想い、加奈子の事故、加奈子の行方不明、凛の君・・・それぞれを思い返していた。だが、一番知りたい加奈子の居場所、無事は分からないままだ。

 大木は携帯食を食べ、歯を磨き、ジャージを着て廊下に出た。

 体を動かしたい。

 外に出てロードワークをするつもりだった。気持ちが落ち込むのを防ぎたかった。

 階下に降りると人影が見えた。

「・・・?」

 ロビーで荷物をまとめている人間が居た。

 この時間になんだ?

 大木はその人物の近くまで歩いて行った。田沢の後ろ姿だった。

「田沢さん・・・どうしたのですか?」

「大木君・・・」

 ふいに後ろから声を掛けられ、大木の予期しない登場に田沢は驚いた。そして思わず口走ってしまった。

「犬山さんは凛の民に誘拐されていたんだ。救出されたが、昨日の昼に亡くなった・・・あっ」

 田沢はしまったと思った。

 本当はタイミングを見て、大木には言うつもりだった。そう春川と決めていた。

「凛の民を来たり者が殺した・・・その構図を作るためなのですよね・・・犬山さんは無実であるにも関わらず」

 淡々とそう大木は答えた。

 犬山が亡くなったという事実に衝撃を受けていた。だが心のどこかで覚悟していた面もあった。

「大木君、どこでそれを・・・」

「昨日の深夜に凛の皇帝と名乗る女の人に会い、聞きました」

「凛の皇帝・・・やっぱりそんなのがいたのか・・・」

 昨日バスの中で誰かが、その存在を言っていたのを思い出した。

 それ以前に知らされている内容でもあったが、それが本当に存在していたとは・・・。

 もう少し情報が必要だと思ったが、大木の沈んでいる様子を見て聞くのを躊躇った。

「そして事故に会った劉前さんは、搬送された立原中央病院から転送され、行方が分からなくなっているままです・・・」

 大木の顔は強張っていた。

 田沢は大木のその様子に同情した。

「大木君、その件だけど、さっきニュースでやっていたよ」

 その言葉に大木は反応して、田沢の顔を見た。

「彼女のブログのストーカーで、尚且つ来たり者で、交際を断られての犯行と言っていた。その犯人は事故で死んでしまったことになっているけどね」

 大木は目の前のテーブルに置いてある新聞を開いた。全国紙には、そのニュースは載っていない。次に地方紙の中を探した。

「あった」

 その記事はすぐに見つかった。

「牧野容疑者は被害者である劉前加奈子さんのブログの常連であり、フジサワを名乗り、繰り返しストーカー行為を行い、交際を求めていた。劉前さんは星観察の愛好家で、今年になってブログを開設・・・・」

「牧野容疑者はいわゆる来たり者で、ここ最近、来たり者の犯罪が増える傾向から、警察では注意を呼びかけ・・・」

 そこまで読んで大木は読んでいた新聞を床に落とした。

 ばさっという乾いた音がした。新聞紙が滑りあい、床に広がってゆく。

「なんなんだ・・・劉前さんにストーカーがいたなんて聞いてない・・・」

 大木は呟いた。

「田沢さん、これは嘘で出鱈目です」

 大木は怒りを感じていた。加奈子という人間を勝手に改変されたような気が大木にはしていた。

「分かっている」

 田沢はそう返事をして大木を落ち着かせようとした。田沢は床に広がった新聞を拾い、ニュースの続きを声に出して読んだ。

「劉前加奈子さんは車にはねられ、意識不明の重体。牧野容疑者は犯行後、車で逃走したものの、美津山のカーブを曲がりきれず谷に落ち、その後死亡が確認された・・・こいつもきっと犯人に仕立て上げられたんだろうな」

 田沢はそんなことを最後にポツリと言った。その言葉に大木は我に返った。犬山のことを思い出したのだ。徐々に落ち着きを取り戻してゆく。

 その様子を見て田沢は言った。

「今日、東京に戻ることにしたんだ」

 大木は驚いて

「え・・・どういうことです?」

と返した。

「犬山の無罪を証明する証拠を東京の事務所に送ってくれた人がいる。それを持って、マスコミを渡り歩くつもりだ」

「その・・・送ってくれた人間は信用できるんですか?」

 田沢は少し無言になった。

「昨日の夜に会った。春川さんと一緒にね。その男は犬山さんを救出した人間の関係者だと言っていた」

 そして考えるように答えた。

「正直信用できるかどうかは分からない。ただ、今はそれに掛けるしかない」

「・・・」

 田沢の思いつめる顔を見て、大木はそれ以上何も言えなかった。

「春川さんも一緒に帰ると言っていたけど、今日は立原市役所に挨拶する予定になっていたからね・・・監督と相談して僕だけ帰ることにした」

「はい・・・」

 大木はそう言った。

「大木君、この街はこの一週間ちょっとで随分様子が変わってきている。来たり者への嫌悪感の高まり、独立の機運・・・君の大切な彼女は本当に心配だが、君自身の身の安全も気を付けるんだぞ」

「はい・・・」

 合宿は後残り一週間弱あったが、その前に撤収すべきではと田沢は思っていた。監督には提言している。状況次第で合宿の終了日は前倒しになるだろう。

 無事であってほしい・・・。

 まだ若く、それでいて幼さもあるまだ高校生の大木をみてそう思った。

 

 

 杉浦は辺りを見渡した。

 火葬場の職員の人間はもう居ない。杉浦はやりきれない気持ちで溜息をついた。

 犬山を身元不明の遺体として死亡診断書を書き、今彼の遺体を荼毘に付している。身元不明の遺体としたことから、病院に若い警官が来たものの、その遺体が犬山であるとは気づかなかった。その若い警官は、

「火葬場まで行かれるなんて、先生も大変ですね」

と言った。ねぎらいの言葉のつもりだったらしい。当然火葬場までついてこなかった。

 杉浦は病院を休み、ここに居る。

 犬山の遺体が、コンクリートで囲まれたあの高温空間に入ってから、三十分は経っていた。杉浦は火葬場の建屋にある喫煙所でタバコを口に咥え、火をつける。煙を吸い込み、それを吐いた。

 旨くない・・・。

 犬山が救えなかったことが悔やまれた。

 携帯を出してツイッターを覗いた。昨日の凛の会議で伝えられた楊准将の計画では、来たり者へのバッシングと独立推進の声で大勢を占めているはずだった。

 そして今日の夕方には集会が各所で行われ、市の複数の施設が占拠される計画になっている。市の境も検問が設置され閉鎖される予定だ。 

 凛の民のさくらが三百、大陸からきた人間が三百・・・たったこれだけの人数だ。いくら日本から独立して凛の民の国家を打ち立てることが、民族としての悲願だと言え、どれだけ計画通りに進めることができるのだろうか?

 杉浦はツイッターの件数を見た。そして自分の目を疑った。

 三万件・・・。

 今は朝の十時半過ぎだぞ。この時間で、まさかこの人数まで到達しているとは・・・。

 杉浦は、楊という人間が恐ろしく感じられた。一部の凛の民は楊に強い反感を持っている。協力が制限される中で、凛の民は更に楊の足を引っ張るような計画外の事件を頻繁に起こしていた。だが、楊准将たちはそれをも上手く利用して、今のこの状態にまでもってきたのだ。

 杉浦はツイッターの中身を読み始めた。そして腹ただしく思った。”来たり者に死を”とか、”独立して借金大国日本とおさらば”などと身勝手で自分を棚に上げたような文章が並んでいる。とても賢い人間が書くような内容とは思えない。

 杉浦は火葬場の建屋の外に出た。

 まだ時間はかかるだろう・・・。

 空は雲一つなく晴れ渡り、そしてさわやかな風が流れている。木々がその風に流され、ゆっくりと柔らかに揺れていた。

 杉浦は正面を見た。そこには見覚えのある青年が立っていた。

 大木だった。

「きみはあの女の子の事故の・・・ああそうか、君が大木君なんだね・・・」

 大木は杉浦に頭を下げた。

「犬山さんから君のことを聞いている。連絡できないですまなかった・・・春川さんたちに聞いてここに来たのだね」

「はい・・・犬山さんは・・・」

「無縁仏として、今荼毘に付している。もう警察は居ない、一緒に骨を拾おう」

 大木は浅く頷いた。

 犬山がもうこの世にいないと思うと、本当に悲しかった。犬山が居なかったら、今の自分はいなかった。

 何故犬山さんが犠牲にならなければならなかったんだ・・・。

 悲しく悔しい気持ちでいっぱいだった。

 犬山の人間性を知っている大木にとって、犬山の死は全く理解することが出来いことだった。

「彼女の居場所は分かったかい?」

 ふと、杉浦が大木に聞いた。

「いえ・・・杉浦さんは?」

「申し訳ない・・・分からないんだ」

 大木はしばらく黙った。そして言った。

「凛の君という女性が、知っている感じで」

「凛の君・・・凛の皇帝・・・」

 杉浦はそう言って空を見上げた。なぜかあまり驚きはなかった。

「大木君は、凛の君に会ったのか・・・」

「はい、はじめは姉を名乗っていました」

 あのとき、どうして凛の君の気迫に負けてしまい、加奈子の居場所を聞き出せなかったのか、大木は後悔に悩まされていた。

 次がもしあるのなら、絶対に今度は引かない。

 大木はそう思っていた。

 杉浦が呟いた。

「姉・・・あの女性が凛の君だったのか」

 杉浦は、あの時、加奈子の転院をものすごい勢いで迫ってきた若い女性を思い出していた。加奈子の姉を名乗ったスーツ姿の女性は、眼鏡を掛け、頭が切れそうな印象だった。

 ただ、何を言っても引かなかった。こんなに強情な人間がこの世にいるのかと思った。

「そうか、あの女性が・・・」

 また同じことを言った。

「僕は初めて会ったよ・・・凛の君に会えるのは、十二氏会の中でもトップの三人だけだからね」

 杉浦はそう呟いた。

 凛の君は何をやろうとしているんだ?

 分からない・・・。

 春のさわやかな風が流れてゆく。現実に起きている事柄と、この風のやさしさは、差が大き過ぎる・・・。

 今、この火葬場では無実の罪を負ったまま亡くなった人間が、身元不明の無縁仏として荼毘に付されている・・・そしてこの目の前に立つ若者も、大切な彼女が凛の民によって引き起こされた事件に巻き込まれている。

 それに今日をどう乗り切ればいいのだ。

 杉浦の不安は大きくなってゆく。

 時計を見た。時計の針は十一時を廻っている。楊准将の計画表では・・・そう思ったときに山側で爆発音が連続して起きた。

 杉浦は迷わず立原城の方向を見た。

 四層四階の白い漆喰塗りの天守閣が崩れてゆく。江戸時代に作られた国宝の天守閣が、薄い茶色の煙を立てながら崩れてゆくのが見える。そしてその煙の中に天守閣は消え、煙は高く成長し、風に流され、周辺に広がっていった。

 時間がたち、煙が消えると爆破による被害の様子が分かってきた。天守は跡形もなくなり、小天守は上手く崩れずまだ半分が残っている。気味の悪い、異様な風景だった。

「なんてことが・・・」

 大木は唖然としてその光景を見ていた。

 杉浦は無言で携帯を開き、ツイッターを見た。この天守閣爆破は異常なまでの歓迎ぶりだ。

「ブラボー、すばらしい、今日が独立記念日だ。月岡教授の提案を実現のものにしよう!」

 杉浦はコメントの一つを口に出して読んだ。

 大木が質問してきた。

「この街で何が起きているのです? あの城の爆破は凛の民の独立派が起こした犯行ですか? どうしてあんなことをするんですか? どうして犯行を重ねてゆくんですか?」 

 大木は続けざまに杉浦に質問した。動揺していたのだ。

「城の爆破は凛の民の独立への狼煙だ。今日、この街に居ることは、君にとって、とても危ないことになる・・・」

 杉浦は城が崩れ、煙が出続ける様子を眺めながら言った。

 そして再び携帯を見た。そこには”勇気ある城を爆破した奴らに続け!”とか”次は市役所を占拠しろ”とか”デモ隊を送って警察や自衛隊を降伏させろ!”などの文字が躍っていた。最後には凛の総本山に集まれという文字も見える。

 どこまでが楊准将が操っているやらせか分からなかったが、最後の書き込みは多分それだろう。集まってきた人間をあちこちのデモや占拠に割り振る予定だった。

 杉浦は流されているこの人間たちに強い嫌悪感を覚えた。殺された自分の姪っ子やいとこを思い返した。この自分勝手な発言ばかりしている駄目な人間たちを抑揚させるために殺されたのだ。

 腹の中が煮えくり返る。

 杉浦は一呼吸した。そして言った。

「とにかく逃げるんだ。この街は今日から独立一色になる」

「逃げません。僕は劉前加奈子さんを探します」

「今日は凛の大祭の前夜祭で、K地方の凛の民が多くこの立原に集まる。今朝から独立運動が既に動き始めているんだ」

 杉浦は言葉を続けた。

「春川さんや君のような経歴が目立つ来たり者は人質にされる可能性がある。今は逃げるんだ」

「・・・嫌です。僕は劉前さんを助けたいんです」

 強い意思を感じた

「・・・彼女が好きなんだね」

 杉浦はそう言った。

 高校生の恋なんて、卒業したらすぐに別れてしまうことが多いというのに・・・今から起る危険とはとても釣り合うとは思えない。

 杉浦はそう思ったが、大木の表情を見てその真剣さを感じた。杉浦は腹を決めた。

「実は彼女の居場所に関して一つだけ心当たりがある。いや気づいたというべきかもしれないが」

 そう大木に伝えた。

 大木の表情が柔らかくなった。よほどの心労が彼を覆っていたのだろう。大木の膝が崩れ、地面に膝をついた。


 

 春川ら四条電機スキー部のオリンピック候補選手と監督は立原市役所に入った。それは爆発が起きる少し前だった。

 これから市長に挨拶し、小学生との対話会を行う予定だ。その市役所の建屋は、とても田舎の役場とは思えない、ガラス張りで現代的な作りをしている。春川らは最上階である八階の会議室に通された。大きな会議室だった。そして眺めが良く、向かい合った立原城と凛宗総本山が遠くに見えた。

 部屋には二人の背広を着た若い男が部屋の隅の立っていた。春川はその様子に違和感を持った。髪が二人とも茶髪で市役所とは縁遠い存在に見えたからだ。

 二人は春川らが部屋に入ると笑いを堪えるかのような表情をした。春川は一瞥したが、相手にせず彼らを無視した。それは凛の民独特の排他的行動だと思ったのだ。

 ガラスがみしっと鳴った気がした。

 突然、窓の外から連続した爆破音が響いた。春川は急いで窓の外を見た。さっきまであった立原城天守が崩れ、土煙に沈んでゆくのが見える。

「あはははは」

 部屋の隅に居た二人の若者が突然笑い出した。愉快そうに、今までのうっぷんを晴らすかのように。

 春川はカチンときて、二人を睨みつけた。それに気づいたそのうちの一人が、春川のところにゆっくり歩いてきて、いきなり春川の腹部をめがけてパンチを入れた。

「がっ、」

 あまりにも急で、しかも重いパンチだった。春川は膝をついた。腹を押さえ、痛みで呼吸もままならない。

「人質は礼儀ただしくしろってんだよ」

 そう言って、さらに背中に蹴りを一発加えた。突然のことで、他の四条電機スキー部の人間は何も出来ずにその光景を見ていた。

 だが止めなければならない。五対二だ。抑え込める。

 そういう空気が流れたが、その雰囲気を悟ってか、二人の背広の男たちはすぐさま胸から拳銃を取り出し、四条電機スキー部の人間に向けた。

「おとなしくしてろよお」

 春川に暴行を加えた男は、語尾を上げ、ふざけるように警告を発した。

 

 

「あのコンクリートの建物が凛の君の専用病院だ」

 杉浦は大木に小声でそう伝えた。

 火葬場から犬山の遺骨を引き取った杉浦は、一旦病院に戻り、自分の部屋の棚に彼の遺骨を安置した。時間が経つにつれて冷たくなってゆくそれは、杉浦を暗く悲しい気持ちにさせた。

 そして二人はこの場所で落ち合った。森で囲まれた広大な敷地にコンクリートの打ちっぱなしでできた二階建ての建屋が見える。その敷地は高さ三メートルは超える大きな門と、高く分厚いコンクリートの壁で囲まれていた。そこは凛宗の総本山の麓にあり、周りは田んぼと住宅が混在している場所だった。

 門は硬く閉じられ、外界を謝絶しているように見えた。二人は周りを気にしながら建屋との距離を縮め、住宅の塀に隠れ、建屋から自分たちが見えない位置に身を置いた。

 外からは中の様子は何も分からない。人がいるのかいないのか、それすらも分からなかった。

 ただ・・・大木には二階のカーテンが少し揺れたような気がしていた。そして凛の君はその建屋の、まさにその部屋に居たのだ。そこは二十畳ほどの皇帝専用の執務室だった。

 凛の君は机の椅子に身を預け、天井をじっと見ていた。

「おそらく・・・あと数回だろうか」

 凛の君はそう呟いた。その美しい顔には何も表情がない。

 自分の体の中にいる存在は、もう長くはもたないだろう。弱りきっている。

 犬山の見張りであった凛の民にその力を使ってしまった。彼女は彼の非人道的な行いに怒り、我を忘れてしまったのだ。

 どうしても許せなかった・・・。

 三メートルもの龍のような白い生き物が人を襲っている様子は、さすがに気分が悪くなったが、後悔はない。ただ、その場で仕留められなったことと、もはや貴重な能力になりつつある自分の力を使ってしまったことに後悔していた。

 凛の君は目を静かに閉じた。

 あのとき、犬山の救出を十二氏会の上位三位の人間と自分の側近とで行った。十二氏会が独立運動を何も阻止できていないことに苛立ち、彼女は行動に出たのだ。

 その後、十二氏会のメンバーが彼を病院に搬送したが、今日の連絡で犬山は急遽したとの報告が入っている。医師である杉浦九位に託したとのことだったが、あの衰弱しきった様子では、やはり無理だったのか・・・。

 凛の君は溜息をついた。

 せめて指名手配の汚名だけは解いてあげられればと思った。それは杉浦九位がしていると聞いている。

 彼女は自分の無力さを感じていた。

 今日と言う日は来てしまったのだ・・・独立への計画は一気に進むだろう。

 凛の君は目を開け、唇を強く噛んだ。

 そして杉浦は大木に言った。

「この病院は一般には存在は認められていない病院なんだ。凛の君が現れたとなると彼女はこの病院に搬送されている可能性がある」

 杉浦は門をじっと見ながら、更に大木に言葉を付け加えた。

「先の凛の君は、最後はずっとこの病院で入院されて、癌の手術もここでしたと聞いている。設備が整っていて隠れて手術を行えるところは、ここしかないはずだ」

「・・・そうだとしても、どうやって確認しますか?」

 大木は高くそびえ立つコンクリート壁と硬く閉ざされている門を見て、そう言った。難しいことのように思えた。杉浦からすぐには答えが返ってこない。

 春の風が通り過ぎてゆく。春の鳥の鳴き声が聞こえる。

 凛の君には大木達が既に近くまで来ていることは分かっていた。自分の体の中の存在が教えてくれていたのだ。

 だが、その存在は昨日より弱っている。凛の君はそのことには何も触れないでいた。

 杉浦九位もいるらしい。

 凛の君は十二氏会のメンバーである杉浦に前から興味を持っていた。杉浦が九位という立場上、彼女が彼に直接会うことは過去になかったが、十二氏会では中心的な存在であることは聞いている。

 そして、加奈子の転院を押し進めるときに初めて杉浦に会い、彼は猛烈にそれに反対していた。そのとき凛の君は彼の患者を想う強い正義感に感心した。杉浦という人間に少し興味を持ったのだ。

「今は、そんなことを考えている場合ではないのだけど・・・」

 凛の君はそう言って溜息をついた。

 で、壁の外の二人はどう出るのかしら?

 ふっと笑いが漏れた。

 二人の位置はさっきと全く変わっていない。

 杉浦は建屋をじっと見ていた。

 正々堂々と入るか・・・十二氏会九位の権限でどこまで押せるかだが・・・。

 壁の高さは二メートル強ってとこか。高圧電線も引いてある。監視カメラもあるのか・・ ・。

 杉浦は決めた。

「行こう。正々堂々と入る。これでも僕は凛の民の最高意思決定機構のメンバーだからね、きっと通してくれるさ」

 大木に杉浦はそう言って、門の方に向かって歩いた。

 そして凛の君にこの建屋に入ることを希望している者がいるという報告が入った。凛の君は階下に下りた。少し慌てて降りているようにも見える。

 待っていた客が来た。

 凛の君は玄関を出て、石畳を少し歩いて止まった。そこから先は数段の下り階段となっており、その階段が終わると再び門まで石畳が続いている。門までの距離は、おおよそ二十メートルといったところか。

 慌てて側近たちは門に対して前と横に凛の君を護衛する位置に立った。

「開けよ!」

 凛の君の声が響き渡った。威厳のある天からの声のようだ。

 そしてその声に応じて、高さ三メートル強、幅は車三台分はあろうか、巨大な門のシャッターがゆっくり上がってゆく。

 

 

「凛の君、劉前加奈子さんは今ここにいるのではないですか? 誰にも知られず、重度の怪我を治療出来る場所と言えば、この凛の君の専用病院しかないはずです」

 杉浦は主君である凛の君を強い口調で問いただした。

 凛の君は数段、階段の高い位置からその質問を黙って聞いていた。距離にして五メートル位だろうか。

 凛の君の服装は紺のスーツ姿だった。何処にでもいるOLにも見えたが、持って生まれた気品はそれとは段違いだった。

 確かにあのときの女性だ。それにしても、この場所に凛の君が居ようとは・・・。

 杉浦は少しの気後れを感じていたが、それ以上に彼の正義感が勝っていた。

 重症患者を十分な手当をしないまま、他の病院に転院させるという行為は、とても認められることではない。出来ればその行為の理由も問い詰めたかった。

「ふふ・・・ははは」

 凛の君は、杉浦の実直な言い様を吹き出したように笑った。大木はその様子を見て、昨日の挑発的な態度だった凛の君を思い出した。それは不快なもので、気分が悪くなるものだった。

 わざとやっているのだろうか・・・?

 杉浦も凛の君の仕草に不快を感じていた。

「私は医師として、劉前さんが重度の怪我をしているのに関わらず、転院を許してしまったことを今でも後悔しています。一刻の猶予もなしに頭蓋骨骨折の手術をすべき状態だった。あなたの反対を無視してでも手術を行うべきだった。転院を許すべきではなかったんだ」

 杉浦はそう言って凛の君を見た。凛の君を批判したのだ。

 その様子を見て凛の君はおかしそうにくすくすと笑って

「機嫌を損ねちゃったのかしら? 杉浦九位はまじめなのね」

と言った。

「な・・・」

 杉浦にはこの女性の感覚が分からなかった。そして、人の意見を聞かず、人の気持ちを思いやれないこの人間が、凛の民の皇帝とは認めたくなかった。杉浦が思う主君の像とは全くかけ離れている。

 だが自分は十二氏会の一員だ。どんな人間であっても、どんな境遇となっても、凛の君を裏切ることはできない。先祖の代から千年もそうしてきたのだから・・・。

 杉浦は怒りを抑えた。

「凛の君、もう一度聞きます。劉前加奈子さんはここに居ますね」

 同時に大木も口を開いた。

「劉前加奈子さんは、僕にとってとても、そして何よりも大切な友達です。お願いします。ここに居るんだったら会わせて下さい」

 そう言って凛の君に深く頭を下げた。

 くすっと笑い声が聞える。

「彼女って言えばいいのに。高校生は純情でいいわ」

 そう言って、凛の君はまたくすっと笑った。大木はその様子に一瞬にして腹が立ち、自分を抑えきれないと思った。

 大木は我慢している様子を周りに気づかれないようにしていたが、こぶしを強く握っている手を凛の君に見られていた。

「ふん」

 凛の君はそう言った。

「劉前加奈子は何処にも行っていないわ」

 大木は驚いて杉浦の顔を見た。

 杉浦は即座に反応した。

「どういうことですか? 凛の君ご自身が、強制的に彼女の転院を進めて、何処かに転院させてしまいましたよね? 結果、こっちは居場所が分からず、彼女の容態どころか、生死の安否すら分かっていないんですよ?」

 杉浦にはこの目の前の女性が嘘をついている理由が理解できなかった。気が狂っているのではないかとも思った。

「ねえ、人の記憶ってどう思う?」

 凛の君の人をからかう調子は変わらず、大木は昨晩の不快感をそのまま思い出した。

「は?」

 杉浦は思わず返事をしてしまったが、もう会話をしたくない気持ちになっていた。いらだちも、どうしようもない程大きくなってしまっている。

「人の行動って過去の記憶に基づいて動いていると思うけど、それって本当に正しい記憶なのかしら?」

「・・・何が言いたいんです?」

 杉浦は怒りをどうにか抑えて言った。凛の君は大木と杉浦の表情を見ながら、言葉を続けた。

「劉前加奈子は転院なんかしていなかった」

「ばかな・・・私には救急車を見送った記憶がはっきりある!」

 杉浦は堪らず大声を上げて反応した。

 何を言っているんだ。この人は・・・。

「ふふふ・・・」

 凛の君は杉浦の反応を楽しむかのように小さく笑っていたが、次第に大きな笑いに変わる。杉浦はむかっとしたが、それと同時に冷静に戻るように務めた。

「記憶の種類っていろいろあるのよね。短時間しか覚えていない即時記憶、二年程度まで覚えている近時記憶、そして長期に記憶される遠隔記憶、とかね」

「だから、どうしたと言うのですか?」

 もう話を逸らされるのはたくさんだった。強い口調で返答したが、凛の君はそういった様子を気にもかけず、話し続けた。

「即時記憶から近時記憶に移る段階で、記憶の信号は大脳皮質前頭野から海馬に移り、近時記憶から遠隔記憶に移る段階で、記憶の信号は大脳皮質に移る・・・」

 そこで凛の君が黙った。そしてゆっくり目を閉じた。

 風が左から右に流れる。春らしい暖かでやさしい風だった。凛の君の長い黒髪がゆらゆらと揺れている。

 凛の君は目を閉じたまま静かに立ち、春の風を楽しんでいるかのように微笑んでいた。彼女はゆっくりと目を開けた。

 突然、周囲から側近の姿が消えて、風景も消え、そして周りは全て白い世界となり、凛の君、杉浦、大木の三人だけになった。

 音もなにもしない、距離感も分からない白い世界・・・大木はこの白い世界への変化様子を前にも感じたことがあると思っていた。

 あの緑の世界の感覚に似ている・・・。

 ただ色が違う。今居る空間は白い空間で、緑の色の空間ではない・・・。

「この白い世界はいったい・・・」

 大木はそう呟いた。

 不思議なことにその中で緑の色だけが認識できている。

 求める答えは凛の君が持っているはずだ。

 すぐに顔を凛の君の方向に向け、

「この白い世界はいったいなんなんですか?」

と聞いた。

 杉浦も驚いた様子だった。

「これが私の力・・・」

 凛の君はそう呟いた。

「つまりは杉浦九位、私があなたの記憶を改ざんしたのよ」

 それはまるで罪を告発するような、沈んだ重い口調だった。

「改ざん・・・まさか」

「そう改ざんしたのよ。この私が」

 凛の君の顔に表情がなく、氷のように冷たい雰囲気だった。

「いや・・・私は確かに・・・救急車を見送って・・・それにこの白い世界はいったいなんだ・・・」

 思い出してきた。

「そうだ・・・違う・・・」

 大木は記憶が修正されてゆく感覚を感じ始めていた。崩れたブロックが元の位置を取り戻すような、そんな感じだ。

「僕が・・・手術をした。大木君が尋ねて来た後、右手首の骨折手術を行った記憶がある。あれは彼女の手術だったんだ・・・別人の名前になっていた。僕が変えたんだ」

 急に頭痛がしてきた。呼吸をするが苦しい。

「右手首の骨折?」

 大木は聞きなおした。

 杉浦は肩で呼吸をしている。今にでも倒れてしまうのではないかと大木は思った。杉浦は苦しそうに凛の君を見た。

「思い出した・・・あなたと会話して、これと同じ白い世界が来て記憶が変わった・・・彼女の怪我は頭蓋骨骨折なんかじゃない、頭皮の切り傷と右手首の骨折だ。意識は戻っていないが、命に別状はない。彼女は別人の名であの病院に入院している・・・」

 杉浦は一呼吸置いた。立っているのも辛そうだった。

 記憶を取り戻した反動なのだろうか?

 そう大木は思った。

「そうだ・・・劉前加奈子さんは立原中央病院に居る」

「それは本当ですか?」

 大木の声は驚きでうわずっている。杉浦が弱々しく頷いた。

 凛の君はその美しい顔の表情を変えることなく、杉浦と大木の会話を聞いていた。やがて静かに目を閉じる。その目を開くと、白の世界が一気に元の風景となり、世界に色が戻っていった。

 波が一気に引いてゆく、そんな感覚に近いかもしれない。周りは再び元の石畳の風景に戻った。緩やかな風も戻っている。

 大木は聞いた。

「記憶の改ざんって・・・いったいどういうことなんですか?」 

 凛の君は大木の問いに返事をしなかった。風に髪をなびかせながら、階段の高段から大木を見下すように見ている。顔の表情からは何も読み取ることはできない。

 大木がもう一度同じ質問をしようとしたとき、凛の君が 

「あなたはさっきの白い世界で色が見えていたわね」

と突然そう質問した。その声は重々しく、大木を後ずさりさせた。

 緑色を認識していたことを何故知っているんだ・・・?

 大木はそう思った。怖くなった。

 だが、尋問のようなこの質問に答えたくない気持ちがあった。

「僕の質問に答えてください」

 その言葉に反応して、凛の君は階段からゆっくり降り、大木のすぐ傍に来た。

「質問に答えなさい」

 凛の君の口調は更に強くなっている。威圧するような言い方だった。

 大木は答えなかった。

 大木は他人の質問には答えず、自分の質問には答えさせようとするこの目の前の人間が嫌だった。

 凛の君の視線は鋭く、殺気のようなものまで感じる。大木はその視線の鋭さに耐えかね、一瞬凛の君から目を逸らした。そして再び凛の君に視線を戻そうとしたとき、大木は右側の顔に何か強い衝撃を突然感じた。頬に重く鈍い痛みが襲ってくる。よろけて石畳に倒れた。

 殴られた?・・・。

 凛の君は大木を一瞥して言った。

「大木君だったかしら、あなたと私とで身分の差があることを認識したらどうなの?」

 その言葉が合図のようにスーツを着た側近たちが大木をすばやく取り囲んだ。そして大木は腕を掴まれ、自由を奪れ、三人がかりで硬い石畳に押さえつけられた。それは彼の自尊心を傷つけるには十分な行為だった。

「くそおおお」

 叫び声を上げ、抵抗した。怒りで支配されてゆく。大木の視界にぼんやりとした緑色の領域が広がってきた。白と黒しかなかった世界が徐々に緑に染まってゆく。

 大木が抑えられ、我を忘れ暴れている様子を見て、杉浦はまずいと思った。大きく、そして叫ぶような声を発した。

「待ってください! 彼をこのまま解放してくれませんか? お願いします!」

 はっとして凛の君は杉浦を見た。

「彼をここに連れてきたのは私の責任です! 処罰は私が受けます!」

 杉浦はスーツの男たちに割り込み、凛の君に懇願するように言った。男たちは凛の民九位である杉浦のその行動に度惑いを感じている様子だった。

 我を忘れ、怒りに任せて抵抗していた大木だったが、そのとき確かに杉浦の声を聞いた。その声に引き戻され、彼は徐々に冷静さを取り戻していった。

 凛の君は下唇を噛んだ。何か考えているような素振りを見せた後、言った。

「その若者を放しなさい」

 その命令でスーツ姿の側近たちは大木の手を離したが、大木を囲んだままだ。その中で大木はゆっくり立ち上がった。

「出て行きなさい。そして杉浦九位、あなたにはここに残りなさい」

 大木は驚いて杉浦を見た。杉浦は頷いた。

「大丈夫だ」

 杉浦は大木を安心させるように笑顔でそう答えた。

 

 

 さっき蹴られた背中がまだ痛む。

 春川たちは背中で手を縛られ、市役所最上階の会議室の床に転がっていた。

 春川たち四条電機のスキー部のメンバーを人質呼ばわりした茶髪でスーツ姿の若い男たちは、携帯のツイッターに書き込みをするのに夢中になっている。彼らの話の内容から察するに、春川たちの身柄を拘束したことを自慢げに書いている様子だった。

 更に大声で話続ける彼らの言葉から、既に独立運動は始まっていて、立原城の爆破はその狼煙に過ぎないということ、市役所、及び議会の占領は完了しているということ、警察と陸上自衛隊駐屯地にデモ隊が繰り出す予定になっていることなどが分かってきた。

「俺らすごくね。市役所も占拠したし、人質も確保したしな」

 そして書き込みをして彼らは騒ぎ、また書き込みをしては騒いでいた。まるでゲームの得点を稼いで喜んでいる子供のように見える。

 春川はそれを不快に思った。

 こんな馬鹿な連中に振り回されているのかと思うと腹が立っていた。犬山を襲った連中もこんな奴らだったのかと思うと、もはや怒りを抑える自信が持てなかった。

「犬山さんを拉致したのもお前らなのか?」

 春川はついそう口走った。

「ああ?」

「犬山さんを拉致して、弁護士一家の死体遺棄の犯人に仕立て上げたのもお前らなのかと聞いている」

 若い男の一人が春川のところにやってきた。

「何言ってんだ? お前?」

 男は春川の背中を蹴り上げた。

「何言ってんだ? お前、何言ってんだ? お前?」

 男は蹴り続けていた。

 痛みで呼吸が苦しい。咳き込んだ。

「あの来たり者は大切な我々の仲間たちを殺したんだぞ! 何言ってんだ? お前?」

 会議室のドアを勢い良く開ける音が鳴った。数人の人間が入ってくる気配を感じた。

「何やってるんだ?」

 即座に春川への暴行を咎める声が飛び、若者は慌てて春川から離れた。会話をしている内容から、この新しい客人たちは彼らの上官のようだった。その一人が春川のところで立ち止まり、春川を上から見ている。

 春川はゆっくりとその人間を見上げた。目の細い初老の男が春川を眺めている。白いシャツ、ノーネクタイの姿だ。

「君が春川選手か・・・」

 その初老の男は愉快そうに言った。春川は何か違和感を覚えた。日本語の発音がどこか変に思えたのだ。それは本当にわずかな違和感だったのだが。

 春川は返事をしなかった。

「私の息子もスキーをやっているのでね。あなたに興味があった訳です」

 そう付け加えて大声で笑った。

「あなた方には、これから立原中央病院に移って頂きます。なにしろ独立運動を成功させるための大切なお客様ですからね。それにここでは十分なおもてなしも出来ませんから」

 床に転がっている、春川をはじめとした四条電機のスキー部のメンバーにそう伝えた。 

 周りから大木たちを嘲るような笑いが聞えてくる。

 くそっ。

 人をゴミのように扱っておいて、もてなしとはいったいどういう言い草だ。

 その初老の男の名は楊と言った。大陸から派遣された軍人で、階級は准将だった。背の高い、目つきの鋭い男だった。

「そろそろだな」

 楊はそう言って、爆破で崩れ去った立原城天守を見た。上手く崩れなかった小天守を爆破するように指示していたのだ。

 その崩れる瞬間を今か今かと待っていた。

 その男は大陸から派遣された、今回の凛の民の独立運動を総指揮する人間でもあった。

 

 

 その女子の右手首は石膏で固められていた。骨折の手術をした後のようだ。彼女は病院の個室のベッドで寝ていた。左腕には点滴が繋がれ、一滴一滴しづくが落ちてゆく。

 彼女は昨日の夕方に交通事故に合い、右手を骨折し、頭に三センチ程の切り傷を負った。頭の傷は血が想像以上に出る。血圧が下がったためか、事故の衝撃のためか、その少女は事故以来意識が戻っていない。

 四階の病室の窓からは、完全に爆破された立原城の天守と小天守の残骸が見える。もう土埃はすっかり消え去っていた。

 時間を置いた二回の爆発でも、彼女を目覚めさせることはできなかった。そして誰もこの病室に来た気配はない。

 白い静かな病室だった。

  

 

 杉浦は凛の君の執務室につれて行かれ、広い部屋に凛の君と二人だけになった。

 窓のカーテンは閉じられ、電気は点けられず、部屋は薄暗い。

 部屋の壁の本棚には無数の本が納められ、窓側には大きな執務用の机、中心には応接用のソファとテーブルが置かれてあった。

 凛の君は机の椅子に座り、目を閉じている。杉浦は机の前に立ち、凛の君の出方を待っていた。

 しばらくの時間が流れ、凛の君はようやく目を開けた。その瞬間に白く雲のようなものが凛の君を囲み、やがて、白い龍のような存在が二匹現れ、凛の君を守るように左右の位置をとった。長さ三メートルはあるだろう。

「な・・・」

 杉浦は恐怖を感じた。

 あれは何だ・・・。

「これが私の力よ。杉浦九位」

「・・・」

 何を言っているんだ・・・。

 現実のものとは思えなかった。後ずさりをした。

「大木君も私と同じ力を持っているわ」

 それは呟くような声だった。

「私が見ている色をひたすら食べている存在が私の中に居る・・・その存在の力を私は利用し、これまで使ってきた」

「そんな・・・」

「信じられないとは言わせないわ・・・今あなたが見ているもの、感じているものはいったい何?」

 白い龍がゆっくりと杉浦に近づいてくる。触ってみた。見た感じは雲のようだったが、氷のように冷たく硬い。

 杉浦は驚いたように自分の手を見た。そして凛の君の顔を見る。

「私の目も大木君と同じように色を感じることは出来ないわ。ずっと白と黒の世界に住んでいる・・・」

 凛の君は寂しげに笑った。

「どういうことです? 白と黒の世界っていったい・・・それに大木君って」

「九歳のとき、いきなり色が見分けられなくなって、パニックになったわ・・・悪魔憑きのようなものではないかしら。それも色をひたすら食べている変な悪魔・・・」

 凛の君はくすっと笑った。

 いきなり風が舞い上がり、巨大な龍のような生き物は消え、何処にもその痕跡は見当たらない。

 白昼夢を見ている気分だ。

「外に出るのが苦しいみたいね・・・」

 そう呟く声が杉浦には聞こえた。

「大木君には私と同じ力があるわ。色をひたすら食べている生き物が彼の中にもいる」

「・・・」

 杉浦は唖然としていた。

 凛の君は、杉浦の様子に構わず、机にあったノートパソコンを開き、その画面をプロジェクターで映し出した。楊准将が作った独立運動の工程表だ。

「これ、既にこの通りではないわ」

「でも、立原城の爆破、ツイッターでの情報操作は予定通りでしたが・・・」

 杉浦ははっとして携帯の画面を開いた。そしてツイッターを通して今の状況を確認した。

 夕方占拠する予定だった市役所は、昼を過ぎているこの時間でもう完了している。

 画面には立原中央病院の文字が躍っていた。立原中央病院に独立運動の本部を置き、警察、陸上自衛隊の駐屯地の連中をデモ隊で囲み、投降させる。その後市境を封鎖するとあった。

「予定が半日早まっている・・・それに独立運動の本部は、凛宗総本山だったはず」

 大木君が危ない・・・立原中央病院に向かっているはずだ。

「凛の君、これはどういうことですか?」

「さあ? 楊准将が計画を変えたみたいね。病院は攻撃を受けにくいとでも考えたのかしら。それとも私がいる総本山ではやりにくいとでも思ったのかも」

 凛の君はそう答えた

「大木君は今病院に向かっているんですよ。このままでは危険に巻き込まれてしまう・・・」

 凛の民は焦る杉浦を一瞥したが、それには答えず、

「さっき・・・」

と言って、凛の君は杉浦を見て黙った。

「大木君は怒りに身を任せていたわ。もう少しで彼の力が発動するはずだったのに・・・」 

 深い溜息が聞こえた。

「杉浦九位の大木君をかばう気持ちが、大木君を正気に戻してしまったのよ。彼の力が発動すれば、病院で発生するだろう危険なんて、たいしたことではないわ。そしてそれ以上のことも望める・・・」

「突然何の話を・・・」

 杉浦は話の内容が理解できなかった。

「私はこのばかげた独立運動を止めたい。このままでは日本との戦争が始まってしまうわ。これは大陸の代理戦争なのよ。多くの命が犠牲になるわ」

 凛の君の様子は今までの印象とは違う。気ままで高圧的な様子はない。

「大陸の本当の狙いは内戦による日本の国力低下と、先の大戦で焦土とさせられた日本への復讐なのよ! 凛の民を救うことなんかじゃない!」

「な・・・」

 それは本当のことなのか?

 いや、十分にありうる・・・。

 杉浦はこの独立運動での大陸側の計画を思い出した。明後日には立原駐屯地の兵力を使って武力行使を行う計画が含まれている。そのときの日本側の行動予想は退却となっていたが、それはこちらに都合の良すぎる想定だ。

 そして凛の君は一呼吸を置いた。

「私の能力はもうそんなには使えない・・・私の中の存在はもうすぐ消滅してしまうだろう。でも大木君の力が発動すれば、このレミングの大群のような狂気の行動は収束できるかもしれないわ」

「大木君の力って・・・何をするつもりですか? さっきの龍のような生き物で、独立運動に参加している人間を全て粛清するとでも言っているのですか?」

 杉浦はそう聞いた。

 あの巨大な白い龍のような生き物が暴れる様子を想像するのは避けたかった。恐ろしい結果しか待っていないような気がしたのだ。

「でも彼はまだ力を発動していない・・・だから・・・」

 凛の君の表情が暗くなり、そして黙り込んだ。

「だから・・・何です?」

 嫌な予感がする。杉浦は凛の君を見て、その顔の表情から何かを読み取ろうとした。

 分からない・・・全てが分からない。凛の君の力・・・大木君にあるとしている力、そしてこれから凛の君がしようとしていること・・・。

 凛の君はそれきり何も話さない。

沈んだ表情のままだった。

 

 

 空に雲が出てきた。雨雲のようだ。これから少し雨が降るのかもしれない。風が少し強くなってきている。

 大木は速足で歩いていた。

 追放されるように凛の君の専用病院を出てから、大木は中央病院に向かっていた。

 加奈子に会うためだった。

 外の世界はつい二時間前とは大きく変わっている。道には数人の集団が幾つも目につく。携帯を見る集団、急ぎ足で歩く集団、相談をしている集団。そして凛宗の総本山の方向に向かっている人間たち。

 大木は爆破で崩れ去った城の方角を見た。無残な残骸が見える。

「独立ための狼煙か・・・」

 そう呟き、大木は走り出した。

 風は強くなってきていたが、雨はまだ降っていない。

 二十分は走っただろうか、彼は立原中央病院に着き、そして敷地内の人が多くなっていることに気づいた。駐車場や病院の広大な庭、至るところに人が居る。病院の建屋に入るには彼らの前を必ず通るような配置だ。

 大木がその横を通り過ぎるたびに彼らからの視線を感じた。人を観察するような嫌な視線だった。

 彼らは民族意識の高い人間だった。今朝、爆発音と共に立原城天守が崩れてゆく様子を見て、本当に興奮した。千年来の念願がやっとかなうと思ったのだ。

 夢が現実のものになる! 

 独立運動が今日始まるということは、民族保存会の青年部を通して前もって聞いていた。彼らは爆破があった後、凛宗総本山に集まり、自分の担当を確認し、今この場所の警備についている。他には、警察、自衛隊駐屯地へのデモにアサインされる者、既に占拠した市役所や議会の警備にアサインされる者、立原中央病院に派遣される者がいた。

 いよいよ凛の民が主導権を握るのだ。

 彼らには全体像は見えていなかったが、彼らの嫌いな来たり者対し、何か起きる、もしくは既に起きているかと思うと、どうにも興奮が止まなかった。

 だが、まだ行動する時間ではなかった。彼らは病院の建屋に入ってゆく大木を黙って見ていた。

 罵る声が後ろから聞こえてきた。

「てめー離せー」

 来たり者が護送されてきたのだ。来たり者リストの上位の人間が捕まえられ、ここに運ばれてきている。

 大木は大声のした方向を見たが、状況を把握できず、結局、人だかりを気味悪く感じるだけだった。大木は病院に入り、目を閉じた。

 加奈子と自分との繋がりを信じる。そうすればきっと・・・。

 細くかすかな緑の線が見えてきた。

 やった・・・。

 だが、その緑の色は頼りなくすぐにでも消えそうな感じだ。その緑の線に強く招かれているような気がする。大木は緑の線に引かれるがまま、廊下を歩き、階段を上り、その残像を辿った。

 病院内は物音一つせず、人も殆ど見当たらない。気味の悪い空間になっていた。だが人の気配はある。視線を感じていた。それは病室からであったり、ナースセンターからのものだった。

 そして大木は緑の線に引かれ、三階の病室の前に立った。ドアをノックしたが、中からは何も反応がない。病室の名札を確認したが、加奈子の名前ではなかった。

 もう一度ノックした。

 反応はない。迷ったが目を閉じると緑の線はやはりここに繋がっている。大木はゆっくりとドアを開け、静かに部屋に入った。

 髪の長い女性がベッドで半身を起した格好で窓から外を眺めていた。頭には傷の処置のためのネットを被っている。

「凛の君・・・」

 大木は思わず呟いた。

 その女性は大木の声に反応して、ゆっくり振り返る。

 表情が硬く、暗い。そして何よりも全ての気力が奪われてしまっているように見えた。

 加奈子だった・・・その女性は加奈子だった。

 大木は力が抜けてゆく感覚を覚えた。

「劉前さん・・・」 

 やっと加奈子に会えたことにほっとし、安心して泣きそうになった。

「大木君・・・」

 大木を認めた加奈子は喜びの表情を浮かべたが、すぐに不安で悲しげな表情に戻った。

「私、事故に合ったみたい・・・」

「知っている・・・ずっと探してたんだ。劉前さんの入院している病院が分からなくて、今やっと会えた・・・時間が掛かってごめん」

 大木の謝罪に加奈子は首を横に振る。そして言った。

「今はいつ・・・なのかな・・・」

「劉前さんが事故にあったのが昨日で、今は昼の二時過ぎかな」

「そうなんだ・・・」

 加奈子はうつむいてそう答えた。暗い表情のままだった。

「どこか痛む? 先生を呼ぼうか?」

「ううん、大丈夫」

 病室には何もない。花もなく、加奈子の着替えや、コップ、歯ブラシなどもなかった。まるで誰も見舞いに来ていない様に見えた。

 家族は入院先を知らないのだろうか? 

 大木は昨晩の出来事を思い出していた。

 あの日の夜・・・劉前さんの家には誰も居なかった。何か変だ・・・まるで劉前さんの家族が消えてしまったかのように思える。

 それに劉前さんの様子も変だ。気力がないというか、表情がない。全てを根こそぎ取られてしまった・・・そんな感じだ。

 病室は静かな空間が続いていた。

 大木は突然話し出した。自分でもよく分からない衝動からのものだったが、多分、何かを話したいと思ったのだ。

「劉前さん、僕、子供の時はまだ色が見えていてさ・・・」

 妙に明るい調子で、場違いな元気な声だった。加奈子は大木の様子に少し驚いていたが、黙って大木の話を聞いていた。

 窓から見える薄暗い雲々は、早い速度で流れてゆく。風も少し出ているようだ。

「だから、色を判別できなくなったときは混乱して、生きてゆく自信すらなくなってしまったんだ・・・」

 加奈子は静かに大木の話を聞いていた。

「でも、結局僕を救ってくれたのはスキーで・・・」

 大木は一旦言葉を止めた。

 僕はいったい何を話そうとしているんだ・・・。

 そう思った矢先に大木の目から幾筋もの涙がこぼれ落ちた。

 駄目だ・・・もう駄目だ。

「犬山さんが・・・犬山さんが亡くなってしまったんだ。凛の民の独立派によって・・・」

 我慢していたことが、溢れてきた。加奈子の表情は驚いたものになった。そして怪我のしていない左手で、口を覆った。

「僕がスキー連盟に出場資格の件でストレスを掛けられ、落ち込んでいるときも、成績が出ずに自信を失っているときも、犬山さんはいつも励ましてくれた・・・」

 そして彼は悲痛な声で泣き始めた。

「それなのに犬山さんは・・・犬山さんは・・・」

 大木は泣き続けた。

 切なさを感じた。

 加奈子は、黙って怪我のしていない左手で大木を引き寄せ、そして強く彼を抱き締めた。

「大木君・・・」

 彼女はそう呟いた。

「僕は・・・僕は・・・」

 大木の声は悲しみに溢れていた。

 窓から見える外の世界は、今にも雨が降りそうだ。雲が風に流され、形を変え、彼方に移動してゆくのが見える。

 昼前の穏やかな天気はいったい何処に行ってしまったのだろう。天気は急速に悪化している。空は薄暗い雲に占められていた。

 これから大雨が降るかもしれない・・・。

 この街に居る多くの人間が空を見上げそう思っていた。


   

 楊准将は車の後部座席で目を閉じていた。

 士官学校を卒業し、その能力の高さから誰よりも早く大佐まで駆け上がった。若いときの彼には、自分の能力に絶対的な自信があった。そしてそれを裏付けるように、四十歳過ぎに南方との紛争で功績を上げ、准将に昇格した。

 だがそれっきりだった。

 彼の所属していた派閥は、領袖の退官と共に解散状態になり、その後、彼は北部の国境警備に転勤となった。

 北の駐屯地での生活は辛い思い出しかない。寒さに加え、近くに村もなく、家族も呼び寄せられず、そこはまるで罪人を収容する監獄のようだった。功績を挙げようもなく、昇進も当然なかった。

「おおーん」

 北の地の住む狼が夜になると鳴いていた。

 気がふれておかしくなる者が、年に二人は出る。楊自身も正常でいるのが難しく感じられるときがあった。自分自身の自信が全て根こそぎ取られてゆく感覚に襲われるのだ。

 最後は自分の能力が誰にも必要とされず、評価されていないと思うようになっていた。

 十年がそうやって消費された。

そして楊の退官があと数年と近づいたある日突然、日本で凛の民の独立を指揮するよう辞令が下ったのだ。

 失敗はできない・・・。

 楊准将は目を開け、そう思った。楊は北の地で失った自分自身への絶対的な信頼をもう一度裏付けしたかった。自分の能力の高さを証明したかったのだ。自信を取り戻したかった。今回の作戦は自分自身の存在意義が掛かっているとまで考えていた。

 やがて楊の乗っている車が立原中央病院に着いた。

「人質はどうなっている?」

 車の助手席に座っていた李中佐に聞いた。

「この後すぐに到着します。彼らは第二大会議室に移動させる予定になっています。それと別件ですが・・・」

 李は少し躊躇ったが、言葉を続けた。

「K大学の月岡教授ですが、報酬の金額の上乗せを要求しています。今朝連絡が入り、そう言ってきました」

 実際、李中佐は月岡の対応に少し手を焼きはじめていた。報酬の追加の要求は今回だけではなかったからだ。あのしつこい口調も嫌いだった。

「要求するだけ払ってやれ。彼は祖国である日本国を裏切ってまで、凛の民の独立を扇動しているのだからな」

 楊はなんでもないことのように答えた。

 折込み済みだ。そもそも正義感の強い人間がこんな祖国を売るようなことはしない。月岡はそういう人間だからこそ、こちらの望むことをしているのだ。

「それと、そろそろ小野副駐屯地長に国道の閉鎖を行うよう伝えておけ。あくまでも市民デモの意思に答えるという形で芝居をさせるのだぞ」

「警察の担当分はどうしますか?」

「時間的にはもういいだろう。行動基準通り、県道と港を閉鎖するように伝えろ」

「分かりました」

 李がそう答えるのを見て楊は車から降りた。

 楊准将に反感を持っている凛の民は大勢いたが、独立後の大陸側への支援の期待から、誰も彼には逆らうことはない。

 独立へのプロセスはトラブルなく上手くいっている。

 楊は崩れさった山の上の立原城天守跡を仰ぎ見た。天守が消え去った効果は絶大だった。

 私が指揮をしているからこそ上手くいっているのだ。イメージ通りだ。

 楊は上機嫌になっていた。愉快な気分になっていた。 

 国債だらけで人口は減少し続け、それでいて政争に明け暮れる日本を見捨て、独立を求める声はこのK地方で大幅に伸びている。凛の民を嫌う者、大陸を嫌う者の存在が最大の懸念だったが、月岡教授の扇動が上手くいったようだ。

 明後日、立原の自衛隊駐屯地から本土の複数の駐屯地に先制攻撃を掛け、その後に独立宣言。この不意打ちによる勝利により、K地方の各地の意見を一気に独立に傾ける。

 いい計画じゃないか。失敗しても内戦を起こすことが出来る。もともとはそれが目的だから、どっちに転がっても上出来だ。

「くっくっ」

 楊から笑いが漏れた。

 凛の民をパイプとして、国力のある大陸と共存可能な独立国家を打ち立てる、それが売り文句だ。

「その程度の餌で食いつく魚がいるとはな」

 小声でそう呟いた。

 楊は独立本部となる病院の研修ホールに向かった。既に何台ものPCが持ち込まれており、総本山、自衛隊、警察とはLANで繋げ、情報の共有が瞬時にできるようになっていた。

 楊は満足そうだった。

 だが、ふと・・・。

 その声、もしくは音が聞こえた。

 楊は病院の廊下で動物のうなり声を聞いたような気がした。北の地で何回も何回も聞いたあの狼の声に似ている。

 彼らの足音も聞こえてくる。

 楊はびくっとして立ち止まった。

 途端に顔色が悪くなった。

 自分の手が震えている。

 震えが止まらない。

 気のせいかもしれないし、本当に聞こえたのかもしれない。彼はまだ過去に囚われていて、彼らを恐れていた。

 何に怯えていると言うのだ。何に恐れているというのだ。

 楊は怒り、辺りを見渡した。

 あの頃の自分には戻りたくない。見放され、忘れ去られ、必要とされないあの頃の自分には・・・。

 そう自分に言い聞かせ、唇を噛み、彼は自身の正気を必死で取り戻そうとしていた。

  

 

「落ちついた? 大木君」

 加奈子は大木にそう言った。大木は床に膝をつき、病室のベッドに座る加奈子の膝にうつ伏せていた。ずっとそこで泣いていたのだ。

 大木は彼女の膝の上で頷いた。

「うん・・・ありがとう・・・」

 大木は身を起こし、立ち上がった。

 加奈子の顔を見た。彼女の表情は暗いままだった。

 やはり何かあったんだ。

 それなのに泣きまくって、いったい僕は何をやっているんだ。

 自分に腹が立った。

 彼女のことを何も考えることができず、彼女のために何もしていない自分に腹が立って仕方がなかった。

「劉前さん、ごめん」

 彼はそう言った。

「ううん・・・」

 加奈子は首を横に振った。

「劉前さん、何か・・・」

 そう言いかけたとき、大木の携帯が鳴った。

 田沢だった。

 携帯は鳴り続ける。

 大木はとても電話に出る気にはなれない。

「大木君、電話が鳴ってる・・・多分、出た方がいいわ」

 加奈子はそんなことを言って、かすかに微笑んだ。

 無理をしている・・・。

 大木は頷き、電話に出た。

「大木君、今何処にいるんだ?」

 田沢の焦った声がした。

「今、立原中央病院ですが・・・」

「な・・・」

 それを聞いて、田沢は明らかに驚いている様子だった。

「何でそんなところに・・・」

「行方が分からなかった知り合いは、結局、立原中央病院に搬送されていて・・・」

 経緯を話してもおそらくは理解されない。

 大木は躊躇っていた。その様子は電話越しでも分かる。田沢はあえて何も聞かず言った。

「そこ危ないぞ。ネット上の話では、これからそこに凛の民が相当数集まる。そこが独立運動の拠点になるような記述もある。今すぐ逃げて県外に出るんだ」

 時間的には、田沢は特急電車に乗っていてF駅に向かっているはずだった。もう到着する頃だろう。

「・・・本当ですか?」

 大木はそう聞いた。

「ネットは独立運動がらみでお祭り状態だ。各地でデモも始まっている。不思議なことに警察も自衛隊も既に同調している。もう危険だ。大木君、もう危ないんだ!」

 田沢の声からは焦りが感じられる。大木は杉浦の言葉を思い出した。

 あの言葉通り危険が増しているというのか・・・。

「市役所に行った監督や春川さんは無事なんですか?」

 大木は嫌な予感を感じて田沢に聞いた。

「連絡が取れない。だが、ツイッターには人質として彼らの身柄を拘束したという書き込みがあった」

 田沢はそう答えた。

「春川さんたちが人質・・・助けないと」

「いや、とても無理だ。冷たいかもしれないが、今はどうしようもない。脱出してから考えよう。大木君もすぐに立原を出るんだ」

 病院の建屋の外で大きな騒ぎ声が聞こえた。歓声とも言える声だ。大木は外の様子を加奈子の病室の窓から、身を隠し外を覗いた。

 病院の周りに散らばっていた凛の民たちの声だろう。

 凛の民の多くが一箇所に集まっている。その真ん中にはマイクロバスが止まっていた。

 あれはスキー部のバスだ・・・。

「田沢さん・・・居ました」

「何?」

「春川さん、それに監督たちも・・・今、この病院に連れ込まれています・・・」

 そう言葉にしながらも、大木は呆然としていた。

 後ろから手を縛られているのが遠目でも分かる。病院の周りにたむろしていた人間達の中を春川たちは歩かされていた。罪人のような扱いだ。大木はその様子をとても見ていられなかった。

「でも逃げるんだ、大木君!」

 田沢の声は切羽詰っていた。大木は迷った。

 見捨てることなんてできない・・・。

 考え込み、大木は床を見つめ、首を横に振った。

 どうやって助ける・・・どうすればいいんだ・・・。

 そして大木は加奈子に振り返った。大木の動揺が加奈子に伝わってしまったのだろう。加奈子の表情は不安な様子になっている。

 彼女を守らなければ・・・。

 苦渋の決断を迫られていた。おそらく彼は苦渋の決断をしなければならないのだ。

 そして放送が入った。

「院内の人間に通達する」

 威圧的な声だ。

「これより本病院は凛の民の指揮下に入った。来たり者や凛の民を支持できない人間は速やかに退場しなさい。繰り返す・・・」 

 言いようのない不安と動揺が大木に襲い、身の危険を感じた。

 このまま犬山さんのように事件に巻き込まれてしまう。それどころか劉前さんを守りきれないかもしれない。

 唇を強く噛み締めた。

「大木君、今の放送・・・」

 田沢の声だ。

「分かってます・・・すぐに病院を出ます」

 そう田沢に言って電話を切った。

大木は自分に何も出来ないことに怒りを感じた。非力であることを痛感していた。

 大木は加奈子の顔を見た。そして一呼吸して静かに加奈子に言った。

「劉前さん、ここを脱出しよう・・・僕は昨日の晩、凛の皇帝に会った。彼女は君を事故に巻き込んだのは凛の民だと言っていた。凛の民の支配下にあるこの病院はもう危険な場所だ・・・」

 凛の皇帝と聞いたとき加奈子ははっとして大木の顔を見た。表情は暗く、強張っている。

「私は・・・大木君しかもう頼れない・・・」

 加奈子は小さく震えていた。加奈子の様子がおかしいと感じ、凛の皇帝という言葉に反応したときの加奈子の表情も気になった。他にも聞きたいことがあった。

「劉前さん、ご家族はいったい何処に・・・」

 その問いに加奈子の表情が深く沈んでゆく。

「大丈夫・・・大丈夫なの」

 首を大きく横に振り、彼女はそう答えた。何かを否定している様子に見えた。

 どこかで心が痛んだ。今はその質問をしてはいけなかったんだと思った。

 大木は両手で加奈子の左手を握った。

「君を必ず守るから、大丈夫だから・・・」

 大木はそう加奈子に言った。そして強く彼女を抱きしめた。

 彼女を安心させたかった。一時でも早く、不安から彼女を解き放したかった。


 

 凛の君は杉浦を連れて凛の総本山に移動した。

 本来は凛の大祭の前夜祭がこの場所で行われるはずだったが、全くその気配はない。誰も何も用意していない。彼らが準備していたのは全て独立運動のものだけだった。

 立原城の崩壊とツイッターの情報に興奮した凛の民と、彼らに役割と配置を伝える人間で総本山はごった返していた。

「独立と日本に残る・・・どちらが正解なのかしら」

 凛の君はその騒ぎを横目で見ながらそう呟いた。だれも凛の君の存在に気づいていない。そもそも彼らの誰一人、凛の君の顔を知らなかったのだが・・・。

 彼らは君主の顔も知らずに独立運動に参加している。それは凛の民の強力な結集力を示してもいた。彼らにとって凛の君は何よりも大事な心の支えだった。日本という国で差別され、恵まれない境遇にあった彼らは、凛の君を君主とした自分たちの国を千年もの間夢見ながら生きてきたのだ。

 今更、変わることはない・・・。

 杉浦はそう思った。

 凛の君、杉浦の順で後ろに数人の側近が歩く。凛の君は速足で本殿のさらに奥に向かっていた。

「意見が合わなかったというだけで殺された川口弁護士一家、それを公表しようとしたために殺害された関原君・・・そして犯人に仕立て上げられ、劣悪な環境下で命を削らされた犬山さん・・・」

 そう言った杉浦は悔しそうな表情を見せた。

「この独立に大儀はありません・・・川口は僕のいとこでした。そしてその二人の子供たちは本当に小さく、かわいい女の子たちでした。彼らの死がかわいそうでなりません。理不尽過ぎます。僕にはこの独立騒動を決して認めることはできません」

 凛の君が立ち止まった。小さく頷くのが見えた。そして言った。

「でも、私は凛の皇帝として独立は賛成だったわ。我々の歴史を振り返り、我々に人としての権利を回復させるにはそれしかない・・・そう思っていたわ」

 凛の君は振り返って杉浦の顔を見た。

「でも経済、軍事面で凛の民が単独でそれを行うことはありえない。だから大陸からの援助の話があったときは、渡りに船だと思ったわ」

 そしてまた前を向き、ゆっくりと歩き出した。

「独立行動を承認したのは私よ。でも今は後悔している・・・」

 杉浦は黙って凛の君を追った。

「大陸の凛の民が報告してくれた。大陸の目的は凛の民を利用して長期内戦を日本に起こし、国力を削ぎ、先の大戦の報復を日本に行うことだと」

 さっき凛の君が口走ったことか・・・。

「私の民の命を利用して、彼らは自分達の目的を達成しようとしている。独立という目的も達成できず、私の民の命が奪われてゆくことを私は認めることができない」

 大陸に踊らされ、暴走している民族保存会、そしてそれに反対し彼らに殺害された凛の民、実際は独立を望まず、内戦化を意図し画策している大陸・・・。

「今回の騒ぎは私にも責任がある。私にはこの騒ぎを終息させる責任があるわ。犠牲になった者のためにもね・・・」

 凛の君は自分に言い聞かせるようにそう言った。そして歩きながら空を見上げる。今にも雨が降りそうな黒く厚い雲が目に入り、それは凛の君に強い不安を与えた。

 それから凛の君は黙って歩き続けた。誰も話すことはなかった。


 

 大木は加奈子の三階の病室から、カーテンの隙間を使って外を伺った。あの放送が流れてから、病院を出てゆく人間は全く確認できない。病院内は不思議なほど静かだった。

 出口という出口には全て警備の人間が立っている。放送では意見の異なる者は、何の障害もなしに病院を出て行けると言っていたが、この様子ではとても安全に外に出られるとは思えなかった。

 ここに居る人間全員を人質にしようとしているのか・・・?

 大木はそう思った。

 大木は窓のカーテンの隙間をゆっくり閉じ、振り返ると心配そうに大木を見る加奈子と目があった。

「大丈夫だよ」

 大木は軽く頷き、にっこり笑った。だが、実際の彼は不安な感情で一杯だった。売りたいくらいあった。

 それからどのくらい時間が経ったのだろうか、既に大木の腕時計の針は午後の四時をまわろうとしていた。

 脱出チャンスは夜かもしれないな・・・。

 そう考えたときに、外からパンという乾いた音が聞こえた。そしてもう二回、鳴った。

「大木君・・・」

 加奈子が大木にしがみつく。

 拳銃の音・・・中庭からか? 

 大木はカーテンの隙間から再び外を見た。外に出ようとした人間なのだろうか? 一人、腹部を押さえている人間が転がっている。そして走り逃げる人間が、五、六人見えた。それを追う警備担当の凛の民が集まり始めている。

 それを見て大木は決断した。

「今しかない。龍前さん、今からこの病院を出よう」

 大木は加奈子の手を取る。加奈子は震えていたが、しっかりと頷いた。

 人の集まっている場所が出来ているということは、裏を返すと手薄な場所が出来ているということだ。その場所を突けば脱出は可能なはず・・・。

 そして加奈子の薄手の患者衣を見て、大木は自分の着ていたウィンドブレーカーを渡した。

「そのままの格好ではきっと寒い。よかったら、これを着てくれなか?」

「ありがとう・・・」

 加奈子は大木の優しさに触れ、少し落ち着きを取り戻した。右手のギブスが引っかかり、着るには苦労したが、何とか着ることができた。

 そして左手で大木の手を探し、強く握り締めた。

「行こうか」

 大木は加奈子と一緒に病室を出て非常口まで歩いた。重い非常口の扉を開けた瞬間、強い風が吹き抜けた。

 この階段を降りると裏庭に出ることができる。大木は階段から下を覗き込んだ。二人いる警備の男の内、一人が中庭の方に走ってゆくのが見えた。

 相手は一人か・・・倒せるか?

 また中庭の方からパンという音が鳴った。

 残った男は中庭で何が起きているのか、気になって仕方がないように見える。何度か中庭の方に歩き出すが、その度に引き返す仕草を繰り返していた。

 だがその残りの男は、最後は自分の誘惑に勝てなかったのか、やがて中庭の方に走り出した。

 脱出するには今しかない。

「行こう、劉前さん」

 大木はそう言うと、加奈子の手を強く握り締めた。それに答えるように加奈子も強く握り返した。

 二人は非常階段の一段目を降りた。

 カンという音がした。金属が跳ねる音だ。

 大木は立ち止まった。

 そしてまた金属が跳ねる音が聞こえた。

 一気に緊張が増した。大木はゆっくり屋上を見上げた。五、六人の男が、にやにや笑いながら大木達を眺めているのが見えた。一人はパチンコを構えている。さっき足元で鳴ったのはこの音だろう。

「見張りは上にも居るんだぜ」

 その中の一人が言った。

 冷や汗が顎をつたって流れ落ちた。大木は冷静を装って言った。

「この病院を出てゆくんだ。別段、問題ないでしょう?」

 加奈子は大木の後ろで震えている。大木の心臓が大きく高鳴り、止まる気配はない。拳銃から逃げ惑う人間を見たばかりだったこともある。

「こいつ四条電機の高校生モーグラーですよ。人質に加えますか?」

 屋上の人間の一人が言った。だが、嘲笑に似た笑いが男たちに広がってゆく。リーダー的な男がそれに答えた。

「色も分からないような人間は、人質の価値として全くないんじゃないのか?」

 くっくっと笑い声が聞こえた。嫌な笑い方だった。 

 その顔を覚えている。四条電機での歓迎会で犬山と争っていた人間だ。嫌悪感を覚えた。

 どこまで差別が好きなんだ。

 大木はそう思ったと同時に、犬山を拉致した犯人はこの人間ではないだろうかと疑った。

「そして後ろの彼女は劉前加奈子さんか・・・もうニュースでは死んでいるはずなんだよね。重体が長引くと可哀想だと思ってね」

 加奈子はそう言われ、びくっとした。男を恐る恐る大木の影から見た。

 加奈子は血の気が一気に引いてゆく感覚を覚えた。

「大木君、あの右端の中心的な人、私を車で引いた犯人・・・」

 加奈子は小声で震えながら大木に言った。

 犬山を拉致したかもしれない人間、劉前さんを車でひき逃げした男が、今自分たちに害を加えようとしている・・・・。

 怒りはもう抑えられない気がした。

「やっぱり殺すのもったいないな。美人だしな。一発やっとくかあ」

 男はそういうと周りに同意を求めた。加奈子はその言葉で更に恐怖で震えはじめた。

「ふざけるな!」

 大木は叫んだ。

「あははは、冗談、冗談。死んで貰うだけだから」

 それを聞いて、大木は加奈子の左手を強く握り締め、階段を一気に下り始めた。

 くそっ、僕の判断ミスだ・・・。

 階段の上から複数の人間が降りてくる気配がする。鉄階段の響く音が頭上から聞こえる。大木と加奈子は急いで階段を駆け下り、一階に着いた。

「急いで裏庭から外に出よう」

 大木は加奈子の手を引っ張り、走り始めた。

「パン」

 後ろから銃音が聞こえた。

 大木は走り続けようとしたが、加奈子は足がすくみ、しゃがみ、動きを止めてしまった。恐怖で何も出来なくなってしまったのだ。

 大木は振り返った。

 さっきの人間達ではない。別のグループだ。

 大木たちはすぐに囲まれた。さっきの屋上にいた連中も既に階段を降り終わり、大木たちに追いついていた。

「一応、応援を頼んでおいてよかったよ」

 屋上のグループの人間がそう言った。合計で十人以上は居るだろう。二十代と思われる若いリーダー格の人間が部下に命令を下した。

「桂木と向井、劉前加奈子の首を絞めろ。その女が生きていてはつじつまが合わない。お前達には度胸試しでちょうどいいだろう」

「な!」

 大木は一瞬にして怒りで染まっていった。許せないと思った思った瞬間、大木はタックルをくらい、二、三メールの距離を突き飛ばされてしまった。そして二人がかりで押さえつけられ、身動きの自由を奪われた。

 命令された二人の男はまだ中学生のようにも見える。二人は震える加奈子に寄り、一人はすばやく後ろに回り、その両腕を加奈子の背中で拘束した。加奈子は恐怖で抵抗することはなかった。

 一人は持っていたタオルを加奈子の首に回した。躊躇っている様子が見え、手が震えている。

「向井、早くやれ!」

 リーダー格の人間から怒鳴り声が発せられた。その命令を受けた子供は更に震えがひどくなっていった。そして唾を飲み、決心したようにそのタオルの両端を両手で引っ張り、加奈子の首をゆっくり絞め始めた。

「ふざけるなあ」

 大木は叫んだ。

「やめろおお!」

 大木の中で変化が起きた。

 視界が緑になってゆく。

 同時に大木の体は緑の光に包まれていった。その様子に大木を拘束していた二人の男は驚き、思わず手を離した。

 自由の身となった彼はゆっくり立ち上がった。

 突風が大木の足元から吹き、龍のような濃い緑色の生き物が二匹、大木の両隣に現れた。大木の緑の光は消え、彼らは大木の周りを旋回し始めた。

 そしてその緑の生き物は、加奈子を抑え込んでいる二人の子供を見るなり、怒り、威嚇するように吼えた。それは雷のような声だった。

 二人の子供は突然の雷鳴に驚き、動揺した。恐ろしさで逃げることもできない。加奈子の首に手がまわったままだった。

 二匹の龍はすぐに飛び、迫り、その尾で彼らを跳ね飛ばした。

「ぐえっ」

 二人の子供は地面の転がり呻き声が出していたが、すぐにそれも聞こえなくなった。

 現場のリーダー格の男は、予期しない事態に呆然としていた。

 桂木と向井はどうなったんだ? それにあの生き物はいったい・・・。

 それを確認出来ないまま、携帯電話が鳴った。彼は携帯電話に出た。手が震えている。彼は目の前で起こっている事実をすぐにでも相手に報告したかったが、それを言うタイミングが合わない。相手の伝達事項が一方的に伝えられる。

 彼はその内容に驚き頷き、最後に

「分かりました」

とだけ答えた。

 そして静かに大木と加奈子を見た。冷や汗が流れる。

 大木は目の前の敵を睨み付けながら、加奈子のところにゆっくりと近づき、彼女の身を立たせた。そして彼女の服の汚れをはたき、しっかりと抱きしめ、自分達を囲んでいる敵を改めて見渡した。



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