第4章
第四章
犬山の部屋の家宅捜査が行われたのと同じ日、四条電機テクノにも捜査員は来た。彼らは犬山のパソコンと机のもの、ロッカーに入っていたもの全てを押収していった。
加奈子の母親は複雑な気持ちにさせられた。
犬山に死体遺棄の容疑が掛かっているという噂が、社内を飛び交い、犬山に反抗的だったメンバーは一連の様子をにやにやと眺めていた。加奈子の母親はその様子を見て気分が悪くなった。
そして思い出した。かつて自分が犬山の身の安全を心配していたことを。
もしかしたらあの連中が、犬山さんが犯人だという嘘の通報したのではないか?
あの連中は正義も何もない。それどころか、行方が分からないとされている犬山さんの居場所も知っているかもしれない。
「いい気味だぜ、ざまあ見ろ」
彼らは何もなくなった犬山の机にはき捨てるようにそう言った。
この連中は何か知っている。
それは直感だった。とても犬山が死体遺棄の疑いを掛けられるような人間には思えなかった。誰よりも正義感が強く、それは考えられないと思った。
それに最初の犯行とされる事件は、犬山さんが立原に来てからわずか二ヶ月後の事件だ。常識的にありうるだろうか?
「劉前さん、事情聴取、劉前さんの番だよ」
加奈子の母親ははっとして振り返った。
「はい・・・」
そう返事をして、警察の待っている会議室に向かった。警察というだけで無条件に緊張する。次第に手が冷たくなり、感覚がなくなってきた。
自分の感じている違和感を伝えるべきなのだろうか?
自分の意思を決定出来ないまま会議室に入った。待っていたのはスーツ姿の三十歳台の若い男の二人組だった。
「県警の須藤といいます。隣は同じく県警の上田です」
そう言って二人は頭を下げた。少し早口であるのが気になった。
「早速ですが、犬山さんの人なりを教えてください。まあこれまで聞いた限りでは、相当の問題児だったようですが」
そう須藤と名乗った警官が言った。目つきの鋭い人間だ。その言葉を聞いて、加奈子の母親の心に妥協をしてはいけないという思いがよぎった。
「そんなことはありません。犬山主任は正義感が強く、良い方だったと思います」
「そうかなあ、他のメンバーの方は、皆さん否定的な発言ばかりでしたよ」
「犬山主任は東京出身の方だったので、凛の民には反感を持たれやすかったのだと思います」
目の前にいる警官二人は顔を見合わせ、この人は何を言っているのだろうという仕草を見せた。
「凛の民はそんなことで人間を否定しませんよ」
上田と紹介された警官は、そうたしなめるように言った。加奈子の母親はそれに対し、強い声で反論した。
「チームのメンバーは犬山主任に対して、陰湿ないじめを繰り返していました。若いよそ者がリーダーとなっていることが気に食わなかったのでしょう。でも犬山主任は耐えていました」
「違いますね。つい先日は口論になって掴み合いの喧嘩になったと聞いていますよ」
「それこそ違います。口論になってはいましたが、メンバーが一方的に犬山主任を殴っていたというのが本当です」
加奈子の母親は引かなかった。が、上田は加奈子の母親の言葉を鼻で笑った。
「だいたい、大人になってもいじめられるっていうのは、犬山自体にそういう理由があったのではないのですか? まあ凛の民はそんな卑劣なことはしないはずですけどね」
なんなの・・この警察の一方的な見方は。しかも私が言ったことはメモに取らない上、録音もしていない。
この警官たちは信用ができない。
「あなたは凛の民ではないですよね? 本籍はこの立原市になってはいますが」
須藤と名乗った警官はいきなり質問した。眼鏡を掛けたその目は何か観察をするような目つきだった。
加奈子の母親はその質問にぎょっとした。警察が聞くような質問には思えなかったからだった。
「凛の民ではありませんが、凛宗の檀家です。それがなにか?」
自分を抑えて、その意図が分からない質問に答えた。
「ああ、そうでしたか。いや、それだったら構わないんですよ。来たり者は犯罪に手を染める奴も多くて、交通事故もよく起こすのでね・・・」
須藤は机に手を組み、加奈子の母親を正面から見た。そして言った。
「劉前さん、我々は日本に頼らず、日本からの独立を目指した方がいいと思ったことはありませんか?」
突然の、しかも全くの唐突の言葉に加奈子の母親は驚いた。
「何を言っているんです?」
それに対して須藤は落ち着いて答えた。
「凛の民は大陸から来た人間です。その関係を使って、このK地方は日本に頼るのを止め、大陸に帰属した方がいいのではないか、と聞いているのです。日本での我々凛の民の歴史は差別と虐待の歴史でした。特に戦時中は炭鉱、軍需工場などへの強制移動、そして強制労働・・・今はこの四条電機に搾取される構図」
須藤は間を置いた。
何を言っているのかしら・・・。
そう考えていることが顔の表情に表れていた。須藤は加奈子の母親の批判的な反応を見て、軽い溜息をし、突き放すように
「もうご自分のお仕事に戻っていいですよ」
と言った。
メモも録音を取られない事情聴取はいきなりそこで終わった。加奈子の母親は憤慨に似た感情を覚えたが、黙って席を立った。そして部屋から出ようとしたとき、もう一人の警官である上田が発言した。
「いやいや、失礼。我々は今回の事件のように、凛の民の独立運動を阻害するような犯罪に憤りを感じているのですよ。今回の被害者は皆、凛の民の独立を切に願った方々でした。それを来たり者の心無い人間が阻害してしまう・・・それは決して許されることではありません」
加奈子の母親は彼らの発言についていけない気がした。
ここ一昨日のニュースからだ。ここ最近の独立、独立の雰囲気は異常だ。会社でもひそひそと話しているのをよく見る。テレビのローカルニュースも独立を推進する発言が急に多くなっている。
「独立推進派」とされる人間を来たり者の人間が殺し、死体を遺棄したというニュースが火付け役と思われた。
加奈子の母親は溜息をついた。
「例え独立したとしても、経済はどうするのですか? 四条電機だって独立したての国に工場をそのまま置くとは思えませんが」
「月岡先生の本を読んでいないんですか?」
上田はそう返した。ばかにしたような言い方だった。
「月岡先生・・・?」
「K大学経済学部の月岡先生ですよ。現在日本の負債は約九百兆円にもなるのはご存知ですよね。このまま行けば数年で経済破し、IMFの傘下に組まれてしまうかもしれません。そうなれば、所得税、法人税、消費税の税率は今より大幅に上がることになるでしょう」
上田は得意げに語っていた。
「そんなお先真っ暗で、法人税で二十五%も取られる国に未来はありますか? 財政再建も出来ず、ただ終わりを待っている。K地方の人口は約千五百万人いますが、凛の民の割合が多く、このK地方を独立させ、凛の民の国とすれば、負債に恐れる必要のない、健全な国をつくることができるでしょう。凛の民の国ということであれば、大陸からの支援も期待できます」
「そんな・・・」
K地方は凛の民族が多いというだけで日本人は当然多くいる。むしろそっちの方が圧倒的に多い。立原市ならまだしも、そういったK地方を凛の民の国として、国を運営することは無理ではないのか? 大陸を嫌う人間だって多くいる。
「まあ、今日はそんな話をするために来て頂いた訳ではないのでしたね。でももう少し勉強された方がいいですよ」
この上田という人間の言い方はどこまでも嫌な感じがした。
「最後に・・・犬山の潜伏先とか知っていたら教えてほしいんですがね」
「いや、分からないです」
加奈子の母親は即答した。この二人の人間は自分が正しいことを言っていたつもりなのだろうか? 犬山主任への偏見、身勝手な独立論・・・。
「失礼します」
そう言って、加奈子の母親は部屋を出た。気分が悪くなる事情聴取だった。
犬山のチームの人間が数人歩いているのが、遠く廊下の先で見えた。彼らは私服に着替えている。
そういえば凛の祭りの準備で早退すると言っていた・・・。犬山主任を陥れることばかりをやって、自分に恥じるものはなかったのだろうか? いい大人が妬み、いじめを行うことに何の躊躇いもなかったのか?
加奈子の母親は事務所にゆっくりと帰りながらそんなことを考えていた。廊下の窓から麓の立原の町並みがよく見える。
彼女が立ち止まってそれを眺めていると、軽い立ちくらみに襲われた。目の前が一瞬白くなった。
自分は誰なのか? 名前、家族は? 家は何処にあるのか?
その瞬間、何もかも分からなくなったが、すぐに思い出した。ここ最近たまにそうなる。
疲れているのだろうか?
犬山さんがいなくなって仕事が上手く廻っていない。残業も多い。
加奈子の母親は立原の町並みをしばらくじっと見ていたが、また歩き出した。
何か嫌なものを見たような気がした。この街で何が起きているのか、あまり考えたくなかった。
もううんざりだった。
加奈子は溜息をついた。容疑者の名前こそ公表されていなかったものの、ローカルテレビは死体遺棄のニュースばかりだった。
凛の独立推進派の人間を心無い来たり者の人間が殺害し、その死体を遺棄をした・・・そんな感じの内容だった。
「本当に来たり者は困った存在ですよね」
差別的な発言が、テレビのキャスターから平気で出ている。何か黒く陰湿な悪意が働いているように見えた。
来たり者への反感を煽るこの雰囲気は、果たして社会として正常な状態と言えるのだろうか? これでは来たり者への差別を煽っているようなものだ。彼らの身の安全も危なくなってゆくかもしれない。
テレビにはK大学の月岡教授なる人物が写っている。研究室での録画なのか、背景はところ狭しと並んでいる本で占められていた。眼鏡を掛け、六十歳手前くらいだろうか、黒い髪に白髪が混じっている。表情に乏しい人間だった。
「来たり者、つまりは本土の人間が、過去に凛の民にしてきた仕打ちは、決して許されるものではありません。だが彼らは過去の行いに対して謝罪をしないどころか、今も尚、罪のない凛の民を傷つけ、殺人まで犯しています」
月岡教授は右手で眼鏡の位置を少し上にずらした。
「私は凛の民ではありませんが、こういった本土の人間の行いには不快感を覚えます。そもそも、本土の人間の政治は失策に失策を重ね、財政にいたっては日本が転覆する寸前にまで追い込んでしまっている。日本国の借金は今や九百兆円ですよ。一世帯で千六百万円もの負担をどうやって返すと言うのですか?」
そういって信じられないと言った様子で首を傾げた。
「約三十年後には日本の人口は二千万人も減ります。国内のマーケットは小さくなり、これから先、税収が上がることはまずないでしょう」
月岡教授は軽い溜息をついた。
「こんな状況でも国会は失言した議員を追い回し、政策を議論せず、政争に明け暮れている。そこで私は提言したい」
月岡教授は強い口調で、周りを引き込むような話し振りだ。さっきまでの表情の乏しい顔つきはもう何処にない。
「このK地方は、大陸に依存した経済に梶を取るべきなのです。そのためには新国家を立ち上げ、日本から独立することが必要となってくるのです」
加奈子は驚いた。
独立を扇動しているのはこの人物だったのか・・・。
「このK地方の経済的安定を求めるには、独立により、本土の人間の失策である日本国の負債を放棄し、且つ大陸との関係を強力にすることが必須です。このK地方に大陸出身の凛の民が多いという利点を生かし、大陸と親密な新国家の建設を行うことが必要と私は考えます」
死体が発見され、容疑者が確定し、この月岡教授という人物が現れるまで、わずか五日間という短い時間だ。
何かおかしいわ。
加奈子は違和感と疑問を持った。
「ここでニュースが入りました。立原市の連続死体遺棄の容疑者である犬山雄五は、本日午後、殺人容疑で全国に指名手配されました。繰り返します・・・」
加奈子ははっとしてテレビの画面を見た。
画面はスタジオに戻っている。
今まで全くの匿名だった容疑者の名前が公開されたのだ。そして容疑は殺人にまで拡大されている・・・。
「どうしていきなり・・・」
あの緑の夢で大木君から伝えられた名前と同じ名前だ。そうか、あのときやっぱり大木君と繋がっていたんだわ・・・。
犬山の顔写真が流れた。
優しげな、それでいて正義感あふれる表情だった。
この人は違う。
加奈子は直感的に思った。
加奈子はすぐにテレビの電源を消した。薄手のジャケットを羽織って外に出た。そして自転車に乗り、急いで四条電機の合宿所に向かった。
大木に会わなければならないと思ってのだ。
大木が心配だった。側にいてあげなければと思ったのだ。
その日の大木は一人だった。
合宿所に残って、体育館の真ん中に置いたトランポリンでモーグルスキーのエアの練習をやっていた。ビデオに録画し、それをチェックし、またエアを飛ぶ、その繰り返しだった。
他の複合選手は、今頃クロスカントリースキーの板の代わりにローラーを履いて、アスファルトの坂道をひたすら登っているはずだ。
大木のトランポリンに着地する音が、定期的なリズムで合宿所内に響く。
加奈子の自転車が合宿所に着いた。急ブレーキを掛けた音が高く鳴る。
加奈子はすぐに戸惑った。何処に行けば大木に会えるのか分からなかったのだ。
今のこの時間は、合宿所はおろか、寮にも全く人が居ない。加奈子はとりあえずグランドに向かって走った。初めて大木に会った場所だ。
そして寮の横を通り、合宿所の前を過ぎようとしたとき、かすかに「ギッ、ギッ、ギッ・・・」という周期的な金属音を聞いた。加奈子は立ち止まって、もう一度良く聞いてみた。
合宿所から聞こえるわ・・・。
加奈子は合宿所の建屋に入った。玄関から入り、管理人の居る受付にゆくと
「本日留守」
と書いた手書きのA四の紙が、受付と訪問者を仕切るガラスに目立つように貼ってあった。
「いいのかしら・・・?」
加奈子は玄関にあったスリッパを借りて合宿所に入った。
気づくとあの周期的な音は止まっていた。どっちの方向に行けばよいのか分からなくなった。
加奈子はしばらく行くべき方向に迷っていたが、また遠くから「ギッ、ギッ、ギッ」という音が鳴り始めた。すぐにその音の鳴る方へ足を向けた。
そして加奈子は体育館の入口に着いた。中を覗いてみると、三、四メートル角くらいの大型トランポリンでモーグルのエアの練習している大木の姿が見えた。
「スキーのブーツと板を付けてトランポリンを飛ぶんだ・・・すごい・・・」
板は通常より短いものに見える。大木の飛んでいるエアはくるくる回っているだけに見えて、加奈子には何の技だかさっぱり分からない。ただ、とても難しいだろうことだけは分かった。
加奈子はしばらく体育館の入口から、大木に気づかれないように練習の様子を見ていた。
しばらくすると大木はエアを飛ぶのを止め、板を履いたままトランポリンを降りた。そして板を外し、ビデオカメラの方に行き、自分のエアにチェックを入れていた。
大木は人の気配に気づいた。そして入口の方に目をやった。
「やあ」
大木は加奈子にそう言った。少し元気がないように見える。
「あの・・・大木君・・・」
加奈子は話すのが躊躇われた。
「こんにちは・・・」
加奈子は挨拶を返した。
これから自分が話そうと思っていることが、非現実なものであり、大木の同意が得られなかった場合を考えると不安になった。
「緑の・・・世界のこと・・・」
加奈子は途切れ途切れでそういった
私・・おかしなことを言っているのではないだろうか・・・。それに大木君は色を認識できない・・・。
自分が緑の世界のことを話そうとしていることに後悔していた。
「ああ、そっか」
大木は加奈子にそう言った。
「あのとき・・・やっぱり僕らはあの世界で会っていたんだ」
大木は少し笑顔になった。加奈子は少し驚いた表情になったが、大木の表情に誘われ、笑顔になった。
「私・・・夢だと思っていた。でも夢じゃなく、本当に大木君と会っていたんだね」
加奈子はうれしい気持ちになっていた。
「そっか・・・僕は現実のような感覚があったな・・・寮の食堂に居て、急にあの世界になって、椅子がなくなって倒れたんだ。あの痛さは夢のものに思えなかった」
「私はあの世界に入る前は夢を見ていたの。暗闇で誰かに呼ばれるような夢だったわ。小さい子供のような声で私の夢を聞き出そうとしていた・・・」
そしてその夢はいつもならば、あの弁護士一家死体遺棄の現場の夢になる・・・加奈子はそのことを大木に言わなかった。あの光景は加奈子にとって本当に辛いものだった。
「でも次第に辺りが緑の世界になって、その声も聞こえなくなって、そして大木君に会えた・・・」
加奈子はそう言って、体育館の窓から見える風景を見た。窓の外は曇り空で、その中で白い細かい雪がちらついていた。
「雪が・・・降ってきた」
その言葉につられて大木も窓を見た。曇り空の中で細かい雪が舞っている。ここK地方は元々雪はあまり降らない。しかも三月末のこの時期に雪が降るのは相当珍しい。
加奈子と大木はしばらく雪が降っている様子を眺めていた。そしてその白い雪を見ながら、大木は呟いた。
「あの世界の緑・・・僕でも緑色を認識できたんだ・・・」
加奈子ははっとして大木の顔をみた。大木の表情は淡々としていた。
白と黒しか認識できない大木君の目が、あの世界では緑の色を認識できた・・・。
加奈子はどう反応していいのか、何を言っていいのか分からなかった。
「あの世界って、いったい・・・」
加奈子はなんとか言葉を返した。
「分からないな・・・」
大木はそう答えた。さらに言葉を続けた。
「でも前にも同じことが一回あった・・・強烈な頭痛があって、そのときも僕はあの緑の世界にいたんだ・・・」
あの女性の雪崩の遭難者を救出したときだった。真っ白い雪の風景と必死の形相だった遭難者の顔が思い出された。そして押し寄せる頭痛と緑の世界・・・。
「僕が劉前さんを巻き込んでしまったのかもしれない」
大木には結局あれがなんだったのか、分からない。そしてそれはこれからも説明出来ない現象なのかもしれなかった。
加奈子は即座に首を横に振った。
「気にしないで、それに大木君のせいとは限らないわ」
そう言って加奈子は沈黙した。そしてこれから話そうとしていることを考えると、どうしても気が重くなった。
加奈子は唇を軽く噛んで、ゆっくりと話し始めた。
「あの・・・犬山さんのこと・・・ニュースで名前が・・・」
加奈子は自分が余計なことを言っているのではないかという不安がよぎった。後悔にも似た感情が加奈子に押し寄せてくる。
「そうか、とうとうニュースで名前が出たんだ・・・」
「うん・・・」
加奈子には、大木の表情が強張ってゆくのが分かった。
「私が、私が証言すれば、もしかしたら犬山さんへの疑いが晴れるかもしれないわ」
加奈子は硬い表情になってゆく大木の様子を見て、たまらず言った。だが、大木はその提案にすぐに首を振った。
「証言をしたら、きっと劉前さんに危険が及ぶ。この事件の捜査は何かおかしい。劉前さんが言っていたように、まるで犬山さんを犯人に仕立てているような感じがするんだ・・・」
ドラマだったり、映画だったりすると主人公が少し動くだけで真犯人の糸口が見えて解決するものだが、実際は全く違う。何が今起きているのか全く分からない状況だった。
「犬山さんは今、何処にいるんだろう・・・」
大木は左手で自分の前髪をわしづかみにし、溜息をついた。
田沢コーチが言うように何らかの事件に巻き込まれているかもしれない・・・そしてそれは警察組織も絡んでいる可能性がある。
だいたい、車の免許もない人間が、どうやって複数の人間の遺体を遺棄できるって言うんだ・・・。
大木は思い悩むような表情になっていた。
加奈子は大木を元気づけたかったが、今の状況で適切な言葉が見つからない。
「大木君・・・私、証言するから」
大木は加奈子の顔を見た。そしてその真直ぐな表情を見て、頭を下げた。
「ありがとう、劉前さん・・・いいんだ。大丈夫だよ。ありがとう」
自分を支えてくれようとしてくれている人がいる。
大木はそう思った。
加奈子の提案は危険で、しかも何も生まない可能性がある。それは加奈子自身も分かっているはずで、危険を承知してそう言ってくれた加奈子に、大木は純粋に礼を言いたかった。
加奈子も大木の顔を見た。
しばらくその状態が続いた後に、加奈子が急に口を開いた。
「私、大木君に会いたかった・・・」
大木はその言葉を聞いて、一気に心の重しがとれ、視界が明るくなったような気がした。
「私、大木君に会いたかったんだ」
加奈子は自分の気持ちの精一杯を伝えたためか、恥ずかしさで下を向き、もうそれ以上何かを話せるような感じではなかった。
大木はその言葉だけで十分だった。目に障害のある、色を認識できない自分にそう言ってくれる女の子がいるだけで、大木はとても幸せに感じた。
大木は加奈子に右手を差し伸べた。加奈子はその手を左手で受け取り、強く手をつないだ。
言葉はもう何も要らないような気がした。大木は強く握り返してくる加奈子の手の感覚を何度も自分の中で確認した。そしてうつむく加奈子の顔を見た。
大木は自分が恋をしているのだと思った。そしてその恋の相手は今、大木の目の前にいる女の子で、その存在は自分を幸せに感じさせている。それは大木にとって初めての感覚だった。
あのとき確かに引かれ合ってキスをしたんだ。あの惹かれ合った感覚は錯覚ではなかったんだ。
そして窓から見える白く舞う雪を大木は見上げた。いつまでもこの幸せな想いを胸に抱いていたかった。
雪はまだ降っている。
細かい雪のためか積もる様子は全くない。
大木と別れた加奈子は合宿所を出て、家に向かい、自転車をこぎ始めた。雪がたまに目に入ったが、気になるレベルではない。
大木と硬く手を繋いだ感覚を思い返していた。
大木君のことが好きなのかもしれない。多分好きなのだろう。いや絶対好きなのだ。
彼はスキーモーグルの選手だ。コブを滑る彼は動画サイトにUPしているものでしか見たことがなかったが、それでも格好のよさは十分に伝わる。
「大木君がコブを滑っているのを実際に見てみたいわ」
加奈子は自転車を漕ぎながら、独り言を言った。そして自分が少しにやけていることに気づいた。
大木君は努力家だわ・・・まだ高校生なのに大人の選手を相手に大会で成績を出して、それに奢らずに頑張っている。
目の障害のこと、それを差別する人間、スキー連盟との軋轢、高校生でプロ契約・・・辛い経験や、大人相手に渡り歩く場面がいくつもあったと思う。
それぞれの問題に立ち向かっている大木には、行動力と努力、そして信念のようなものが感じられる。
それでも自分に劣等感を感じているなんて・・・。
「もっと大木君のことが知りたい。もっと大木君と話がしたい。大木君を支えたい」
加奈子が自転車を漕ぐたびにマフラーが左右に揺れる。
やっぱり私は大木君が好きなんだ。私は恋をしたんだ。
メールのアドレス交換もしたし、電話番号も貰った。今夜早速メールしよう。
加奈子は幸せな気分だった。自分は恋をしている。そして恋をした相手は、自分に恋をしている。
大木の目は白と黒しか判別できない。自分を正しく見てくれるのか不安だったが、その不安感は間違っているような気がした。
大木君の本質はそこじゃない・・・。
そう思うようになっていた。
大木が後十日で合宿所から居なくなることが、加奈子にとって寂しくて寂しくて仕方がないように思えてきた。
「大木君と同じ大学に行きたい」
電話とかメールとかで聞こう、大木君といっぱい話がしたい。
加奈子はもう一度大木と繋いだ手の感触を思いだした。そして加奈子の家の中で交わした大木とのキスを思い出した。
なんだか恥ずかしい・・・。
そう思って加奈子は「ふふふ」と笑った。
そのとき、
それは本当に突然だった。
加奈子の自転車は、後ろから何かに押されるような感覚を加奈子に伝えてきた。
車と接触している。
加奈子がそう思った瞬間、加奈子は自転車から飛ばされ、アスファルトに背中から叩きつけられた。
そして頭を強く打った。衝突した際のアスファルトの硬い感覚がやがて痛みに変化し、髪の毛をつたい、赤い血がアスファルトに広がっていった。
血はなんて暖かいの・・・。
加奈子はそう思った。
痛みを感じている余裕すらない。ゆっくりと意識がなくなってゆく。
加奈子をはねた黒い乗用車は一旦止まり、運転手は窓を開いた。そして
「凛の民の民族舞踊の練習をサボりまくって、来たり者といちゃいちゃしている、おめーがいけねーんだよ」
と吼えた。加奈子の体はもう全く動かない。消え行く意識の中で加奈子は男の顔を見た。
知らない顔だ。
その様子を見て運転者は「ちっ」と舌打ちをし、車のアクセルをいっぱいに踏み込んだ。車は驚いたように左のガードレールに突進し、ぶつかりそうになったが、寸前でハンドルが右に切られ、事故は避けられた。そして動揺し慌てるかのように猛スピードで車は消えていった。
「だからつじつまが合わないって言ってるんだよ」
遠くから携帯に怒鳴るような声が聞こえてくる。それに対して電話の相手は必死に弁解をしていた。
「勝手にひき逃げ事件を起しておいて、こっちの手持ちの人間を犯人に仕立て上げるんじゃないって言ってるんだよ」
その怒鳴り声はそう続けて言った。
「だから免許持っていないって言ってるだろ。こっちの事件でも上手く説明ができなくて、難しくなっているっていうのに、余計な問題を起こすなよ」
電話の相手が言い分を話している様子だ。しばらくうんうんと頷いていたが口を開いた。
「上がそう言っているのか? なんで口出しするんだよ。上が思いつきでやられるのが一番困るんだよ。そうだろ?」
相手は「そうそう」と返事をしている様子だった。
「まあいいや、もうすぐ交代の時間だから、そっちに帰ってからまた話そうぜ」
そう言って怒鳴り声の男は携帯を切った。男は奥の部屋を見た。
そこには拘束されている一人の男が居た。男はぐったりと横になっている。
犬山だった。
顔には殴られた痕がいくつもあり、腫れがひどく痛々しい。犬山の手は背中に廻され、麻紐で硬く結ばれ、同じように足も結ばれていた。犬山は拘束されていたのだ。口はガムテープで塞がれ、自由というものは何もかも奪われている。
水も食事もほとんどさせてねえからな。もうこいつ死ぬかもな。
男は犬山を見てそう思った。
犬山は脱水症状で意識障害に陥っていた。目も視点が合わずうつろな表情だ。
男はもう犬山を監視することに嫌気が差していた。誰でもいいから、この男をどこかに捨てて欲しかった。
男はそう思っていた。
三日毎に監視は交代する約束だった。もうすぐ次の人間が来る。
もう少し我慢すればいいはずだ。
だいたいストリーがいまいちなんだよ。免許も車も持っていない人間が、一家四人の死体を遺棄出来る訳がないじゃねえか? さっきのひき逃げの件もそうだが、上の連中のやっていることは行き当たりばったりだ。
男は時計を見て、見張りの交代の時間を確認した。あと一時間もある。
男の本質は文句を言うだけ言って責任を逃れる人間だった。そして上手くいかないことは全て他人のせいにする。どこにでも必ず一人はいる人種だ。こういった手合いは卑怯である反面、臆病でもあった。
男はもう犬山と同じ空間に居たくなかった。それは食事もさせず、腹いせに殴る蹴るを繰り返した罪悪感からくるものだったが、男はそれを認めることは避けていた。
男は決心した。急に動き出し、慌て逃げるように山小屋のような監禁場所から飛び出した。逃げ出したのだ。じわじわ死んでゆく人間を見て正常でいられる訳がなかった。
あと一時間が待てなかった。あと一時間だからもういいだろうと思った。
男がまさに扉を開け、外に出た瞬間に、白い雲のようなものが彼を突然襲ってきた。男は慌て左に避けた。
「なんだ!」
男は叫んだ。見るとそれは三メートルくらいの龍のような生き物だった。目が鋭く男は恐怖を覚えた。とても現実のものに思えなかったのだ。
辛うじて直撃を免れたものの、右腕にかすって血が出ていた。その白い生き物の顔にその血が付着し、その姿は更に男に恐怖を与えた。
男は震えながら、なんとか車に乗り込み、エンジンを掛け、焦り、恐怖に縛られながら車を出し、山を降りていった。言いようのない恐怖感が彼を支配していた。
「くそっ、俺が悪いんじゃない、俺は悪くない! あの白いのは何なんだ。なんだあれ、なんなんだ」
男は車の中でそう叫んだ。
あの恐怖の白い生き物が、また襲ってくるのではないかという不安で彼はおかしくなっていた。
「なんだあれ、なんだあれ」
細かい雪が降っていたが、男はワイパーを動かさずに車を猛スピードで走らせた。
呟き続けた。
「俺は悪くない、俺は悪くない」
彼は恐怖にとりつかれていた。
雪が降っている・・・。
男は空から雪の降る様子を目で追った。
雪がゆっくり舞い落ちているような気がしたのだ。
そして自分が車を運転していることを忘れてしまっていた。気がつくと目の前に谷沿いのガードレールが迫ってくる。そして車は曲がりきれずに、鉄製のガードレールを曲げ、超え、崖へと落ちていった。
結局、男は犬山よりも先に死を迎えることになった。
犬山に対する暴力の報いが、ここに返って来たような無残な事故だった。
春川はマイクロバスの窓から流れる外の景色を眺めていた。
ローラーを履いて、アスファルトの坂道をひたすら登った。少し疲れている。バスは複合選手らを乗せ、その練習から合宿所に帰る途中だった。
春川は外を漠然と見ていた。細かい雪が降っているのが見える。
犬山のことを考えていた。そして何度考え直しても、自分達が何もできておらず、自分達に何も分かっていないことが分かるだけだった。
「はあ」
春川は溜息をした。
何も状況は変わっていないし、改善もされてもいない。
多くの民家で白と赤ののぼりが立てられているのが見えた。何か文字が書いてある。
「凛の大祭・・・」
そう読み取れた。
「今週末にあるらしいですよ」
後ろの席に座っていたコーチの田沢が春川に言った。
「さぞかし閉鎖的な祭りなんだろうな・・・」
春川は嫌味を含めて、誰となしに言った。あの正義感溢れる犬山を退職の覚悟までさせ、追い詰めたこの町が春川は嫌になっていた。
「噂に聞いたんですけど・・・」
田沢の前の席に座っていた若い選手が後ろに身を乗り出して言った。
「何でも、凛の民には今の時代でも、皇帝みたいな存在がいるそうですよ」
その若い選手は続けて言った。
「確か・・・凛の君とか言っていたような」
「皇帝? なんだそりゃ」
春川は鼻を「ふん」と鳴らして、そう答えた。
「元々、奈良時代あたりに大陸から来た民族じゃないですか、大陸の内乱で凛の国が滅びて、そのとき皇帝が一族を連れて日本のK地方に逃げてきたって話ですよ」
「ふーん・・・で、その子孫がまだ皇帝やってるんだ?」
「おもしろいですよね?」
「面白くねえよ」
「戦時中も、皇帝だけは必死にかくまったって話ですよ。ネットにそう書いてありました」
この若い選手は身近に起きていることをネットで調べまくっていたのだろう。田沢には普段の落ち着きのなさから、その姿を容易に想像することできた。コーチという立場上、個々の選手の性格には特に気をつけている。
「その皇帝って、戦争の終わった今の世は何処にいるんだ?」
田沢は質問した。
「いや、表には全く出てこないんで、幻の存在化していて、よく分かんないです。でも去年に女性が皇位に着いたって書き込みがありました」
「もういいよ、この話は。どうでもいい」
春川はそう言って、田沢たちに背を向けて眠りに入る仕草を見せた。不機嫌になっている。
若い選手は、まだ話足りなかった様子だったが、春川の様子を見て、やがて携帯電話を取り出し、なにやらまた調べ始めた。
田沢は、さっきの皇帝の話が気になっていた。
前に他の人間から聞いた話でも同じことを言っていた。皇帝を擁した民族がこの日本に存在する・・・若い選手に言っていた内容とほぼ一致していた。凛の独立と騒いでいるのは、その皇帝のためなのだろう。
そしてその連中は日本の秩序を乱し、罪のない人間を巻き込み、陥れようとしている・・・。
許せないと思った。
ふと、誰かの呟き声が聞こえた。
「事故か?」
田沢がバスのフロントガラスから外を伺うと、担架に寝かせられた若い女性が、救急車に乗せられようとしている様子が見えた。
スキー部のバスは救急車の後ろにゆっくりと止まった。救急隊員、警官の姿が複数見える。よく見ると救急車の先にはパトカーが二台止まっていた。
担架に乗せられた女性は、田沢からは顔がよく見えず、顔色が良く分からなかったが、ひどくぐったりしている様子だった。意識があるようにはとても思えない。
現場と思わしき場所は、女性のものと思われる血だまりがあった。女性の長い髪の毛は血で固まっており、服は泥で汚れ、破れていた。その脇にはその女性が乗っていたものだろうか、自転車らしきものが、捻じ曲がり、潰され、そのままに放置されていた。
「ひどいな・・・」
田沢は思わず声に出した。粉雪が血だまりにも降っている様子を見て目を背けた。
救急隊員によって、女性に毛布が掛けられた。担架は救急車に乗せられ、ドアが閉められた。それを合図にサイレンが鳴り、救急車はゆっくりと走りはじめ、遠くの存在となり、やがて視界から見えなくなった。
あの女性は大丈夫なのだろうか?
残された風景は、あの女性の血だまりと、無残な自転車、ヘッドライトと思わしき車の破片、複数の警官とパトカー・・・いずれにせよひどい風景だ。
田沢はそう思った。
「ひき逃げなのか?」
誰かが言った。
自転車があれだけ無残な形になっているというのに、その原因となった車はそこにはない。ヘッドライトの破片が落ちているだけだ。
田沢は嫌な気分になった。卑怯な人間のそのものを見たような気分だった。
スキー部のマイクロバスは警官の誘導によりゆっくりと動き始める。そして事故現場から離れ、やがて後ろの窓からは何も見えなくなっていた。
大木の口元は緩みっぱなしで、たまに鼻歌を歌いながら、トランポリンやスキーブーツ、スキー板を片付けていた。傍目で見ると少し気味の悪い人になっていたかもしれない。
加奈子が来てくれたことが起因している。
もうすぐ他のスキー部の連中がバスに乗って帰ってくる時間だ。そうなると夕方のミーティングに参加しなければならないし、自分の時間が作りにくい。大木は練習を予定より早めに終わらせていた。
ビデオで撮った自分のエアの形をもう一度ゆっくり確認したかった。大木は道具の片付けが終わると、食堂に行き、そこでビデオの中の自分を確認し始めた。
そしてノートに今後課題になる自分の癖やエアの修正場所を書き出す。たまに上を向いて想像をめぐらせ、ノートに改善点を書き込んでいった。たまに絵を描いたりもする。
窓の外を見た。
雪は止んでいたが、雪を降らしていた雲は暗く、黒の色を増している。その風景はなんとなく大木に根拠のない不安を与えていた。
嫌な予感がする。
大木は頭痛を感じた。
痛みは弱かったが、徐々に痛くなっている。だが耐えられない訳ではない。そしてかすかに世界が緑掛かってきた。
またこれか・・・。
そして突然、大木の携帯が鳴った。非通知の電話番号だ。
大木は我に帰った。緑掛かった世界はどこかに一瞬にして消え失せる。大木は気味の悪さを感じたものの、すぐに電話に応じた。
「はい、大木です」
「・・・」
電話の相手は何も言葉を発しない。
「大木です」
大木は再度同じ言葉を言った。
「劉前加奈子は立原中央病院に運ばれたわ」
女性の声だ。
大木はその言葉に衝撃を感じ、動揺し、それに回答する言葉が見つからなかった。
病院ってどういうことだ?
大木は出来るだけ自分を落ち着かせようとした。
「何故、劉前さんが病院に運ばれたんですか? あなたはいったい誰なんですか?」
一旦動揺した心はすぐには落ち着かせることはできず、彼の声は少し震えていた。
「彼女は交通事故にあった・・・」
そう言うと電話は切れた。
自分が何をすべきなのか、何を優先してやるべきなのか、心の動揺が邪魔をして、すぐには判断できずにいた。
少し呼吸が荒くなってきている。
大木は急いで加奈子の携帯に電話をした。電話は繋がらない。急いで靴を履いて外に出た。
とにかく病院に行ってみよう。
大木が合宿所の正門から走って出ようとしたときに、複合選手たちが乗ったマイクロバスと鉢合わせした。ちょうど正門からマクロバスが入ってきたタイミングだった。
大木は引き返し、敷地に入っていったバスを追った。バスは止まり、選手たちが次々に降りてゆく。大木はバスに追いつくと、バスに乗り込んで言った。
「僕を中央病院まで連れて行って下さい」
大木の血相を変えた表情にバスに残っていた数人は顔を見合わせた。その中の一人である田沢は大木に聞いた。
「病院って、どういうこと? 大木君」
「僕の携帯に電話があって、僕の知り合いが交通事故に合ったって・・・」
ついさっき事故現場を見たばかりじゃないか・・・。
田沢は嫌な感じがした。
「大木君の知り合いって女の子か?」
田沢が大木に質問した。
「はい」
「髪は長いか?」
「はい」
「その子かどうか分からないけど、さっきここから三キロくらい離れたところで女の子が救急車に運ばれてゆくのを見たぞ」
「な・・・」
大木はその言葉に絶句して何も話せなくなった。
「おい、大木、俺が運転して病院まで連れて行ってやる」
それまで黙って聞いていた春川が大木に言った。だがすぐに田沢が
「春川さんは駄目です。次のオリンピックの候補選手がバスの運転なんて。事故でも起こされたら面倒です。僕が運転しましょう」
と言った。田沢は既に車から降りていた運転者から鍵を貰い、運転席に座った。
「俺も行くぞ」
春川はそう言って助手席に座った。田沢は頷いて言った。
「分かりました。すぐに行きましょう」
田沢はエンジンを掛け、マイクロバスのハンドルを回し、車を合宿所の正門に向けた。
雪はもう止んでいる。
ゆっくりと門から出て、右ウインカーを出し車道に入った。田舎の道路だけに車は殆ど走っていない。
「中央病院って、あの、城の麓にあるでかい病院ですよね」
「たぶんな」
運転席の隣の助手席に座っている春川が答えた。大木は田沢の後ろに座っていた。
「五、六キロくらいの距離かな。すぐに着くと思うよ、大木君」
「はい・・・」
大木の声が後ろから聞こえた。声だけでは大木の様子は分からなかったが、田沢にはしっかりした声に聞こえた。
田沢が言ったようにすぐに病院の建物が見えてくる。車はやがて病院の敷地に入り駐車場で止まった。
「俺らはここで待っているから行って来い」
春川が大木に言った。
大木はその言葉を聞いて頷き、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
大木はマイクロバスから飛び降り、病院の建屋に入り、暗い廊下を走り抜け、ロビーを抜け、救急外来の場所を探した。
ロビーでは数人の入院患者がテレビを見ていた。慌しく走り抜ける大木の後ろ姿を少しの間眺めていたが、あまり感心のない様子でまたテレビを見始めた。
テレビの中では夜の公園で恋人同士が寄り添っている。そしてお互いの愛を確認しあい、キスをしていた。
「いいねえ・・・」
患者の一人がぽつりとそんなことを言った。
「劉前加奈子さん・・・ないわ。その人、本当にこの病院に搬送されたの?」
救急外来の年配の女性看護士は大木に聞いた。
「交通事故でここに搬送されたって聞いたんですけど」
大木はそう答えたが、誰とも知らない人間からの情報とは、とても言えなかった。ただ、田沢や春川は事故のあった女の人が救急車に運ばれたのを見ている。
「今日は交通事故で搬送された人はいないみたいだけど・・・私も来たばかりだから」
名簿のようなものを見ながら、その女性看護士は答えた。大木は不安を覚えた。
この病院ではないのか? いったい何処の病院に搬送されたというんだ・・・。
つい二時間前の幸せな気持ちは嘘のようだ。今は連絡がつかず、事故にあったかもしれない加奈子の身が心配で、心が押しつぶされそうだった。
「あの・・・交通事故にあった女性が救急車で運ばれていったのは間違いなくて、僕の知り合いみたいなんです。この病院でなければ、どこの病院に搬送されたか教えて頂けないでしょうか?」
その年配の女性の看護士は少し当惑した顔になった。
「そう言われても・・・」
この高校生をそろそろ迷惑に感じ始めていた。そのとき手術着姿の背の低い若い男性医師が、大木の後ろで立ち止まった。
「どうしたんです?」
その男は年配の女性看護士にそう聞いた。女性看護士は
「あの、今日、交通事故で若い女性が怪我をされて、救急車でどこかの病院に搬送されたみたいなんですけど・・・・」
と単調に答えた。それを聞いて医師は「ああ」という顔になった。
「劉前さんと言う名前だったかな? うちに搬送されて、一旦受け入れをして、検査と止血をしたけど・・・」
ここにやはり搬送されて来ていたんだ。
大木はそう思い、少しほっとした。
「ただ・・・すぐに別の救急車がきて、転院してしまった。転院先は家族の希望先なんだけど、教えて貰っていないんだ。申し訳ない」
「えっ・・・」
なんだ・・・それ。
大木はその医師の話を聞いて、驚くと同時に疑問が生じた。
普通じゃない・・・。
「その女性の容態はどうだったんですか?」
大木はその目の前にいる背の低い青年医師に聞いた。医師は少し暗い顔になった。
「頭蓋骨骨折で出血も多かった。すぐに手術をしないと本当にまずいことになるだろうな・・・手術の準備はしていたんだが」
その答えに大木は少しむかっときた。その発言に無責任さを感じたのだ。そして状況は悪い方向に向かっていると思った。
「じゃあ、なんで転院を認めたのですか? 彼女は今、危機的な状態に陥っているかもしれないんですよね」
それを言われ、医師は良心の呵責に責められる思いがした。
「姉という人が現れて・・・この病院に悪い印象を持っていたみたいでね・・・強引に転院させられてしまったんだ」
「姉って・・・」
母親か弟じゃないのか? 姉がいるとは聞いていない・・・その姉と称している人間は本物なのか? あの家に母親と弟と加奈子以外の誰かが存在していたなんて思えない。
大木は大きな不安に襲われた。犬山のように見えない糸に引きずられ、事件に巻き込まれてゆく加奈子の姿が、大木には見えるような気がしたのだ。
「この市内で、その女性の怪我を治療できる病院を紹介してくれませんか?」
大木は何かに急き立てられる思いで、その医師に聞いた。医師は少し驚いて、大木の目を見た。そして彼の意思の固さを読み取り、すぐに左手に持っていた手帳に病院名のリストを書き出し、それを手帳から破いて大木に渡した。
「君が自分で確認してもいいのだけど、僕にも責任は発生している。僕が電話して確認してみてもいいかな?」
大木はその提案を聞き、驚いた表情でその医師を見た。そして青年医師は携帯を取り出し、事務所の壁に貼ってある電話連絡表を見ながら、電話を始めた。
「立原中央病院の杉浦と申します。お世話になっております。そちらに本日交通事故に合った若い女性が搬送されているはず・・・いない? そうかですか・・・どうもお忙しいところ申し訳ございませんでした」
杉浦と名乗った医師は、そう電話を掛け続けた。杉浦は何軒も電話を掛けたが・・・電話の答えは同じだった。
加奈子は何処にもいなかった。杉浦は小さい個人病院にも電話を掛けた始めていた。
「見つからない・・・どういうことだ?」
杉浦はそう呟いた。
更に電話を重ね、探したが、加奈子の行方は分からない。
どうしてあのとき彼女を転院させてしまったのか・・・無理にでも、ここで手術をすればよかったのではないか? あの出血状況で、しかも頭蓋骨骨折を負っていたというのに・・・。
強い後悔の念が杉浦を襲っていた。
「すまない。見つからない・・・」
杉浦は苦しそうに呟いた。
何故なんだ・・・。
杉浦はそう思った。
「ありがとうございました・・・」
突然、大木は杉浦という医師に深く頭を下げ、礼を言った。だが、気が重く、とても顔を上げられなかった。
青年医師は大木の気落ちしている姿を見て、ひどく心が痛んだ。そして杉浦は急いで自分の名刺に携帯の電話番号を書いて、大木に渡した。それは医師として、良心の呵責からの行為だった。
「きっと君の力になれると思う。いつでも掛けてくれ。君は落ち込んでいたら駄目だ。きっと大丈夫だから。私ももう少し探してみるよ」
杉浦はそう言った。大木は下を向いて頷いた。涙がこぼれそうだ。
「不覚だった。すまない」
杉浦のその言葉に我慢できず、涙が出た。手で涙を拭きながら、大木は何度も頷いた。
外は夕暮れて、バスの中は暗い。手元の視界が悪くなってきている。大木がこのマイクロバスから降りて、しばらくの時間が経っていた。
「変なメールが来たんだよ」
突然、春川はそんなことを言った。
「変なメール?」
「今日の朝にな」
春川はそう言って携帯を取り出し、メールを開き、田沢に渡した。携帯の光が夕暮れの中、目を強く刺激する。田沢はメールの文章を読んだ。
「犬山雄五を救出。脱水症状がひどく容態は悪い。病院に運んだ」
田沢は驚いて、春川の顔を見た。
大変な情報だ。全く運がいい。これは大変な情報だ。
何か高まる感情で手が震えた。
「犬山さんを救出って、やっぱり事件に巻き込まれていたのですね・・・」
田沢はそう言った。そして
「大木君に早く伝えた方がいいのではないですか?」
とも言った。
春川は首を振った。
「いや・・・このメールで犬山の無事を確認できたことにはならない。というか、何故俺のアドレスを知っているんだ?」
「アドレスは、犬山さんから聞いたんじゃないでしょうか?」
田沢はそう答えた。
「一応、メールを返してみたらどうでしょうか?」
春川にそうつけ加えた。
「けど、このメールの送り主が犬山を拉致して、犬山を犯人に仕立て上げた本人だったら?」
田沢は少し驚いた。
及び腰だ・・・これでは貴重な手掛かりがなくなってしまう。
「それでもメールを返しましょう。犯人の可能性もありますが、メールの内容の通り、救出者の可能性もあります。犬山さんの唯一の手掛かりです。ここで貴重な情報源を失う訳にはいきません」
「・・・」
春川は迷っていた。
「犬山を犯人に仕立て上げたどころか、弁護士一家と、もう一人の男の人を殺した人間かも知れないんだぞ。危な過ぎる」
それを言われ、田沢は昨年末に結婚したばかりの妻を思い出した。
だが、自分にはやらなければならない役目を負っている・・・。
田沢は唇を噛んだ。
そして春川も大切な二歳になる娘と妻を思い出していた。
自分はまだ死ぬ訳にはいかない。いったい、どうすればいいのか・・・。
「春川さん・・・」
「もう少し考えさせてくれないか・・・」
春川がそう答えた。
何も考えたくない。多分、逃げ出そうとしていたのかもしれない・・・。
春川は左手を額に当て悩んでいた。
突然、春川の携帯電話の着信音が鳴った。春川はびくっと反応し、その電話に出た。
「春川さん・・・大木です」
大木だった。その声は元気のない、ひどく気落ちした声だった。
その弱々しい声を聞いた春川は嫌な予感がした。
「事故に会った僕の知り合い友人ですが・・この病院に受け入れをされていたみたいです。ただ・・・」
大木は途切れ、途切れに言った。
「ただ・・・すぐにどこかの病院に転院したみたいで、今はどこの病院にいるか分からなくて・・・」
「転院? あの出血で転院?」
春川はバスから見た、あの道路に広がっていた血だまりを思い出していた。
驚いた。何か変だ。
「ここから歩いて近いので、今からその知り合いの家に行ってみます」
大木はそう言った。加奈子に連絡が全く取れていない現状に、焦りを感じていた。
「春川さん・・・僕、その子が大切なんです。守りたいんです。でも彼女が事故に巻き込まれたというのに、今、何処にいるのかも分からない、僕は何も出来ていない・・・」
「分かった・・・」
春川はそう答えた。
「大木、気を付けろよ」
春川は電話を切って、溜息を吐いた。
うしろめたさを感じていた。高校生の大木の行動と、メールを送るかどうかの程度で悩んでいる自分を比較したのだ。
そして田沢を見た。
「大木くんの彼女は、この病院からどっかに転院したらしい。その先は行方不明だそうだ・・・」
「転院? あの怪我で? というか、救急車で運ばれていったの、ついさっきですよ」
田沢は下を向いて首を振った。信じられないことだった。
あの怪我の状態で転院なんて殺人行為ではないのか?
田沢は怒りを覚えた。
これもあの連中のやっていることなのか?
「なあ、田沢、この街おかしくないか?」
そう呼ばれて田沢は、顔を上げて春川を見た。
「独立だの、来たり者だの、無実の人間を罠に掛けるだの、皇帝だの、殺人だの、事故で入院したはずの怪我人はどっかに転院させられているだの」
春川は更に言葉を続けた。
「この町で正義が行われていないのが分かっている。こういうときは、いったいどうすればいいんだ? 一個人が闘うものなのか? この町の人間でない者が、この町のために闘うべきものなのか?」
春川は少しいらいらしているような口調で言った。
一般の人間ならば、当然か・・・。
田沢はそう語る春川を見てそう思った。
おそらく春川はジレンマを感じているのだろう。正義を行使することに対し、生命危険を伴うこの状態に。
だが、田沢はなんとしてもこの情報を無駄にしたくなかった。
突然、重い沈黙を破るかのように春川の携帯の音が鳴り、メールが入って来たのを告げた。
春川は静かにそれ読んでいたが
「まいったな」
と少し笑って言った。
「嫁からのメール。娘の由井がぱぱ大好きって言えるようになったってさ」
そして春川は頷き決心した。
「犬山を救おう・・・・」
しっかりした口調だった。
その瞬間、強い風が夕闇で暗くなりゆくこの町に走り抜けた。それはマイクロバスの中に居ても感じる強い風だった。
風が通り抜けた後はその反動のように辺りに静けさが広がる。
何も音のない世界だった。
今日も夕闇を超え、夜がやってくる。黒く深い闇に支配される時間がくるのだ。