第3章
「あなたの夢はなんですか?」
どこからか声が聞える。
加奈子は自分がどこにいるのか分からなかった。宙に浮いているような感覚だ。今が昼なのか朝なのかも全く分からない。
また声がした。
「あなたの夢はなんですか?」
子供の声だろうか? 女の子の声のような感じだ。加奈子は声のする方角を見たが、そこに誰かがいるような気配はなかった。
不意に加奈子は足が地に付いたような感覚を覚えた。加奈子はそこを足がかりに歩き始めると世界に少し濃淡が付いてきた。道路のようなものが見える。川べりのようだ。
「あなたの夢はなんですか?」
またあの声だ。加奈子は声のする方角に振り返った。
そこには見たことのある光景が広がっていた。あの夜の出来事が再現されはじめていた。男が子供のような影を穴に放りこんでいるのが見える。そしてまた一人の子供を放りこむのが見えた。
加奈子は自分の呼吸が荒くなってゆくのを感じた。胸を締め付けるような苦しさがやってきた。
「あなたの夢はなんですか?」
あの声がまた聞こえた。
そうか・・・うん、そうか。きっとあの子供たちが言っているのだろう。自分の未来を強制的に終わらされた無念さがそうさせているのだろう。
呼吸が速くなっているのが分かる。熱が奪われ、体温が下がって行く。苦しい・・・ここから逃げださないと私は倒れてしまう。
そう加奈子が思ったときに、加奈子の目が覚めた。
加奈子はゆっくりとベッドから身を起こす。呼吸が荒い・・・汗も相当出ている。長い時間うなされていたのだろう。
一昨日、遺体は見つかった。いったい誰が通報したのだろう。そしてその誰かはもう一つの犯行も通報している。
私は何もしなかった・・・そのことで心に傷が入ってしまったみたいだ。昨日の夜も同じような夢を見た。そして同じように夜中に目が覚める。
時計を見た。午前四時・・・加奈子は階下に降りた。
「ふう」
加奈子は溜息をついた。
加奈子は台所の蛇口から水をコップに注ぎ、ゆっくりと飲んだ。遠くで新聞配達のバイクの音が聞こえる。動いては止まって、動いては止まる音だ。
廊下に出ると大木のことが思い出された。
ここで大木君とキスをしたんだわ。
あのとき何故大木とキスをしたのかよく分からなかった。大木が好きなのかどうか分からない。だが、大木に強い引力のようなものを感じたのだ。
でも彼はここに二週間しかいない。そして彼の目には、私の姿はおそらく白黒の映像でしか映っていない・・・。
そう思うと何か複雑な思いがした。
自分の気持ちが良く分からない・・・惹かれているかもしれないけど・・・。
加奈子は静かに二階の自分の部屋に戻った。そしてカーテンを開け、まだ暗い外を眺めた。
この真っ暗な世界が、これから明るくなり、いつもと同じように朝が来る・・・。
本当に朝は来るんだろうか? 朝が来たらこの暗い世界は全く無くなってしまうのだ。
加奈子には、それがとても不思議なことのように思えてならなかった。
この日の大木のトレーニングは、午前中に背筋強化の筋トレを行い、午後は複合の選手と一緒に七十キロの自転車漕ぎを行うことにしていた。
「幾つかの小さい山を登っては降りて、登っては降りての結構過酷なコースだよ。まあ大木君は若いから問題ないかな」
複合のコーチの田沢は笑いながら言った。黒ふちの眼鏡で、短髪だという以上に、辛くて大変な練習をさらっと指示するのが彼の特徴だった。去年の秋の合宿もそんな感じだった。
いやいや、それ、結構つらいですって。
大木は田沢の笑いにつられるように苦笑いをしながらそう思った。
「他の連中は複合選手だから、あっという間に差をつけられるかも知れないけど、まあ頑張ってみて」
田沢はそう言って励ますように肩をポンと叩いた。
空は少し雲が多かったが、天気予報では雨は降らないと言っていた。窓からは雲がゆっくり動いているのが見える。
大木は午前中のジムでの筋トレを終えるとすぐに携帯を持って外に出た。そして合宿所からグランドに降りるコンクリートの階段に座った。
携帯でメールの確認していた。
一昨日夜の犬山のメールに大木はすぐにメールを返した。
だが、犬山からの返事はない。それどころか、今や犬山とは電話すら繋がらなくなってしまっている。
犬山の身が心配だった。メールの内容がネガティブなものだったのも気になっていた。
大木はゆっくり顔を上げ、流れる春の雲を眺めた。
どうしてしまったんだ・・・犬山さん・・・。
その寂しげな背中が合宿所から見える。春川は足を止めた。
「大木の奴、飯も食わずにあそこで何やってるんだ?」
食堂に向かっている途中だった。春川は横にいた複合コーチの田沢にそう言った。田沢は窓の外に目をやった。携帯を手にして、ぼんやり空を眺めている大木の姿が見える。
元気がないな。
田沢は大木の様子にそう思った。
「元気なさそうですね。彼女にでもメールしているのかな? 振られたとか」
「あん? 大木に彼女なんていたっけか?」
「さあ?」
田沢はとぼけたように答えた。春川はその様子を見て笑いを漏らした。
田沢は春川より三歳年下の三十代前半だったが、何故か気が合う。この田沢という男は、元々は陸上自衛隊の人間で、クロスカントリースキーの選手をやっていた。そこそこ強い選手だったが、膝の怪我で選手を引退し、そのとき自衛隊も退官した。それ以来、四条電機スキー部のコーチをしている。
その田沢はふと思い出したように春川に言った。
「そういえば、この間の四条電機テクノでの歓迎会、なんか異常な雰囲気でしたよね」
「ああ・・・」
春川は自分と大木が挨拶したときの聞き手の反応を思い出した。あんな冷たい反応は初めてだった。聞き手たちは明らかに反感を持って聞いていた。
「排他的だったな。俺のときもそうだったが、大木君の挨拶のときはもっとひどかった。差別的な言葉は出るし、喧嘩は起きるし」
「とても正常な人間とは思えませんでしたよ」
「だよな」
「大木君はまだ高校生ですよ。その彼に大の大人が無神経な野次を飛ばしているのはどうかしているとしか言いようがない。大木君はよく我慢したと思っています」
田沢の声は怒っていた。その様子を見ていた春川はふと思い出したように言った
「そう言えば・・・あの野次を止めた奴って、前、営業でスキー部の広報担当だった犬山に似ていなかったか?」
田沢は大きく頷いた。
「あれは犬山さんでしたよ。よくぞ止めてくれたと思いました」
「そうか、やっぱり・・・あいつ、昔から妙に正義感が強いところがあったからな・・・」
春川は腕を組み、あごの髭を左手で触りながらそう言った。
「けど、今回はその正義感は裏目に出ていたな。結局は喧嘩になってしまったし」
「・・・ですが、私は犬山さんを尊敬していますよ」
春川は少し驚いた表情を見せた。そして軽く頷いた。田沢は言葉を続けた。
「私がクロスカントリースキーの選手を引退して、自衛隊を退官したとき、コーチに誘ってくれたのが、犬山さんだったんです。あの頃は嫁と結婚したばかりでしてね。本当に助かりました」
田沢は照れくさそうに笑った。
「大木さんは本当にいい人だと私は思っています」
「そうだな・・・」
春川はそう返事をして、少し考えた。そしてぽつりと
「犬山の奴、ここで上手くやっていけているのかな?」
と呟いた。
「ここの工場、というかこの街って、なんか排他的っていうか、よそ者に対して攻撃的というか、なんか変だよな」
「そうですね・・・犬山さんなら大丈夫と言いたいところですが、多分難しいでしょうね」
田沢はそう答えた。そして言った。
「凛の民だからですかね・・・」
「凛の民? ああ、この地方に多く住んでいる」
「閉鎖的なのは凛の民だからですか?」
「そうじゃないの? 凛の民が閉鎖的なのは今に始まったことじゃないし、昨日のニュースじゃあ、独立派がどうのこうのって言っている。余り感心しないよな。自分勝手なことばかりで、争いばかりを招く。それで実際に何が得られるって言うんだ?」
春川の言い方は強く、怒っているようだった。田沢も同感だった。そして言った。
「来週の市役所に訪問する件、聞いていますか?」
「ああ・・・聞いている。市長に表敬訪問するんだっけ?」
「そうです。立原市側から、参加者として春川さんをはじめとしたオリンピック経験者を要請されていました。こちらから大木君も加える旨を伝えたらですね・・・」
田沢は窓の外の階段に座っている大木を見つめながら言った。
「先方に断られてしまいましたよ。大木君は遠慮してほしいと。選手資格すら怪しい人間に来て貰っても困ると言っていました」
「大木を差別しているのか?」
即座に春川は反応した。怒っているのが十分に分かる。
「私も怒りを覚えています。凛の民はちょっと・・・いや、かなり変わっていますからね。そういった差別的な発想が堂々と出たのでしょう」
田沢はそう答えた。田沢は凛の民が嫌いだった。彼は子供の頃、父親の仕事の都合で一年だけK地方に住んでいた。彼らは排他的で、閉鎖的で、独善的で、他者を平気で傷つけ、その上自分の権利は強く主張していた。
子供ながらこの民族は最悪だと思っていた。そしてそれが一部の人間のものとはとても思えなかった。凛の民全体がそういう人間の集まりのように思えて仕方がなかった。
田沢は廊下の窓から階段に座っている彼を見た。ゆっくり立ち上がり、合宿所の建屋に向かう様子が見れた。
そして彼は加奈子の家での加奈子とのキスを思い出していた。それは高校生の彼にとって始めての経験だった。
加奈子の大きな目を思い出す。風に揺れる加奈子の長い髪も思い出していた。
弱い風が吹いている。
白い風船が一つグランドに流れてきた。その突然の存在に強い違和感を持ちながら、大木はその風船を目で追った。
風船は空高く浮いたかと思った瞬間、風でグランドに押し戻され、また空へ向かって浮き上がってゆく。
何処から流されてきたのだろうか・・・そして何処へ流されて行くのだろうか・・・。
大木はぼんやりそれを見ていた。
七十キロの自転車トレーニングは予想以上に辛い。
おそらく大木一人での練習であったら、こんなトレーニングは取り入れなかっただろう。
「有酸素運動は持続力のある体力を作るのに良いんだよ」
複合コーチである田沢は教えてくれた。いろいろ勉強になる。
複合の選手と一緒の練習だったが、彼らの持続力は半端がない。幾つかある山の最初の上り坂で、あっというまに引き離された。
「すごいな」
それからの残り五十キロは一人で走った。そしてあと二キロ程で合宿所に着く。
大木は自転車を漕いでいた。
「それにしても、あの犬山さんの会社を退職するっていう弱気のメール・・・」
歓迎会で僕をかばったために周りに攻撃されたのだろうか? 劉前さんが遭遇した事件もそうだが、この街はなにかおかしい。
空は今にも降りそうな曇り空だ。天気予報では雨は降らないと言っていたが、本当だろうか?
そう考えた瞬間に大粒の雨が頬に当たった。そして雨粒は絶え間なく落ち始め、やがて春の大雨となった。
大木が合宿所に到着し、敷地に入った。そして異様な様子にぎょっとした。
合宿所の駐車場に警察の車が数台止まっている。そして何人もの警官が寮の中に居るのが見えた。
「なにかあったんですか?」
大木は合宿所の建屋に入るとすぐにコーチの田沢にそう聞いた。
「おっ到着したな。大木君、雨大丈夫だった?」
「駄目でした。あともう少しというところで降られました」
そう言っているそばから、髪の毛から雫がぼたぼた落ちている。
「そっか。風呂に入って、体を温めといた方がいいな」
「はあ、あの・・・何かあったんですか?」
大木は寮の様子を伺いながら、もう一度田沢に聞いた。
「いや・・・良くは分からないのだけど、寮で家宅捜査をしているみたいなんだわ」
「家宅捜索・・まじですか?」
「そうみたいだね」
「寮の家宅捜査って・・・四条電機の人が疑われているですよね。何の事件なんですか?」
大木は少し不安を感じながら、田沢に聞いた。
「いやあ、良く分からないんだわ。今、春川さんと監督が聞きに行っている。帰ってきたら、もう少し詳しい情報が入ると思うよ」
大木はすぐにでもその情報を聞きたかったが、寒気が少ししてきた。田沢のアドバス通り風呂に行こうと思ったとき、寮の建屋から春川が帰ってくるのが見えた。
「春川さん」
田沢が春川に声を掛けた。
そして大木は春川の顔を見て驚いた。春川の顔が真っ青だったからだ。何か嫌な予感を感じざるを得ない。
春川の足取りは弱く、今にも倒れそうだった。春川は倒れるようにロビーにあるソファに座った。
「どうしたんです、春川さん」
大木が春川に駆け寄って言った。次々に他の部員が春川の周りに集まってくる。
春川は横目で大木を見た。
「犬山さんの部屋が家宅捜査されている・・・」
大木は衝撃受けた。
「犬山さんの部屋・・・家宅捜査・・・」
春川は大木の驚く様子をみて呟いた。
「無理もないか・・・」
「いったいどうなっているんですか? 犬山さんは何の罪で疑われているんですか?」
大木は動揺して、上手くろれつが回らない。不安がどんどん大きくなってゆく。
「信じられない話だが・・・犬山は立原市内で起きていた弁護士一家四人の死体遺棄の罪と、別件の死体遺棄の罪を疑われているらしい・・・」
「そんなばかな!」
大木は周りが動揺する程の大声で否定した。
劉前さんの見た犯人は複数だ。この立原で孤独を感じていた犬山さんが犯人の訳がない。
大木の後ろに立っていた多くのスキー部のメンバーが大木の声に反応した。「行方不明? 何の事件?」とか「犬山さん?」といった声が聞こえてくる。
「ここ連日ニュースで流れていたあの事件か・・・」
田沢はそう呟いた。
「それで、犬山さんはなんて言っているんですか?」
大木は急かすように春川に聞いた。
「それが・・・犬山さん、行方不明でな。警察は捕まるのが怖くて逃げているんじゃないかって言っていたよ」
春川は声を絞るように答えた。
「そんなばかな・・・」
突然、大木は携帯を取り出した。そして犬山の携帯番号に電話を掛けた。
「電源が入っていないか、圏外に居るかのどちらかで・・・」
そんな機械音が聞こえた。その機械音を聞いて大木は両膝を床に落とし、うなだれた。動揺して、自分を支えていた全てを失ったように見える。
「大木君・・・」
田沢は大木の側に屈み、声を掛けた。
「犬山さんの携帯・・・繋がりません」
大木は田沢を見て言った。
田沢は小さく二、三回頷いた。
そして犬山の友人でもあるこの高校生の十七歳の青年に掛ける言葉を必死で捜していた。
家宅捜査は終わったようだった。
寮から警察の人間が引き上げてゆくのが、合宿所の窓からも分かる。春川は窓際に立ち、その様子をじっと見ていた。
合宿所のロビーは沈黙に支配され、重い空気だった。その空気に耐えかねたのか、他の部員は各自の部屋に帰ってゆくか、ジムの方に消えてゆくかして、合宿所のロビーには春川と田沢と大木の三人だけになった。
大木を濡らした雨は既に止んでいて、大木の髪の毛ももう乾いていた。
「僕は・・・」
大木は力のない声で突然話し始めた。その声に春川は振り向いた。
「僕は・・・犬山さんのおかげで四条電機とプロ契約をすることが出来ました・・・」
大木の視線は下を向いたままだ。
「その頃、犬山さんは営業で、僕は高校一年生で、連盟からは僕の目が競技に危険という理由で、大会出場の辞退を求められていました」
その言葉で田沢もその頃を思い出した。いきなり営業の犬山が来て、大木という高校生とプロ契約を結ぼうと言ってきたのだ。一人で上層部と掛け合ったという噂もあった。
「スキー連盟の狭い了見で埋もれてしまうには惜しい人材です」
犬山はそう言って説得を続けた。スキー部広報を兼務しているとはいえ、犬山がスキー部の人事に干渉するのは行き過ぎの感があった。だが、犬山はいろんな部署のいろいろな人間と交渉し続けた。
田沢も犬山からコメントを求められ、大木の滑りの動画を見させられたときは震えが止まらなかったことを覚えている。
「逸材だ・・・連盟の連中の目は節穴だ」
田沢はスキー連盟の一部の理事に白黒しか見えない大木の目を気味悪く感じている人間がいることを知った。そして犬山の強い正義感に感心し、大木のスキーの実力を認め、プロ契約を結ぶべきだと考えた。
四条電機とプロ契約したことで、大会出場の辞退は求められなくなったようだ。だが今後の大会参加は今期の結果を見て議論という形になっていると聞いた。
そういう状態ですら、大木にとって大きく前進している状況だと言えた。
「犬山さんは僕を助けてくれました」
大木は春川と田沢にそう言った。
「あんなに人のために頑張れる人が、犯人だなんて絶対にありえません」
春川は大木の声にはっとした。声が力強くなっている。
「僕は信じています」
その様子から一旦動揺して揺らいだ信頼が、既に大木には戻ってきているようだった。
ああそうか・・・。
春川はそう話をしている大木を見てそう思った。
スキー連盟からの終わることないストレス、自分の目の障害に対するコンプレックスに耐えていられるのは、大木の前向きというべきか、折れても立ち上がれる強い心のおかげなのだろう。
大人である春川が、いまだ折れた心を立て直せないでいるは、自分でも情けなかった。
田沢は別のことを考えていた。一つ気になっていたことがあったのだ。そして両手で黒ふちの眼鏡をかけ直し、口を開いた。
「あの事件、そもそも一人で出来る犯行なのだろうか・・・」
それを聞いて、少し躊躇い、大木は言った。
「犬山さんは排他的なこの街で孤独に苦しんでいました。僕に送ってくれたメールにそういった内容のメールがありました・・・」
そう言ってすぐに大木は後悔に似た感情を覚えた。犬山の名誉を傷つけてしまったように思えたのだ。
そしてそれを聞いた春川は、強いショックを受けた。
あの犬山がそういった状況に追い込まれるなんて・・・。
歓迎会で感じたこの街の排他的な嫌な雰囲気を思い出した。
この街の排他性が大木を孤独に追い込んだのか・・・。
強いショックは強い怒りに変わった。そして
「大木が・・・一人の協力者がいない状態で複数の人間を殺害し、死体を遺棄できるものだろうか?」
と言った。
それを聞いた田沢も頷いた。
思い出した。
「そういえば・・・犬山さんは車の免許を持っていない・・・」
春川と大木は田沢を見た。
「前に犬山さんが営業の頃に一緒に飲みに行ったことがあります。そのとき学生時代に免許を取らなかったのを後悔していると言っていました」
そして続けて言った。
「孤独に悩んでいて、車をもっていない人間が、何人もの死体を遺棄するなんて不可能です」
それを聞いて大木は少しの安心を感じた。犬山の無罪が証明されたような気にもなった。
「それと犬山さんの異動は半年くらい前の話です。犯行が行われたのが四ヶ月前ですから、犬山さんは転勤してからわずか二ヶ月で犯罪に手を染めたことになります。動機を設定することすら難しい気がしますが」
田沢は更に言葉を続けた。
「それに犬山さんの性格からして、疑われたから逃げるということはないはずです。だから、今犬山さんの行方が分からないというのは・・・」
「事件に巻き込まれている・・・」
春川はそう呟いた。
おそらくそうなのだ・・・。
大木が窓から空を見るとあれだけ降っていた雨は止み、雨雲も消え、きれいな星空が見えている。大木は空の移り変わりの速さに多少の不気味さを感じながらも、きれいに輝く星をじっと眺めていた。
空の星は輝いている。人の小さい感情の動きとは無関係にキラキラ輝いている。
嫌な予感がしてならなかった。
大木は眠れないでいた。時計は既に一時を回っている。暗闇の中で目覚まし時計の時を刻む音が響いていた。
テレビのローカルニュースは、死体遺棄の容疑者自宅を警察が家宅捜査した話で持ちきりだった。大木はそのニュースを不快に感じたが、容疑者の名前はまだ明かされていないのが唯一の救いだと思った。
警察は証拠固めがまだ十分ではないと考えているのだろうか?
少し調べれば、犬山さんに免許がないことが分かる。それだけでも疑いはすぐにでも晴れるはずだ・・・。
ニュースでは「凛の民族の独立論に反感を持った容疑者の犯行」と言っていたが、それだけでも犬山の犯行ではないように思えた。
大木には何故犬山が疑われているのか、理由が全く分からなかった。
ありえない選択としか思えない。
大木はそう思っていた。
加奈子もそのニュースを自宅のテレビで知った。ニュースでは青年一人と、加奈子が目撃したあの弁護士家族の四人を死体遺棄した容疑者の家宅捜査が行われたと言っていた。容疑者は県外から来た人間らしかった。
凛の民族の独立を唱えている被害者に一方的に反感を抱いての犯行と言っていたが、加奈子には現実感のない動機に聞こえた。
「違う・・・」
ニュースでは単独犯の犯行と言っていたが、加奈子の目撃したのは複数だった。明らかに異なる。
そもそも独立派って、なに? そんな派閥があったなんて、初めて聞いたわ。
部屋の時計の針は夜中の一時を既に過ぎていた。
そろそろ寝よう・・・。
加奈子は心にあるこの違和感と不安を誰かに話したかった。真実が隠されるという強いストレスに似た感情が、序々に自分を押し潰してゆくのを感じていた。
大木に会いたかった。そして話をしたかった。
そのとき大木は、寮の食堂の自動販売機で飲み物を買っていた。
全く眠れなかった。
大木は食堂の電気をつけず、窓を開け、食堂の椅子に座り、窓の外の星を見上げた。
暖かい春の風が強く吹いていた。
この風が雨雲を吹き飛ばしたのだろうか。
大木の髪が風になびく。
携帯で再び犬山に電話をしてみた。コール音が聞こえたかと思うとすぐに機械音の留守電に変わる。
「いったい何処にいるんだ・・・」
大木はそう呟いた。
無事でいるのだろか・・・いや無事でいてほしい。無事に違いない。
強く思った。
そして大木は加奈子があのニュースをどう見たのか気になっていた。
当然、現在逃走中の県外出身の容疑者が犯人だと思っただろう。いや、でも・・・果たしてそう思うだろうか・・・。
ニュースの内容は矛盾が多い上に、何よりも加奈子の目撃と異なる。ニュースでは「犯人は単独だろう」という警察のコメントを流している。
大木は加奈子に会いたかった。
真実と異なるニュースは加奈子に強い不安を覚えさせていた。
突然、強烈な眠気が彼女を襲う。それは抑えつけるような強制的な眠気だった。加奈子はなんとか蒲団に入り、横になった。
その途端、少女のような声を耳にした。
「あなたの夢はなんですか」
ああ、あの夢か・・・加奈子はそう思った。
「あなたの夢はなんですか・・・」
また声がした。加奈子はこの問いに答えたことがない。答えるのが怖かったのだ。
少女のような声の問いが二回あったが、いつもと違い、あの死体遺棄の事件があった川べりの風景に移らない。気がつくと加奈子は、濃淡のない緑色の世界に加奈子は居た。
大木は強烈な頭の痛みに襲われた。目を閉じ、手で頭を抱えていたが、周りの様子が何か違うと感じた。目を開けると、自分の周りの全てが緑色の世界に染まっていた。
自分の目が色を認識している・・・。
大木は頭痛に耐えながら周りを見渡した。食堂の窓が消え、机が消え、椅子が消え、やがて全ての物が消え緑色だけの世界になった。
大木は椅子が消えた拍子に床に転がったが、やがてはその床の感覚すらもなくなった。
前に一度、この緑の世界、経験をしたことがある。あの雪崩の遭難者を助けたときだ・・・。
耐え難い頭痛の中で大木はそれを思い出していた。呼吸することも苦しく、肩でするような息をしばらくしていたが、やがて頭痛は治まり、呼吸も楽になっていった。
大木は遠くに人影を見た。
間違いようがない。
加奈子だ。
だが、この緑の世界であっても、大木の目では加奈子は白と黒の色でしか彩られていない。大木はその事実に深い溜息をついた。暗い気持ちに支配されそうな気がしたのだ。
加奈子も大木に気づいた。
流れのようなものを感じる。ゆっくりだが、お互いの距離が近づく。そして手が届きそうな距離になると、その流れは急になくなった。
「夢の中・・・なの?」
ただ夢にしては大木の輪郭がはっきりしている。この緑色も鮮明で目に痛いくらいだ。
夢ではないような感じがする。
「いや・・・夢の中じゃない。僕はさっきまで合宿所の食堂にいたんだ」
「じゃあ・・・ここは?」
「分からない・・・急に頭痛がして、この緑の世界が広がっていたんだ・・・」
加奈子は大木の言葉に驚いた。
「大木君、この緑が分かるの?」
大木は少し考えて言った。
「分かる。前もこんなことがあった。頭痛がして周り緑一色になって・・・」
そして表情を硬くし言葉を続けた。
「だけど劉前さんは・・・この緑の世界でも白黒でしか判別できていない・・・ごめん」
加奈子は大木の言葉にはっとした。大木の言葉から、大木の悲しい気持ちが伝わってきた。
「大丈夫よ。大木君」
加奈子は出来るだけ明るい表情でそう言った。
「大丈夫、大木君」
もう一度言った。
しばらくの沈黙があった。
やがて大木は話を始めた。
「あの死体遺棄の事件だけど・・・」
大木は黙った。やはり話すのは躊躇われる。
「疑われているのは・・・僕の知り合いなんだ」
加奈子は驚いて小声で「え」と言ったが、驚きの表情が顔に出るのを抑えた。大木の苦悩する表情が見て取れたからだ。
「僕の恩人なんだ・・・いったいどうして犬山さんが疑われているのか・・・僕の目は白と黒しか判別できない。犬山さんはスキー連盟の圧力から僕を救ってくれた人なんだ」
大木は下を向き、そう言った。泣きそうな表情にも見える。それを見て加奈子は言った。
「私もその犬山さんという人が犯人ではないと思う・・・あのニュース、そもそも動機に無理があるわ」
その言葉で、大木は救われた気持ちになった。
「ニュースでは単独犯と断定していたけど、私が見たのは複数の人間だった。明らかにあのニュースはおかしいわ。まるで・・・」
加奈子はその先に言おうとしていることが正しいのか分からなかった。大木は加奈子の顔を見て、次に続く言葉を待っていた。
「まるで・・・その犬山さんを無理やり、犯人に仕立てているような気がする」
大木はその言葉に打たれるような衝撃を受けた。
警察が犬山さんを無理にでも犯人にしようとしている。にわかには信じられないが、言われれば合点がいく点が多い・・・。
大木は加奈子にいろいろ聞きたい。
考えをまとめていた。だが、話をしようとした瞬間、大木の周辺は一瞬にして寮の食堂に戻った。
「・・・」
まるでテレビの画像がいきなり切れてしまったかのようだ。大木は食堂の椅子に座っていた。
当然、加奈子はいない。
「夢・・・だったのか?」
戸惑いながら自問自答した。とても夢とは思えない感覚が大木には残っている。大木はしばらく呆然としていたが、やがて席から立ち、自分が開けた窓を閉めて鍵を掛けた。
不安で寂しい感情に襲われていた。加奈子に会いたいと思った。
本当にそう思った。