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第2章

 夕方を過ぎると立原の工場群周辺の道路は帰宅の車でひどい渋滞になる。薄暗い夕暮れの中で車はピクリとも動かない。いつもの光景だった。

 犬山は渋滞を横目に自転車に乗って坂を下ってゆく。犬山は自動車の免許を持っていない。学生時代から自転車好きだったこともあり、自転車で会社に通っている。

 これから宅配便の集配所に寄って、実家に荷物を出すつもりだった。

 そうだ・・・今日、大木君が合宿所に来るんだったな。

 自転車に股がったときにそう思った。

 犬山が東京営業だったとき、彼の躍動感あるモーグルスキーを動画サイトで見て、胸を打たれ、感動したのを覚えている。それは大木自身がUPしたもので、当時スキー部の広報を兼任していた犬山はダイヤの原石を見つけたかのように興奮し、四条電機のスキー部に彼を紹介したのだ。

 それからの仲だ。メールのやり取りを頻繁にしている。案外高校生と三十前のおっさんでも、友情というものは成立するものなのかも知れない。

 山の上にある工場を出て、自転車で坂を下ってゆく。街灯はほとんどなく、辺りは暗く、真っ黒な世界が広がっている。自転車のか細い光だけでは、どこからどこまでが道の幅なのか、どっちが上で、どっちが下なのか、それすらも全く分からなくなることがある。

 犬山はこの町が嫌いだった。

 県外から来た人間を「来たり者」と呼び区別し、自らを「凛の民」と称し、閉鎖的な文化を守り続ける、この町が嫌いだった。

 来たり者に対し、地元の人間は距離を置く。学校も、会社も、あまつさえ買い物する店ですら、彼らの間に見えない境界が存在している。

 犬山の部下は皆「凛の民」と自称する輩ばかりだった。中には「凛の民族保存会」の青年部の世話役だっている。

 犬山は四条電機からの出向者という妬みも手伝って、露骨な嫌がらせを会社で受けていた。PCの電源が抜かれていたり、靴がごみ箱に捨てられていたり、到底我慢できない子供レベルの嫌がらせを受け続けている。今日の工程が勝手に変更されていた件もその一端だ。

「くそっ、あの馬鹿な連中共!」

 罵るような言葉を口に出した。

 犬山は表情を硬くして自転車で坂を下ってゆく。自転車は国道と合流し、更に国道を一キロほど走ったところで、目的の場所に着いた。

 犬山が受付で東京への宅配伝票を渡すと、パートらしき中年女性は犬山の顔を観察するように眺めた。

「なにか?」

 犬山はその小太りの中年女性に聞いた。大方、東京の住所と宛先をみて「こいつは来たり者」とでも思っていたのだろう。実家に荷物を送るだけで、こんなに嫌な思いになるとは・・・。

 こういった対応には何度か会っている。本当に嫌だ。

「あなた、来たり者?」

 小太りで中年でパートらしきその女性は言った。

 その言葉で、犬山は一瞬にして自分の自我が飛んだのが分かった。

「荷物を送る客にそういう言い方はないんじゃないか?」

 その中年の女性は「なんで怒っているの?」という顔で、そのまま犬山を無視して荷物の採寸取りを始めた。

 犬山はその態度に頭に来たが、我慢した。こんな人間のために自分の気分が害されるのは全く意味がない。そう思い我慢した。それは、犬山がいつも会社で考えるようにしていることだった。

 犬山は荷物の代金を払って集配所を出ようとしたとき、犬山の後ろで「ごとっ」と何かが床に落ちる音がした。

 犬山はすぐに後ろを振り返った。

 犬山の荷物が床に落ちている。

 中年のパートらしき女性は何も気にせずに荷物を所定の置き場に置き、そこを立ち去ろうとしていた。 犬山は驚いた。

「ちょっと待ってください。今その荷物、落としましたよね。それ、割れ物に丸をしていますよね。何か俺に言うべきことがあるんじゃないですか?」

 その中年の女性はむすっとして何も言わない。

「その荷物、こっちによこしてください。割れていないか確認させてください!」

 犬山の声はだんだん大きくなっている。たが、中年の女性は犬山を無視して、荷物を奥にもって行こうとしていた。

 犬山はその行動が理解出来なかった。そして思った。これが立原なんだと。来たり者には適当にやっても構わないという態度が何故まかり通っているのか不思議だった。

 この町はおかしい、どうかしている!

 今日の会社での嫌な出来事が重なった。

「おかしいんじゃないのか!」

 犬山は集配所で怒鳴った。遠くにいた宅配便の社員らしき人間がその声に反応し、慌てて大木のところに来た。

「そこの人、僕の荷物を落として侘びもないし、中身もチェックもさせてくれない! おかしいんじゃないのか!」

 犬山は強い声で抗議した。

 その寄ってきた男性社員は、中年の女性のところに行き、何やら確認をしている。そして犬山の荷物を大木のところに持ってきた。

 犬山は箱を開け、中身を確認し始めた。箱の中からは母から頼まれていた焼き物が入っている。犬山が隣の県まで行って、買ってきた大皿だ。

 幸いにも割れていなかった。

「割れていないじゃない」

 パートの中年女性は大木に対して憎々しげにそう言った。

「それでも、あなたの態度はおかしいでしょう!」

 犬山がそう言っている様子をパートの中年女性は一切無視している。その後、男性社員が仲裁に入り、犬山に型通りの謝罪が行われ、犬山も怒りの矛を鞘に収めた。これ以上抗議を繰り返すのも大人気ないと思ったからだった。

 犬山は集配所を後にした。

 だが、残された集配所の面々はすぐにひと塊になった。そして今繰り広げられた出来事を総括していた。

「柏木さんは悪くないよ」

「凛の民族保存会に連絡だ。あんなやつ、来たり者リスト送りだ」

「そうだ」

「そうだ」

 即座に同意する声が聞えた。手際よく犬山の伝票から、名前、住所、電話番号が書き写され、メールでその内容が凛の民族保存会に送られた。

 既に自転車に乗り、不愉快な思いを抱えながら、帰路についている犬山はその陰険で悪質な行為を知るはずもなかった。

 暗い闇が続いていた。

 音の無いその黒い世界に犬山の自転車を漕ぐ音だけが響いている。

 黒く陰湿で嫌な世界だった。

 


 自転車を十五分程走らせ、犬山は社員寮の門までたどり着いた。入口の犬山の背丈程はある大きな石には「四条電気立原合宿所」と掘ってある。その下に付け足したように金属製の「四条電気立原社員寮」の看板がはめ込まれていた。

 この土地には当初合宿所しかなく、社員寮は別の場所にあった。それが老朽化して、空いている土地があったこの合宿所の土地に社員寮を建てたのだと聞いている。

 犬山が自転車のスピードを緩め、寮の門に入ろうとしたとき、突然門から若い男女二人が走って出てきた。

 犬山は急ブレーキを掛けて、自転車を止め、怒鳴りそうになった。だが、それを止めた。二人ははかなり急いでいるようで、犬山の自転車には全く気づかず、バス停の方へ走ってゆく。

「あれは・・・大木君か?」

 犬山は少し冷静になった。

 女の子は知らない顔だな・・・高校生? 犬山君の彼女? まさか。

 まあ、戻ってきたら近況でも報告してもらうか。この間の大会の様子も聞きたいしな。

 犬山はそう思った。大木が果敢に滑る映像が思い起される。ネットにUPされた彼の滑りは、常に斜面を攻める、前向きで心踊る滑りだった。最近は彼のファンが増えたのか、ほとんどの大会での彼の滑りが動画サイトにUPされている。それは犬山にとってうれしいことだった。

 本当に・・・大木君のモーグルは元気付けられる。

 何度も挫けそうになっても、犬山はネットの大木の姿を見て、逃げずに踏み止まり、頑張った。大木の滑る姿が、今の犬山を支えていると言っても過言ではない。

 その大木自身は四条電機とのプロ契約出来たことで、犬山に感謝していた。そういう内容のメールが今でも犬山のところに来る。

「だけど、救われたのは大木君ではなく、僕なんだ・・・」

 犬山はそう呟いた。

 犬山はしばらくその場で、大木とその横で走っている女子を見送った。なんだか微笑ましい気がした。

 大人を相手に渡り歩き、大人相手に戦っている彼は、とても十七歳の高校生には思えなかったが、遠くに見える大木は、なんだか極普通の高校生に見える。

 大木がまたこの合宿所に来たのがうれしく思った。

 そして犬山はゆっくりとペダルを漕ぎ出し、社員寮の敷地に入っていった。


 

 大木と加奈子はぎりぎりでバスに間に合い、飛び乗った。腕時計を見ると十九時を過ぎている。二人とも少し息が上がっていた。

「劉前さんの家はここから遠いの?」

 大木が聞いた。

「十分くらいかしら。次のつぎのバス停なの」

「そうなんだ・・・」

 そう言って大木は少し冷静になった。隣に座るかわいい女子の横顔をちらちら見ながら思った。

 劉前さんはかわいい・・・いやいや、そうではなくて、やっぱり殆ど何も知らない女子の家に泊まり行くのは問題ではないのか? いや問題ありだろう。やはり駅前でホテルを探すべきではないのか?

 それか犬山さんの部屋に泊めてもらうかな・・・携帯に電話してみるか・・・。

「劉前さん、やっぱりお邪魔じゃないかな。ホテルを探すか、心当たりに当たってみようと思うだけど」

「大丈夫よ。さっき家に電話したときに思ったんだけど、母は大木君に会えるのを楽しみにしているみたい。そもそも、私、大木君のことは母に聞いて知ったの」

「うん?」

「母は四条電機テクノで働いていて、今回のスキー部合宿の補助バイトを私に紹介してくれたの。でも、私は断ったんだけど・・・」

 加奈子は急に大木をはずかしそうに大木をみた。

「そのとき母がすごい高校生が来るって言っていたの。ネットで調べてみて、本当にすごい人だなと思って・・・」

 大木は加奈子の話を聞きながら、自分が考えている自分と、他の人間が見る自分との間には差があることを感じていた。

 目に対するコンプレックスと闘っている自分、それに負けそうになる自分・・・自分のアイデンティティを唯一支えてくれているモーグルスキー。

 雑誌やネットの記事に出ている自分は努力家で何事にも折れない強い心を持っている。そう書いた方が大衆受けするのだろう。実際の自分とメディアの中の自分に差が存在し、最近それがストレスに感じ始めていた。

「大木君のスキー、格好よかった」

「グランドに大木君がいたから、私、びっくりして・・・」

 加奈子の話は延々と続いた。

 元気だな・・・それに話好きだったんだ、この子・・・。

 大木はその話の長さに少し苦笑した。

 やがて二人を乗せたバスは、加奈子の家近くのバス停に停まった。二人はバスを降りて、春らしいほんのり暖かな夜の中を歩き始めた。

 この近辺は昔からの家が多く、肩の高さ程の土塀で囲まれ、それがここの街並みを形作っていた。道路は三十センチ角ほどの石畳で敷き詰められ、古くからの街であることが伺える。

「ここは昔、立原藩の武家屋敷があったところなのよ」

 先に歩く加奈子が言った。

 土塀に何か貼っている。大木が暗がりの中、近寄ってそれを見ると「立原凛祭り」とあった。

「祭りがあるのかな?」

「一週間後にあるの。K地方でも大きな祭りの一つなのよ」

 加奈子はそう答えた。

「出店がいっぱい出て、民族の舞や踊りの奉納があって、山車も出るわ。三日間の最終日は、大きな火柱を建てて、それを倒して終わりって感じのお祭りかな。すごく華やかなのよ」

「ふーん・・・」

 大木は、興味があるのかないのかよく分からない返事を返した。

「大木君はお祭りが好きじゃないの?」

「どうして?」

「あんまり興味なさそうだから」

 大木は歩きながら下を向いた。石畳を一つ一つ確認するように歩いている。

「・・・僕は色の付いている空間って苦手なんだ」

 その瞬間、加奈子は人を傷つけてしまったような感覚を覚えた。

 大木は言った。

「僕は障害で色を見分けられない。でも子供の頃は、色というものを確かに知っていたんだ。だから今の僕にとって、いろいろな色が存在している華やかな世界は本当に辛く感じるときがある」

 大木は少し溜息をついて、加奈子に笑いかけ、そして言葉を続けた。

「でもこんなことばっかり言っていたらだめだな・・・このコンプレックス、なんとかしないきゃいけない」

「うん」

 隣を歩いていた加奈子は大木を覗き込んで、笑って返事を返した。

 大木は加奈子の仕草と笑顔を見て、暖かい気持ちになった。

 かわいい子だな・・・。

 そう思った。大木は自分の顔が熱くなっているのが分かる。

 それから五分ほどで、加奈子の家に着いた。加奈子の家は比較的新しい家だったが、街並みを配慮した土塀に囲まれた家になっていた。

 玄関の前の道路で加奈子の弟がそわそわして加奈子たちを待っているのが見えた。うれしさいっぱいの顔だ。顔に感情の全てが書いてある。

「大木さんのようなスーパー選手が家に来てくれるなんて、すごくうれしいっす。すごくうれしいっす」

 照れない訳にはいかなかった。こういったことはあまり言われたことがなく、実際、言われてみるとうれしいものだと思った。本当に今日はどうかしている。

 大木は遠慮がちに加奈子の家に入った。

「大木さん、その歳でプロのスキーヤーって、すごいわね、本当にすごいわね」

 加奈子の母親は「すごい」という言葉を連発していた。それに加奈子の表情に明るさが戻っているのを見て、ほっとした感情を覚えた。

 大木さんの影響なのかしら・・・だとしたら、本当にすごいわ。

 そう思った。


 

 移動で疲れていたからかもしれない。

 加奈子の家で夕飯に鍋を食べ終え、居間でテレビを見ているうちに、大木はうとうとし始めた。ずうずうしいのではないかという考えもよぎったが、眠気には勝てず、そのうち寝てしまった。

 どれくらい時間がたっただろうか・・・。

「大木君、大木君」

 寝ぼけながらも、大木は自分を呼んでいる女性の声を聞いた。加奈子の声だ。

 このシュチュエーションは今日で二度目だな・・・。

「うん?」

「大木君、ニュース見て」

 ローカルニュースが始まっている。目を擦りながら、居間を見渡した。居間には加奈子と自分しかいない。

 もう十一時か・・・。

 テレビでネットに流れていたニュースが報道されている。

「本日、立原市塩見の立原川の土手で埋まっているところを発見された四人の遺体は、警察のその後の調べで、四ヶ月前から行方が分からなくなっていた弁護士の川口さん家族四人であることが・・・」

 ニュースは淡々と読み上げられている。犠牲者である子供たちが、二歳と三歳の女の子だというくだりで、加奈子は胸が苦しくなり、犯人に対して強い怒りを感じた。

「川口さん家族は凛の民族保存会の理事でもあり、熱心な独立派であったことから、警察はトラブルに巻き込まれた可能性も含め、調査を・・・」

「独立?」

 大木は加奈子を見た。今の日本では聞きなれない言葉に驚いたのだ。

「独立っていったい何?」

 大木は加奈子にそう聞いたが、加奈子はすぐに首を振って、分からないと答えた。

「続いてのニースです。本日、立原市田町の雑木林で若い男性が埋まっているのが・・・」

 同じようなニュースだな。大木はそう思った。

「死後三ヵ月は経っているものと考えられ、遺留品から、行方不明だった会社員の関原さん二十六歳であることが・・・」

「関原さんは熱心な凛の独立派だったことから、怨恨の可能性もあり・・・」

 また凛の独立か・・・この日本で、この時代に、そんなことを主張している人がいるとは・・・。

 大木は違和感を覚えるのと同時に気味の悪さも感じていた。

「尚、二件の行方不明者の発見に関しては、昨日の警察への匿名の情報により発見されたもので、警察はこの人物が何らかの情報を持っているとして捜索を行って・・・」

 加奈子は反応した。

「・・・この通報者って、いったい誰なのかしら?」

「二件の事件を知っている人間って考えると、やっぱり犯人なんじゃないかな?」

 加奈子は、大木の言葉に、遺体を土に埋めた後、犯人の仲間内でリンチを受けていた若者の姿を思い出した。

 彼なのか・・・だとすれば彼の身は相当危険なのではないだろうか? あの集団は幼い子供も手に掛け、平気で仲間にリンチを加える人間だ。仲間を手に掛けるのも何の躊躇いもなく行うだろう・・・。

 加奈子は少し背筋が寒くなるような感覚を覚えた。

 しばらく沈黙が続いた。

「あの、劉前さん・・・」

 大木は躊躇しながら加奈子に話しかけた。

「凛の民っていったい・・・何?」

 加奈子は大木の質問に少し驚いた顔になったが、頷いて答えた。

「元々は奈良時代の渡来人が始まりみたいなの」

「渡来人?」

「そう・・・大陸に凛という国があって、そこが滅んで奈良時代に日本に渡来してきた一族らしいわ。実際、今でも大陸に凛の民族の子孫は存在しているみたい」

「そうなんだ・・・」

 大木はそう返事をした。彼は歴史に詳しくはない。

「立原で人口の半分以上、K地方で一割弱・・・くらいだったかしら。今では六十万人がこのK地方に住んでいると聞いているわ」

「奈良時代って話なら、もう千三百年も前の話か・・・」

 なんと立派な平城京から逆算した。大木の言葉に加奈子は軽く頷いて言った。

「この立原市に三里が岩っていう凛宗の総本山があって、この地が凛の民の中心なのよ」

 聞いてはいけないことのように感じていたが、思い切って加奈子に質問をした。

「劉前さんは凛の民なの・・・?」

 聞きにくいことを聞いたような気がした。差別的な印象に取って欲しくなかった。大木は加奈子の顔をじっと見た。

 加奈子の様子はそういった大木の様子に気づくことなく、至って普通に答えた。

「違うわ」

 加奈子はゆっくりと首を振った。

「私の先祖は、関が原の戦い以降にこの地のきた立原藩の武士なの。凛の民ではないわ」

 そして、加奈子は言葉を続けた。

「でも凛の民族保存会には入っているわ。踊りをする人が足りなくて、半年前に強制的にね」

 大木はそれを聞いて聞いていて矛盾するような気がした。

「この地は凛の民族が多いから、一応入っておかないとね・・・いろいろあるから」

 加奈子は苦笑するように言ってから、最近の民族保存会の言動を思い出した。

 最近、凛の民族を抑揚させる内容や、来たり者への批判、本土批判が多いわ。今日に至っては独立って・・・いったいどういうことなのかしら・・・それにそれを阻害する人間まで現れて、殺人まで犯しているなんて・・・。

 加奈子はそう考えながら、ふと足元を見た。

「いやっ」

 加奈子の声が聞こえてきたと思った瞬間、加奈子が大木の背中にしがみついて来た。しがみつかれた大木は突然のことで「びくっ」とした。

「かえるっ、かえるっ」

 加奈子は床のある方向を指差した。そこには二センチを超えるあまがえるが鎮座していた。

 かえるの動きはにぶい。目覚めたばかりか? この家で冬眠でもしていたのか?

 大木は長野にある自分の家の押入れでてんとう虫が越冬している姿を思い出した。そして笑いが漏れた。

 大木はかえるの方向に歩いてゆこうとしたが、加奈子がしっかりしがみついて、重くて動けない。

 加奈子の胸が背中に当たっている。生まれ初めてのなんとも言えない柔らかい感覚だった。

「劉前さん、背中・・・僕がかえるを捕まえるから」

 それを聞いても加奈子はしがみついたままだった。

 大木は少し苦笑した。さっきまでの深刻さが、このかえる一匹の登場でどこかに飛んでいってしまった。

「わたし、わたし、かえるが駄目なの」

 加奈子の悲痛な声が聞こえる。

 大木があまがえるを捕まえようとしたとき、かえるは大きくジャンプし、壁にへばりついた。

「きゃああああ」

 それから加奈子の家ではしばらく「かえる、かえる」とか、「いやあああ」とかの悲鳴が響き渡った。加奈子の弟が階下にどたどた下りる音や、大木と加奈子の弟の、おそらくかえるを捕まえるためのせわしない足音が聞こえてきた。

 そして最後は加奈子たちの大きな笑い声が聞こえた。かえるは捕まり、外に逃がされたのだ。ほっと安堵した雰囲気は家の外に追い出されたかえるにも伝わった。

 かえるはしばらく加奈子の家を見つめていた。あの中で本当に怖がっていたのは一番非力な自分のはずなのにと思った。

 そして辺りは音のしない、静かな夜の世界に戻った。この町の夜は暗く黒く深い。

 かえるはそんなことは全く気にもせず、春のやって来た外の世界に高く、高く飛び上がった。

 


 さっきの一連のニュースが気になっていたせいかもしれない。大木はなかなか眠れなかった。

 そして突然、大木は蒲団から起き上がり、暗がりの中、自分のリュックサックからノートPCを取り出し、開いて起動させた。そのPCの液晶の光に照らされ、大木の顔が暗闇から浮き出てきた。

 ハードディスクのカリカリと鳴る音が聞こえる。そして大木はあるキーワードを打ってネットで検索を始めた。

 凛の民・・・。

「凛の民は大陸からの渡来人で・・・」

 そこに書いてある文章は加奈子から聞いた殆ど同じ内容だった。大木は小声で読み上げていった。

「西暦六百年代後半に大陸の凛の国が滅んだときにK地方を中心に渡来。当時の規模で数万に及ぶ大移動だった・・・」

「凛の民は民族意識が強く、閉鎖性、選民思想が強かったことから、大和朝廷時代から今日まで差別を受けている。奈良時代、平安時代、鎌倉時代に数回の反乱を起すが、反乱は失敗、多くの血が流れ鎮圧された」 

 大木はさらに読み続けた。

「特に鎌倉期の反乱は大規模なものでK地方北部全体に広がった。守護の大村義勝が討ち取られるなど反乱は成功したかのように見えたが、幕府軍十万により鎮圧される。このとき多数の凛の民が処刑されたとされる」

 大木は歴史に詳しくはなかったが、守護が殺されるというのは、日本の歴史上、大事件であるような気がした。

「凛の民には、奈良時代に大陸から渡来した当時から皇帝が存在していると言われており、この鎌倉期の騒乱も生き抜け、現在も凛の民を統率している・・・」

 今の日本で皇帝って・・・なんだそりゃ。現実離れしているぞ。本当なことなのか・・・?

 そこまで考えて急に眠気が襲ってきた。

 トイレにでも行くか・・・

 大木は自分の居る一階の客間から廊下に出た。廊下の電気は消えていたが、洗面場のドアから漏れる光で、トイレの位置は分かった。誰かがドライヤーを掛けている音がしている。

 大木は廊下の電気をつけずにそのまま歩いた。すると洗面場から鳴っていたドライヤーの音がぴたっと止まり、ドアがゆっくり開いた。

 パジャマ姿の加奈子がそこにはいた。大木は加奈子の髪からシャンプーの良い香りがする。

「あ、大木君・・・」

 加奈子はそう言うと恥ずかしそうなしぐさをした。加奈子から何か暖かい雰囲気を感じる。

 かわいい・・。

 大木はそう思った。同時に大木も恥ずかしくなり、何を話せばいいのか分からなくなった。

 加奈子は特徴のある大きな目で大木を見つめた。

 綺麗な子だ・・・時間が止まったような感覚さえ覚える。

 大木は自分と加奈子との間に、強く引き合う引力のような力を感じ始めていた。ゆっくり大木は加奈子に近づいてゆく。

 加奈子も同じ感覚を覚えた。

 加奈子はゆっくり目を閉じる。

 そして大木は加奈子の唇にやさしく、触れるようなキスをした。

 お風呂上りのの加奈子の唇は暖かくて気持ちが良かった。それは加奈子にとっても、大木にとっても初めてのキスだった。

 十秒くらいだろうか、それとも三秒くらいだろうか・・・。

 キスをした時間はどれくらいだったのだろう。

 二人はゆっくり離れた。

 二人はなんだか幸せな感じがした。

 大木は今まで成功していなかったモーグルのエアが、この場で今すぐ成功するのではないかと思えるくらい幸せな気分になっていた。

 大木はそういったハイな自分の感情を抑えつつ、加奈子に「おやすみ」と言って寝室に帰っていった。

 加奈子は少しの間ぼーとしていた。

 頬が赤くなってゆくのが分かった。

 そして少しずつ我に返る。

 加奈子も大木の後ろ姿を見送った後、あわてたように自分の部屋に帰っていった。

 それはある春の日の、温かい深夜の出来事だった。

 

 

 四条電気スキー部には、大木が登録されるまでモーグル選手は登録されていなかった。これまではジャンプとクロスカントリーを競う複合の選手が主体で、そういった意味では大木の存在は珍しい。

 大木たちスキー部の人間は、合宿所のロビーに集合していた。ロビーの地方新聞を読んでいると「本日から立原市で四条電機スキー部が合宿に入る」と書いてあるの見つけた。オリンピックを経験した数人の選手と共に大木の名前も書かれている。

「天才高校生モーグラーの大木俊介さんも初日から合宿に加わる。大木さんは全く色を見分けられない特殊な障害を抱えており、スキー連盟と選手資格を議論して・・・」

 その記事を読んで暗い気持ちになった。プロとなった今はそういう機会が多くなるに違いない。それを選んだのは自分なのだ。

 目の前に広がる世界はどんなときも白と黒の世界だ。

 絶対に負けたくない・・・。

 少し自分が変わったような気がしていた。突然、昨晩のキスを思い出した。

 やさしいキスだった。本当に心が満たされる・・・ただ、どうしてキスをしたのか、自分でもよく分かっていない。

 あの子が好きなんだろうか・・・。

 今朝、大木がバスに乗り込むとき、バス停まで送ってくれた加奈子は「練習、見にいってもいいかな?」と聞いてきた。

 大木は即座に頷いた。

 来てくれるだろうか。いつごろに来てくれるのだろう・・・。

「大木さん」

 突然話かけられて、大木はびくっとした。振り向くと、そこには四条電機テクノの総務部の松田がいた。少し小太りで、暑いのかハンカチで額の汗を拭いている。

 松田は大木に言った。

「今日三時からの工場の歓迎会ですが、挨拶をお願いできますか?」

「え? 僕ですか?」

「そうです。大木さんは、なんたって天才高校生モーグラーですからね。いい挨拶をお願いしますよ」

 松田はそういってケタケタ笑った。

「いやいや、無理ですって」

「大木さんは春川さんの次ですよ」

「春川さんて、去年のオリンピックで複合の銀を取った超大物選手じゃないですか・・・その次なんて嫌ですよ」

 松田はそれを聞いてまたケタケタ笑った。

「もっと自信もって下さいよ。大木さんの成績は十分なものですよ。それになんたって、四条電機と契約した初の高校生プロなんですから」

「うーん」

「僕もね、気になって、大木さんのモーグルスキーを動画サイトで見てみたんですよ」

 大木には松田の目が急に輝いてきたような気がする。

「そしたら、感動しました。あの速さと力強さはすごい! いやホント」

 調子がいい人だなあ。大木はそう思った。

「大木さんはまだ若いですけど、これから世界へと出て行く人です。いい挨拶を期待していますよ」 

 松田はそう言って、大丈夫と言うように親指を立て、急いでどこかに行ってしまった。

「うーん」

 大木はため息をついた。そして参ったという顔をして、大木は犬山に事の次第をメールで送った。

 気の利いた返事を期待していた。


 

 大木君がスキー部歓迎会で挨拶か・・・大丈夫か?

 犬山は歓迎会の会場に向かって、工場の白く長い廊下を歩いている最中だった。ついさっき大木からのメールで、歓迎会で大木が挨拶をすることを知った。

 歓迎会に参加する人間は、この四条電機の子会社群の主任以上に限られている。そんな大人を相手に高校生が挨拶って・・・俺が高校生のときじゃ考えもつかないな。

 それに・・・立原の人間は変わっている。いやな思いをしなければいいのだけど。

 犬山は思い出していた。昨日自分のパソコンに貼ってあったA四の紙のことを。

「来たり者は本土に帰れ」

 大きく赤色のマジックで書いてあった。

 犬山は四条電機からの出向者だった。四条電機からの出向者はテクノなどの子会社の人間と異なり、昇進のスピードが早く、給料も良い。

 一方で出向者への子会社の人間のねたみ、反発は強く、それがよそ者であると、さらに毛嫌いされる要因となる。こんな張り紙などはざらだった。足を引っ掛けられるという幼稚な嫌がらせもされたことがある。

 短気な俺がよく我慢している・・・

 学生の頃の自分、出向する前の自分を思い出すとまるで別人のように思えた。だが、我慢はできているが、悔しさは消えず、溜まる一方だった。大木はこぶしを握り、唇を噛んだ。

 会場はもう近い。

 大勢の人間が、犬山と同じ方向に歩いていた。主任以上の参加ということで、歳をとった人間が多い。その中で犬山はかなり若い部類に入っている。

 会場に入ると、そこには四百から五百のパイプ椅子が置かれていた。小さい体育館くらいの大きさだ。制服から察するに、四条電機テクノだけでなく、他の建屋の四条電機デジタル、四条電機ビジョンからも人が集まっている。席はほとんど埋まっていた。

 犬山が前の方に目をやると、去年のオリンピックで見たことのある顔ぶれが、横一列に並んで座っている。大木の顔もあった。座りきれず大木たちの後ろで立っている選手もいる。

 まるで記者会見だな。

 犬山が小さく手を振ると、大木も気づいて頭をペコンと下げた。

「それでは・・・」

 四条電機テクノ総務部の松田が歓迎会の開会をアナウンスした。

 各子会社の工場長が挨拶をしたのち、冬季オリンピックの複合に出場し、個人で銀メダルを取った春川が挨拶をはじめた。

「四条電気グループの皆さん・・・」

 春川は呼びかける口調で話し始めた。さすがにこういった場が多いのだろう、話が上手い。

 ただ・・・犬山は妙な違和感を覚えた。話は上手いのに・・・聴衆側が構えているというか、無反応というか・・・。

「昨年の冬季オリンピックの前に右足のじん帯を痛めたときは、もう駄目かと・・・」

 違和感を覚えているのは犬山だけではなさそうだった。ときより混ぜる春川の冗談に対して、周りの反応が薄いのに不安を覚え、司会の松田も周りを見渡していた。春川も違和感を覚えた様子だ。

 話が終わった後の拍手は少なくまばらだった。そのまばらな拍手の音を聞いて、犬山ははっと気が付いた。

 そうか・・・

 来たり者だからか・・・

 どこまで閉鎖的なんだ。恥ずかしくないのか? この街はいつもそうだ。閉鎖的なことに何の意味があるというのだ。

 犬山は急に大木が心配になった。

この閉鎖的で、陰湿な人間たちに妙なことをされなければいいがと思った。

「それでは次は、天才モーグラーの大木俊介くんの挨拶になります。大木くんは、国内のモーグルの多くの大会で優勝、もしくはそれに準じた成績を上げ、驚異的な強さで今シーズンを終えました。まだ高校二年生ですが、四条電機とプロ契約をした、若きスキーヤーです」

 大木は椅子から立ち上がって、マイクを受け取り、まずはお辞儀をした。

「あの・・・こんな大勢の前でお話するのは初めてで、かなり緊張しています。大木俊介です。専門はモーグルスキーです」

 大木はもう一度お辞儀をした。

「今日は歓迎会を開いていただいてありがとうございました。私はこのスキー部のメンバーで唯一のプロ契約という形で、四条電機の仲間となりました。プロ契約者として、四条電機の発展に貢献できればと考えています」

 高校二年が言うセリフじゃないようなあ。

 犬山は大木に感心しつつ、驚いてもいた。

「今後とも応援の程、お願い致します」

 大木はそう言って挨拶を終えた。拍手はやはりまばらだった。そして椅子にすわろうとしたとき、遠くのほうでヤジのような声が飛んできた。

 よく聞こえなかった。

 大木はヤジの飛んできた方角で二人の大人が何か言い合いになっているのが見える。

 一人は「ヤジを飛ばすのは止めろ」と言っている様子だった。もう一人は「関係なねえだろ」と言っているように見える。二人は言い合いになって、ヤジを飛ばした人間が、それを止めた人間に突っかかり、ついには手を出した。一方的に相手を殴っているような感じだ。

 大木には、ヤジを止めた人間が犬山のように思えた。人だかりになって、もう良く分からないが、おそらく犬山だったのだろう。

 かばってくれたのだ。ヤジの内容はよく聞こえなかったが、「生意気」「障害者」「契約金泥棒」のような単語が聞こえた。差別的な内容ばかりだった。

 会場は騒然とした雰囲気となった。

 テクノ総務部の松田は、大木からマイクを受け取り、静粛にするよう繰り返しアナウンスした。だが会場は静まることはない。

 松田はもう一度静粛するようアナウンスをした。そして怒りを感じていた。

 ばかじゃないのか、こんな騒動を起して。なんだあのヤジは。来たり者差別にもほどがある。立原事業所がばかの集まりと言っているようなものだ。

 松田は未だざわめいている会場の様子をにらめつけるように見ながら、そう思った。



「くそっ」

 あの四条電機デジタルの人間に殴られた頬が腫れて痛い。目の上も切れてガーゼを貼っている始末だ。気のせいか右肩も痛い。

 夜になって犬山は自転車に乗り、会社を出た。

 あのとき大木に差別的なヤジを飛ばしている人間が近くにいた。犬山よりも年上に見えたが、犬山は躊躇なく注意した。

 だが結果はこんな感じだ。

 何も得ていない、得られなかった。

 犬山は昔から正義感が強かった。学生時代にもこういったたぐいの怪我は過去に経験がある。もっとも会社に入ってからは初めての経験だったが。

 昼間の出来事でまだ心が動揺していたのかもしれない。犬山はいつもと違う道を選んでしまった。正確には道を間違えたのだ。

 ふと道路脇を見ると、二階建ての家くらいの高さはあるかと思われる立看板が、七枚並んで建ってあるのが見れた。どれも新しく、白地に黒で文字が一文字づつ書かれ、ライトアップされていた。

 犬山はそこに書いてある文字を読んで、ぎょっとした。その後、強烈な、言いようのない恐怖が彼を襲った。

「日本からの独立」

 そこにはそう書いてあった。

 犬山は何かに巻き込まれてゆくような感覚を覚えた。この街が不気味に思えた。立原の街は街灯が少なく夜は暗い。明かりがなく、吸い込まれそうな黒い世界が広がっている。

 犬山は逃げるように自転車をこぎはじめた。突然、自転車の電灯が切れた。そして周辺が真っ暗になる。焦りから、右と左、上と下の感覚がなくなってゆく・・・。

 そして何かに敗北した感情に飲み込まれた。それだけの衝撃をあの看板は犬山に与えた。

 急いで携帯を取り出す。何かせかされる思いで大木にメールを打とうとした。一瞬ためらったが、すぐにメールを打ち始めた。

「この街は狂ってる。僕は会社を辞めるかもしれない。この街にもういたくない。僕一人では無理だ。孤独に耐えられない」

 犬山はそうメールを打つと言いようのない敗北感に押し潰される感覚を覚えた。

 この街はおかしい・・・しかも個人でどうにかできるレベルじゃない。負けて逃げるしかないのか!

 犬山はそう思うと自分の正義感と誇りに申し訳なく、嗚咽に似た泣き声を漏らした。

 それは暗闇で誰にも聞かれることのない悲しげな泣き声だった。

 街に黒い世界が広がっていた。

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