第1章
大木は足元から続く雪の斜面をじっと見ていた。
昨日の大雪の反動か、気温は予想以上に上昇し汗ばむほどだ。春の太陽が雪に反射し、その光はゴーグルをしていても眩しい。大木はスキー板の反発具合を足で何回か確かめ、左右両方のストックを前方に刺し、スキー板後方を跳ね上げ、一気にコブ斜面を滑り始めた。
コブが次々に迫ってくる。体重を前方に預け、膝でコブを吸収し、板で削る雪を最小限にし、コブの斜面を下る。
大木はモーグルスキーが好きだった。初めてスキーを履いたのは幼稚園の頃だから、高校二年のこの冬でもう十二年スキーをやっていることになる。モーグルの腕は、既に日本選手権で表彰台に上るレベルになっていた。
悪くない。
つぎつぎに迫ってくるコブを処理しながらそう思った。そして先日まであった全日本チームとの合宿を思い返していた。
勉強になった。だが、それほど自分との技術の差は大きくない。
そう思った瞬間にまた一つコブを超えた。
来シーズンは自分も世界を転戦するような人間になっているかもしれない。だが、そのときは自分のもっている障害がきっとまた問題になる。
スキー連盟の理事達の発言は大木にとって好ましくないものばかりだった。大木はそのことを思い出し、怒りを抑えるかのようにストックを強く握った。
コブを次々にクリアし、斜面が終わり、大木はエッジで雪煙を立て滑る板を止めた。そして斜面を振り返り、自分の今しがたの滑りを考察した。
悪くない。
再びそう思った。
スキー連盟のあの理事たちは大木に否定的だ。大木の成績は文句なしの成績だったが、大木の障害を持ち出し、彼の選手資格に関して昨シーズンは一騒ぎを起している。大木にはそれが差別に感じていた。
「調子がいいな、大木君」
後ろから声がした。
先に滑り下りて、大木が滑る様子をビデオに撮っていた西原だった。このスキー場のスクールの指導員で、大木が小学生のときから世話になっている。昔はモーグルの上級選手だったらしい。
「ちょっと雪が重くて引っかかりましたけど、調子は悪くないです」
高校生らしいハキハキした返事をした。少し芝居がかっている感じもしたが、大木は昔からそんな感じだ。
「そっか、もう春だからな」
そういって西原は黙って大木が滑ってきた斜面を見返した。しばらく斜面を見ていた。
じっと見ていた。
まだ見ている。
そして大木が長い沈黙に耐えられなくなったそのときに、西原の携帯の呼び出し音が鳴った。人を焦らすようなけたたましさにも関わらず、西原はゆっくりとグローブを外し、胸のポケットから携帯電話を取り出し電話に出た。
西原は相手の話を黙って聞いていたが、すぐに緊張した険しい顔つきになった。そして電話を切った後、
「兎原ゲレンデで雪崩が起きたよ」
とぽつりと告げた。大木は驚いたように西原の顔を見た。
昨日の大雪に加え、今日のこの異常な気温上昇が原因か・・・。
西原は言葉を続けた。
「今、人手を集めている。助けてくれないか? 二人遭難したらしい」
だが大木は黙って下を向いた。さっきのハキハキした様子は何処にもない。まるで別人のようだ。
西原は言った。
「難しいか? お前、四条電機とプロ契約を結んでいるもんな」
「いや、そういう訳では・・・」
大木は答えた。
「僕は・・・障害があるから・・・」
はっとした。大木が苦笑いしているように見えた。
やはり気にしているのか・・・。
スキー連盟ともめていることは知っていた。西原は大木の力になりたいと考えていた。そして彼は大木の滑りを世に出すべきだと強く思っていた。
彼のモーグルスキーは人に勇気を与えてくれる。実際、俺も彼の滑りで相当に元気付けられたんだ・・・。
西原は頷いた。
「いろいろ言われているかもしれないけど、気にするな。お前は俺らの仲間だ。どんなときでも味方になる。それにお前のスキーは本物だと本当に思うぜ」
西原は大木の左肩をポンと軽く叩いた。
「妬む人間はどこにでもいるし、消えることはない。ただ、俺らはみんな君のことを応援している。大木は俺らの仲間だからな」
西原は「仲間」という言葉を二回使った。大木に前から伝えたい言葉だった。
西原の言葉は大木の心に訴えるものがあったのか、大木はやがて頷き、スキーを滑らせ、雪崩のあったゲレンデに向かった。
西原は大木を小さい頃から見ていた。大木のスキーの才能は群を抜いていたし、それは今期の大会の成績からも分かる。その彼を執拗に追い詰めているスキー連盟の理事たちの言動に疑問を感じていた。そして子供のころから持っている彼の前向きで明るい性格を封じ込め、ストレスを掛けているこの状況に同情と怒りを感じていた。
太陽が眩しい。
西原は大木の後を追い、スキーを漕ぎ、滑り、風を受け、雪崩の起きたゲレンデに向かった。
加奈子は風邪で倒れていた。
朝から寒気がして頭も痛い。熱を測ると三十八度を越えている。学校にとても行ける具合ではない。すぐにでも病院に行きたかったが、予約が取れず午後の診察になってしまっていた。春も近いというのに病院は暇にはなっていないようだ。
「はあ・・・」
加奈子は溜息をつきながら居間のテーブルの椅子に座った。
母親はいつものように加奈子が起きる前に仕事に出掛けている。父親は加奈子が中学の時に病気で他界しており、今はこのK地方の小さな都市で弟と母親の三人で暮らしていた。
テーブルの上には母の作った朝食が置いてある。だが、今の体調の悪さからとても食べる気にはなれない。加奈子はメールで熱が出ていること、高校は今日を休むこと、午後に病院に行くことを母親や友人に伝えた。
また具合が悪くなったような気がするわ・・・。
同じ高校に通っている弟が家を出た後は、家は物音一つしない静かな空間に変わる。熱がある状態で、自分だけ家に一人という状況は寂しさを感じさせるものだ。
熱で辛く、テレビも見たくなかったし、音楽も聴きたくない。こんなに具合が悪いのに、家に一人きりだなんて・・・。
体調が悪い上にだんだん気が重くなってきた・・・。
加奈子は蒲団に戻り少し眠ることにした。
寂しいわ・・・。
ゆっくり目を閉じる。病院の自分の診察時間まであと三時間以上もあった。外から鳥の鳴き声が聞こえる。ホトトギスのようだ。
携帯が振動し、メールが入ったことを伝えてきた。加奈子は蒲団の中から手を出し、携帯を手に取った。母親か、もしくは授業中の友人からの返事を期待していた。
加奈子は、携帯を開きメールの内容を読んだ。が、すぐに文字の多さに頭が痛くなった。
「凛の民、民族保存会・・・今週の凛舞踊の練習は中止・・・」
このメールか・・・。
もともと練習には出る気はなかったけど。
携帯をパチンと閉めてまた蒲団にもぐった。そもそも加奈子自身は凛の民ではなく、数合わせのために自治会から無理やり頼まれたものだ。やる気もあまりない。
それにここ最近の民族保存会の言動がおかしいのも、加奈子の関心対象から外れる理由でもあった。メールには凛の民を抑揚させる内容とか、本土批判が必ず書かれている。
何を考えているのか全く分からないわ。もう寝よ。
そう思った矢先に加奈子の携帯には次々にメールが入ってきた。今度は加奈子が返事を期待していた友人達だったり、母親からのメールだったりした。
彼女は暖かい気持ちになった。安心したためか、眠気が襲ってきた。小さな欠伸をして彼女は眠りに入っていった。
既に雪崩の遭難者の捜索が始まって一時間が経とうとしている。
大木はビーコンの反応のあったところや、竹を雪に刺して手ごたえのあったところの除雪の作業を手伝っていた。
遭難者は二人と見られ、一人はスキー場の救助スタッフが集まる前に既に一般スキーヤーによって救助されている。息は確認されており、助かりそうだという連絡が飛んでいた。
だが、もう一人はまだ見つかっていない。雪崩が起きて一時間という時間は、遭難者の生存率が四分の一まで落ちる。三十人はいる捜索スタッフの一人がそんなことを言っていた。
もう駄目かもしれない。
大木はそう頭の隅でぼんやり考えていた。
「いたぞお!」
突然、大木のすぐ後ろの中年のスタッフが大声を挙げた。
その声を聞いて大木は振り返った。そしてすぐに駆け寄り遭難者の周りの除雪を手伝いはじめた。スキーのウエアのようなものが見える。更に雪を掘り続けると、雪の中で丸くなっている若い女性が現れた。
「大丈夫ですか!、大丈夫ですか!」
大木は叫ぶように声を掛けた。
「はい・・・」
小さいながらも声が聞こえる。
周りに安堵の空気が流れた。雪の中で丸くなっていたことで空間が確保され、無事で居られたのだろうか?
「沙織は? 沙織は?」
遭難者はそんな言葉を発した。
「もう一人の女性の方ですか? 僕がこのゲレンデに着いたときにちょうど助けられたところで、ご自分で歩いているのを見ました。ご無事ですよ」
遭難者はまだ不安そうだった。少し取り乱しているようにも見える。
「ウエアの色は? ウエアの色は?」
大木は戸惑った。
「ウエアの色は? ウエアの色は?」
その女性の遭難者は同じ問いを発した。大木の戸惑う様子を見て明らかに苛立ち始めた。周りにいるスタッフは、初めの遭難者が救助された後に集まってきた人間ばかりだ。そのときのことは大木しか知らない。
もう一人を特定して無事を確認したいのだろう。だが・・・。
「濃い色でした・・・」
「だから、何色だったの!」
強い口調だった。パニックになる直前にも見えた。
橇が運び込まれる。そこに遭難者を乗せ、遭難者は毛布を掛けられた。そして橇はスノーモービルに繋がれる。
「あんた、色も分かんないの? 何色か聞いているのよ!」
遭難者は叫ぶように言った。
大木ははっとした。もはや何も言えない気がした。
「すみません・・・」
大木はそう言って言葉を続けた。
「僕の・・・僕の目は色を区別することが出来ません。僕は色覚障害を持っています・・・」
悔しそうな表情でそう呟いた。
苛立ち、騒いでいた若い女性の遭難者は、その言葉の何かに撃たれたように動きを止めた。そして大木の顔をじっと見つめた。
大木は言葉を続けた。その姿は辛く、苦しそうだった。
「俺の見る世界は・・・色が何もない世界です。全てが白黒の世界でしかない・・・」
そう言うと大木は膝を雪の上に落とした。平静さをもう装えない。涙がこぼれた。
そのとき・・・大木には世界が緑色掛かったものに見えた。白いはずの雪は薄い緑に、木々は濃い緑に感じた。但し人は白黒の像のままで、目の前の遭難者も例外ではなかった。
だがそれは一瞬で、また白と黒だけの暗く沈んだ世界に戻っていった。
気のせい・・・なのか?
重くなる気持ちの中で大木はそう思った。
目の前の遭難者は放心していたが、徐々に自分を取り戻している様子だった。彼女は言った。
「ごめんなさい・・・」
すぐに言葉を続けた。
「助けてくれてありがとう」
そしてゆっくりと目を閉じた。それを合図に捜索スタッフの一人がスノーモービルに乗り込み、遭難者が横たわる橇を引っ張って下山を始めた。
白い世界でスノーモービルの回転ライトが回り始める。警告音が鳴り、壮大な山の斜面でその音を何回となく反射させ、スキー場全体に響き渡たらせた。
大木は白い雪山の中でそれを静かに見送っていた。
加奈子の母親は、K地方西北の立原市にある四条電機の子会社の四条電機テクノで働いていた。一年前から工場の現場でプリンターの組み立てを担当している。
加奈子からのメールは午前の休憩時間に見た。風邪を引いて、熱が出て、学校を休んでいるといった内容だった。そして病院に行きなさいとか、蒲団で体を休めなさいとかの返メールを娘に打った。
そして携帯をパチンと閉じて「はあ」と溜息をついた。もうすぐ休憩時間が終わる。あの職場に戻らなければならないかと思うと気が重くなった。
四条電機グループは、親会社が絶対的な存在だった。四条電機の人間は人事的に優遇され、子会社に出向すると平社員でも管理職になる。加奈子の母親の上司も四条電機から来た人間だったが、十人いるチームは既に崩壊寸前の状態だった。
「犬山の言うことは聞けない」
そんな言葉がよく聞かれた。
毛嫌いされていた。
現場で生産の進捗を確認している彼に後ろからネジが飛んできたこともある。彼のノートがゴミ箱に捨てられていたこともあった。複数の大人が、子供がするようないじめを三十歳前の青年である彼に行っていたのだった。
前に犬山が廊下の壁に、右手のこぶしを勢いよくぶつけている瞬間を見たことがあった。誰もいないと思っていたのだろう。悔しさが背中から見て取れた。
それを見たとき、加奈子の母親は言いようのない理不尽さを感じた。犬山の行動は問題があるとは到底思えず、むしろ機敏に臨機応変に仕事をこなしている。一方でチームのメンバーは、極度に閉鎖的で仕事の遅い人間ばかりだった。
正義が通っていない。
そう思っていた。
加奈子の母親が事務所の入り口まで戻ったとき、事務所の異様な雰囲気になっていることに気が付いた。
「どうかしたの?」
加奈子の母親は近くにいた若い男の社員に聞いた。
「いや、犬山主任が、チームのメンバーともめているみたいで」
「え? なんで?」
加奈子の母親は意外な感じがした。
今までずっと犬山主任は我慢してきたはずなのに。
そして遠目に見える犬山とそのメンバーとのやりとりを見た。
「だから、なんで言ったことをしないのですか! それにあなたは生産に責任取れる立場じゃないでしょう。勝手に工程表を変えないでください!」
犬山は強い口調で話をしていた。
「だから、あんたの工程表じゃあ駄目なんだよ」
上司をあんた呼ばわりか・・・確かに犬山主任より七歳は上だろうけど・・・。
加奈子の母親はいつもレベルの低い会話をするこのメンバーに前から嫌気がさしていた。
「なにが駄目なんですか? 工程のコマ数は問題ないでしょう。納期も問題ない。工程の割り振りを何故責任を取らない人間が勝手に変えているのですか?」
犬山は今まで耐えてきた感情が一気に湧き出てくる感覚を覚えた。
「来たり者のあんたの言うことなんか、そもそも聞けないんだよ。しかもあんた、元々は営業じゃねえかよ。うるせんだよ、言うことなんか聞けるか!」
犬山はカチンときた。
ここの奴らはいつもそうだ。話にならない。だいたい「来たり者」というの言い方はなんなんだ。県外者のことなのか? 本土の人間のことなのか?
凛の民と称する彼らは、凛の民以外の人間を疎外し、身内で固まる習性があった。それはいつも犬山に不快感を与えていた。
怒りで犬山の顔が強張っている。
「これまでのあなたの仕事ぶりは、全く評価できるレベルにはありません。いつも何処かでさぼって仕事をしていない。それを棚に上げて、いったい何を仕切ろうとしているのです?」
相手の顔がみるみるうちに赤くなってゆく。加奈子の母親はまずいと思った。
この男は・・・この目の前で奇声を発している中年の男は、凛の民族保存会の青年部世話役だ。根に持たれるときっとやっかいなことになる。
「なんだとお!」
そう言って相手は逆上し、いきなり犬山の顔を殴った。犬山が倒れ、相手は犬山に馬乗りになり、一発、二発と犬山の顔を殴り続ける。
すぐに相手と犬山の間に人が入った。二人は引き離されていたが、犬山の相手は殺気に満ちた目つきで犬山を見ている。その様子を見て、犬山は背筋が寒くなる思いがした。
異常だ。この人間は異常だ。
そう思った。
加奈子の母親は嫌な噂を思いだした。
この地方に多く暮らす凛の民という日本の中の少民族・・・閉鎖的で独善的なところがあり、今の日本では特殊的な存在だわ。
その民族保存会は要注意者リストというもの作っていると聞いたことがある。どこでどう使われているかは知らないが、もし本当に存在していたとしても、決してまともな使われ方はしていないはずだわ。
加奈子の母親は不安に襲われた。きっと犬山はそのリストに名前を載せられ、トラブルに巻き込まれる。そういう予感がしたのだ。
そう、それが正しくないことであっても・・・。
加奈子の母親は不安を紛らわしたかった。この異常で陰気な予感を払拭したかった。犬山を見た。口を切ったのか口を手で押さえている。
嫌な予感が止まらない。加奈子の母親はこれから起こるだろう不条理を全て否定したかった。そしてそれが現実に起きないことを切に願った。
時計は夜の七時を回り、窓から見える外の世界は、星が無数に広がる世界に変わっている。
大木は自分の部屋で机を前に座っていた。目の前には高校二年用の参考書がずらりと並んでいるが、めったに使ったことがない。そもそもモーグルの大会や練習で、勉強どころか高校の出席自体もおろそかになっている。
各モーグルの大会での彼の成績は優勝、もしくはそれに準ずる成績を出しており、スキー雑誌に天才高校生モーグラーとして取材をされたこともある。昨年の秋には四条電機とプロ契約を結び、そのことは彼の自信を大きく高めるのに役立った。
選手としては順風満帆だ。
だが、スキー連盟の一部の理事は、大木の目は滑走に危険があると主張しており、実際、大木は大会出場の自主的な辞退を求められていた。大木はそれをストレスに感じていたが、四条電機とプロ契約してから、その強い風当たりは極端に少なくなってきている。
大人のずるさを見た気がした。
そして大木は昼間、救助したあの女性の言葉を思い出していた。
「色が分からないか・・・」
大木は唇を強く噛んだ。悔しい思いが溢れてくる。
小学校のときは色が見えていた。ただある日突然、大木の目は色を区別することが出来なくなった。いつからなのかよくは覚えていない。
目を閉じるとあらゆる色を思い出す。鮮明な赤、透き通るような青、生命にあふれた緑を・・・。
自分の頭の中には溢れんばかりの色があるというのに、目の前の現実は白と黒の虚脱を思えるような活気のない世界だった。
大木は窓を開け、夜空を見た。幾千幾万もの星が輝いている。
たまに星が降るような本当にきれいな夜空を見ることがある。
だけど今晩の夜空は違うな・・・。
そう思った。
「それにしても、あの一瞬見えた緑の世界はいったい・・・」
一時的に緑の色覚だけ戻ったのだろうか・・・。
考えても分からない。
少し寒くなってきた。窓を閉め、自分の机に座り直すとノートパソコンでメールのチェックを始めた。四条電機から四条電機スキー部との合同練習の誘いのメールが来ている。暖冬で雪が少なかったためか、少し早くK地方での基礎体力作りの合宿が始まるらしい。
昨日ドカ雪はこの気温ですぐ溶けるだろうし、既に雪は重くなっている。ちょうど春休みの期間だ。
「立原市か・・・」
そして、あれこれ考えるそぶりを見せて、頷き、決断して階下の居間に下りていった。
ソファに座ってテレビを見る大木の父親が見えた。
「父さん、この春休みに四条電機のスキー部の合宿に参加するつもりなんだけど、いいかな?」
父と呼ばれたその男はゆっくり振り向いた。
「ん? 場所は?」
「場所はK地方の立原市だけど」
「立原市?」
少し怪訝な顔をした。
「止めといた方がいいと思うよ。なんか不景気で治安が悪いみたいだし」
そう言ってテレビを指差した。大木はその指の先のテレビに顔を向けた。
「行方不明になっているのは、立原市会社員の加藤幸雄さん、妻の加藤律子さん、長男の・・・」
「なんか行方不明が多発しているみたいだぜ。この前は弁護士の家族だったかな・・・大丈夫か?」
そう言われたものの、彼にはそのニュースの内容は全くの他人事に聞こえている。
「四条電機の人と行動すると思うし、泊まるところは四条電機の施設だから大丈夫だと思うよ」
高校二年生の息子はそう答えた。
父はふううんという顔で言った。
「まあいいや。母さんには俺が言っておく。気をつけるんだぞ」
大木の父親は、歳に似合わず、一人で人生のいろいろを決めてくるこの息子を誇りに思っていた。もっとも四条電機とプロ契約を結ぶと言ってきたときはさすがに驚いたものだったが。
今回の提案はやや危険な感じもしたが、まあ大丈夫だろうと思った。彼もまたそのニュースは他人事に聞こえていたのだった。
加奈子の風邪が、すっかり良くなったのは、高校が春休みに入った頃だった。
時計の針は夜の八時を廻っている。窓を開けると気持ちの良い風が加奈子の部屋に入ってきた。
「ふー」
加奈子は溜息をついた。
自分を責める日々が続いている。全てはあのときから始まっていた。忘れようとしても忘れられないことだった。
「加奈子ー」
階下から母の呼ぶ声がした。
加奈子は我に返り、階段を下り、居間に向かった。
「加奈子、ちょっと相談なんだけど」
加奈子の母親はそう言った。書類らしきものをテーブルに広げている。
「うちの会社でバイトしない?」
「バイト?」
加奈子は母親のいきなりの提案に少し驚いた。
「そう、バイト」
そう言って加奈子の母親は書類を指で辿りながら説明をし始めた。
「あのね、この春休みに四条電機のスキー部が合宿に来るんだけど・・・」
加奈子の母親は加奈子の様子を見ながら話を進めていった。
「そのお世話のバイトの人が足りないみたいなの。食事作りの手伝いとか、荷物運びとか、掃除とか雑用みたいね。どう?」
そう言って加奈子の顔を覗き込んだ。
「どうって言われても、急だし・・・」
加奈子は下を向いた。
「気が乗らないわ・・・」
少し間を置いてそう答えた。
それを聞いて、加奈子の母親は不安を感じた。
最近何かおかしいわ。溜息が多く、必要最低限しか外にでない。落ち込んでいる様子も見せる。
加奈子の母親は加奈子に言った。
「加奈子、最近何か心配事でもあるの?」
加奈子はゆっくり顔を上げたが、首を振った。
せめて何に悩んでいるか話をしてくれるといいのだけど。
加奈子の母親はそう思った。そして言葉を続けた。
「じゃあ、バイトしてみたら? あまり詳しくないけど、オリンピック級の選手もいるみたいだし、現役の高校生選手もいるらしいの」
加奈子はやはり首を横に振った。
「興味ないわ・・・」
「その高校生選手っていうのがね」
加奈子の母親は加奈子の様子に構わず、話を進めた。
「何かの障害を抱えているみたいで、でも国内の大会とかでダントツ強いみたいなのよ」
「障害?」
「高校生にして、四条電機がスポンサーについているのだから、相当努力してその障害を克服したんじゃないのかな」
加奈子はその高校生を少し想像した。
同じ高校生で四条電機のスポンサーが付いていて、自分の障害まで克服している高校生・・・。
「私なんて、もうすぐ高校三年生だというのに何も決められていないわ・・・」
加奈子は下を向いて言った。加奈子の母親はその様子を見て、加奈子の手を取り答えた。
「落ち込むことはないと思うわ、加奈子」
そして少し間を置いて言葉を続けた。
「そりゃその高校生スキーヤーはすごいと思うわ。でも普通の高校生は二年生の段階で自分の人生を決めてはいないわ」
加奈子は少し顔を上げて母親を見た。
「これからの人生、ゆっくり、深く考えていくべきじゃなんじゃない? 努力だって、自分のあるべき姿が見つかってからでいいのじゃないかしら」
こんなとき父親が生きていれば、もっと上手く話せるのかしら。
加奈子の母親はいつも感じるプレッシャーにも似た感情を思い返していた。
「ゆっくり考えてみたら? 視野が広がってから、自分に合ったこと、やりたいことを見つけたらいい。大学に行ってから、考えてみてもいいと思うわ」
加奈子の母親はにっこりと笑って加奈子にそう言った。
「母さん・・・」
加奈子は浅くだが、しっかり頷いた。少しの間沈黙があった。
「でも・・・バイトのこと、ごめんなさい・・・」
加奈子の母親はそれを見て、まあしょうがないかと思った。
それから加奈子は母親と少し会話した。なんでもない会話だったが、久しぶりに長く話したように思える。
四条電機と契約している高校生スキーヤー・・・。
やはり加奈子には気になっていた。
いったいどんな人なのかしら? 障害を抱え、それを乗り越えた高校生・・・。
やはり自分とは大きく異なる人間に思えた。加奈子は自分の部屋に帰ってすぐにベッドに倒れ込んだ。
「はあ・・・」
ベッドに仰向けになり、天井を見つめた。
母親に心配されていることは良く分かっていた。
自分は弱い人間だ・・・。
そう加奈子は思った。
この沈んだ気持ちが続く自分の心に嫌気がさしていた。
大木は四条電機スキー部の合宿に参加するために立原市に入った。他の部員は明日やってくる。彼らより一足早く現地に入った形だ。
自分の地元である長野県の空港からK地方の空港まで飛行機で移動し、それからローカル特急に一時間余り乗った。
大木がこの地に来たのは二回目だった。四条電機とスポンサー契約を結んだ直後、昨年のシーズン前の合同練習に参加させて貰った。全く知らない都市という訳ではない。
立原駅でバスに乗り、四条電機グループの工場群に向かう。立原市の山側に四条電機の子会社、孫会社が立ち並び、大規模な工業地帯を形成している。
そこから六キロ程離れた北側の山には立原城があり、そのさらに北側にこの地に多く住む凛の民が信仰する凛宗の総本山が構えている。その東側の平野には市街地が広がり、さらに東側には海が位置していた。西側は深い山になっており、隣県に接している地形になっている。
この都市の人口は約三十万人で、その六割強が凛の民という民族の人間で占められていた。K地方では約六十万人がその民族の人間だと言う話も聞いたことがある。
バスはやがて四条電機の工場群入り口に差し掛かり、大木はそこでバスを降りた。
住宅がまばらにあるものの、周りは田んぼと森ばかりだ。その中に四棟からなる三階建ての四条電機の社員寮が見える。その横には体育館、ジム棟、陸上、及び野球のグランドがあり、実業団の練習ができる設備が整えられており、食堂、ミーティングルームを含んだ合宿所は社員寮の真横に並んでいた。
大木は合宿所を通り抜け、陸上グランドに向かった。根拠はなかったが、誰かが待っているような気がしたのだ。
グランドに出ると、土のトラックが広大な芝を囲んでいるのが見えた。芝と土の香りが気持ち良い。風も心地よかった。
「だが、誰もいないか・・・」
犬山さんに会いたい。
大木はそう思った。
その名前の人間は、大木と四条電機スキー部を引き合わせてくれた人物だった。元は東京の営業で、今は立原の工場に出向している。営業の頃はスキー部の広報も兼務だったこともあり、その頃大木を推薦してくれたのだ
彼は隣の社員寮に住んでいた。半年前の合宿のときは夜になると合宿所の食堂に顔を出してくれていた。新聞や本を読んでいる姿が思い出される。
大木は芝の上に腰を下ろした。
広いグランドに一人だけでいるのはなんともいい気持ちだ。やさしい暖かな風がゆっくりと吹いている。
芝の上で大の字になって寝た。そして目を閉じた。遠くで時折聞こえる車の音以外は、ゆっくり流れる風の音しか聞こえない。
大木は平和な気持ちになった。少し眠くなった。寝てしまったのかもしれない。大分寝てしまったようだ。目を開けたとき、少し薄暗く、周りの雰囲気は夕暮れ近くのそれになっていた。
「あの・・・」
女の人の声が聞こえた。
気のせいに思える。
「あの・・・」
再び同じ声が聞こえた。
高校の制服を着ている女子が、屈んで、大木を覗き込んでいる。髪は長く、おそらく黒なのだろう。春の風でやさしく揺れているのが見えた。
大木は仰向け姿勢のままでその女子を見ていた。女子も屈んでいる姿勢のまま言った。
「あの、四条電機スキー部の人ですか?」
目が大きく特徴的だった。
かわいい子だな・・・
大木はそう思った。大木はゆっくり起き上がり立ち上がった。そして服に付いた芝を手で叩きながら答えた。
「そうだけど・・・いや、違うか、まあ部員もどきかな」
それを聞いて、目の前の女子は何かを言いたそうであったが、黙り込んだ。
「スキー部に何か用? 明日なら他の部員が結構な人数で来るはずだけど」
その女子はまだ黙り込んでいる。少し落ち着きがない様子にも思えた。
大木もこの場をどうしようもなく、言葉も続けられず、あさっての方向を見た。
「あの、あの・・・大木さんですか? 高校生モーグラーの」
大木は自分の名前を呼ばれて、視線を目の前の高校生と思われる女子に戻した。いきなり自分の名前を言われ、彼は少し驚いた。
「そう・・・だけど」
大木はそう返事をした。
「あの・・・」
そう言ってまたその女子は黙ってしまった。大木はこの良く分からない状況に困った。
ファンか何かかな。大会で何度も入賞をしているし、スキー雑誌の取材だって受けたことがある。ファンがいたっておかしくない。ファンだとしたら初めての遭遇だな。
大木はそう考えると少しうれしくなった。口元が緩んでいる。
スポンサー契約とか、代表との練習とか、大人に混じっての出来事が多かった最近だったが、彼自身は高校二年生(もうすぐ三年生だが)に過ぎない少年でもあった。やはり異性に絡むことになると普通の高校生同様、うれしかったりもした。
「あの・・・」
女子はそう言うと、何か思い切ったように言葉を続けた。
「私と友達に、いや、知り合いに・・・なってくれませんか?」
「は?」
大木の全ての動きが止まった。このお願いというか、依頼がどういう意味合いなのか良く分からなかった。
「わっ、わっ・・・」
女子は焦っていた。
「いえ、はい・・・違うんです。大木さんとお話をしたくて」
大木は聞いた。
「僕は大木俊介だけど、間違いない?」
「はい」
女子は頷いた。大木との会話のきっかけを探していたのかも知れない。
「私、劉前加奈子と言います。母が四条電機で働いていて、明日から四条電機の合宿が始まると聞いて・・・大木さんも来ると聞いて、試しに今日来てみたら大木さんが寝ていたので・・・」
まだ混乱している様でもあった。
「ここに来たとき、風が気持ちよくて、芝に横になったら眠くなってさ」
大木は加奈子に笑った。
「私もグランドを見たら、誰か寝ているからびっくりして・・・」
加奈子も大木に笑った。
目が大きくて、かわいい子だな。笑顔もかわいい。
そう大木は思った。そして自分の色を判別が出来ない障害を思い出し、急に劣等感を感じた。
「話をしたいって・・・」
「あの、大木さんってすごいなって思って。お話して勇気を貰えたらなって」
加奈子は苦笑いしながら大木に言った。自分の気まずさを隠すような言い方だった。加奈子の長い髪が春の風に優しくなびく。
その言葉に大木はネガティブな感情を持った。大木の表情は暗くなっていたが、加奈子はそれに気づいていない。
「スキー雑誌に大木さんの特集があったのを見たの。高校生で四条電機とスポンサー契約なんてすごいわ」
「そんなことはないよ・・・」
大木は否定した。
「いろいろ大変なんだ。スキー連盟に僕のことをよく思っていない人もいる。選手として認められないと言っている人だっているんだ・・・」
そう言って大木は黙り込んだ。
だが、加奈子は大木の様子が硬くなっていることに気づいていなかった。
「でも大木さんはすごいと思うわ」
加奈子は言葉を続けた。
「目に障害を持っているのにそれを乗り越えているんですもの」
大木ははっとした。そして拳を強く握った。顔色が明らかに変わっている。
「もう何も言わないでくれないか」
それは強い口調だった。大木は我を忘れていた。
その言葉で加奈子はようやく大木の表情が硬くなっていることに気づいた。大木は自分でも顔が強張っているのが分かっていた。だが感情を抑えることができなかった。
確かにどの記事にも僕の目の障害のことは書いてある・・・。
大木は唇を噛んだ。そして感情を圧し殺した声で加奈子に言った。
「先に送っておいた荷物の整理したいから・・・」
そして大木は立ち上がり、その場から離れる仕草をした。加奈子は自分の発言の不味さに気づいた。
あの雑誌で大木は「障害を乗り越えた」などとは言っていない。「障害と闘っている」と言っていたのだ。
そうだ、この人は今も、この瞬間も障害に苦しんでいるんだ・・・。
「あの・・・」
加奈子は大木に話しかけた。
「ごめん、ちょっと・・・もう話したくないんだ。その障害で僕はスキー連盟から圧力を掛けられているんだから」
スキー連盟の一部の理事は大木に批判的で、彼の目の障害を気味悪く思っている節があった。これまで大会参加の自主的な辞退を求められてきたが、四条電機とプロ契約をしてから彼らは黙認を続けている。だが、おそらく相当に苦々しく思っている違いない。
それに大木は自分の障害のことを言われると、上手く心の処理が出来ないときが頻繁にあった。そしてそういった自分に苦悩していた。
「僕は自分の障害を克服なんてできていない。ただの弱い人間だ」
大木はそうつぶやいて管理棟に向かって歩いていった。
加奈子の頬をつたって涙がこぼれてゆく。
大木を傷つけるためにここに来たのではない。自分の歩む道をはっきり決めている大木という人間と話をしたかったのだ。
「待って下さい!」
加奈子は叫んだ。
「私、大木さんを傷つけるために来たんじゃないんです。そういうつもりじゃなかったんです。助けて欲しいんです。大木さんの強さが私にも欲しかったんです」
大木は加奈子の心の告白とも呼べる声に振り返った。そこには大粒の涙をとめどなく流している加奈子の姿があった。
「私も闘いたいんです。自分の心と!」
大木は驚いていた。そして自分の何かに頼ろうとしているその女子に戸惑いを感じていた。加奈子は泣き続けている。
「私は弱くて、卑怯で・・・」
彼女はそう言って泣き崩れ、グラウンドの芝に膝を付いた。
怒りの感情は何処かに飛び去り、自分が何をすべきなのか、何を言うべきなのか、分からなくなり始めていた。
加奈子のその姿に心を打たれたのかもしれない。
「僕は特別に強くなんかない」
そう呟いたが、彼は既に今さっき取った自分の行動を反省していた。目の前にいる大きな目が印象的な女子を傷つけたことを、それが不条理で自分のことしか考えていなかった行動によることを認識していた。
「合宿所の食堂に行かないか? 飲みものでも奢るよ・・・」
突然の大木のその提案には自分の取った行動の謝罪が含まれていた。
大木は合宿所の食堂にある自販売機でコーヒーを買おうとしていた。ホットとコールドで迷ったが、赤く光るボタンを押した。「がこん」という音と共にホットの缶コーヒーが出てきた。
加奈子はまだ泣いている。
外は薄暗くなってきており、もう六時近い。食堂の中は暗く、大木は食堂の電気を付けた。食堂には加奈子と大木以外は誰も居ない。
大木は加奈子の目の前に缶コーヒーを置いた。
「ありがとう・・・」
加奈子は礼を言った。そして両手でテーブルに置かれたコーヒー缶を触った。
「暖かい・・・」
なみだ目で大木に笑いかけた。
かわいい子だな。大木はそう思った。そして視線をそらして言った。
「僕は多分、劉前さんが考えているような前向きな人間ではないよ。僕の目は障害で色が見分けられない・・・いつもその事実に潰されそうな気持ちになる」
大木は寂しく笑った。
「子供のときは見えたのに今は白黒の世界しか見えない。悔しい思いに悩まされることだってある。それが原因で人と揉めることだってあるんだ・・・」
「でも私は、大木君はすごいと思う。頑張っていると思う。大木君のスキーはいろんな人に励ましやパワーを与えていると思う」
「・・・」
「ネットの動画で感動したわ。生きる強さを感じたの。大木君は本当にすごいわ」
大木は自分という人間を振り返り考えた。
とてもそうは思えなかった。
「僕はそんな人間じゃないよ」
大木はそう呟いた。
加奈子はすぐに首を横に振ったが、続けて何かを言おうとすることはしなかった。
沈黙の時間が流れてゆく。
大木が口を開いた。
「さっき・・・」
大木は加奈子に尋ねた。
「その、さっき言っていた心の強さがほしいって・・・」
加奈子はとっさに両手を自分の口を隠すようなしぐさをした。
そうか、さっき口に出してしまったんだ・・・。
でもたった一時間前に初めて会った人間に相談するなんて出来ない・・・。
加奈子は下を向いた。
遠くで金属製の何かの落ちる音がした。
突然の音に加奈子は怯え「びくっ」と動いた。そして不安そうな目で大木を見た。大木は静かに頷き、音の発生場所を確認するために食堂から廊下に出た。
何かに不安を感じているみたいだな・・・。
大木はそう思った。
廊下には誰も居ない。遠く廊下の先の管理人室に鍵を掛けている人間が見える。大方さっきの音は管理人が落とした鍵の音だったのだろう。
加奈子も食堂から出てきた。その表情は、音のした方角を見た瞬間に安堵したそれに変わった。
廊下の窓から建屋の設備の点検が終わったのか、薄暗い駐車場で立ち話をしているツナギ姿の男たちが見えた。そこにワンボックスの車が廻され、男たちは工具と機材を車中に積み込んでゆく。
さっきの管理人が現れた。
彼らと何かの会話をしている様子だ。そして突然、その集団から大きな笑い声が聞こえた。
どこかで見た景色だ・・・加奈子はそう思った。
そして自分の記憶の底から、忘れようとし続けてきた事実が、凄まじい速さで加奈子の心を駆け抜け、感情は動揺に覆われた。加奈子はそのまま立っていることすら難しくなった。
加奈子は耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。自分がパニックを起こしているのだと思った。小刻みの震えが加奈子を襲う。加奈子は震え続ける。男達は去り、周りは音のない空間に戻ったが、加奈子はそのままの姿勢から動けないでいた。
大木は加奈子の隣にしゃがんだ。
「どうしたんだ?」
その問いかけに加奈子は答えない。大木は自分に問いかけた。
どうすればいいんだ?
加奈子は震え続けている。
大木は思い切って加奈子を自分にたぐり寄せた。そして加奈子を抱きしめた。加奈子は驚いた表情を見せたものの、彼女の震えは徐々に収まってきたように思えた。
加奈子は口を開いた。
「私、人間が捨てられるのを見たの」
大木は全くの予想外の言葉に驚いた。
「私、三ヶ月前に立原川の川べりで・・・大人二人と子供二人が穴に捨てられるのを見たわ。多分、家族で・・・おそらく殺されていたと思う」
「見たって・・・それに殺されてって」
「さっきの風景に似ていた・・・ワンボックスに大勢の男・・・死体を捨てた後、彼らは大声で笑った・・・」
加奈子はあのときの恐れと怒りの感情を思い出していた。
大木は少し混乱していた。
本当のことなのか? いや、とても嘘を言っているようには思えないが・・・。
大木は少しの間考えた。徐々に落ち着きを取り戻していった。
「警察に通報とかはしたの・・・?」
大木のその言葉に加奈子は首を横に振った。
「怖くて・・・何もしていないわ」
「・・・」
「臆病と言われればその通りなの・・・否定はしないわ。通報したら、きっと自分の身が危険にさらされる。あの子達のように私も殺されるかもしれない・・・そう思うともう怖くなって・・・」
加奈子は溜息をついた。
「死体を遺棄していた犯人は、複数の人間だった。顔は暗くて、遠くて分からなかった。だから誰が彼らだったのか分からない。だから誰を信用していいのかも分からなかったわ・・・」
加奈子の声は涙声だった。
ただ、あの川沿いの土手で今も誰にも知られずに眠る被害者たちの無念さを思うと、加奈子は今まで何もしてこなかった自分を責め続けていた。だが、自分がどうすべきなのかは分からないままだった。
大木は思い出した。
「そういえば、この立原は最近行方不明者が多いってテレビで言っていたな・・・その人数と合っている話もあった」
大木はそう呟いた。加奈子はその言葉に反応した。驚いている様子だった。
「うそ、そんなこと聞いたことがない・・・」
「いや、確かに言っていた。この一年で家族での失踪者が二組だったかな・・・独身者も二人くらいとか言っていたな。新聞でも記事を見た覚えがあるし」
「どうして・・・そんな記事見たことない」
加奈子は気味の悪い感覚を覚えていた。新聞はよく読むほうだったから尚更だ。
ローカルなニースは、ローカルが一番飛びつくような気がするのだが。それを当の立原市の市民が知らないっていうのはおかしいな。
大木はそう疑問に思った。
食堂の窓の外には黒と赤の空が見える。夕暮れが終わり、夜が来ようとしている。
加奈子は下を向いて呟いた。
「被害にあった人は、今も誰にも知られずに川べりの土手で眠っている。きっと無念に違いないわ・・・悔しいに違いないわ」
加奈子は更に言葉を続けた。か細い声だった。
「小さい子供だっていたのよ。小さい子供が乱暴に穴に投げ込まれた。二人も・・・このまま黙っていたら、正義なんてどこにもないわ」
「でも、いくらなんでもその行方不明者のニュースが、地元で報道もされていないなんてのはおかしい。この状況で何もしないことは決して臆病なことなんかじゃないよ」
大木はそう言った。
加奈子は再び首を大きく横に振った。
「でも! この三ヶ月、私はいつもあの風景を思い出してしまっていた。私はあの穴に人が投げ落とされた瞬間を今でもはっきり覚えているわ!」
加奈子はそう叫んだ。
「あのとき何も出来なかった自分が本当に許せない・・・何もしないなんて、できないわ・・・」
「・・・」
大木は加奈子の意見が正しいということを認識していた。そして苦しんでいる加奈子の気持ちも理解できていた。
だからと言って、現実は違う。身の危険を伴うのかもしれないのだ。
出口が見えない・・・。
大木はそう思った。
「・・・ちょっと確認させてくれないか」
不意に大木が呟いた。
「え?」
大木は立ち上がり、自分のリュックサックからノートPCを取り出し、開き、ネットに繋げた。
「ここの地方新聞のウェブニースで行方不明者のニュースが本当に扱われていないのか、調べてみたいんだ」
大木はそう言った。
「それだったら・・・立原中央新聞のサイトがいいと思う」
加奈子の声は小さく、弱々しい。
大木は言われた新聞社のホームページに入り、ウェブニースを調べたが、過去をさかのぼっても、加奈子の言うとおり、行方不明者のニュースは一切見つからない。
「やっぱり、行方不明車者の情報がこの地方では制限されている」
大木はそう呟いた。
「何故なんだ・・・」
大木は少し考えて、加奈子に言った。
「念のため、全国紙のニュースを確認してみよう」
「でも、この都市の人は全国紙なんて読まないわ」
「まあ、だからかな」
大木は全国紙のウエブニュースに入り、検索画面で「立原」と打ち、続いて「行方不明」と打った。
検索の結果、四件見つかった。
大木は一番古い記事を確認した。三ヶ月前の記事になる。最初の行方不明者は二人の大人と二人の幼い子供で、弁護士一家だった。
加奈子の目撃した家族の犠牲者に似ている。加奈子の心は重くなり、以降の記事を読むことが出来なかった。
「大木君の言う通り、家族での失踪者が二組、独身者が二人・・・そしてあの子たちは二歳と三歳の女の子だったんだ・・・」
かわいそうでならなかった。
大木はニュースを確認して行くうちに最後の四件目に入った。
「今日の日付だな・・・」
そして驚いた。大木は口に出して記事を読みはじめた。
「K地方の立原市で行方不明だった家族、立原川の土手に埋まっているのを発見。一部白骨化しているものの、所持品から・・・」
大木は加奈子の顔をみた。加奈子は戸惑ったように大木の顔を見ている。
「所持品から四ヶ月前から行方不明だった、弁護士の資格を持つN県立原市在住の川口正継さん三十六歳の一家と・・・」
大木は記事を読み続ける。
「妻、早苗さん三十二歳、みさえちゃん三歳、よしみちゃん二歳の四人の家族で・・・」
「私の見た家族だ!」
加奈子は立ち上がって言った。その記事に驚きを感じていたが、何よりも遺棄された遺体の存在が明らかになったことに安堵した。
もう自分を責め続けることはしなくてもいいのだ・・・見つかって本当によかった。
そう思った。
加奈子は静かに目を閉じた。安堵の気持ちが心の中に広がってゆく。こんな気持ちを久しぶりだった。
大木は記事を読み直していた。
何か引っ掛かるな。そもそも地中にあった遺体がどうやったら見つかるんだ? 他の目撃者が通報したのか? それとも犯人グループの誰かが仲間を裏切ったのか?
記事にはそこまで書かれていない。
外はすっかり真っ暗になっている。窓から見える風景は何もなく、ただ黒い空間が存在していた。
何か変だ。情報が制限されていることといい、行方不明者の多さといい、いったいこの狭い町で何が起きているんだ・・・。
大木はそう思ったところで考えるのを止めた。加奈子の顔色は、憑き物が取れたかのように良くなっている。
問題は解決したんだ。
大木と目が合った。加奈子は頷き言った。
「よかった・・・」
笑顔だった。
もう大丈夫だな・・・。
「もう暗いし、送っていくよ。バス停まででいいかな?」
そう加奈子に言った。
もうこの事件であれこれ言わない方がいい。
大木はそう思った。
この子にまた会うことはあるのだろうか?
大木は少しの寂しさを感じていた。加奈子に惹かれているのかもしれない。
「うん・・・」
加奈子はそう答えた。そして言った。
「大木君はここで二週間、練習をするんだよね」
「そうだよ」
「ときどき練習を見に来てもいいかな? スキー部の練習なんて見たことないから」
「それはOKだよ。歓迎する」
思いがけない展開に大木はうれしそうに答えた。
そしてノートPCを閉じて大木は立ち上がった。
「あ!」
大木は意図せず、大声を出してしまった。とても大切なことを思い出したのだ。
「そうだ・・・寮の鍵、まだ貰ってない! 管理人さん、さっき帰ってしまったような気がする!」
「え?」
「管理人さんに鍵を貰う前にグランドの芝で寝ちゃったから、鍵を貰い損ねた・・・」
それから「あはは」と大声で大木は笑った。
加奈子は一瞬大木の置かれた状況を理解できなかったが、理解すると自分のせいの気がしてきた。
自分が大木を振り廻さなければ、こんなことにはならなかっただろう。
全く関係のなかった大木を悩ませ、迷惑を掛けてしまったことに申し訳なさを感じていた。
「どうするの・・・?」
加奈子は大木に恐る恐る尋ねた。
「うーん、立原の駅にほうに行ってホテルでも探すよ。それかこの寮に知り合いが居るから、その人の部屋に泊めてもらうかな」
加奈子は、それは申し訳ないと思った。
「あの・・・よかったら・・・」
加奈子は自分でも驚くくらいの提案を大木にしようとしていた。
「私の家に来ませんか? 母も大木さんのことを知っているから、きっと喜ぶと思うわ」
加奈子はそう言った後、自分がずうずうしかったのではないかと思った。下を向いた。そしてゆっくり顔を上げ、大木を見た。
赤い顔の大木がいる。
「あ、ありがとう。ご家族の方がよければ、なんだけど・・・」
大木自身もその提案に驚いていた。そして少しの間どうしたものか考え、そう答えた。大きな目を持つ、長い髪の美少女を見るうちに、自分はとても幸せな人間ではないだろうか?とか思ったりもしていた。
加奈子はすぐに携帯で母親に電話をした。電話の向こうは大木の名前を出すと多少のパニックに陥っていたようであったが、ほぼ二つ返事でOKだった。
そして大木はノートPCをリュックにしまい、二人は寮を出た。遠くにバスのライトが見える。二人は顔を見合わせ頷き、春の暖かい夜の中、バス停に向かって走り出した。
やわらかな風が二人を包んでいた。