第06話 「その身は誰がためのもの I」
季節が秋だと言わんばかりに朝霜が降っている中、フー・ヤンはいつもの日課であるジョギングをしていた。
髪を後ろへ適当に結び、ランニングウェア姿で公園内を走る。
ほぼ毎日同じペースで同じ距離を走るフーだが、今日はランニングコースが少し違った。
いつものコースなら今頃進路はフーの住まいへ向かっているはずだが、月に一度、フーはこうして公園に寄っている。
広い公園内をしばらく走り、公園の広場に出ると、広場の端のベンチに座る。
朝五時ということもあり、公園にはフーと同じようにジョギングに出ている人はわずか一人か二人しかいない。
フーがしばらくベンチに座っていると、隣に誰かが座る気配がした。
隣に座った男をフーは横目でちらりと見る。
トレンチコートを着た大柄な男だ。
顔には幾つもの傷跡があり、特に塞がった右目の傷が目立つ。
白髪交じりの髪をオールバックにしている五十代の男からは威圧感と同時に穏やかさを感じる。
その理由はこの男がいつも優しそうな笑顔を振りまいているからだろう。
「精が出るねビーンズ君」
「いや、この日課をしないと一日が始まらないんですよ、ブレッドさん」
お互いが会う時にしか呼び合わないコードネームを使ってあいさつし、二人の密会は始まる。
男、ブレッドはコートの懐からファイルを取り出し、フーに渡す。
「警察が把握しきれていない黒星の活動報告書だ。一ページ目に簡潔にまとめてあるから見てくれ」
二人の空気が一瞬にして変わり、フーはファイルを受け取る。
ファイルを開き、フーは言われたとおりの箇所に目を通す。
「……やつらの行動範囲が活発化してきている。それに、こんなにも見過ごした案件があったなんて」
もどかしさを覚えたフーは唇を噛む。
「君のようにまじめに責務をまっとうしている者は少ない、悲しいことにね」
事実を言われたフーは表情を曇らせる。
犯罪組織、黒星のメンバーの内何名かが所有する特異体質能力『モンスター』は脅威だ。
モンスターを発動させた人間は、遺伝子情報を猛烈な勢いで書き換えられ、人間では到底再現できない能力を実現させる、いわば瞬間的進化だ。
モンスターが一人いるだけで、武装警官の集団など軽がると一蹴してしまうほどの威力をもっている。
もはや軍の特殊部隊が必要なほどの規模なのだが、国は表立って増援を寄こそうとしない。
警察は長いこと黒星と戦い続けたが、ついに士気を低下させてしまい、黒星が関わっている事件は極力避けろと暗黙の了解ができてしまうほどだ。
正義感を捨て去っていないフーにとってこの状況は好ましくなく、軍が増援を寄こさない理由を知っている彼にとってはもどかしさに拍車をかける。
ブレッドからもらったファイルをめくっていくフーは、あるページでその手を止めた。
「やはり、そこに目がいくか」
予想していたかのように、ブレッドは呟く。
「奴が、帰ってきたんですか?」
フーの表情からはいつも通り生気を感じられないが、ファイルを掴む手には力が込められていく。
フーが開いているページには、赤い髪の男の写真が貼られていた。
「ユーリ・アレンスキー。三日ほど前にコーストシティの港で目撃された」
それを聞いた途端フーは奥歯を噛む。
その男の名をフーは忘れるはずがなかった。
フーの脳裏に過去の映像がフラッシュバックする。
荒れ狂う炎の中、身動きの取れないフーの目の前に、ユーリと倒れた女性がいた。
ユーリは鋭い八重歯をにやりと覗かせ、持っていた拳銃を女警官に向けて発砲し、フーは涙を流して絶叫した。
「ビーンズ君」
秘匿名を呼ばれ、フーは我に返る。
フーの心中を察してか、ブレッドは穏やかな笑顔を浮かべる。
「『暗闇の煌き』のことを思い出していたのかな?」
とある事件の名に、フーはゆっくりと頷く。
「忘れるはずがない。そのために僕はこうして戦っているんです」
「そうだったね。本来君に追われる身である私と手を組むくらいだからね」
話すことは話したと判断したフーはベンチから離れる。
こうして警察であるフーと指名手配中のブレッドが一緒に居る所を目撃されては一大事だ。
「僕はそろそろ仕事だ。また連絡しますよ、ブレッドさん」
頷くブレッドに背を向け、フーはいつものペースで一旦自宅へと走り出す。
一度帰宅したフーはシャワーに入り、制服に着替えると警察署本部へ直行した。
いつもなら担当の詰所に一度顔を出すのだが、今日は朝から本部へ呼ばれた。
三階の廊下をフーが歩いていると、向かう先からフーの相棒であるアダムが歩いてくる。彼の隣には知り合いらしい女性が付き添っている。
「よーフー。今日も辛気臭い顔してんなぁ」
アダムが言うと隣の女性もくすりと笑うが、フーは特に気にしない。
「アダム。そっちも呼ばれたのか?」
「まぁな。何事かと思ったら、どうも上からの命令でお前とはしばらく組まないことになるそうだ」
「なに?」
眉を潜めるフーに対し、アダムは楽しそうに笑う。
正直フー自身もアダムと組まずに済むのは嬉しいことこの上ないのだが、話が唐突過ぎる。
「お前が何をしでかしたのかは知らねぇけど、これで俺は気ままに仕事ができそうだ」
仕事なぞ鼻からやる気がないのは明らかなのだが、フーはいちいち突っ込まない。
アダムはじゃあなと言い残し、知り合いの女性と共にフーとすれ違う。
ふと、後ろからアダムと女性の会話がフーの耳に聞こえてくる。
「うわぁ、本当に気味の悪い人だったね。なーんか死人みたいな顔してた」
「あぁ。殺された相棒の仇を討つだとかで躍起になってるみたいだけどな、巻き込まれるこっちの身にもなれってんだ。だから誰もあいつと組みたがねぇんだよ」
「悪い意味で有名なのよね、彼」
故意でフーに聞こえるように話しているのか定かではないが、二人はフーの悪口を垂れ流しながら去っていった。
廊下に一人となったフーは静かに歩き出した。
フーが受けた指示によると会議室に一人で来るように、とのことだった。
呼ばれた理由を考えながら、フーは会議室の扉を開く。
三十人分の席が用意された会議室は広く、中央には大きな丸いテーブルが設けられている。
壁に窓はなく、扉が閉められた今、完全な密室ができている。
部屋の中にはフー以外にもう一人の男が椅子ではなくテーブルに腰掛けていた。
年は五十代半ばと言ったところで、灰色の髪は男によく似合い、無造作に伸ばされた髭と髪を後ろへと流しているからか、ライオンのような風貌と荒々しい印象を与える。
青色のレザージャケットは彼の大きな体格にマッチし、とても年老いた体には見えない
男の姿を見たフーはすぐに姿勢を正し、男に敬礼する。
「大佐、まさかここでお会いするとは思っていませんでした」
すると、男は手をひらひらと振り、フーに敬礼を解かせる。
「もう引退した身だって言ったろ、大佐はよしてくれ。今はインディゴだ、もっと気楽にしてくれよ」
フランクな態度でインディゴはフーに接っするが、フーは依然として姿勢を崩そうとしない。
「いえ、警察側である我々も知っている生ける伝説『青獅子』にそんな態度を取るわけには……」
「はー、相変わらず堅いなお前は」
ボリボリとインディゴは頭をかき、融通が利かないフーについため息をついてしまう。
「ともかく、この会議室の監視カメラの類は全て切らせてもらった。何を話しても問題ない」
やっと肩の力を抜いたフーはインディゴに質問する。
「貴方がここにいらしたということは、黒星の件で話があるということですね」
そう言い、フーはポケットに忍ばせてある黒い端末に制服越しからそっと手を乗せる。
「あぁ、そうだ。ちょっとばかしお前に着いて欲しい任務があってな。お前の上司に詳細は伝えてないが、しばらくこちらでお前を預かることになった」
そう言って、インディゴはテーブルに置いていたノートパソコンを開く。
すると、パソコンの画面にアルファベットのSが赤色で大きく表示された。
『一週間ぶりかしら、リザード』
「スカーレットか」
黒星によるアイルシティのデパート襲撃があって以来、フーはスカーレットと連絡を取っていなかった。
というのも、必要最低限の連絡は取り合わないというのが、スカーレットとインディゴがフーに下した命令だったからだ。
「結局あの事件の後ヴァイスは取り逃がしたのか?」
『えぇ、カメラの映像が映らない場所へ逃走したのち姿を晦ましたわ。こちらの完敗よ』
フーは相変わらずの無表情で「そうか」と一言だけ呟くが、少しばかり肩に力が入ってしまう。
『悔しがるのは、黒星を殲滅してからにしましょう。本題に入るわ』
フーの心情を察したのか、スカーレットは話しを進める。
『貴方を警察の任から外してここへ呼んだのは他でもないわ。貴方には護衛任務についてもらうつもりよ』
「護衛任務?」
思いもよらぬ任務内容にフーはついオウム返しで答えた。
『護衛対象者には建前上警察として護衛につくと伝えているれど、あくまで我々の管轄で行うわ』
「誰を護衛するんだ?」
フーがそう聞くと、パソコンの画面が切り替わり、とある少女の写真付きプロフィールが表示される。
画面の少女はアイルシティの高校の制服を着ており、茶色い髪は腰まで伸びている。
顔や体型は痩せているというより、痩せ過ぎだ。そっと触れるだけでぽきりと折れそうなほどに手首は細く、普段からあまり食事をしないのか頬は少しこけている。
その少女の姿にフーは見覚えがあった。
スカーレットの声がスピーカー越しに流れてくる。
『ミチル・ユノセ、十七歳。アイルシティの高校に通っている学生よ。この子の顔を覚えているかしら?』
覚えているもなにも、つい一週間ほど前にフーがジャスティカに変身している時に助けた女の子を忘れるはずがなかった。
『彼女の父親は交通事故で死亡、母親はその後姿をくらましたそうよ。その後彼女はコーストシティにいる母方の遠い親戚に引き取られたけれど、親戚とは馴染めないままアイルシティの高校に進学と同時に一人暮らしを始めたそうよ』
痩せこけている以外は至って普通の少女に見えるが、ミチルの生い立ちに少しばかり彼女の苦労をフーは垣間見る。
インディゴはパソコンの画面に視線を落としながら補足説明をする。
「どうも不登校気味らしくてな、学校にはここ数週間行ってないみたいだ。しかもよく家に引きこもる性格らしく、デパートが襲撃された時は珍しく外へ出かけた時だったらしい」
『デパート襲撃の際、ヴァイスは他の客に目もくれずこの子を狙いに行ったわ。目的は分からないけれど、この子の傍に誰かを常に置いておきたいの』
「人手不足だからな。他の奴らは全員動かしているから、この子の護衛を頼めそうなのはフー、お前だけなんだよ」
スカーレットとインディゴが交互に説明をしてくれるが、フーはいまいち納得がいかなかった。
「僕が護衛に着くとジャスティカの出撃頻度が下がるぞ」
『えぇ、分かっているわ。でもこちらの余力もあまり残っていないの。今は情報収集に徹して、最後のチャンスに備えるしかないわ。彼女を貴方が護衛している間、私と別の者でミチルさんの身辺調査をして黒星に繋がる情報を探すわ』
劣勢なのは明らか。黒星が起こす数々の事件にフー達が対処しきれていない事実を忘れたわけではないが、フーが護衛についている間に起きてしまう事件と被害を想像すると悔しさを捨てきれない。
憤るフーを余所にスカーレットは話を続ける。
『今は態勢を立て直すのよ。これ以上こちらがダメージを受けるわけにはいかない』
当然だ、とフーはとある少年の顔を思い出しながら頷く。
だが、だからこそ完全に納得することができないでいた。
「スカーレット、この護衛任務、他の者には回せないのか? 僕は前線から離れたくない」
『貴方の気持ちは理解しているわ。けれど、手足を動かすだけが戦いではないのは貴方も知っているでしょう?』
フーはしばらく口を固く結び、やがて諦めたかのように肩を落とす。
「それほどまでに、彼女には何かがあるということか?」
『正直、まだ分からないわ。でも、貴方を完全に前線から外すというわけではないの。たまにインディゴと護衛を変わって事件に挑んでもらうこともあると思うわ』
完全には納得がいかないものの、フーは「了解」と一言呟き、妥協を認める。
「最後に質問だ。ヴァイスにやられたジャスティカ……ケンイチ君は僕の知り合いだった。彼は望んでジャスティカになったのか?」
頭に引っかかっていた最後の疑問をフーは投げかける。
本来なら様々な機密事項を抱えているこのグループにおいてフーが今質問していることすら答えてもらえないのだが、しばらく沈黙が流れるとスカーレットが返事をする。
『……そうよ』
短い答えだったが、それで十分だった。
フーは一つ頷いて任務を承諾する。
護衛任務が始まったのはスカーレットと話した三日後からだった。。
簡単に荷物をまとめたフーは指定されたアパートの地下駐車場に待機していた。
警官としての護衛任務とはいえ、制服を着る必要はなく、紫色のジャンパーにデニムのジーンズを履き、髪は後ろに適当に結んでいる。
車から降り、腰をボンネットに乗せてしばらく待っていると、車が一台駐車場内に入ってくる。
入って来た車はフーの隣に止まると、車を運転していたインディゴが降りてくる。
「さ、降りな嬢ちゃん」
後部座席の扉を開け、インディゴは後ろに座る少女を外へ出るよう促す。
少しおぼついた様子で、少女が車から降りた。
写真通りの姿だ、とフーは心の中で思う。
少女、ミチル・ユノセは登校日でもないのに制服を着ており、執拗に目をキョロキョロと左右へ動かし、持っているボストンバッグをさらにきつく両手で握る。
デパートで助けた時も似たような態度を取っていたが、どうやら元々挙動がおかしい子のようだ。
フーは愛想笑いを浮かべることなく、ずいと手をミチルへ無造作に伸ばすと、ミチルはびくりと身を震わせる。
「フー・ヤンだ」
だが、ミチルはフーの握手に答えず、お辞儀のつもりなのか顔だけをうつむける。
「み……みち、ミチル・ユノ、セ」
何とも妙な空気が漂い、その様子を眺めていたインディゴは腕を組む。
「なんつーか……お前ら二人共コミュニケーション取れるか心配だな」
視線を合わせないようにするフーとミチルを見て、インディゴは不安な表情を浮かべた。
この作品のヒロインが一人、ミチルちゃんでした。
不滅の英雄編でケンイチとフーさんに助けられた女子高生ですね。