十五話
オレが目を覚ますまでに、四日かかった。
凄まじい疲労がオレを眠りの世界に縛り付けていたのだろう。
その深い眠りから覚めた時、オレはまた一つ強くなっていた。
いや、それどころか、オレは格段に成長していた。
なにしろ、目線がさほど変わらないはずだったフェリスより、確実に頭半分ほど大きくなっていた。
たったの数日で、数センチ以上身長が伸びるなんて、そんなバカな話があるものか。
しかし、実際にそんな風になってしまったのだから、仕方ない。
そして、目が覚めた今、オレはフェリスに泣かれて途方に暮れていた。
数日間眠りっぱなしだったオレを、フェリスはずっと看病してくれていたのだった。
そして、目が覚めてすぐに泣いて喜び、いったん落ち着いた今、オレに山ほど説教をくれてる。
「ほんとに、ほんとに心配したんだがらね……! こ、このまま目が覚めなかったらどうしようかって、す、すっごく心配で……ぐすっ、すっごく、心配したんだから……!」
しかも、泣きながら。
泣く子と女に道理は通じないというが、まさにその通りだ。
そして、その二つが合わさってしまったら道理なんか絶対に通じないんだ。
だから、大人しく聞いているしかない。
「もう……やめようよ……ねぇ……」
「――――やめる?」
「こんなに傷だらけになってまで、戦わないでも、いいじゃない……村に、帰ろうよ……今のニーナなら、何人分の畑仕事だって出来るんだから……」
「……ダメだ。それだけは絶対に出来ない」
「どうして!」
「そうでなきゃ、生きてる価値がない」
この世界において唯一絶対の掟は強者である事。
強くなければ生きていけない。強くなければ生きていく資格がない。
野蛮で原始的。この世界は、どれほどに文明や技術を発達させても、根底にそれがある。
強さを求める事。それだけが唯一絶対の法則。
誰もが皆、強さを求めていた。それはさまざまな形の強さだ。
純粋な武力を求めるもの、自身の技能を武器とするもの、生まれ持った素質を磨くもの、備わっていた特質を生かすもの。
この世界において強さとは賞賛されるものであり、例えそれがどれだけおぞましいものであったとしても許容される。
女たちの強さは美しい事だ。あるいは、女であるという事だ。
体を使う事。それは色んな意味を含むが、やはり性的なものが強いだろう。
オレにそれは選べなかった。母さんたちのように、自分を磨いて強い男に選ばれ、その妻となる事はどうしても我慢ならなかった。
男を騙す事も出来ないと思った。元々性格的に向かない。
だから、戦わなくてはならないと理解した時、胸の裡に滾る熱い想いのままに、オレは純粋な武力を求めた。
「人はなんのために生まれて、なんのために生きる。子孫を残すためなんかじゃない。強くなるために生まれてくる」
人間として生まれた瞬間、その人間は強くなる事を宿命づけられる。
人は遺伝子の箱舟であるなんて言葉は嘘っぱちだ。人は強くなるために生まれ、強くなるために生きる。
強くなければ、生きている価値がないから。
「フェリスは強い。女として生きてる。女としての武器を磨いて、そうして生き延びてた」
途中で、病にかかって転んでしまったけれども。けれど、フェリスは確かに自分の強さでしたたかに生きていた。
強くなければいけない。どんな意味でも。どんな方法でも。
そしてオレは、純粋な武力で強くなる事を選んだ。
村に帰っても、オレは強くなれない。戦わなければ、強くなれない。
だから、村に帰るなんて選択肢は、存在しないんだ。
「オレがオレであるために。ニーナがニーナであるために、オレは、戦わなきゃいけない」
どんなに苦しくても、戦わなきゃいけない。
そうしなきゃ生き残れない。生きていけない。生きている価値がない。
価値のない人生に、なんの意味がある? それはただ、死んでいないだけだ。生きていない。
オレは生きたいんだ。この世界に、生きていたいんだ。
だから、戦わなきゃ。立ち向かわなきゃ。目の前に立ちはだかる、全てに。
「どうして……どうしてそんなこというの? だって、こんなに傷だらけになって……死にそうな目に遭ってるのに……どうしてまだ、戦うなんていうの?」
フェリスの手がオレの腕を撫ぜた。
つい先日、リンに両断された腕。一直線に走る白い傷痕をフェリスの指が撫ぜる。
「目も、この闘技場で怪我したんでしょ……? このままじゃ、生きていけないくらいの大怪我を負っちゃうかも知れないんだよ……?」
「それでもいい」
「どうして!」
「強くなりたい。強くなりたいんだ……誰よりも」
強くなりたい。誰よりも。
なぜ強くなりたいと思うのかなんて答えは出ない。
神様とやらがオレの頭に妙な細工をしたのか、それとも、この世界が歪なように、そこに住む人間の脳自体が歪なのか。
まぁ、理由の発端なんてどうでもいい。強くなりたいという思いは、間違いようもなく自分から生まれたのだから。
そう、自分は強くなりたいんだ。こうして生まれて来た以上、誰よりも強くなりたいと思うのは、おかしい事か?
おかしくないとオレは思う。だって、人間はそう言う野蛮な存在だ。
有史以来、いや、人類誕生以来、人間は進化し続けて来た。戦争によってだ。
たった一握りの食料を奪い合って。
猫の額ほどの土地の所有権をめぐって。
宗教の解釈の違いから。
正邪の価値観の違いから。
見栄や誇り、名誉なんて拘りから。
そんな些細な理由で、人類は殺し合い続けて来た。
その殺し合いで、人類は進化して来た。進歩し続けて来た。
置き去りにされない為に、全力で走り続けて来たんだ。
殺し合う中では強くなければ勝ち残れない。なら、強くなろうとする。それが当然の事だ。
生存競争を勝ち抜くためにはどんなことでも許される。それが生物の本質。
だからこそ、オレは強くなろうとしている。間違ってなんかいないんだ、オレは。
「オレは強くなりたい。だから、邪魔しないでくれ。フェリスを嫌いになりたくない。ましてや、殺すなんてことは。だから……」
「ニーナ……」
フェリスが悲しげに目を伏せて、すぐに明るい表情を浮かべて顔を上げた。
「うん、分かった。でもね、覚えていて欲しいの」
「なにをだ?」
「ニーナが死んだら、悲しむ人がいるってことを」
「……ああ、分かってる」
それでもオレは、強くならなくちゃいけない。
そのために、何を捨て去ってでも。
オレには再び数十日の休暇が与えられた。もちろん、ファイトマネーも。
いわゆる詫びの気持ちという奴だろうか。あのファイトの内容にしては随分と過分、なのかもしれない報酬だ。
与えられた金貨の数は、千二百枚。いつもの百枚ちょいとの報酬よりも格段に多かった。
とは言え、死にかけた事を思えば、それほど高いとは言えないのかもしれない。
オレという存在の生み出す利益がどれほどのものかは知らないが、安い方なのかも知れない。
それに、この額もこれくらいがピークだろう。
人間って言うのは熱しやすく冷めやすいものだ。オレのファンなんていうのは大半が突如として現れた真新しく物珍しい剣闘士に興味深々になってるだけだ。
ある程度の時間が経てば、オレという存在にも飽きられる。その時がオレの価値の低下だ。
無論、剣闘という興行そのものに対する価値は失われない事から報酬がなくなるわけじゃない。
だが、高額の報酬が得辛くなるのは間違いないだろう。
オレが剣闘士として戦い始めて、もう一か月が経つ。飽きられるまでにあと一月、あるいは二月か。とにかく、あまり時間はない。
やるべきこと、なすべきことを成して、その後に冒険者としての活動を始める。
「資本はたっぷりとあるわけだから、問題はないな」
武器屋を見に行った時に武器などの値段は把握している。
武器を買って防具を買って。それからその他諸々の消耗品を買っても金はまだ余るだろう。
出来る事なら魔法の武具でも買いたいところだが、さすがに高いからな。これからの収入次第で変わってくるだろう。
「あとの問題は……目的だな」
オレの目的が強くなる事に終始しているのは当然として、それ以外の目的も勿論存在している。
まずはフェリスの病気を治す事だ。それからうまいメシが食いたい。そんくらいのもんだろう。
とは言え、梅毒なんてどうやって治せばいいのやらさっぱりわからない。
フェリスは今潜伏期らしいものに入っているが、梅毒の感染時期が本人でも分からない以上、いつまた病状が再発するかもわからない。
可及的速やかに治療方法を見つける必要があるが……まずペニシリンなんて手に入らない。
となると魔法という奴に頼る必要があるのだが、やっぱり魔法による治療ってのは高いんだろうな……。
まぁ、なんとかなるとは思うんだが。
そう思うと、フェリスの病気を治すのはさほど難しくない。
次はうまいメシだが、そんなもん食べ歩いて探すしかないわけで。
すると必然的に行動を起こすのは強くなるという主目的に寄る事になる。別に問題があるわけではないんだが。
「ふむ……あくせく動く必要がある、ってわけじゃねえんだよなぁ……」
ぶらぶらと椅子を揺らしながら思案に耽るが、思いつくことはさほどない。
村を探す……という考えもあったが、フェリスが馬車の来た道筋を未だに覚えているというので、あまり苦労せず帰れそうな気配がする。
あとはなにかあるだろうか。男に戻る? というより、男になる?
あまり必要性が感じられない目的だ。男にしか出来ない事なんて二つくらいしかない。いや、この世界だと一つか。ちなみにその一つというのは女装だ。女に女装は出来ない。
男に戻る必要性が感じられないというのは、単に女として生きていく事を決めた以上、悪足掻きをしたって仕方がないというのがある。
そもそも、オレというパーソナルは女の子のニーナという存在だ。いきなり男になっても家族はオレの事をニーナだと認めやしないだろう。
それに女は皮下脂肪を多く蓄えられる傾向があって、災害などに遭った場合の生存率は女の方が高いらしい。
男には筋量が多いとか、物事の構造の把握が得意とか、脳構造の違いなどからの利点もあるが、一長一短だろう。
それを思うと、別に苦労して男になる必要は感じられなかった。
あとは何かあるだろうか。
老後の生活を安定させるために、権力を手に入れる……とか?
しかし、オレは名誉欲はあるが権力欲は殆ど無い。権力には責任がつきものだ。
わざわざそう言った重いものに縛られたくはない。
老後の生活を安定させるというなら、若い頃にたっぷりと稼いでおいた方がいいような気がする。
あとは……。
「ああ、忘れてた」
記憶の奥底に押し込めようとして、けれどどうしても押し込めなかったアレ。
左目をまさぐる。
黒いバンダナに隠された、虚ろな眼窩。
ぞくぞくとしたものが背筋に走る。
憎悪と共に湧き上がる、嗜虐への欲求。
紅や赤を通り越した、煮詰まり過ぎた激しい怒りの感情は、コールタールのように凝った黒となっている。
しかし、確かに燃え上がるそれは、高温の蒼い炎となって怒りの感情を煮詰め続けている。
その怒りの感情は、もはや黝い眼をした怪物となってオレの中に潜んでいた。
「クッ――――くくくく……くひっ、ひひひっ」
ぞぷりと指が眼窩に沈み込む。
どろどろとしたものが眼窩から溢れてくる。
どす黒い血は激しい怒りの感情が溢れ出してきたような黒さで足元に零れ落ちる。
「殺してやる。ぶっ殺してやる。二度と見れねぇくらいの残虐ショーを見せてやるよ」
名前も知らねぇ、あの剣闘士。名前なんざに興味はねぇ。
ただ、オレの目を抉ったという事実だけが重要である、あのクソ野郎。
あのクソ野郎を殺さずしてどうする? 殺さなきゃあ、何も始まらないだろうがよ。
そうだ、殺してやる。
試合が許されないのであれば、どんな手段を使ってでも殺す。
地の果てまでも追いかけてやる。例えどんなところに隠れようが、確実に息の根を止めてやる。
生きている事を後悔するくらい凄惨に殺してやる。
ああ、楽しみだなぁ。どうやって殺してやろうか?
あの男を殺す時の事を想えばオレの胸は高鳴った。
楽しみで楽しみで仕方ない。遠足を待ち望む子供の気分ってのは、こんなんだったか?
きっと、二度と忘れられない最高の思い出になるだろうなぁ。