十一話
じくじくとした目の痛みで、意識が現実へと立ち返ってくる。
眠気にくらむ頭を振り、眠気を払い飛ばす。
「ふわ……ねみぃ」
あくびを一つ。そして、窓から外を見る。
まるでバケツをひっくり返したような雨が降っていた。
少し寒いと思ったが、雨が降っていたせいか。
目が疼くのも、それが原因だろう。気温が下がると、血流の悪さが原因で古傷が疼く。
目の疼きを呼び水に、ぞわりと憎悪の炎が燃え上がりそうになる。
それを務めて抑えるようにしながら、オレはベッドの上を見やる。
そこではフェリスが静かに寝息を立てて眠っていた。
未だフェリスの意識は戻っていない。それでも安定はしている。
呼びつけたデイダスの言によれば、今日明日死んだりという事は無いらしい。
体力を消耗しているから目を覚まさないだけだそうだ。
とりあえず眠らせておいていいとのことだが、もしもこのまま目を覚まさなければ覚悟しろ、とも言われた。
それはつまるところ、目を覚まさなければ、フェリスは死ぬ。
眠ったまま、静かに衰弱して、いずれ息を引き取る。
医療技術が発達していれば、外部からの栄養の投与で生きながらえさせることが出来る。
けど、この世界ではそんな事は出来ない。
そのまま、静かに眠ったまま死んでいくだけだ。
「……死ぬなよ、フェリス」
死んだりしたら、絶対に許さない。
あの世まで行って引きずり戻してやる。
そんでもって、ぶっ飛ばしてやる。
「……さて、訓練に行くかな」
筋肉痛と、眠っていた事でこわばっている体をほぐすように立ち上がりながら言う。
もっと強くならなきゃいけない。もっと、もっと。
今のオレは、自分ひとりさえ守り切れない。
フェリスすらも守れるほど、強くならなくちゃいけない。
本当にそんなに強くなれるのかという疑問はあるけれども、出来るか出来ないかじゃなくて、やりたいからやる、それだけだ。
その結果死んでしまったとしても、後悔はしない。
いや、違うな。好き勝手に生きたんだ。後悔なんて出来っこない。
後悔ってのは後に悔むこと。悔やむ事のないように行動をしていれば、自ずと後悔なんてしない。
たとえ愚かな選択であったとしても、自分の意思から生まれたものであるのならば、後悔など出来るはずもない。
そう、悔いのないように、この日死んでしまってもいいように生きていきたい。
後悔しない生き方って言うのはそういうことだろう。
けど、やりたいことが出来ずに死んでしまったら後悔するんだろうな……。
難しいな、後悔しない生き方って言うのは。
「……まぁ、難しいのは百も承知で選んだわけだ。しゃあないな」
難しくても自分で選んだことだ。投げ出すなんて出来ない。
とりあえず、修練しよう。
一日、二日と経って、フェリスが目を覚ました。
とりあえず、オートミールを腹いっぱい食わせた。
「もう腹いっぱいか?」
「うん……これ以上はちょっと……」
「そうか」
まだ半分以上残っているオートミールを机の上に置く。
もともと量が多いし、しばらく絶食していたせいで胃が縮んでいるんだろう。
そのうち食欲も戻ってくるだろうし、今はこれでよしとしておこう。
「あの、ニーナ」
「あん? なんだ?」
「ここ、どこなの?」
「闘技場。外出るなよ。変なのにつかまったら困る」
オレもたまに変なのに捕まる。まぁ、そう言う奴に限って弱いので、ぶっ飛ばして終わりだけど。
ぶっ飛ばす前に衛兵に気付かれて終わり、ってこともあるが。
「ニーナ、闘技場で働いてるの?」
「まぁな。そう言うお前は娼婦か」
「うん。それで、病気になって、追い出されちゃった……」
「さようか」
治療するよりゃ捨てた方が後腐れが無い上に安上がりだ。
オレが経営者ならそうするし、誰だってそうする。
奴隷は財産であって粗末に扱うものではないが、不治の病に罹ったら、壊れたと見做して捨てても変ではない。
「まぁ、安心しな。病気はオレがなんとかしてやる」
「治しかた知ってるの?」
「二つだけな」
「そうなんだ……」
ちなみにペニシリンの投与と、高熱で梅毒の病原菌を殺す方法だ。
もちろんどっちも出来ない。
つまり、他の方法を探すしかない。
「あの、ね、ニーナ」
「なんだ」
「私のこと、迷惑だったら、捨ててもいいから……」
「はいはい」
「見捨てるのも当然だから……同じ立場だったら、私もきっと、ニーナの事、見捨ててたと思う……」
「ああ、はいはい」
「だから、ね、ニーナが私の事を見捨てても、恨んだり、しないから」
「あー、はいはい」
「……聞いてる?」
「はいはい」
「……ニーナ?」
「あー、はいはい」
「ニーナ、おっぱい大きくなった?」
「なってねえよ。なに言ってんだ」
「なんだ、聞いてるんじゃない」
そら聞いてるわ。
「にっちもさっちも行かなくなったら見捨てる可能性も無きしにもあらずってことだろ。分かった分かった」
「ホントにわかってるの?」
「分かってる分かってる。太陽が東から上るくらい分かってる」
具体的にどれくらいわかってるのかって聞かれても困るけど、なんとなくわかった。
それには頷けないってことがな。
「ところで、おっぱいは本当におっきくなってないの?」
「なってねえ」
「ふーん……どれどれ」
「何で触ろうとする?」
とりあえず好きにさせるが、実際に膨らんでないものは膨らんでない。
「なーんだ、つまんない……」
「お前は8歳児に何を期待してるんだ?」
「だって、私はおっぱいおっきくなったんだよ? ニーナもおっきくなってるかもしれないじゃん」
「ねーよ。年齢が違うだろうが、年齢が」
「でも、可能性はあるかもしれないじゃん」
「ああはいはい、そうですねー」
馬鹿な話をしていると、なんとなく、懐かしかった。
これからも、こんな風に語り合えるように、絶対にフェリスの病は治して見せる。
絶対に。絶対にだ。
時は流れていく。
闘技場での戦いはさほど心配する事は無くなった。
人間同士の戦いも、あれから一度経験した。
何てことはなく、勝利した。相手もオレと同じくペーペーの剣闘士だった。さほど苦労する事も無かった。
これからは、モンスターとの闘技なんかも行われるらしい。
フェリスの病状は一時収まりを見せている。潜伏期という奴だろう。
だが、あくまでも小康状態に入っただけに過ぎない。
いずれ、梅毒は進行していく。猶予はまだ数年以上あるはずだが、決して油断はできない。
速く、強くならなくちゃ。
今日も闘技の時間がやってきた
今日の闘技の相手は、外部からの挑戦者。
いちばん強い奴と戦いたいと言って乗り込んで来て、とりあえず年代の近いオレと戦わされることになったらしい。
オレと同じくらいの年齢で乗り込んでくるって、そいつはアホか?
「で、そのアホの英雄志願様はどんな奴だったんだ?」
「お前と同じ女だったな、歳も同じくらいだ。服装からすると、シェンガの人間かねぇ……」
「ふうん……」
シェンガの人間……ってことは、日本人みたいってことか?
ふむ、話が出来たら聞きたいことがあるな……。
「あと、あれだな、痴女だ」
「は?」
「痴女だ」
「なんで」
「パンツ丸見えだったな。あと、上も殆ど裸だ」
「……そら痴女だわ」
オレと同い年くらいで痴女。
シェンガの情操教育が心配だ……そいつだけが変態であってほしい……。
「……まぁ、とりあえず行ってくる」
「おう、行ってきな」
痴女と試合するなんて嫌だな……セクハラされたりしたらどうしよ……
そう思いながら闘技場へと出る。
周囲を埋め尽くす観客は居ない。
この闘技は内輪で行われてるものだからだ。
興行にするには相手の力量が未知数過ぎたんだろうな。
オレを倒せれば、次はもっと強い奴と当てて興行にするんじゃなかろうか。
さて、その闘技場の真ん中に、一人の人間が立っている。
そいつは、その格好は、確かに痴女だった。
「痴女だ……間違いねえ……」
上半身殆ど裸。胸にサラシを巻いて、陣羽織を羽織ってるだけ。ぶっちゃけ陣羽織は露出減らせてないし、むしろなんかマニアックなものを感じさせる。
下半身は緋色の袴らしきものを履いてるが、上着を着ていないものだから太腿の辺りが殆ど丸見え。下着すら丸見えだ。
どう考えてもこれは痴女だろう。
いや、待て、相手はオレと同じ年頃に見える。
ならば、これは痴女ではなくて痴少女とか痴幼女とか言うべき相手ではないのか……?
などと馬鹿な事を考えていると、そいつとオレの目線が合った。
思わず目を逸らしかけた瞬間、目を逸らしたらどうすんだと思い、そいつを見据えたまま近づいていく。
そして、痴女とオレの距離がほんの数メートルにまで縮まる。
ここまで来ると、相手の容姿の全容も見えてくる。
黒髪に黒目、細面の少女。この辺りの国じゃあんま人気はなさそうな顔立ち。
上半身はサラシと陣羽織だけだと思っていたが、よくよく見ると腕に籠手らしきものも身につけている。サラシのインパクトがデカすぎて気付かなかった。
そして下半身は袴。だが、上が陣羽織なため、袴の脇から太腿とパンツが丸見え。
足には足袋と草鞋と何か狙ってんじゃないのかと思うくらいの格好だ。
全体的に見て、外人の考えた女サムライみたいな感じ。
「来たか」
凛として落ち着いた声だった。
少し低めで、滑らか。声量の大小にかかわらず、よく通る声だと思った。
「アンタこそ、こんなところにわざわざ来るなんて酔狂な奴だな。英雄志願か?」
「そんなものになりたがるほど酔狂でもないさ」
口の端を歪めてそいつは答える。
それなりに理性的ではあるし、アホでもないらしい。
だったらなんでまた闘技場なんかに殴り込みをかけたのやらと思ったが、そんな事はまぁどうでもいい。
「さっさと始めようぜ、お上の人達は待ちかねてる」
「そうだな。始めよう」
示し合せるでもなく、静かに剣を抜く。
オレはグラディウスを、そいつは刀と呼ばれる形の剣を。
天から降り注ぐ光を反射し、剣が鈍い輝きを放っている。
オレは剣を正眼に、相手も同じく正眼に。
来る――――!
そう察知した瞬間にはもう、相手の剣が振るわれていた。
真正面から首を狙った一撃。寒気を覚える程の鋭さで刃がオレの首を狙っていた。
その剣線に咄嗟にグラディウスを差し込めていたのは、修練のおかげ。
さもなくば、オレの首は胴体からオサラバしていただろう。
激しい金属音。
剣と剣が激突した音。
火花が散る。
次の剣が奔る。
また、防ぐ。
腕にしびれとして走る衝撃。
速い。残像すら見える程の速度。
剣を軌道に割り込ませ、必死で防ぐ。
防戦一方。だが、防ぎ切れないわけではない。
まだいける。
防ぐ。剣を弾く。
弾く、弾く、弾く。
弾く、弾く、弾く弾く弾く弾く弾く弾く――――!
乱舞。連続して繰り出される剣閃の嵐。
一つ一つが致命の一撃となり得るそれを、真向から受け止め続ける。
いや、真向から受け止めざるを得ない。
避ける事は出来ない。
よしんば避けれたとしても、次に続かない。
次の一撃は避けきれない。腕一本は持っていかれる。
だから、防ぐ。それしかない。
相手の剣か体が音を上げるか。あるいはオレの体が追随し切れなくなるか、剣が圧し折れるか。
恐らく、先に限界を迎えるのはオレ。
最初の一撃ですら殆ど偶然に近いレベルで防いでいた。
今この状況も、相手の剣は半分以上見えていない。
相手の動きから、来るであろう場所を推論して剣を差し込んでいるだけ。
半ば勘と言ってもいい。外れれば次の瞬間に致命傷を負う。
だが、防いで居られるのならば、打開の可能性はある。
1%でも勝利の確率があるのならば、そこに全てを注ぎ込んで状況をひっくり返す。
オレが勝利を掴み取るにはそれ以外に道はない。
地力で完全に劣っているのならば、奇策か、あるいは肉を切らせて骨を断つ以外に道はない。
そう考えた直後、相手の動きが止まる。
微かに上がっている息を整えるように、そいつが深く息を吐いた。
そこで、オレの息が完璧に上がり切っている事に気付いた。
心臓は早鐘を打ち、肺腑は痛みを覚える程に酸素を渇望している。
腕は筋肉疲労で熱を持ち、引き攣った腱が痛みを訴える。
茹だった脳は胡乱で、思考すら覚束ない。
「なかなかやるな」
「はぁ、はぁ……そいつは、どうも……ゲホッ……ゲホッ」
喉が引き攣る。うまく息が吸えない。咳き込んでしまう。
なんて無様。相手が強すぎるなどと言い訳は出来ない。
相手の年齢は、恐らくオレと同じくらい。つまり、土俵は同じ。
それなのに、コイツは息も上がらない程度にしか実力を出していなかった。
それで、ここまで打ちのめされた。無様という以外に言いようがあろうものか。
「名乗りは不要と思ったが、私の驕りだったようだ。名乗らせてくれ」
「好きにしろ……」
「生国と知るはシェンガの都。故あって姓を持たず、名をリン。お前の名は?」
「ニーナ……生まれも知らねえ、姓もねえ。ただのニーナだ」
「よい名だ。覚えておこう、ニーナ。そして、私の名もしかと刻んでおくがいい」
「へっ……オレに勝ってから偉そうな口聞きな!」
負けるつもりなんか欠片も無かった。
勝ち目が見えて来なくても、絶対に勝って見せる。
負けたくない。絶対に負けたくない。負けるわけにはいかない。
意地がある。矜持がある。
だから、絶対に負けない。
その意思を篭めて、オレは再び振るわれる剣閃の嵐に真っ向から立ち向かっていった。