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一話

プロローグと一話を統合して一話としました。加筆部分は少ないです。

 世の中に生きる上で上手く行く事は早々無い。

 順風満帆な人生を送っているように見える人間でも、その裏では相応の苦労をしている。

 オレが前世に於いて海難事故で死亡し、その後に神と出会って来世の己の能力値をエディットしても、その後もテンプレよろしく上手く行く事は無い。

 オレが生れ落ちたのは貧農の一家であった。

 働けども働けども、その日の糊口を凌ぐのが精いっぱいの毎日。


 そして、幼い我が身で出来る仕事などタカが知れており、同時に痩せた土地を豊かにする方法など知るよしもない。

 生憎とオレは頭の中に百科事典があるわけではないので、農業改革なんぞ出来んし、例え知識があったところで今すぐ実行して成果を発揮するなど到底無理。

 しかし、それでも、オレは必死で働いた。いや、働かざるを得なかった、という方が正しかっただろうか。

 貧農の一家にとっては子供だって貴重な労働源だ。ただ遊んでいられるなんてことはない。

 その生活は苦しかった。辛かった。

 飽食の日本に生まれ、ひもじさなど知らなかったオレにとって、空腹に胃が痛み寝る事も出来ない生活は耐え難かった。


 毎日畑の手入れをし、野山を駆け回って食べられる物を探した。

 肥料の改良にも着手しようとした。

 それでも、貧しさと言う怪物はひしひしとオレの元へと圧し掛かってきた。


 オレが生まれて、八年が経った年。

 その年は凶作というわけではなかった。

 しかし、豊作でもなかった。

 平年並みといっていい収穫。それならそれで終わった。収穫祭をして、冬に向けての備えを始めるだけだ。

 だが、我が家に新しく子が生まれた。

 二人目の子供。男の子でオレの弟。そして、オレは女。

 収穫期が終わった辺りで村へとやって来た者達の元へとオレは売られた。

 男と女なら、優先順位は男の方が高かった。

 成長して労働力になり始めた子供よりも赤ん坊の方が必要な食料は少ない。

 そして男なら、成長した暁には家を継げる。女は財産を相続出来ない。

 そして、男と女なら女の方が高く売れる。つまりは、そういうこと。


 それに、幾らオレが頑張っていたところでガキに出来る事なんてタカが知れていた。

 オレは居ても居なくても大して変わり無かったってこと。

 両親は謝り続けていた。もっと豊かだったら、もっと金があったら、もっと領主様がいい人だったら、と、ずっとオレに謝っていた。

 オレは生まれて初めてお腹一杯のごはんを食べ、両親に抱かれて眠り、その翌日にほんの数枚の銀貨と引き換えにオレは売られていった。


 両親を恨んだかといえば、イマイチ分からない。

 両親はオレの事を愛してくれていたと思う。だから、売られたとしても、貧しさが悪いのだと、そう思った。

 いや、そう思わなければ、やっていられなかった。


 そして、十八日ほど馬車に揺られた。道中の食事は、美味しかった。

 固焼きパンやイモ、干し肉などの保存食が主だったが、それでもそれなりに食べる事が出来た。

 満腹と言うほどではなかった。それでも、ひもじさに眠ることも出来ないと言う事は無かった。それだけで十二分に幸せだったと思う。


 馬車に揺られて辿り着いたのは、それなりに大きな町だった。首都なのかもしれない。

 石造建築が立ち並ぶ町並みは、異世界に生まれたのだと実感させるものだった。

 その町に入ってからも暫く馬車に揺られ、馬車が止まった場所で、オレと同じように馬車に放り込まれていた人間が次々と外に連れられていった。

 オレの番になって外に出され、目に映ったのは多数の粗末な身形をした人間たちだった。

 その人間たちを、身形のいい人間が品定めするように見回している。


「お前たちは、とりあえず何が出来るかを確かめる。来い」


 今まで馬車を駆っていた男が、オレ達の腕を縛る縄を手に歩き出す。オレ達はそれに唯々諾々と従って移動する。

 連れて行かれた先は、柵で囲まれた広場。その広場は幾つも存在し、その広場に入る前に縄を解かれ、年齢別に大雑把に分けられ。

 オレの連れて行かれた先は、売られた子供の集まる場所だった。オレのほかには、四人。左腕の無い少年が一人に、女が三人だった。


「あ~……とりあえず、この柵の周りを走れ。おら! 駆け足!」


 言われた通り、走り出した。

 地を蹴って走る。乾いた砂の地面を蹴って走る。

 砂地を走るのは少々コツが要る。不用意に走れば足を傷つける。

 足全体で着地し、爪先を使って地面を蹴る。コツとも言えないようなコツであり、砂地を一時間も走っていれば自然と身につく走り方。

 そして、自身の能力をエディットしたことで優れた身体能力を持つオレは、他の四人をダントツで引き離し、二週目では他の全員を追い抜くほどになっていた。


「そこまでだ! お前とお前はこっちに来い。他の奴等はあっちに行け」


 オレと左腕の無い少年が呼ばれ、他の少女たちは、十歳くらいまでの少女たちが纏められている場所を指差してそちらに行くように命令されていた。

 オレと少年は言われた通りに男についていき、身形のいい男がその男に幾許かの金を支払い、その身形のいい男がついて来いとオレたちに命じた。

 言われた通り、その男についていけば、すぐに石造りの建物の中に放り込まれた。日の光もろくに入らない上に、虫や野鼠が走り回る不潔な建物。

 呼ばれるまで出るなといわれ、オレは窓に程近い場所に座った。少年は部屋の隅に座って、俯いたまま動く事は無かった。


 

 

 それから、日が下がり、夜が訪れた。虫たちが這い回る環境には、余り慣れない。

 その環境の中で、オレはまんじりともせずに夜を明かした。

 腹が減った。空腹は、つらい。

 



 そして、寒々しく夜が明けた。日が上って暫くして、皿を手にした男がやってきた。

 その皿をオレと少年に一つずつ渡して、しっかり喰っておけ、と言って出て行った。

 中には大麦で作られた麦粥と豆が入っていた。一日ぶりの食事がこれかと僅かばかりの落胆を感じながら、その食事を胃に流し込んだ。不味かった。それでも、暖かい食事は体に染み渡った。


 朝食から一時間ほどして、オレと少年は朝食を渡してきた壮年の男に呼び出され、その男の先導で道を歩いていた。


「いいか。これからお前たちはアンフィテアトルムで猛獣と戦う事になる」


 唐突に男が言い出した言葉は、理解し難いものだった。アンフィテアトルムといえば、闘技場の事だと父さんに教わったことがある。

 その闘技場の中で剣闘士が猛獣や同じ剣闘士と戦う。そして、剣闘士とは須らく奴隷身分にあるのだと。


「僕たちは奴隷じゃない!」


 オレのすぐ横を歩いていた少年がそう叫んだ。その言葉を聴いて、壮年の男は皮肉げに笑った。


「お前たちは売られた時点で奴隷だよ。債務奴隷って分かるか。その債務奴隷としてお前等は扱われてんのさ。なに、お前たちが剣闘士として金を稼いで、自分自身を買うだけの金を溜めれば解放奴隷になることも出来る。生憎と、栄誉あるバルティスタ軍人になる事は出来んが、それ以外は自由だ。俺も昔は奴隷だったが、今はこうして訓練士をやれてる」


 要するに、騙されていたと言う事なのだろうか。いや、ただ、知らなかっただけか。両親は、知っていたのかもしれないが。


「話を戻すが、お前たちは猛獣と戦う事になる。だが、その猛獣はあちこち怪我してるし、年老いてる。上手いこと逃げるか、奇跡が十個くらい起きて猛獣を倒すことが出来れば、剣闘士になれるかもな」


「そんなの公開処刑みたいなもんじゃないか!」


 みたいな、ではないだろうに。実際に公開処刑だ。

 オレ達みたいな子供に何が出来るって言うんだ。喰われてはいお終いだ。

 猛獣の腹が満たされて、猛獣は幸せになるかもしれないが。


「そうかもな。けど、ちゃんと殺されそうになったら助けてくれるさ。まぁ、間に合うかは知らんが」


 オレ達の扱いは、古代ローマの死刑囚と似たようなもんか。古代ローマの死刑囚は、猛獣と死ぬまで戦うことを強制された。

 死んだフリをして難を逃れようとした死刑囚も、試合終了後に運び出されてトドメを刺されたという記録が残っていたという。


 一応、助けてくれるだけ恩情があるのかもしれないが。八歳のオレと、見たところ六歳くらいの少年じゃ、勝ち目なんか無い。


「武器は、あるのか?」


「あるぞ。使えるのか?」


 オレの問い掛けに、変な事を聞く奴だなと言わんばかりの顔で男は答える。


「無いよりはマシじゃないのか」


 そう、無いよりは。猛獣を相手取り、武器を手に立ち向かう子供。

 実に絵になりそうな話だ。ただ、その絵は数分後には残虐な地獄絵図に変わるだろうことは想像に難くないが。


「そうか。まぁ、精々頑張れよ」


 そういいながら、男が石造りの門を潜る。オレと少年もそれに続いて門を潜る。

 門を潜った先は、薄暗い石造りの部屋だった。壁中に武器が添えつけられ、部屋の真ん中辺りに多数の盾と兜が転がっていた。


「ここにあるもんは自由に使え。まぁ、下手に持って行っても逃げるのに邪魔になるだけだと思うがな」


 オレは部屋の中を物色し、一つのナイフを手に取った。剣やハルバードに心惹かれるものが無いとは言わない。

 しかし、実用性は無い。

 猛獣相手に大きな武器を振り回してる時間があるとは到底思えない。なら、小型の武器で十分。

 運がよければ、猛獣を倒せるかもしれない。出来なければ……自分の首を掻っ切るくらいなら、出来るだろう。

 せめて、死ぬのならば、猛獣に食われるという死に方なんかより、自分で首を掻っ切って死んだほうが万倍マシだ。


「ああ、それと、服は脱げ。下穿きだけで戦え」


 言われた通りに、服を脱いだ。第二次性徴もクソも無い、年齢だけで言えば、まだ小学生なのだから、恥ずかしいとは思わなかった。

 下手に逆らって不興を買うよりは恥ずかしかろうとなんだろうと服を脱いだほうがいい。だから、言われるがままに服を脱いだ。


「そこの扉が開いたら試合開始の合図だ。扉が開いたら、さっさと出て行って戦え。分かったな?」


「分かった」


 分からないって言ったって意味は無いだろうに。確認なんかしなくたっていい。

 そして、暫しの時が流れた。早鐘を打つ心臓が、やたらと五月蝿かった。恐怖とも緊張ともなんとも言えない感覚。

 荒い呼吸の音が耳につく。一体誰がと思って周囲を見渡しても、男は平然としているし、少年は俯いたまますすり泣いていた。

 なら、一体だれが。

 他に誰かいるのかと、そう思ったところで、自分の呼吸の音だという事に、ようやく気付いた。


「……死にたく、無い」


「そうか」


 独り言だった。その言葉に返事が返る。返事を返したのは、目の前の男。


「誰だって死にたくない。だから、必死こいて生きろ。そうすりゃ、観客が助命嘆願してくれるかもな。嘆願してくれる奴が増えれば、助けが来るかもな。まぁ、精々頑張りな」


 気休めにもならない言葉だった。

 ただ、それだけに、泣いても喚いても、どうにもならないと、そう理解する事が出来た。


 深く、深く……深呼吸をした。

 何度繰り返しても呼吸は荒いまま落ち着こうとはしなかったが、そうしているうちに幾らか冷静になれる。

 オレの身体能力は、高い。

 それこそ、そこらの大人顔負けな身体能力がある。そして、武器を振るう技能を保有しているはずだ。

 本来ならば十歳になった時点で十全にそれらの能力は発揮されるはずだが、八歳の現状でも十二分に身体能力は高い。先述したように、大人顔負けなほど。

 そして、武器を扱う技能も、多少ならばある。

 このナイフを使う事も、出来るはずだ。なら、必死にやって、なんとかして生き残る。これしかない。


「時間だ」


 そして、男の声と共に、扉が開かれた。オレは扉へと向かう。死にたくなんか、無い。それでも、行かなくちゃならない。

 なら、行った先で、生を掴み取る。死中に活を見出す、それ以外に道は無いのだ。だから、必死で戦う。それ以外に、無い。

 光の差し込む扉を、闘技場に続く道を進む。

 少しずつ、遠くから聞こえていた歓声が大きくなる。そして、扉から出る。

 

 

 

 強い光が目を刺した。

 そして、観客たちの大歓声が聞こえた。

 周囲を見渡せば、観客がアンフィテアトルム一杯に収まっていた。その誰もが熱狂に身を躍らせ、己の心の滾るままに叫んでいる。戦え、殺せ、戦え、殺せ。そんな大絶叫が耳朶を打ち続ける。


「――――ああ、現実なのか」


 どこか不確かで、どこかあやふやな感覚が消え去ったような気がした。

 耳朶を打つ熱狂の声も、この手のナイフの感触も、目の前に迫りくる絶望的な事態も、全て現実なのだ。

 背後で嫌がる少年が男に押されて闘技場へと足を踏み入れる。

 そして、嫌がっていた少年は、観客の大絶叫に気付いて、ぽかんとした表情を浮かべた。


「腹、括るしかない」


 ぎゅっ、と、ナイフを握り締めた。

 小さなナイフの感触は頼り無さげで、それでいて、この上なく心強い存在に感じられた。

 このナイフを上手く使いこなすか否かで、オレの生死が決まる。即ち、このナイフこそが、オレの生命線に他ならない。


――――上手く使いこなせるのか?

 

 自問の声に答えは無い。

 だが、上手く使いこなせなければ、死ぬだけなのだと、本能が語っていた。

 猛獣に喰われるか、自分で自分の首を掻っ切るか、そのどちらかなのだ。


 そして、対面の門から、檻に閉じ込められた猛獣が運び出されてくる。

 その猛獣は、虎、だろうか。いまいちよく分からなかった。

 年老いた獣であると男は言っていたが、それは確かなようだ。

 垂れ下がった皮膚に、肩や背骨が浮いているのが伺えて、年老いているのだろうと図らずも実感することが出来た。

 だが、その猛獣の顔には、異様といえるほどに長い牙があった。

 その威容を誇る牙だけが、年老いた猛獣には酷く不釣合いで、恐怖を感じさせた。


 生唾を飲み込む音が自身の体を媒介として耳朶を打つ。あの牙で噛まれれば、腕の一本や二本、簡単に持っていかれてしまうだろう事は想像に難くなく。

 それは即ち、あの猛獣に組み付かれた時点で、オレの人生は決すると言う事。

 その決した先は、この幼い少女の身であるオレの命が費えるという結果しかない。

 こんなちっぽけなナイフで何が出来るのだろうかと自問するが、やはり答えは出ない。

 先ほどと同じように、うまく使えなければ死ぬだけだと本能が語るのみ。


「アンフィテアトルムにお集まりの諸君! これより、午前の興行を始めるとしよう! まずは、年老いた猛獣と、幼き子供の闘技を始めよう!」


 何処からともなく老人の声が響いたと同時に、猛獣の檻を運び出してきた男たちが、猛獣の足にくくりつけられていた鎖を引く。

 その鎖を闘技場の中心に埋め込まれていた楔に通し、鎖のもう一方を、オレの足に固定した。チェーンデスマッチ、みたいなものか。


 そして、猛獣の檻が解放される。檻から飛び出した猛獣は掠れるような咆哮を一つ上げ、ゆっくりと歩みだす。

 背後で息を呑む声が聞こえた。それと同時、猛獣が一気に駆け出す。たわんでいた鎖が一気に引き絞られ、足元を掬われた形となったオレは引っくり返った。

 

「クソッ……!」

 

 必死で起き上がろうとするが、引き摺られている為に地に手を突く事すら出来ない。

 地面に背中がこすり付けられ痛みを訴えるが、猛獣は止まることなど無く、背を向けて駆け出していた少年の肩口に喰らいついていた。


「ひっ、ぎっ……あああああぁぁぁぁああああああああぁあぁぁぁあぁぁぁああぁああぁ!!!」


 絶叫。そして、歓声。

 少年の肢体を猛獣の牙が貫き、少年が絶叫を上げた。それに呼応するかのように、観客が歓声を上げていたのだ。

 組み敷かれた少年から噴水のように血が噴き出し、猛獣の体を汚す。そして、猛獣はそれを意にも介さず、少年の首筋に喰らいついた。

 ごぐり、と、鈍い音が響いた。

 先程まで耳に痛いほどに響いていた絶叫が掻き消え、少年の肢体が激しく痙攣を繰り返し、そのたびに血潮が噴き出した。

 

――――死んでいる。


 本能が理解した。首をへし折られたのだ。

 獣の常套手段。首を折れば大抵の動物は死ぬ。そのセオリーを実行したに過ぎない。

 

 そして猛獣は今まさに少年の命を奪ったことなど気にも留めず肢体を貪り始める。

 鋭い牙で柔らかい腹を割き、腹圧で飛び出してきた内臓に喰らいつき、それを咀嚼する。


 ぬらぬらと、太陽光を反射して鈍く光を反射する臓腑。それを、猛獣は実に美味そうに、ゆっくりと咀嚼し、腕を突き込み、更に内臓を引き出そうとする。

 現実味の無い光景。四方八方から聞こえる歓声はどこか遠い。だが、鼻を刺すような鉄錆の臭いだけが、何処までも過剰なリアリティを持ってオレに迫る。

 

 オレはもはや立ち上がれる状況になっているというのに、阿呆のようにその光景を眺めていた。

 余りにも非現実的過ぎて、理解を超えた光景が、オレに一切の行動を許さなかったのだ。


 やがて、その光景を受け止め、理解した時、全身が震えた。

 胃が痙攣し、嘔吐した。

 げぇげぇと、胃の内容物を闘技場の土に吐き散らした。

 目の前の余りにもグロテスクな光景に、体は反射的に動いていた。


 鼻を刺す血臭。たったさっきまで生きていた人間が、ほんの数秒で物言わぬ肉塊と成り果て、無残にも畜生の餌となって消える。


 あんまりにもあんまりすぎる。

 何処までも非人道的で、何処までも非現実的。大歓声を上げる人間たちが、人間の形をした悪魔に見えた。


 現実とは、こうまでも苦しいものなのか。こんなにも残酷で、不条理で、理不尽なのか。

 なんで、オレがここにいる。なんでお前等は、安全なそこにいる。


 唐突に体が引き摺られ、オレは地を転がった。その衝撃で気付く。猛獣が矛先を変え、オレへと一直線に走り出してきている。


「あっ、うあっ! い、いやっ、いやだぁぁぁぁあ!」


 咄嗟に、地面にナイフを突き刺した。

 剣闘士が、猛獣が、戦車が、数多のものが踏み締めた闘技場の大地にナイフが突き立つ。

 根元まで突き刺さったナイフを血が滲むのではと思えるほどに握り締め、必死で体を固定する。でなくては、死ぬ。殺される。


 ……い、いやだ……そんなのはいやだっ!

 オレはまだ八年しか、たったそれだけしか生きてない!

 まだ死にたくない……! 絶対に死にたくない! 死にたく、無い……!

 

「いやだぁ……! た、すけて……!」


 必死でナイフを掴んで、誰に向けてかも分からない懇願の声を漏らした。

 助けなんて来ない。そんなのは分かり切っている。それでも、言わずにはいられなかった。

 

 歓声が聞こえる。殺せ、殺せ、殺せの唱和。

 そんな声に、頭の片隅で観客たちへの激しい憎悪が巻き起こる。

 だからだろうか、迂闊にも、目の前の猛獣から僅かにでも注意を逸らしたのがいけなかったのだろうか。それは、分からないが。


「――――あ……」


 ナイフが半ばから圧し折れた。

 オレの肉体は強靭で、現状の力で猛獣と力比べをしても、拮抗することが出来ていた。

 だが、ナイフは違った。ただの金属製のナイフは容易く圧し折れ、残った僅かな刃も土から抜け出し、オレは一気に引き摺られる。


「あ、ああ! ああ! ひぃっ……! や、やだぁ!」


 ただ、必死だった。地面に爪を突き立てて、爪が剥がれても必死で地面を掴もうとする。まだ、死にたく無いから。

 それでも、現実は非情だ。

 地面をしっかりと捉える事の出来ない指は猛獣に抗しえるに足らず、オレは引き摺られていった。

 そして、背に熱い感触が奔った。痛い、と、最初は思えなかった。ただただ、熱い。まるで焼けた棒で肌を擦られたよう。


「いぎっ……! あ、あ、ぎゃあああぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁあぁぁぁあぁあ!」


 熱は一瞬で痛みへと変わり、熱を伴った激しい痛みが全身を貫いた。どろりと血が噴き出し、体を汚すのが分かった。


 激しい痛み、激しい熱。非現実的な感覚。

 これは夢なのでは無いかと思いたくもなる。ただの現実逃避に過ぎない。だが、痛みが、これが現実だと如実に語る。


 迫り来る死の足音が聞こえた気がした。

 ひたり、ひたり、と、無慈悲に死神が迫り来る光景を錯覚した。

 このままでは死ぬのだと、本能も、理性も、オレという存在の全てが全力で警告していた。


「げぶっ……! あがっ、あ、ああ!」


 背に何か重いものが圧し掛かる。それを必死で振り払おうと、背の痛みも無視してオレは必死に足掻いた。

 猛獣の唸り声が近づき。肩口に冷たい感触がしたかと思った直後、再び激しい痛みが全身を貫いた。


「あっ、ぎっ……! いぎゃああぁあぁぁああぁあっ! ひぎっ、は、あ、ひぃっ!」


 冷たい、冷たい感触。

 肩口を貫くその冷たい感触。首筋に当たる生暖かい猛獣の吐息。噛み付かれているのだと、自然と理解出来た。理解、させられた。

 足掻いたが故の結果。本来ならば首筋を噛まれ、首の骨は圧し折れ、皮膚を裂いて頚動脈を破り、オレは死んでいたはずだった。

 肉体は必死で迫り来る死に抗おうと足掻く。だが、猛獣と言う存在に対し、オレという存在は余りにも無力。それでも、死にたくない。


 だって、オレは生きたい! まだ生きて居たいんだ!

 オレは、生まれ変わった意味すら見出せていない!

 どうしてこの世界に生まれ落ちたのか、どうして神なんて者がオレを選んだのか。その答えをオレは得ていない!

 

 それに、二度目の人生だって、まだロクに生きていない!

 まだ、やりたい事が、知りたい事が、たくさんある!

 

 この世界に何があるのか。この世界でオレは何が出来るのか。そんな単純な事を、オレはまだ何も知らない!

 だから、オレは抗う……! 生きて、生き足掻いて……絶対に、生き延びる!


「あ、ああ……! あああぁぁぁああぁあああ!」


 咆哮。

 そして、全力で身を捩った。

 肩口を貫く冷たい感触は未だ健在。

 即ち、オレの体を貫いている猛獣の牙がオレの体を引き裂かんとする。

 それでも身を捩った。

 激痛に目の前が眩み、胃の腑から激しい吐き気がこみ上げてくる。

 直後、オレの体が勢いよく倒れた。猛獣の足に組み敷かれている状況では上体が倒れただけだったが。


 その次の瞬間、猛獣の悲痛な唸り声が響き、オレの背に圧し掛かっていた荷重が消える。

 そして、オレは必死で立ち上がり、未だに握られていたナイフの感触を確かめるよう、強く握り締めた。

 軽く二十センチはあっただろう猛獣の牙は梃子の原理によって局所的に荷重が掛かり、根元から圧し折れて、オレの肩を貫通した状態のままに残っていた。


「お……おぉ……! う、おぉぉぉぉおおぉぉぉおぉぉぉおぉおおおおおぉおぉおぉぉぉぉ!」


 上顎骨を破損でもしたのだろうか。

 それは分からなかったが、顔を前足で抑えて転げる猛獣へと、オレは咆哮を上げてナイフを手に躍りかかった。

 ナイフはまるで吸い込まれるように猛獣の首筋へと突き立った。たるんだ硬い皮膚を貫き、折れたナイフは根元まで刺さった。だが、致命傷足り得なかった。

 

 当然と言えば、当然かもしれない。猛獣の毛皮の強度は人間の皮膚なんて比べ物にならない。その筋肉の密度だって人間を遥かに超えている。

 オレみたいなちっぽけな子供が全力で襲い掛かったって、ロクな傷を与えられない。

 

 そして、猛獣はまるで蝿でも払うかのように腕を払った。

 本当に無造作な一撃だった。それこそ、人間が目の前に蝿が飛んで来たから腕を振ったような動き。


「がっ……!?」


 その一撃でオレの腹の皮膚は裂け、衝撃によって弾き飛ばされた。

 無造作な一撃で、こんなにも簡単にオレは吹き飛ぶ。

 オレはこんなにも無力なのか。こんな、こんな簡単に倒されてしまうのか。

 だが、だからといってその無力さに歯噛みしている暇など無かった。

 オレは激痛を堪えて必死で立ち上がり、こちらを鋭く睨み据える猛獣と対峙した。

 そして、猛獣が駆ける。残る牙を煌めかせ、オレの首筋に喰らいつこうとして来るのが軌道から分かった。

 だが、その動きは死に際の集中力からか、酷くゆっくりとして見えた。

 だから、その首筋に出来た血を流す傷口を見て、いけると直感した。


 猛獣の動きにあわせるように、牙に貫かれなかった方の腕、指先をそろえた右腕を突き出す。

 そして、オレの貫き手が、猛獣の傷口へと突き刺さった。

 猛獣の動きが止まった。それを意にも介さず、オレは腕を突き込んでいった。

 そして、指先に周囲の筋肉とは違う、強い弾力を持った物体が突き当たる。

 それを引き千切れと、本能が叫んだ。オレはその本能の叫びに従い、その強い弾力を持った細長い物体を指先で掴み、一気に腕を引き抜いた。


 一瞬の静止。その後、まるで噴水のように猛獣の首筋から勢いよく血が噴き出してオレの顔を汚した。

 猛獣は一つだけ悲しげに鳴くと、そのまま地に臥した。

 猛獣の肉体は時折痙攣するだけで、最早動く事は無い。

 死んだ、のか……? オレが、オレが猛獣を、倒した?

 オレが、猛獣を倒した。オレが勝った。

 オレは、生き残った……。オレは、生きてる……。


「は、はは……はは、ははは! あはっ、あははっ! あはっ!あはははははは!」


 口から自然と笑い声が漏れた。

 左肩に突き刺さっている猛獣の牙を半ば無意識に引っこ抜き、それを天高く突き上げた。

 この圧し折れた猛獣の牙こそがオレの勝利の証に思えてならなかった。

 否、これこそが勝利の証に他ならない。

 この牙こそ、オレの命を証明する証。

 オレが強者である事を知らしめる証。

 オレが勝者であることを雄弁に物語る物証。

 

 そして、大歓声が響いた。天を裂かんばかりの絶叫。

 観客たちは大番狂わせの事態に対し熱狂し、その激しい熱狂に喝采し、身を躍らせる。


 圧倒的に不利な状況から逆転し、勝利したオレを賞賛する声の大合唱。小さき勇者! とオレを褒め称える声が闘技場に木霊する。

 

 その激しい熱狂にオレは狂ったように笑い、バカみたいに走り回り、跳ね回ったところで、激しい肩の痛みにうめきを上げて転げまわった。


 すると、闘技場の観客たちが治療を! 小さき勇者を死なせるな! と叫びながら、親指を立てた右腕を突き上げて声高に叫んだ。

 それに少しばかり遅れるようにして闘技場に足を踏み入れてきた奴等が、転げまわっていたオレを担ぎ上げて闘技場から運び出していった。


 これで助かると、ただ自然とそう思えた。

 だって、そうじゃなきゃ嘘だ。

 圧倒的に不利な状況から一発逆転した主人公が死ぬような物語なんて、誰も見たくはない。

 だから、オレは絶対に助からなきゃいけない。そんな、わけのわからない論法でオレは助かると確信していた。

 その安堵にオレは身を委ね、意識はそのまま遠のいていった。

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