鈴森呉葉と、弟の話。
前作『鈴森呉葉にまつわる、彼女の話。』『鈴森呉葉にまつわる、弟と同志の話。』を既読すると、よりいっそう世界観が伝わるかと思います。
僕は。
藍夏さんを見てた。
赤い夕日にとろけた輪郭を。薄い眼鏡越しのキツい眼差しを。意志の強い眉を。
ざっくり束ねられたゆるく波打つ髪を。マグを持つ白く華奢な指を。薄い肩を。
体にあってない白衣で覆われた身体の線を想像し、すらりとしたふくらはぎの細い足首の丸いくるぶしまで。
青い絵の具すら赤く染まった夕暮れの美術室で、二人きり。
見てた。とうに決めてた。この時には。
ピ、ピ、ピ、機械音。聞きなれた音。体に走る違和感。
いろんなものがあらゆるところに刺さり突っ込まれている感覚。消毒とすえた臭い。ここは、病院。
幸せな、夢を見ていた。
もうひと月はゆうにあっていない顔に、夢の中だけど、会えた。心臓がうるさく脈を打つのは、多幸感とやりきれない切なさのせいだ。藍夏さんの匂いがかぎたい、と考えて、ちょっとフェチ入りすぎかと口の端で自嘲した。
「にいさん」
声に視線を流せば、ベッドのふちに葉市がいた。
十歳にしては細い線のほおは強張って、今にも叫びだしそうな喉を押さえつけるように口を引き結び、眉間にしわを寄せたまま、にらむように呉葉を見ている。
八歳年下のこの弟のことを、呉葉はよく知らない。
彼と、そのさらに三年後にもう一人生まれた弟とは、ほとんど共に暮らした記憶がない。
呉葉は病気が判明してから、入退院を短い期間で繰り返していて、病院から離れた実家に帰るより、病院近くに借りた家でひとりおとなしくしていることのほうが多かった。両親は治療にかかる費用のために働きづめだったし、そのため弟たちは父の実家で祖母の手によって養育されていた。家族はバラバラだった。呉葉の病気のせいで。
四年前、呉葉と同じ病を得ていると診断された葉市を、哀れに思う。
父や母、こと葉市に対しては、辛い部分を辛くないように装い、強がっていたかも知れない。
病と闘っている強い自分、というものを示すことで、幼い彼に必要以上の恐怖を与えまいと、ちらとでも思えばよかったんだろうけど。
これは兄として男としての意地と矜持、両親に対しては意地のみだ。
『辛抱強い穏やかな呉葉』の本性を知る人は、今となっては、同じ病を抱える少女と、その弟と、担当医と……あと一人。
コードやらチューブやらがつながった体はなかなか思うように動かない。
口の端に力を込めて、呉葉は精いっぱい笑って見せる。
「よぉ。どした、辛気臭い顔して」
わざとおどけて言う。実際には声はかすれ、言葉も不明瞭にしか聞こえなかったが、葉市に意図は通じたらしく、泣き出しそうな顔をさらに歪めて、彼は兄をにらんだ。
「にいさん」
幼い声が言う。
「にいさんは、死ぬんですか」
いたいけな少年が、残酷な質問をする。
嘘をついても仕方ないので、正直に答える。
「さあ。死ぬかもしれないし、まだ生きるかもしれない。現に、このあいだも死ぬかと思ったけど、僕はまだ生きている」
とぎれとぎれの言葉は吐き出すのに長いこと時間がかかったけど、葉市に伝わったようで。
彼は泣きだすのを必死でこらえているらしい面白い顔で、呉葉をにらむ。
葉市はもしかしたら、今の呉葉の姿に未来の自分を重ねてしまっているのかもしれない。そう思って呉葉は不快になった。そんなのはだめだ。
こんな姿を末期に思い描いて、あと十数年を生きるなんて、そんなのはだめだ。許せない。
だって、僕はこんなにも幸せなのに。
この世の不幸を一身に引き受けたような顔をしている弟に、これだけは言っておかないと、と呉葉は朦朧とかすむ思考のなか、言葉を紡いだ。
「葉市、おまえ、好きなように生きろよ?」
「え?」
「僕たちの病気は、確かに自由を狭める。でも、だからと言って、僕たちがせせこましく生きる必要なんて、絶対ないんだ。僕は後悔してない。
好きなことを、やりたいようにやった。やりたいこともせず漠然とした何かや誰かを恨むより、やりたいことをやれるだけやって後悔しない方が、ずっとましだ」
「………本当に、後悔してないの?」
「全く、といったら、嘘になるけど。僕は、僕にやれる最大限のわがままを、最後にしたから。そのことに関して、まったく後悔はしてない」
「わがまま……お母さんたちに言ったの?」
あどけなく言う弟に笑みがこぼれる。
「馬鹿、好きな人に、だよ」
葉市にはまだわからないか、と言えば、頬を赤くしてくちごもる。すでに気になる子はいるのか、初々しい反応に、笑みがこぼれた。
「いずれ、わかるよ。すべてを知ってほしくて、でも知られたくなくて、自分も相手もどろどろに水底にひきずっていってしまいそうな、そんな想いを、お前もするのかもしれない」
きょとんと瞬きを繰り返す葉市は、今呉葉が言ったことをよく理解していないのかもしれない。それでいい。呉葉も感覚で言っただけで、うまくあの感情を理解していない。
もしかしたら。
この感情は、憎しみと、嫉妬に終始していたのかもしれない。
恋と呼ぶには不穏で、愛と呼ぶには時間も感情も足りていなかった。
彼女にとっては、通り魔のようなものだったであろう自覚はある。それでも。
それでも、呉葉は求め、藍夏は応じた。正負はあれど、感情のゆきかいはあった。
あの、短くも濃い時間!
「葉市、人を好きになれ?」
「好きな人ならたくさんいるよ」
「馬鹿、ちがう。憎いくらい好きな女を作れ、ってことだ」
「どういうこと?」
「強い感情は、常に逆ベクトルにも発しているってこと」
「???」
年齢の割に大人びた顔が、さらに疑問に染まる。年相応のその顔に似合わない話をしてるとわかっているけど、呉葉には大切な話だったので構わず続けることにする。今更ながら、時間が足りない。この弟と過ごす時間をもっと持てばよかったと後悔しても遅い。
呉葉にとっての最優先なんて、彼女に決めた瞬間から変わりはしない。
「殺したいくらい好きなやつができたら、それは本物、ってことだ」
「本当に殺すかさておきな」と不穏な言葉を吐く兄を見つめる弟を、見つめ返す。
まじめな表情は、わざと茶化して言ってみたにもかかわらず、この言葉を本気と察しているようで。
「にいさんは、見つけたの?」
この聡い弟と、もっと話をしとけばよかったと、返す返すもおしい。
作らない笑みが生まれて、呉葉は自分が、このよく知りもしない弟のことをそれなりに好きなのだと、はじめて知った。
たくさん針のつながった痩せてがりがりの腕を何とか持ち上げて、葉市の髪をくしゃくしゃかきまぜる。少年の髪は柔らかくて、潮の香りがした。
「僕は、幸せだったよ」
嘘はたくさんついたけど、これだけは偽れない。
僕は、確かに幸福だった。