この世とあの世の狭間
はじめまして。
あるいは、おかえりなさい。
この物語には大きな事件も、
派手な奇跡も出てきません。
ただ、忘れてしまったものや、
言えなかった言葉や、
もう会えない誰かへの想いが、
静かに風の中を漂っています。
もし今、
思い出したい誰かがいるなら。
もし今、
胸の奥に名前のない寂しさがあるなら。
少しだけ、この駅に立ち寄ってみてください。
風の吹くままに。
第一章 風のない駅
目を開けると、駅にいた。
知らない駅だった。
それなのに、帰ってきた気がした。
夢の中で何度も通り過ぎた場所を、目覚めてから思い出せなくなることがある。
あの感覚に似ていた。
ホームはひとつだけ。
線路もひとつだけ。
改札はない。
駅員もいない。
広告の貼られていない柱が並び、古いベンチがぽつりと置かれている。
空は曖昧だった。
朝焼けの途中にも見える。
夕暮れの終わりにも見える。
どちらとも決められない色をしていた。
時計があった。
丸い時計だった。
けれど針は動いていない。
止まっているようにも見えるし、あまりにゆっくり進んでいるだけにも見えた。
僕はしばらくその時計を見上げていた。
何時なのかはわからない。
そもそも、ここに時間があるのかもわからなかった。
足元を見る。
靴を履いている。
服も着ている。
けれど、自分がどこから来たのか思い出せない。
何をしていたのか。
どこへ向かっていたのか。
誰といたのか。
名前さえ曖昧だった。
胸の奥で何かが鳴っていた。
名前は思い出せない。
けれど、それが何なのか思い出そうとすると、白い霧のようにほどけてしまう。
ホームを歩く。
足音だけが響いた。
コツ、コツ、と乾いた音。
その音は遠くまで続かず、線路の向こうで静かに消える。
端まで歩こうと思った。
けれど、いつまで歩いても端は見えなかった。
振り返る。
さっきまでいたベンチが、同じ距離の場所にある。
柱も。
時計も。
変わらない。
まるで駅そのものが、どこにも続いていないようだった。
僕は立ち止まった。
遠くで風が鳴った。
髪も揺れなかった。
服も動かない。
それなのに、耳の奥でだけ風が鳴っている。
誰かが遠くでページをめくる音にも似ていた。
波の音にも似ていた。
聞き覚えがある気がした。
けれど思い出せない。
ベンチへ戻った。
木の表面は少し冷たかった。
誰かが座っていた跡が残っている気がする。
けれど誰もいない。
空席だけがある。
僕は隣を見た。
誰かの名前が喉元まで来ている。
あと少しで思い出せそうなのに。
名前だけじゃなかった。
誰かがそこに座っていた気がする。
何かを話そうとして。
何かを残していった気がした。
そのたびに霧がかかる。
「……誰だっただろう」
声に出してみた。
返事はなかった。
けれど、その瞬間。
ホームの端で白いものが揺れた。
最初は光だと思った。
次に霧だと思った。
けれど違った。
花だった。
線路のそばに、白いものがあった。
花だと気づくまで少し時間がかかった。
百合にも見える。
違う花にも見える。
見ているうちに形が少しずつ変わる。
僕は立ち上がった。
花へ近づく。
花は風もないのに揺れていた。
しゃがみ込み、拾おうとする。
指先が触れる寸前。
どこからか風が吹いた。
今度は確かに風だった。
白い花びらが一枚だけほどける。
花びらはホームを滑り、僕の横を通り過ぎていく。
僕は振り返った。
花びらはベンチの前で止まった。
そこに、人影があった。
さっきまで誰もいなかったはずなのに。
白い花を抱いた人が立っていた。
顔は見えない。
逆光の中にいるわけでもないのに、輪郭だけが曖昧だった。
女性にも見えた。
少女にも見えた。
思い出しかけた記憶にも見えた。
その人は何も言わない。
ただ静かに花束を抱いている。
風が吹く。
白い花びらが一枚、二枚と空へ上がった。
空は相変わらず、朝とも夕方ともつかない色をしている。
僕はその人を見つめた。
初めて見るはずなのに。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
会いたかった気がした。
ずっと前から。
その人も、こちらを見ている気がした。
けれど目は見えない。
距離は遠くない。
数歩も歩けば届くはずだった。
それなのに、その数歩がやけに遠く感じた。
まるで夢の中で走れなくなる時みたいに。
足が動かない。
白い花を抱いた人は、小さく首を傾げた。
何かを思い出そうとしているようにも見えた。
誰かを待っているようにも見えた。
その時。
遠くで列車の音がした。
かすかな音だった。
本当に聞こえたのかもわからない。
けれど、その人はゆっくり顔を上げた。
音のした方を見る。
僕も見る。
線路の先には何もない。
空と霧だけが続いている。
列車の姿は見えなかった。
再び視線を戻す。
すると。
白い花を抱いた人は消えていた。
そこには誰もいない。
ベンチだけがある。
風だけが吹いている。
僕は急いで近づいた。
誰かが立っていた場所。
何もない。
けれど足元に、白い花が一本だけ残されていた。
さっき線路のそばにあった花と同じだった。
僕はしゃがみ込む。
今度こそ拾おうとした。
指先を伸ばす。
花に触れる。
そう思った瞬間。
花は音もなくほどけた。
白い花びらになり、風に乗って空へ消えていく。
ひとつ。
またひとつ。
最後の花びらが見えなくなるまで、僕はその場に立っていた。
遠くで、また風が鳴った。
誰かが名前を呼んだ気がした。
けれど、その名前は聞き取れなかった。
ホームにはもう何もない。
ベンチ。
時計。
空。
そして風。
僕はゆっくりと顔を上げた。
すると、さっきまでなかったものが見えた。
ホームのずっと先。
霧の向こう。
小さな青い光が浮かんでいた。
ビー玉みたいな色だった。
それは一度だけ瞬き、
そして、消えた。
第二章 白い花を抱く人
白い花の人は、いなくなったはずだった。
けれど、ホームの空気にはまだその人の気配が残っていた。
花の匂いはしない。
なのに、どこか懐かしい匂いがする。
雨上がりの玄関。
古い畳。
誰かの髪。
病室の白いカーテン。
そのどれでもあり、そのどれでもない匂いだった。
僕はベンチの前に立ったまま、しばらく動けなかった。
さっきまで人がいた場所。
そこにはもう何もない。
けれど、確かに誰かがいた。
そう思わせるだけの温度が、空気の中に残っていた。
ホームのずっと先で、また青い光が瞬いた。
ビー玉のような、小さな光。
追いかけようとした。
けれど一歩踏み出した瞬間、背後で花びらの落ちる音がした。
音がした、と思った。
本当は、花びらに音などなかったのかもしれない。
振り返る。
ベンチの上に、白い花びらが一枚だけ置かれていた。
さっき消えた花の名残のようだった。
僕はそれに触れようとする。
けれど指先が届く前に、花びらはふっと持ち上がった。
風が吹いている。
今度の風は、少しだけ温かかった。
花びらはホームの奥へ流れていく。
僕はその後を追った。
いつまで歩いても同じだったはずのホームが、少しずつ変わっていく。
柱の間に、淡い光が差し込んでいる。
床のひび割れには、小さな水が溜まっている。
その水たまりの中に、見知らぬ街が映っていた。
花屋の軒先。
夕方の道。
誰かの後ろ姿。
水面は揺れていないのに、景色だけが静かに動いている。
僕はしゃがみ込んだ。
水たまりの中で、誰かが花束を抱えて歩いている。
白い花束。
その人は振り返りそうになる。
けれど顔が見える寸前、風が水面を撫でた。
景色は崩れた。
ただの水に戻る。
僕は顔を上げた。
ホームの端に、白い花を抱いた人がいた。
さっきよりも近い。
けれどやはり、顔ははっきり見えない。
その人はベンチに座っていた。
花束を膝に置き、両手でそっと包んでいる。
僕はゆっくり近づいた。
今度は足が動いた。
けれど一歩近づくたびに、その人の輪郭は少しずつ変わる。
若い女性にも見える。
年老いた人にも見える。
学生服を着た少女にも見える。
喪服の人にも見える。
見つめるほど、ひとつに定まらない。
それでも、白い花だけは変わらなかった。
「待っているんですか」
僕は尋ねた。
声は思ったよりも小さかった。
白い花の人は、少しだけ首を傾けた。
「たぶん」
そう答えた。
声もまた、年齢を持たなかった。
若くもなく、老いてもいない。
近くもなく、遠くもない声だった。
「誰を?」
白い花の人は少し考えた。
「誰だったのでしょう」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で何かが揺れた。
僕にも、
思い出さなければならない誰かがいる気がした。
その人は花束を見下ろした。
「でも、持っていかなきゃいけない気がして」
「どこへ?」
「どこかへ」
会話はそこで途切れた。
ホームには、静けさが降りていた。
降り積もる雪のように。
けれど寒くはなかった。
僕はその人の少し離れた場所に座った。
近すぎると消えてしまいそうだった。
白い花束は、時々ふっと揺れた。
風は吹いていないのに。
「あなたはまだ」
白い花の人はそこで言葉をやめた。
「まだ?」
風が吹いた。
花びらだけが空へ上がった。
その人は答えなかった。
ただ、指先で花びらに触れた。
その指が、かすかに震えている。
「大切だったかどうかも、忘れてしまったの」
白い花の人は言った。
「でも、忘れてしまったのに、胸だけが覚えている」
胸だけが覚えている。
その言葉を聞いた時、僕の胸の奥でも何かが揺れた。
忘れている。
けれど、覚えている。
この駅では、それは矛盾ではなかった。
むしろ、ここにあるものはすべてそうなのかもしれない。
覚えているのに、思い出せない。
失くしたのに、残っている。
いなくなったのに、まだそこにいる。
白い花の人の足元に、小さな水たまりができていた。
水面に、また景色が映る。
花屋。
夕方。
誰かの手。
閉じられたままの扉。
「これは、あなたの記憶ですか」
僕が聞くと、その人は首を横に振った。
「わからない」
水面の中で、誰かが立っている。
花束を抱えた人。
その向こうに、もう一人の影が見える。
二人は向かい合っているようだった。
けれど言葉は聞こえない。
何かを言おうとして、言えないまま立っている。
そんな景色だった。
「言わなきゃいけないことがあった気がする」
白い花の人が言った。
「どんな?」
「短い言葉」
「ありがとう、とか?」
「それも、あったかもしれない」
「ごめん、とか?」
その人は目を伏せた。
顔は見えないのに、伏せたことだけはわかった。
白い花びらが一枚、膝から落ちる。
音はしなかった。
花びらは床に落ちず、空中で止まった。
そしてゆっくりと回りながら、線路の方へ流れていく。
「短い言葉ほど、届かなくなるんですね」
「花は枯れるのに、言えなかった言葉は枯れないのね」
白い花の人は言った。
「近くにいた時は、すぐ言えると思っていたのに」
僕は何も言えなかった。
自分にも、そんな言葉があった気がする。
ありがとう。
ごめん。
会いたい。
大丈夫。
好きだった。
またね。
どの言葉も、
誰かに向けて言いたかった気がした。
その相手だけが思い出せない。
どれも短い。
けれど短いからこそ、いつでも言えると思ってしまう。
そして、いつでも言えると思っていた言葉ほど、最後まで胸の奥に残る。
ホームの空が、少しだけ暗くなった。
朝とも夕方ともつかない色に、夜の青が混じる。
遠くで列車の音がした。
まだ姿は見えない。
けれど音だけが近づいてくる。
白い花の人が顔を上げた。
「来たのかしら」
「何が?」
「わからない」
その人は花束を抱きしめた。
白い花びらが、さらに数枚ほどける。
風が吹く。
今度は強い風だった。
ホームの床を花びらが流れていく。
一枚、二枚、三枚。
まるで見えない川のように。
白い花の人は立ち上がった。
僕も立ち上がる。
「行くんですか」
その人は答えない。
「どこへ?」
やはり答えない。
けれど、歩き出した。
ホームの端へ。
音のする方へ。
僕はついていこうとした。
でも足が動かなかった。
さっきと同じだった。
透明な糸で、そこに縫い止められているみたいに。
白い花の人だけが、ゆっくり遠ざかっていく。
その背中は、どこかで見たことがある気がした。
雨の中。
駅の改札。
病室の廊下。
古い家の玄関。
いくつもの景色が重なって、どれも決め手にならない。
「あなたは、まだ探している途中なのね」
白い花の人が振り返らずに言った。
「何を?」
「それは、あなたが忘れたもの」
その言葉が、ホームに残った。
白い花の人は、線路のそばで立ち止まる。
列車は来ない。
ただ、光だけが差した。
朝の光にも見える。
夕暮れの光にも見える。
その人は、その光の中へ歩いていった。
白い花束が一瞬だけ強く白くなる。
次の瞬間、姿は消えていた。
あとには、一本の花が残った。
線路のそばに。
最初に見た花と同じ場所に。
僕はようやく動けるようになり、そこへ近づいた。
今度こそ、拾える気がした。
しゃがみ込む。
指を伸ばす。
花に触れる。
けれど、触れた瞬間。
花は白い霧になった。
霧は線路の上を渡り、空へほどけていく。
僕はその行方を見上げた。
遠くで、誰かが泣いている気がした。
それは白い花の人の声かもしれない。
僕の記憶かもしれない。
それとも、風が花びらを運ぶ音だったのかもしれない。
しばらくして、ホームはまた静かになった。
ベンチ。
止まった時計。
名前のない空。
そして、遠くの青い光。
今度は、さっきよりもはっきり見えた。
小さなビー玉のような光が、線路の向こうで浮かんでいる。
その光の中に、一瞬だけ水面が見えた。
海だった。
音のない青い海。
そこに、誰かの小さな手が伸びていた。
僕が瞬きをすると、青い光は消えた。
けれど耳の奥に、かすかな水音だけが残った。
第三章 ビー玉の海
次に風が吹いた時、線路は消えていた。
正確には、消えたように見えた。
黒いレールも。
白い砂利も。
遠くへ続いていたはずの道も。
すべてが静かな青に置き換わっていた。
海だった。
ホームのすぐ下まで、水が来ている。
波はない。
揺れもない。
まるで世界そのものが息を止めているみたいだった。
僕はしばらく動かなかった。
驚いていたわけではない。
この駅では、驚くという感覚さえ少し曖昧になる。
花が現れる。
人が消える。
時計は止まる。
線路が海になる。
どれも不自然なのに、不思議と受け入れてしまう。
海の上には無数の光が浮かんでいた。
最初は星だと思った。
けれど違った。
ビー玉だった。
青。
緑。
透明。
琥珀色。
夕焼けを閉じ込めたような赤。
無数のビー玉が、水面の上を静かに漂っている。
沈まない。
流されない。
ただそこにある。
風が吹くたび、ほんの少しだけ位置を変える。
僕はホームの端まで歩いた。
ビー玉の一つを見下ろす。
白線。
入道雲。
風。
誰かの笑う前の顔。
音は聞こえない。
けれど、その景色には確かに温度があった。
僕が見ていると、景色が変わる。
今度は雨の日だった。
黄色い傘。
濡れたアスファルト。
誰かの靴。
そしてまた変わる。
夕暮れの河川敷。
風になびく髪。
遠ざかる背中。
どれも知っている気がした。
けれど、誰の記憶なのかはわからない。
その時だった。
海の向こうで、小さな水しぶきが上がった。
誰かがいる。
僕は目を凝らした。
少年だった。
十歳くらいに見える。
膝まで海に入り、ビー玉を拾っている。
ひとつ拾っては空へ透かし、
首を傾げ、
また海へ返す。
それを何度も繰り返していた。
少年は僕に気づいていないようだった。
僕はホームから降りようとした。
けれど足は海へ届かなかった。
見えない境界がある。
ホームと海の間に。
少年だけが、その向こうにいる。
「何を探してるの」
声をかける。
少年はゆっくり顔を上げた。
驚いた様子はなかった。
まるで、僕がそこにいることを最初から知っていたみたいだった。
「わからない」
少年は言った。
そして手の中のビー玉を見つめる。
「でも、見つけないといけない気がする」
その声は波より静かだった。
「落としたの?」
少年は首を横に振る。
「落としたんじゃない」
少し考えてから続けた。
「無くしたんじゃない」
少年は言った。
「どこかにある」
忘れた。
その言葉が、どこか胸に引っかかった。
白い花の人も似たようなことを言っていた気がする。
忘れている。
でも、胸だけが覚えている。
少年は青いビー玉を拾った。
中には夏の空が映っている。
雲が流れていた。
本当に流れている。
小さな世界が、ビー玉の中で生きている。
「これ、知ってる?」
少年がビー玉を掲げる。
僕は目を細めた。
空。
校庭。
誰かが走っている。
遠すぎて顔は見えない。
でも、その景色を見た瞬間。
胸が少しだけ痛んだ。
懐かしい。
それだけはわかった。
「わからない」
僕は答えた。
少年は残念そうでもなく、ただうなずいた。
そしてビー玉を海へ戻す。
水面は揺れない。
まるで海そのものが、その景色を受け取ったみたいだった。
「ここにあるのは全部、忘れたものなのかな」
少年が言った。
「忘れたもの?」
「うん」
少年は海を見回した。
無数のビー玉。
無数の景色。
無数の光。
「なくしたんじゃなくて」
少年は続ける。
「忘れたもの」
風が吹いた。
ビー玉たちが一斉に光を反射する。
まるで海の上に星空が落ちたみたいだった。
僕はその光景を見つめた。
すると、一つだけ妙に暗いビー玉があることに気づく。
光っていない。
色もない。
透明ですらない。
空っぽのビー玉。
少年もそれを見つけたらしい。
ゆっくり拾い上げる。
「変なの」
そう言って覗き込む。
「何も入ってない」
僕も見た。
確かに何も映っていない。
空も。
海も。
少年も。
僕も。
空っぽだった。
それなのに目が離せなかった。
見ているだけで胸が苦しくなる。
思い出しそうになる。
でも思い出せない。
そんな感覚。
「一番重そう」
少年がぽつりと言った。
「空っぽなのに?」
「うん」
少年は笑った。
「空っぽの方が重いこと、あるから」
また少年は少し笑みをうかべながら
「空っぽのビー玉ってね、、、」
「本当は1番大切なものが入ってたんだよ」
その言葉を聞いた瞬間だった。
胸の奥で何かが揺れた。
思い出したいものがある。
ずっとそう思っていた。
けれど本当に思い出したかったのは、記憶じゃなかったのかもしれない。
誰かの顔だった。
誰かの声だった。
それが誰なのかだけは、どうしても思い出せなかった。
子どもらしいのに。
どこか老人の言葉にも似ていた。
僕は何も返せなかった。
少年は空っぽのビー玉を僕へ向けた。
「いる?」
受け取ろうと手を伸ばす。
けれど届かない。
ビー玉は僕の指をすり抜けた。
海へ落ちる。
音はしない。
沈みもしない。
ただ、水面の上で静かに止まる。
その瞬間だった。
ビー玉の中に、何かが映った。
横顔。
誰かの横顔だった。
窓際。
風。
揺れる髪。
白い光。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
そして消えた。
「知ってる人?」
少年が聞く。
僕は答えられなかった。
知っている気がする。
でも、わからない。
大切だった気がする。
でも、思い出せない。
少年はそんな僕を見て少し笑った。
「大人って、すぐ黙るね」
その言い方が妙に懐かしかった。
誰かが昔、同じことを言った気がする。
遠い記憶の岸辺で。
海の向こうから音がした。
列車の音だった。
鉄の音。
車輪の音。
遠いはずなのに、どこか近い。
少年も振り返る。
「来た」
「何が?」
「わからない」
そう言って笑う。
白い花の人と同じだった。
わからない。
でも、来た。
それで十分みたいに。
海の向こうに橋が現れた。
細い橋だった。
霧の中へ続いている。
さっきまでなかった橋。
少年はそれを見ていた。
「行くの?」
僕が聞く。
少年は少し考えた。
「たぶん」
「怖くない?」
「少し」
そう答えてから、少年は空を見上げた。
「でも、ずっと探してるのも違う気がする」
風が吹く。
ビー玉たちが揺れる。
小さな光の波が広がる。
少年はポケットから何かを取り出した。
青いビー玉だった。
他のものより少しだけ明るい。
夏の空みたいな色をしている。
「これ、あげる」
そう言って投げた。
ビー玉は海を越えた。
ホームの上まで飛んでくる。
僕の足元で止まる。
今度は消えない。
触れようとしても触れられない。
けれど、そこにある。
「持たなくていいよ」
少年が言う。
「見えればいい」
その言葉を最後に。
少年は橋を渡り始めた。
霧の向こうへ。
振り返らない。
走らない。
ただ静かに歩いていく。
小さな背中が遠ざかる。
やがて霧の中へ消えた。
橋も消えた。
海も少しずつ薄れていく。
ビー玉たちの光が一つずつ消えていく。
最後に残ったのは、ホームの上にある青いビー玉だけだった。
その中には何も映っていない。
それでも僕は目を離せなかった。
空っぽなのに。
空っぽだから。
何かが残っている気がした。
その時。
ホームの向こうで、人の気配がした。
ベンチの方だった。
振り返る。
誰かが座っている。
白い髪。
灰色の上着。
線路の先を見ている後ろ姿。
その人は、まるで最初からそこにいたみたいに静かだった。
風が吹く。
青いビー玉が一度だけ光った。
振り返ると、
ベンチには誰かが座っていた。
第四章 名前を持たない老人
老人は、最初からそこにいた気がした。
けれど、いつ現れたのかはわからない。
気づけばベンチに座っている。
白い髪。
古びた灰色の上着。
膝の上に置かれた両手。
それだけだった。
特別なものは何も持っていない。
駅員の帽子も。
杖も。
時計も。
何もない。
それなのに、この駅の景色の一部みたいだった。
止まった時計がそこにあるように。
柱が立っているように。
老人もまた、最初からこの場所にあったように見えた。
僕は少し離れた場所で立ち止まった。
老人は線路の先を見ている。
その視線の先には何もない。
空と霧だけが続いている。
それでも何かを見ているようだった。
「あなたは、駅員ですか」
声をかける。
老人は少しだけ首を横に振った。
「この駅に、駅員はいらない」
穏やかな声だった。
風が木の葉を揺らす時みたいな声。
「じゃあ、誰ですか」
老人は線路の向こうを見たまま笑った。
「忘れたよ」
冗談にも聞こえた。
本当にも聞こえた。
僕は返事ができなかった。
この駅では、忘れることが特別ではない。
名前も。
季節も。
誰かの顔も。
大切だったはずのことも。
みんな少しずつ曖昧になっている。
老人はその曖昧さに馴染みきっているようだった。
僕はベンチの反対側に座った。
木の感触が手のひらに伝わる。
不思議だった。
白い花には触れられなかった。
ビー玉にも触れられなかった。
でもベンチには触れられる。
冷たさもある。
重さもある。
なぜだろうと思った。
老人は何も言わない。
ただ風の音だけが聞こえる。
しばらくしてから僕は言った。
「ここは、どこなんですか」
老人は少し考えるように空を見上げた。
「駅だよ。たぶんね」
「何の駅ですか」
老人は空を見た。
「雨が降る前の匂いがするね」
僕は黙った。
答えのようで。
答えになっていない。
でも不思議と、それ以上聞こうとは思わなかった。
ホームの向こうで風が吹いた。
止まっていた時計の針が、ほんの少しだけ震えた気がした。
見間違いかもしれない。
でも確かに動いたように見えた。
「僕は、帰れるんでしょうか」
老人はすぐには答えなかった。
しばらくしてから聞き返した。
「帰りたいのかい」
その問いに、僕は答えられなかった。
帰りたい。
そう思った気がする。
でも、どこへ帰りたいのかわからない。
部屋。
家。
街。
誰かの隣。
どれも輪郭がぼやけている。
老人はそれ以上何も聞かなかった。
ただ足元の線路を見た。
「帰る場所を忘れたら、帰れませんか」
僕は小さく尋ねた。
老人は線路を見た。
「そうかな、思い出すことだけが、前に進むことじゃないよ」
それだけだった。
それ以上は話さない。
風だけが二人の間を通り過ぎる。
ホームの向こうで白いものが舞った。
花びらだった。
一枚だけ。
どこから来たのかわからない。
白い花の人を思い出した。
本当にいたのだろうか。
それとも夢だったのだろうか。
この駅では、その違いさえ曖昧だった。
「あなたを知っている気がします」
気づけばそう言っていた。
老人は初めてこちらを見る。
目は穏やかだった。
深い湖の底みたいな色をしている。
見たことがある気がした。
けれど、それが誰なのか思い出せない。
「知っている気がするなら、それでいい」
老人は言った。
「本当に知っているんですか」
「さあ」
老人は笑った。
風が吹く。
白い花びらが線路の上を渡っていく。
空へ上がり。
そして見えなくなる。
「人はね、名前より先に忘れるものもある」
老人がぽつりと言った。
僕はその意味を考えた。
でも考えるほど遠ざかる。
まるで水面に映った月みたいだった。
その時だった。
ホームの奥に何かが見えた。
扉だった。
古い木の扉。
曇りガラス。
真鍮の取っ手。
さっきまでなかったはずなのに。
まるで最初からそこにあったみたいに立っている。
「扉だ」
僕は立ち上がった。
老人は振り返らない。
「さっきまで、ありませんでした」
「そうかな」
その答えもよくわからなかった。
でも、この駅らしい答えだと思った。
僕は扉へ近づく。
古い木の匂いがした。
そして、その向こうから。
雨の匂いが流れてくる。
春の終わりの雨。
誰かを待つ夕方。
濡れたアスファルト。
閉じた傘。
そんな景色を思わせる匂いだった。
胸の奥が少しだけ痛む。
思い出せそうで。
思い出せない。
何かが扉の向こうにいる。
そんな気がした。
「開けた方がいいんですか」
振り返って老人に聞く。
老人は答えなかった。
ベンチに座ったまま。
線路の先を見ている。
風が吹く。
白い花びらが舞う。
青いビー玉が足元で小さく光る。
老人の沈黙は、どんな言葉より深かった。
僕は扉の前に立つ。
取っ手へ手を伸ばす。
冷たい感触。
今まで触れられなかったものたちと違い。
扉は確かにそこにあった。
向こう側から。
雨の匂いが少し濃くなる。
どこかの春。
どこかの夕暮れ。
誰かの傘。
誰かの横顔。
僕は息を止めた。
そして、ゆっくり扉を開いた。
雨の匂いがした。
それから先はよく思い出せない。
第五章 行き先のない列車
扉を開こうとした、その時だった。
遠くで列車の音がした。
鉄が軋む音。
車輪がレールをなぞる音。
ずっと前から聞こえていた気もするし、今初めて聞いた気もする。
僕は手を止めた。
振り返る。
ホームの向こう。
霧の中。
何かが近づいてくる。
列車だった。
ゆっくりと。
音だけを先に連れて。
霧の奥から姿を現した。
古い列車だった。
新しくもなく、古びてもいない。
何年も雨と風に晒されながら、それでも走り続けてきたような色をしていた。
車体は灰色。
けれど見る角度によっては青く見えた。
あるいは白く。
窓ガラスには景色が映らない。
空も。
ホームも。
僕も。
何も映らない。
まるで、列車そのものが何かを映すことを忘れてしまったみたいだった。
列車は音もなく停車した。
ホームには誰もいない。
降りる人も。
乗る人も。
ただ列車だけがそこにある。
しばらくして、扉が開いた。
中は暗かった。
けれど闇ではない。
霧に似ていた。
夜明け前の部屋のような曖昧な暗さ。
奥は見えない。
座席が並んでいる気配だけがある。
僕はその前に立った。
列車の中から、かすかな音が聞こえてくる。
誰かの笑い声。
食器の触れる音。
遠い雨音。
教室のざわめき。
ページをめくる音。
どれも聞き覚えがある。
けれど、いつ聞いたのか思い出せない。
「乗るのかい」
背後で老人の声がした。
僕は振り返らなかった。
「この列車は、どこへ行くんですか」
しばらく沈黙があった。
風が吹く。
白い花びらがホームを転がる。
「行き先は書いてあるよ」
老人が言う。
僕は列車の側面を見た。
確かに表示板がある。
けれど文字が読めない。
滲んでいる。
霧の中で溶けている。
何かが書かれているはずなのに。
見るたびに変わる。
知らない駅名。
懐かしい地名。
聞いたこともない言葉。
どれも一瞬で消えてしまう。
「読めません」
「そうだろうね」
老人は言った。
それ以上は何も言わない。
僕は列車へ視線を戻した。
中から風が流れてくる。
花の匂いがした。
白い花。
あの人が抱いていた花束の匂い。
続いて、潮の匂い。
ビー玉の海。
少年のいた場所。
そして最後に。
雨の匂い。
扉の向こうにあった季節の匂い。
列車の中には、今まで出会ったものが全部混ざっていた。
僕は一歩だけ近づいた。
すると窓ガラスに何かが映る。
顔だった。
誰かの顔。
若い女性。
長い髪。
風に揺れている。
見覚えがある。
でも思い出せない。
窓の向こうの女性はこちらを見ていた。
何かを言おうとしている。
けれど声は聞こえない。
次の瞬間。
映像は消えた。
窓には何も映っていない。
僕だけが立っている。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
思い出したかった。
名前を。
声を。
その人がどんな顔で笑うのかを。
会わなければいけない人がいる。
そんな気がした。
理由はわからない。
でも、その顔を見失いたくなかった気がする。
「知っている顔だった?」
僕は答えなかった。
わからない。
その言葉を口にしようとして、やめた。
大切だった。
そう思う。
でも、その人が誰なのか思い出せない。
名前も。
声も。
どこで出会ったのかも。
思い出せるのは、風だけだった。
髪を揺らす風。
窓から入る風。
春の終わりの風。
それだけが残っている。
列車の中から小さな音がした。
ころり、と。
僕は視線を落とす。
青いビー玉が転がっていた。
あの少年のビー玉だった。
ホームの上を転がり。
列車の入口で止まる。
光を受けて静かに輝く。
中には何も映っていない。
空っぽだった。
それなのに目を逸らさなかった。
風が吹く。
白い花びらが一枚、列車の中へ吸い込まれていく。
続いてもう一枚。
そしてもう一枚。
まるで誰かが帰る場所を示しているみたいだった。
気付くと列車の前に立っていた。
僕は老人に聞いた。
老人は答えない。
ただベンチに座っている。
その沈黙が、いつもより少し長かった。
列車の扉は開いたまま。
急かさない。
待っている。
でも永遠には待たない気もする。
僕は足を踏み出しかけた。
その瞬間だった。
ホームの奥で何かが揺れた。
扉だった。
古い木の扉。
曇りガラス。
真鍮の取っ手。
さっき見つけた扉。
その向こうから、雨の匂いが強く流れてくる。
春の終わり。
誰かを待つ夕方。
濡れた坂道。
閉じた傘。
思い出せそうな何か。
列車は静かに待っている。
扉も静かに待っている。
どちらも何も言わない。
どちらも僕を呼ばない。
それなのに。
どちらかを選ばなければいけない気がした。
老人が静かに口を開いた。
「選ぶということは、失う事でもある」
僕は列車を見る。
次に扉を見る。
その時。
窓ガラスに、もう一度だけ誰かの横顔が映った。
白い光。
揺れる髪。
こちらを見ないまま、遠くを見つめている。
すぐに消える。
幻みたいに。
夢みたいに。
でも、その一瞬だけで十分だった。
列車を見た。
扉を見た。
どちらを選んだのか、
その部分だけ思い出せない。
背中で列車の扉が閉まる音がした。
静かな音だった。
振り返らない。
振り返れば、きっと列車はまだそこにいる。
あるいは、もう消えている。
どちらでもよかった。
僕は扉の前に立つ。
雨の匂いがする。
胸の奥で何かが揺れる。
老人の気配が背後にある。
けれど声は聞こえない。
風だけが吹いている。
僕は真鍮の取っ手を握った。
冷たい。
確かな感触だった。
ゆっくりと扉を開く。
向こうには、春があった。
そして。
どこかで忘れてしまった季節が、静かに息をしていた。
第六章 忘れられた季節
扉の向こうは春だった。
雨が降っていた。
静かな雨だった。
音があるようで、ない。
世界そのものが薄い水の膜に包まれているような雨だった。
僕は坂道の途中に立っていた。
細い道。
古い家並み。
濡れた石垣。
軒先から落ちる雫。
見知らぬ場所だった。
けれど懐かしかった。
初めて来たはずなのに、何度も通ったことがある気がする。
そんな場所だった。
振り返る。
扉はない。
駅もない。
ホームも。
老人も。
何もなかった。
ただ雨だけが降っている。
僕は坂道をゆっくり歩き始めた。
傘は持っていない。
それでも濡れている気がしない。
雨は服を通り抜けて、記憶だけを濡らしていくようだった。
道端に小さな花が咲いていた。
名前の知らない白い花。
見た瞬間、ホームに残されていた花を思い出す。
白い花を抱いた人。
あの人は誰だったのだろう。
考える。
けれど輪郭は曖昧なままだった。
坂の上から人が降りてきた。
女性だった。
透明な傘を差している。
雨粒が傘の上を静かに滑っている。
顔は見えない。
見えそうで見えない。
近づくたびに、光が輪郭をぼかしてしまう。
それでも。
知っている気がした。
とても。
女性は僕の横を通り過ぎた。
その瞬間。
風が吹いた。
雨の匂いが少し濃くなる。
女性が立ち止まった。
そして振り返る。
「もうすぐ雨になりますよ」
そう言った。
僕は少し笑いそうになった。
もう降っている。
でも、その言葉は間違っていない気がした。
女性も少し笑ったように見えた。
それからまた歩き出す。
僕は後ろ姿を見送った。
透明な傘。
揺れる髪。
白い指先。
胸の奥が痛む。
会ったことがある。
絶対に。
でも、思い出せない。
女性は坂の途中でまた立ち止まった。
振り返らないまま言う。
「まだ持っているんですね」
「何を?」
僕は聞いた。
女性は答えない。
かわりに傘を少し傾ける。
透明な傘の内側に光が溜まっている。
その光の中に景色が見えた。
教室。
駅のホーム。
夕暮れの川。
誰かの横顔。
閉じられた手紙。
読みかけの本。
言いかけてやめた言葉。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
それらは現れて消える。
まるで水面に映った雲みたいだった。
「それ、あなたの記憶ですか」
僕は尋ねた。
女性は少し考える。
そして首を傾げた。
「あなたのかもしれない」
そう言った。
「私のかもしれない」
雨が降る。
静かに。
どちらのものでもない記憶が、この雨には混じっている気がした。
僕は女性へ近づこうとした。
距離は数歩しかない。
でも、その数歩が遠い。
近づくほど離れていく。
夢の中の景色みたいだった。
「あなたは誰ですか」
思わず聞く。
女性は答えなかった。
しばらく雨の音だけが響いた。
「忘れたんですね」
その声は責めるでもなく
どこか寂しそうだった。
胸の奥が少し痛んだ。
かわりに傘を閉じた。
雨の中に立つ。
それでも濡れていないように見えた。
女性は何か言った。
雨音が強くなった。
「、、、、、、、ないで」
最後しか聞こえなかったのに胸の奥で何かが揺れた。
忘れた。
でも消えてはいない。
花の匂い。
風の音。
青いビー玉。
誰かの横顔。
全部そこにある。
思い出せないだけで。
女性は道端の花を見つめた。
白い花だった。
駅にあった花によく似ている。
「言葉にできなかったものは」
女性は小さく言った。
「どこへ行くと思いますか」
僕は答えられなかった。
女性も答えを待っていないようだった。
女性は小さく答える。
「消えたりしません」
「ただ、誰かの風になるだけです」
ただ雨を見ている。
雨粒が石畳を濡らす。
小さな水たまりができる。
その水面に景色が映る。
ベンチ。
止まった時計。
灰色の上着。
老人。
ホーム。
そして列車。
すべてが雨の中に揺れている。
「消えるんじゃないんです」
女性は答えなかった。
遠くで風だけが吹いた。
坂道を抜ける風。
春の終わりの風。
どこかで聞いた風。
駅で聞いた風。
僕は目を閉じた。
その音を聞いていた。
花びらが舞う。
誰かが笑う。
列車が遠ざかる。
ページがめくられる。
いくつもの音が風の中に混じっている。
目を開ける。
女性は坂の下にいた。
もう遠い。
追いかけようと思った。
でも足は動かなかった。
追いつけない気がした。
追いついてはいけない気もした。
女性は振り返った。
顔はやはり見えない。
でも微笑んだ気がした。
「それでも会えてよかった」
雨音がその後を隠した。
女性は確かにそう言った。
もしくはそう聞こえたように思いたかったのかもしれない。
「風の吹く方へ」
それだけ言った。
何の続きだったのか。
何の答えだったのか。
わからない。
でも、その言葉は胸に残った。
女性は歩いていく。
透明な傘を差し。
雨の向こうへ。
足元の水たまりに駅が映っていた。
ベンチ。
止まった時計。
曖昧な空。
線路。
僕は手を伸ばす。
波紋が広がる。
雨音が広がる。
それから先を上手く思い出せない。
終章 風だけが残った
風が吹いていた。
老人はベンチに座っていた。
最初にこの駅で聞いた風と同じだった。
遠くから来る風。
それとも、どこかへ帰っていく風。
わからない。
ただ、ずっと吹いていた。
僕はホームに立っている。
老人はベンチに座っている。
止まった時計は相変わらず曖昧な時刻を指したままだった。
朝にも見える。
夕暮れにも見える。
始まりにも見える。
終わりにも見える。
その空を見上げながら、僕は静かに息を吐いた。
白い花を抱いた人はもういない。
ビー玉の海も消えている。
春の坂道も。
透明な傘も。
雨も。
何も残っていない。
けれど、本当に消えたのだろうか。
そうは思えなかった。
花の匂いだけが残っている。
雨の音だけが残っている。
誰かの横顔だけが残っている。
名前は思い出せない。
声も思い出せない。
それでも、消えてはいない。
風の中に混じっている。
僕は線路の先を見た。
霧が流れている。
その向こうには何も見えない。
けれど何もないわけではない気がした。
見えないだけで。
ずっとそこにある。
そんな気がした。
遠くで列車の音がした。
ゆっくりと。
どこか懐かしい音。
僕は振り返らない。
もう音を追わなかった。
追いかけても届かないものがある。
届かなくても失われないものがある。
その違いを少しだけ知った気がしていた。
老人が立ち上がった。
初めて見る姿だった。
思ったより背が高かった。
あるいは、駅が少し小さくなったのかもしれない。
老人は何も言わない。
ただ線路の向こうを見ている。
風が灰色の上着を揺らす。
その背中はどこか懐かしかった。
誰かに似ている。
でも、その誰かがわからない。
祖父かもしれない。
昔の先生かもしれない。
まだ会っていない誰かかもしれない。
あるいは。
僕自身なのかもしれなかった。
その考えはすぐ風にさらわれた。
この駅では、答えになりそうなものほど長く留まらない。
ホームの向こうに列車が現れた。
音もなく。
霧の中から。
灰色の車体。
行き先の読めない表示板。
開いた扉。
以前見た列車と同じだった。
違う列車だったのかもしれない。
僕にはわからなかった。
列車は待っていた。
急かさない。
呼びもしない。
ただそこにある。
老人は列車を見た。
それから僕を見た。
初めて目が合った気がした。
深い湖のような目だった。
何かを知っている目。
何も知らない目。
その両方だった。
「行くんですか」
僕は聞いた。
老人は答えない。
風だけが吹く。
白い花びらが一枚。
どこからともなく現れた。
ホームを横切る。
空へ上がる。
消える。
老人は小さく笑った気がした。
本当に笑ったのかはわからない。
僕は列車を見る。
車内は薄い霧に包まれている。
座席が並んでいる。
誰もいない。
でも、空席ばかりにも見えなかった。
白い花を抱いた人。
ビー玉を拾っていた少年。
透明な傘を差した女性。
その気配だけが残っている。
まるで、誰かが立ち上がったばかりの席のように。
僕は一歩前へ出た。
列車へ向かって。
その時だった。
ホームに風が吹き抜けた。
今までで一番やさしい風だった。
花の匂いがした。
雨の匂いがした。
海の匂いがした。
知らない季節の匂いもした。
その風の中に、声が混じっていた気がする。
誰かが笑う声。
誰かが名前を呼ぶ声。
誰かの「またね」。
誰かの「ありがとう」。
聞き取れそうで、聞き取れない。
でも、それでよかった。
全部を思い出す必要はない気がした。
思い出さなくてもいい。
大切だったことまで消えるわけじゃないから。
その言葉はなぜか暖かく
なぜだか忘れたくないと思った。
そんな声が風の奥で聞こえた気がした。
忘れてしまったものもある。
置いてきたものもある。
届かなかった言葉もある。
最後まで思い出せなかった。
顔も。
名前も。
声も。
何ひとつ。
それでも。
会いたかった人がいたことだけは覚えていた。
ずっと探していた気がした。
ずっと思い出したかった気がした。
その理由さえ忘れてしまったのに。
それでも。
なかったことにはならない。
風は覚えている。
花は覚えている。
雨は覚えている。
そしてたぶん。
僕もどこかで覚えている。
列車の扉が静かに開いている。
老人は何も言わない。
僕も何も言わない。
言葉にしなくてもいい気がした。
ホームの時計を見る。
止まったままだった。
それなのに、一瞬だけ針が動いたように見えた。
見間違いかもしれない。
風のせいかもしれない。
でも、その一瞬だけ。
確かに何かが進んだ気がした。
僕は列車へ近づく。
一歩。
また一歩。
霧が揺れる。
白い花びらが舞う。
青い光が遠くで瞬く。
そして――
ふと振り返る。
老人はもういなかった。
ベンチだけがある。
空っぽのベンチ。
最初から誰も座っていなかったみたいに。
風が吹く。
ホームを渡る。
柱を抜ける。
線路の向こうへ流れていく。
僕はしばらくその風を見送った。
やがて列車の扉へ視線を戻す。
その向こうには霧がある。
光がある。
雨があるのかもしれない。
海があるのかもしれない。
あるいは何もないのかもしれない。
わからない。
わからないままでよかった。
僕は目を閉じた。
風が頬をなでる。
春の終わりのような。
秋の始まりのような。
名前をつけるには優しすぎる風だった。
遠くで列車の音がした。
近づいているのか。
遠ざかっているのか。
それもわからない。
ただ――
風だけが吹いていた。
名前のない風だけが、
いつまでも、
そこに残っていた。
ここまで物語を読んでくださり、ありがとうございました。
この物語を書きながら、何度も考えました。
人は忘れてしまう生き物です。
名前も、声も、景色も。
少しずつ輪郭を失っていきます。
それでも、不思議と消えないものがあります。
誰かを大切に思った気持ちや、
伝えたかった言葉や、
一緒に過ごした時間の温もりは、
きっとどこかに残り続けるのだと思います。
この物語が、あなたの心の中にある大切な誰かを思い出すきっかけになれたなら幸せです。
また別の物語でお会いしましょう。
忘れてしまうことと、いなくなることは、きっと同じではない。
―― 雨宮 灯




