第6話 クールな眼差しの奥
月種拾いの翌日、港は朝から静かだった。
静か、といっても何も音がしないわけではない。波はいつも通り木柵を叩き、遠くでは荷車の軋みもするし、食堂からは鍋の蓋が鳴る。けれど、人の声の調子がいつもより低いのだ。昨日見つかった砂浜の掘り返し跡と、王都の香油の匂いがついた布片。その話が、風に混じって町じゅうへ薄く広がっているのだとわかった。
アヌッカは執務舎の一階で、朝の聞き取り記録をまとめていた。
卓の上には地区別の願文控え、住民の口述記録、月種の採取数、魔導灯の不調が起きた地点を記した地図が広がっている。そこへポリミリスが新しい書付を置いた。
「昨夜から今朝にかけて、北の防波堤沿いで灯が二度落ちました」
「同じ場所で?」
「ほぼ同じです。しかも、どちらも灯台への補助線に近い」
「補助線が弱れば、灯台の光も届きにくくなりますよね」
「はい。ですからロイト様は朝から現場へ出ています」
そう聞くと、なぜか胸のどこかが少しだけ落ち着かない。
アヌッカはその気持ちをごまかすように、紙へ視線を落とした。
「月種の持ち去りと、願文の改竄。別々に見えていましたけれど、同じ目的なのかもしれませんね」
「ええ。灯を弱らせたい者がいる。そこまでは間違いありません」
「でも、どうして北方の灯を」
「王都の祭礼に力を集めたいのか、北方の混乱で利益を得るのか、あるいは両方か」
ポリミリスの声は静かだったが、その中に隠しきれない硬さがあった。
アヌッカは記録から顔を上げる。
「ロイト様は、昨日からほとんど休んでいないのでは」
「たぶん、まともには」
「止める方はいないのですか」
「私が申し上げれば、座るくらいはなさいます」
「では、言ってください」
「ですが、そのあと立ちます」
「意味がないですね」
「はい。あの方はそういう方です」
困ったような返事なのに、長年見てきた者の諦めと信頼がどちらも含まれていた。
午前の聞き取りは、灯台兵の詰所で行われた。
若い兵たちは、最初こそ“願文の確認”に首をひねったが、幸せ丼を温め直した椀が並ぶと、少しずつ表情をやわらげていく。アレンの勘はやはり正しかった。温かなものが先に身体へ落ちると、人は張っていた肩を下ろす。
「俺の願い?」
灯台の見張り番をしている青年が、匙を止めて考える。
「保管庫にあるのは“職務を全うし、北方の誇りを守れますように”だったかな」
「違いますか」
「間違いじゃない。でも、ほんとはな」
彼は少し笑ってから、椀の中を見た。
「夜明けの交代まで、仲間が一人も欠けずに戻ってきますように、だよ。誇りとか名誉とかは、そのあとだ」
別の兵も口を開いた。
「俺は“この冬こそ母さんの腰が少しましになりますように”だな。灯台と関係なくて悪いけど」
「悪くありません」
アヌッカはすぐに首を振る。
「むしろ、そのほうが大事です」
「そう言ってもらえると助かる」
その顔を見た瞬間、アヌッカはふと気づく。
ロイトが守ろうとしているものも、きっとこういうことなのだ。
名誉や領地や責務という大きな言葉の前に、まず“欠けずに戻ること”がある。だから彼は灯の不調にあれほど敏感なのだろう。
詰所を出るころには、空が少し暗くなっていた。昼前だというのに、海の向こうから灰色の雲が低く押し寄せている。
「また霧が濃くなりそうです」
ポリミリスが空を見上げた。
「ロイト様が北の防波堤にいらっしゃるなら、迎えに行きましょう」
「迎えに?」
「正確には、休ませるための説得材料です」
「私が?」
「はい。私より成功率が高いので」
そんな役割まで増えてきたのかと思いつつ、アヌッカは外套を整えた。
北の防波堤へ続く道は、港の賑わいから少し外れている。風が直接吹きつけるため建物も少なく、柵や石積みがひたすら続く。波は朝より荒くなり、白く砕ける飛沫が石の上まで跳ねていた。
その先で、ロイトはひとりしゃがみ込んでいた。
足元には魔導灯の基部があり、蓋を開けた内部へ手を差し入れている。補修職人でもないのに、動きに迷いがない。潮で重くなった手袋のまま金具を確かめ、線をつなぎ直し、何かを耳で聞くように顔を近づける。
「ロイト様」
アヌッカが声をかけると、彼は振り向いた。
「来るな、足場が悪い」
「それを先におっしゃるんですね」
「事実だ」
たしかに石の表面は濡れて滑りやすい。だがロイト自身は、そんな場所で長く膝をついていたせいで外套の裾まで潮を吸っていた。
「もう何刻も、ここに?」
「二刻ほどだ」
「十分長いです」
「足りない」
「足りなくても、一度戻ってください」
「まだ原因が」
「原因より先に、ロイト様が倒れます」
言い切ると、彼は少しだけ黙った。
潮風の音がふたりのあいだを通り抜ける。
「……私は倒れない」
「そう言う方ほど倒れます」
「私は」
「妹君のときも、そう思っていらしたのですか」
自分で口にしてから、アヌッカは息を呑んだ。
踏み込みすぎたかもしれない。まだ確かめてもいない過去へ、土足で入るような言い方だった。
だがロイトは怒らなかった。
代わりに、開いていた灯の蓋を静かに閉じた。
「ポリミリス」
「はい」
「少し下がれ」
「承知しました」
ポリミリスは一礼すると、数歩離れた柵の陰へ移る。聞く気になれば聞こえる距離だが、あれは“ここから先は二人で話せ”という意味なのだろう。
ロイトは立ち上がり、波を見たまま口を開いた。
「私の妹は、六つだった」
低い声が、風に押されながら届く。
「名はセレイナ。海辺の灯を見るのが好きだった。月食の夜は、町じゅうの灯がいちばん綺麗に見えるからと、よく笑っていた」
「……はい」
「事故が起きたのは、その年の月食の前日だ。灯台の補助灯が予定通り起動せず、沖へ出た小舟の位置が見えなくなった。父は救助船を出そうとしたが、霧が濃すぎて遅れた」
アヌッカは黙って聞くしかできなかった。
海は変わらず荒い。けれど今、耳に入るのは波の音よりロイトの声だった。
「妹は、屋敷の裏手から港を見ていた。灯が戻れば父が帰ると思っていたのだろう。だが夜半に足を滑らせ、崖下の斜面へ落ちた。見つかったときには、もう」
そこで言葉が切れた。
ロイトは俯かない。涙も見せない。だが、指先だけがわずかに白くなるほど固く握られている。
「そのとき、願文の差し替えがあった」
「……」
「表向きは、結界の形式見直しによる遅延とされた。だが実際は、王都から持ち込まれた見本通りに整えられた願文が混じっていた。中身が空疎で、月種が十分に目覚めなかった」
「だから、補助灯が」
「そうだ」
ロイトは短く頷く。
「私はあの夜から、灯の遅れを許さないと決めた。人が笑うなら笑えばいい。領主自ら金具を締め、線を確かめ、霧の中を歩き回るのは見苦しいと」
「そんなこと、誰が」
「王都の連中は言う」
その一言に、アヌッカの胸の奥へ冷たいものが落ちる。
王都。
また、そこへ繋がる。
「……だから、月食の前になると」
「眠れなくなる」
ロイトは淡々と言った。
「灯が一つでも落ちれば、あの夜に戻る。まだ届くはずの声が、霧に呑まれる気がする」
アヌッカは唇を噛んだ。
冷たく見えた眼差しの奥には、無関心ではなく、恐れがあったのだ。もう誰も失いたくないという、喉を焼くような恐れ。だから彼は先に全部抱えようとする。自分が立っていれば灯は落ちないと、本気で思っているみたいに。
「ロイト様」
「何だ」
「それは、守っているのではなく……」
うまく言葉が出てこない。
「ご自分を、罰しているのではありませんか」
風が止まった気がした。
ロイトがこちらを見る。その目は鋭かったが、怒りの色ではない。もっと深く、思い当たってしまったときの静けさに近い。
「妹君が亡くなったのは、ロイト様のせいではありません」
「そう言い切れるのか」
「言い切れます」
「私は灯の不調を見落とした」
「六つの妹君を、領主として守るべきだったと?」
「……」
「違います。あの夜、悪かったのは、願文をすり替えた者と、それを軽く見た大人たちです」
言っているうちに、自分の声まで震えてきた。
ベルノアに、セルギオに、祈祷院の書記たちに、王都で見てきた数々の“綺麗な言葉で隠した身勝手”が重なる。大人たちの都合で削られた願いが、灯の遅れとなって誰かを傷つけた。その結果を、幼かったロイトが背負い続けているなんて、あまりにも理不尽だった。
「……アヌッカ」
呼ばれて顔を上げると、ロイトは何かを言いかけてやめた。
そのかわり、彼はひどく不器用な動きで、自分の外套の片側を少しだけ広げた。風が強いから、こちらへ寄れ、という意味だと気づくまで数秒かかった。
「風が強い」
「はい」
「震えている」
「それは、寒いのと、少し怒っているのと……両方です」
「なら、なおさらだ」
アヌッカは少しためらったが、結局そのそばへ寄った。
肩が触れるほどではない。けれど外套の影へ入るだけで、風の当たり方がぜんぜん違う。ロイトは海のほうを見たまま、低く言う。
「私は、君が自分のことになると黙る癖に、ようやく気づいた」
「……」
「他人の願いなら迷わず拾うのに、自分が傷ついた話になると、急に“たいしたことではありません”という顔をする」
「そんな顔、していましたか」
「している」
「見抜かれていましたね」
「見ていたからな」
それが答えだった。
見ていた。
ちゃんと。
王都では、見られることはあっても、たいていは値踏みや監視だった。けれどロイトの“見ていた”は違う。こちらが黙っている部分まで、気づいたうえで無理に剥がさない目だった。
「王都で、何度もそうやってきたのか」
「何度も……でしょうか」
「大したことではないふりを」
「そうしないと、面倒でしたから」
「誰に」
「皆に、です」
ベルノアに何を言っても、“あなたのため”で返される。セルギオには家のためを説かれる。祈祷院では便利であることを求められる。痛いと言うより先に、黙ったほうが早かった。
ロイトはそれを聞き、長く息を吐いた。
「今後はやめろ」
「そんなに簡単には」
「簡単でなくていい。だが、私の前ではやめろ」
「命令ですか」
「頼んでいる」
最後の一語だけ、少しだけ低かった。
アヌッカは胸の奥がじわりと熱くなるのを感じる。頼んでいる、とこの人が言うのは珍しい。いつもなら必要だ、危ない、行くな、戻れ、そういう言い方しかしないのに。
「……努力します」
「努力でいい」
「はい」
「嘘はつくな」
「それも努力します」
「それは努力では困る」
「では、なるべく」
「なるべくでも困る」
そこでようやく、アヌッカは小さく笑った。
ロイトはほんの少しだけ眉を上げる。
「何だ」
「いえ。こういうときまで、少しずつずれているなと思って」
「君は失礼だな」
「知っています」
「なら改めろ」
「難しいです」
「……そうか」
完全には呆れていない声だった。
少しの沈黙のあと、アヌッカは防波堤の先へ目を向ける。灰色の海。その向こうには王都もあるのだろうが、今の彼女にはもう、そこが唯一の場所には思えなかった。
「ロイト様」
「何だ」
「妹君のこと、話してくださってありがとうございます」
「話すつもりはなかった」
「では、なぜ」
「君が、私のせいではないと言い切ったからだ」
その返答は、予想以上にまっすぐだった。
アヌッカは目を伏せる。
誰かに信じてもらえることが、こんなにも重いとは思わなかった。軽い慰めではなく、怒りまで込めて“あなたのせいではない”と言ってくれる人がいる。その事実に、胸の奥の古い痛みまで少しずつほどけていく。
「でも、私はまだ」
ロイトがぽつりと言う。
「失うのが怖い」
アヌッカは顔を上げた。
ロイトの横顔は変わらず冷静に見える。だがその言葉だけが、剥き出しだった。
「灯も、町も、……身内だと思った者も」
最後の一語が、波の音に混じってかすかに揺れた。
身内。
それはこの町の人々のことでもあり、たぶん、もう少し別の意味も含んでいた。
アヌッカは答えに迷う。ここで何を言えば正しいのか、わからない。けれど、わからないならわからないままでもいいのかもしれないと、この町に来てから少しずつ思えるようになった。
「それなら」
彼女はゆっくり言う。
「一人で全部抱えないでください」
「……」
「私も、抱えます。願文のことも、月種のことも、この町のことも」
「君は」
「役に立つからではありません」
自分でそう言えたことに、少しだけ驚く。
「私が、そうしたいからです」
ロイトは返事をしなかった。
だが次の瞬間、彼の手がほんの一瞬だけ伸び、アヌッカの手首のあたりを確かめるように触れた。冷えていないかを見るための、ごく短い接触。それだけなのに、心臓が妙に忙しくなる。
「まだ冷たい」
「今の話の流れで、そこへ戻るんですか」
「大事だ」
「大事なのはわかりますが」
「私は順番を変えない」
「不器用ですね」
「知っている」
自覚はあるらしい。
防波堤を引き返すとき、ロイトはいつもより少しだけ歩幅をゆるめていた。アヌッカに合わせたのだとわかる。けれど本人は何も言わない。ただ濡れた石が続く場所だけ、先に「そこは滑る」と短く告げる。それだけで十分だった。
執務舎へ戻ると、ポリミリスが何も聞かずに温かい茶を出した。ハウケアは濡れた外套を受け取り、アレンは台所から焼きたての小さな包み菓子を押しつけてくる。誰も深くは聞かない。そのかわり、必要なものだけをそっと差し出す。
それがありがたくて、アヌッカは包み菓子を両手で持ったまま少し黙った。
「どうしました?」
ハウケアが問う。
「いえ……この町の人は、やさしいですね」
「港の人間は忙しいから、長い慰めが苦手なの」
ハウケアは濡れ布を絞りながら答えた。
「そのぶん、茶を出すとか、布を持ってくるとか、そういうのが先なのよ」
「なるほど」
「ロイト様も同じでしょう?」
「とても、同じです」
「でしょうね」
その夜、客間の机へ向かっても、アヌッカはすぐには筆を取れなかった。
窓の外では霧が濃い。灯台の光は見えるのに、途中から輪郭がぼやけてしまう。けれど今日は、そのぼやけた明かりの向こうに何があるか少しだけわかる気がした。
ロイトの妹、セレイナ。
届かなかった灯。
願文の差し替え。
そして、失うのが怖いという告白にも似た一言。
冷たく見えた眼差しの奥には、ずっと消えない夜が残っていたのだろう。その夜を見ないふりせずに、一緒に歩けたらいいと思う。
思ったあとで、アヌッカは自分の胸へ手を当てた。
これは同情ではない。
守ってもらったからでもない。
もっと静かで、もっと厄介で、もっと嬉しいものだ。
好きなのかもしれない。
そう言葉にした瞬間、顔が熱くなった。誰もいないのに、窓へ背を向けてしまう。
「……まだ、早いです」
自分へ言い聞かせるように呟く。けれど、呟いたところで気持ちは消えない。むしろ、名前をつけたせいで余計にはっきりしてしまった。
机の上には、昼にロイトが置いていった書付が一枚ある。防波堤の灯の補助線についてまとめたものだ。端には短く、達筆でこう書かれていた。
『明朝、東区の聞き取りに同行する。足元の良い靴で来い』
同行する。
命令みたいな文面なのに、なぜか少しだけ嬉しい。
アヌッカは書付をそっと裏返し、その下へ新しい紙を引いた。
書くべきことはたくさんある。願文の差異、灯の落ちた地点、金の月種の反応。けれど筆を持つ前に、彼女はほんの小さな字で紙の端へひとことだけ記した。
『失わないために、抱えすぎないように』
それが誰への言葉なのか、まだ自分でもよくわからない。
ただ、明日もまた隣で歩きたいと、そう思っていることだけは確かだった。




