第4話 幸せ丼は湯気とともに
その日の昼すぎ、港は朝から吹いていた風が少しだけやわらぎ、代わりに冷えが底から上がってきた。
人の手が止まりやすい時間帯だった。夜明けから働いていた漁師たちは、昼の競りを終えると急に肩を落とし、網の修繕や荷運びを終えた者たちも、次の仕事までのわずかな隙間に壁際へ背を預ける。誰もが腹を空かせているのに、まともな食事へ腰を落ち着けるほどの余裕はない。温かなものが必要だと、見ていてわかる時間だった。
アヌッカは保管庫の記録を抱えて食堂へ顔を出した。
扉を開けると、炊き上がった雑穀の匂いと、焼いた魚の香ばしさが一緒に押し寄せてくる。昼の賑わいは一段落したらしく、客席は半分ほど埋まっているだけだった。けれど厨房はまだ忙しい。鍋の蓋が鳴り、皿が重なり、アレンの声が飛ぶ。
「そっちの汁、塩は最後よ! 煮詰まるんだから!」
「はいはい、看板娘さま」
「はいは一回でいいの!」
威勢のいい返事と文句の応酬に、アヌッカは思わず頬を緩めた。
アレンがこちらに気づき、額の髪を腕でぬぐう。
「あ、来た。ちょうどいいわ。味見して」
「味見、ですか?」
「そう。昼の残りがいろいろ半端でね。夜まで持たせたいけど、ただ温め直すだけじゃ皆が飽きるのよ」
厨房の隅の木盆には、細かくほぐした白身魚、切れ端の燻製、煮崩れた豆、雑穀の残り、香草の茎、昨日の薬草だしが並んでいた。どれも食べられないわけではない。けれど一品として出すには少しずつ足りず、並べると“余りもの”の顔になってしまう。
「こんな日はね」とアレンが小声で言う。「皆、腹だけじゃなくて気持ちも冷えてるの。忙しいぶん、誰も自分から温まりたいなんて言わないけど」
その言葉に、アヌッカは厨房の外を見た。
窓際で遅い昼をとっている漁師たちは、無言で匙を動かしている。満腹にはなっても、疲れが抜ける顔ではない。隣の若い荷運びは、器を持つ手が赤くひび割れていて、湯気の立つ汁を前にしても肩が上がったままだ。
王都では、こういう疲れ方を人前で見せる者は少なかった。弱みとされるからだ。けれど港では隠しきれない。隠すより先に、次の荷が来る。
「温かくて、すぐ食べられて、手が止まらないものがいいのですね」
「そう。しかも高くつかないやつ」
そこへ、香草の籠を抱えたマグブラが裏口から入り込んできた。
「聞こえたわ。高くつかなくて温まる話?」
「いいところに来たわね」
「いいところにしか来ないもの」
マグブラは籠を卓へ置き、中身を広げる。干した香草、刻んだ根菜、塩漬けの海菜、香りづけ用の小さな実。見ているだけで、寒さに縮んだ身体がゆるみそうな色合いだった。
「魚と雑穀と薬草なら、ひとつにまとめればいいじゃない」
「雑に聞こえる」
「雑じゃないわ。丼よ」
丼。
その言葉に、アヌッカは木盆の余りものを見つめた。
王都の屋敷なら、器の格だの順番だのが先に立つ。汁は汁、焼き物は焼き物、飯は飯。けれどここは港町だ。冷えきった手で、何度も皿を持ち替えなくていい食べ方のほうが、たぶん理にかなっている。
「一緒に、盛る」
アヌッカは呟く。
「え?」
「雑穀の上に、魚と薬草だしをかけて、柔らかい豆も混ぜるんです。匙だけで食べられるように」
「お、いいじゃない」
「さらに、燻製は最後に散らすと香りが立つわね」とマグブラが言う。「海菜を少しだけ刻めば、塩気も締まる」
「でも、見た目が地味にならない?」アレンが腕を組む。
「上に、半熟の卵があれば」
アヌッカが言いかけて、首をかしげる。
「……ありますか?」
「今日は高い卵しかない」
「じゃあ却下ね」
「待って」とアレンがすぐ顔を上げる。「一個を四つに割ればいい。皆にひとかけずつ乗る」
「それだと喧嘩にならない?」
「ならないように私が切る!」
言い切る顔があまりに真剣で、アヌッカは小さく吹き出した。
そこからの厨房は急に忙しくなった。
アレンが鍋を選び、マグブラが香草を刻み、アヌッカは雑穀の加減を確かめる。薬草だしへほぐした魚を落とすと、潮の匂いにやわらかな香りが重なった。煮崩れた豆は潰しすぎず、形を少し残す。そこへ刻んだ海菜を混ぜ、最後に燻製をぱらりと落とすと、さっきまで“余りもの”だったものが、別の表情を持ちはじめた。
「見た目、悪くないわね」
アレンが鍋を覗き込む。
「悪くないどころか、腹が鳴る」とマグブラ。
「名前、どうしましょう」
「名前?」
アレンはそう言われて、真顔になった。料理に名前をつけるときだけは、灯台の明かりを調整する技師みたいな顔になる。
「魚雑穀薬草だし飯」
「説明ですね」
「港あったか盛り」
「惜しい」
「北風に勝つどんぶり」
「長い」
「幸せ丼は?」
何気なく口をついたのは、アヌッカだった。
二人がそろってこちらを見る。
「幸せ……」
アレンが繰り返す。
「だって」とアヌッカは少しためらいながら続けた。「大げさな幸福ではなくても、温かいものをすぐ食べられるとか、冷えた身体が少し楽になるとか、そういうのも、十分に幸せだと思うので」
王都なら、きっと鼻で笑われたかもしれない。そんなありふれたものを幸せと呼ぶなんて、と。
けれどアレンは腕を組んだまま、ふっと笑った。
「いい」
「いいわね」
マグブラも頷く。
「聞いた瞬間、ちょっと腹がやさしくなる」
「料理の感想として独特ね」
「褒めてるのよ」
さっそく一杯目がよそわれた。
深めの椀に雑穀を盛り、上から魚と豆のだしをかける。燻製、海菜、四つに切った卵のひとかけ、最後に刻んだ香草を散らす。湯気が立ちのぼる様子だけで、寒い日には十分ごちそうに見えた。
「味見」
アレンに匙を渡され、アヌッカはそっと口に運ぶ。
最初に来たのはだしのやわらかな塩気だった。次に魚の旨み、豆のほぐれる甘さ、燻製の香り、雑穀の噛みごたえ。薬草は前へ出すぎず、飲み込んだあとに身体の内側だけを温めるように残る。
「おいしい……」
「ほんと?」
「はい。なんだか、食べるというよりほどける感じがします」
「それ、最高の褒め言葉じゃない?」
「私にも」
マグブラも匙を取り、すぐに目を丸くした。
「これ、忙しいときにいいわ。噛むのも忘れてるような人でも、これなら勝手に食べられる」
「褒め方が雑ねえ。でも正しいわ」
アレンは満足げに腰へ手を当てた。
ちょうどそのとき、扉が開いて、外の冷気と一緒に数人の漁師が入ってきた。競り帰りらしく、皆そろって疲れた顔をしている。
「何か温かいもん、すぐ出るか」
「出るわよ!」とアレンが即答する。「新作あるけど、食べる?」
「新作って言葉が信用ならん」
「黙って座りなさい」
最初の三杯が運ばれた。
漁師たちは疑わしげに椀を見下ろしたが、湯気を吸い込んだ瞬間、表情が少し変わった。ひと口、ふた口、三口。気づけば匙が止まらなくなる。
「……これ、うまいな」
「飯が先に消えるかと思ったら、最後までちょうどいい」
「身体にしみる」
「なんか妙に落ち着くな」
「薬草入れた?」
「少しだけよ。高いのは入れてないから安心しな」
アレンが胸を張る。
別の卓でも注文が入った。灯台兵、荷運び、網繕い帰りの女たち。誰かが食べているのを見て、別の誰かも頼む。湯気の立つ椀が並ぶごとに、食堂の空気が変わっていく。疲れきっていた肩が少し下がり、無言だった卓に会話が戻り、笑い声がぽつぽつ混ざる。
アヌッカはその様子を見ながら、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
願いを聞くことと、食べてもらうことは似ているのかもしれない。どちらも、相手が口にしづらいものを、少し受け取りやすい形へ整える仕事だ。ただし、見栄のためではなく、その人がちゃんと楽になるために。
「ほら見なさい」
マグブラが肘でつつく。
「あんた、またそういう顔してる」
「どういう顔でしょう」
「役に立てたって思ってる顔」
「……そうかもしれません」
「いいじゃない。役に立ったのよ」
照れくさくて俯くと、今度はアレンがにやりと笑った。
「これ、定番にするわ」
「そんな、まだ一回目です」
「一回でわかるの。売れるものは売れる」
「食堂娘って、たくましいですね」
「褒めてもおかわりしか出ないわよ」
そのとき、食堂の入口に背の高い影が差した。
ロイトだった。
外回りの途中らしく、外套の裾に霧がついている。入ってきた瞬間、何人かが姿勢を正したが、本人はいつも通りそれを気にも留めない顔で、空いている奥の席へ向かった。
「来たわね」
アレンが低い声で言う。
「誰が?」
「領主様よ。あの人、忙しい日はここで遅い食事をとるの」
「では、幸せ丼を」
「もちろん出す」
アレンの目が輝いた。新しい料理を誰より先に食べさせたい相手がいる顔だ。
ほどなく、ロイトの前にも椀が置かれた。
彼はまず湯気を見た。次に匙を取り、ほんのひと口だけ運ぶ。表情は変わらない。もうひと口。さらにもうひと口。やがて、言葉もなく食べ進めていく。
「どう?」
アレンがたまらず訊ねる。
ロイトは椀の中身を見下ろしたまま答えた。
「悪くない」
「悪くない、ですって」
マグブラが呆れたように囁く。
「その減り方で?」
「ロイト様の“悪くない”は、かなり上等です」
いつの間にか入ってきていたポリミリスが、背後から静かに補足した。
たしかに椀の中身は、もう半分以下だった。
ロイトは何も言わず、最後のひと口まできっちり食べると、匙を置いた。そのあと、ほんのわずかに間を置いてから、空の椀を見つめる。
「……もう一杯」
「はいはい、来ると思った!」
アレンが勝ち誇った声を上げる。
食堂のあちこちで笑いが起きた。ロイトは軽く眉を寄せたが、席を立つ気配はない。気まずそうにしているわけでもなく、ただ“必要だからおかわりを頼んだ”顔をしているのが、かえって可笑しかった。
二杯目が運ばれると、彼は今度少しだけ食べる速度を落とした。
その横顔を見て、アヌッカは不思議な気持ちになる。冷たくて、近寄りがたくて、言葉は足りないのに、温かいものを口にしたときの表情はちゃんと人間らしい。しかも、隠そうとして隠しきれていない。
ロイトがふいにこちらを見た。
「何だ」
「いえ……」
「笑っている」
「少しだけです」
「理由は」
「秘密です」
そう返すと、ロイトは一瞬だけ黙り、それから視線を椀へ戻した。
「この料理、誰が考えた」
「アヌッカよ」
アレンが間髪入れずに答える。
ロイトの手が止まった。
「……そうか」
「お気に召しませんでしたか」
アヌッカが尋ねると、彼はすぐに首を振った。
「違う」
「では」
「体が温まる」
「はい」
「腹に落ちてからも、冷えが戻りにくい」
「それは、薬草と豆のおかげかも」
「名前は」
「幸せ丼、です」
「大層だな」
「大層でしょうか」
「いや」
ロイトは少しだけ考える顔をした。
「……足りないものを、ちょうどよく埋める名だ」
その言葉は思ったよりずっとまっすぐで、アヌッカは返事に少し詰まった。
足りないものを、ちょうどよく埋める。
それは料理のことだけではないように聞こえたからだ。
ポリミリスが背後で、聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
「ずいぶん自然な褒め方ができるようになりましたね」
「何のことだ」
「いえ別に」
「お前は本当に余計だな」
そのやりとりに、また食堂が笑う。
笑い声の中で、ロイトだけが真顔だったが、耳の端がほんの少し赤い。アヌッカは見てはいけないものを見た気がして、慌てて鍋のほうへ視線を戻した。
夕方が近づくにつれ、幸せ丼の注文は増えていった。
仕事帰りの者が食べ、誰かが隣へ勧め、また別の者が頼む。温かい椀を両手で持ったまま、口数の少なかった男たちがぽつりぽつりと話しはじめる。
「娘が最近、魚の骨を嫌がるんだ」
「うちの坊主は逆に骨を噛みたがる」
「それは止めろ」
「明日、波が荒れなきゃいいな」
「荒れても帰ってこいよ」
何でもない会話だった。けれどアヌッカには、それが願いの入口に見えた。食事で身体がゆるむと、人は少し本音をこぼしやすくなる。願文の調査に必要なのは、こういう時間かもしれない。
「ねえ、アヌッカ」
アレンが鍋をかき混ぜながら言う。
「これ、食堂の定番にするだけじゃもったいない」
「と、言いますと」
「願いを聞くときにも使えるんじゃない? 人って腹が減ってると、いい顔して“平気です”とか言うから」
アヌッカは目を瞬いた。
たしかにそうだ。空腹や寒さで身体がこわばっている相手から、本心を聞き出すのは難しい。先に温めて、緊張をほどけば、そのぶん願いも言葉になりやすい。
「食事が、願文の入口になる」
「そうそう。王都でそんなことしたら怒られそうだけど」
「怒られますね。かなり」
「でもここ北だし」
「北ですね」
「ならいいのよ」
理屈が大ざっぱなのに、妙に説得力があった。
その夜、食堂を閉めるころには鍋はきれいに空になっていた。底をさらう音まで誇らしく響く。
「完売!」
アレンが両手を上げる。
「売り物じゃない最初の試作なのに?」
「でも実質完売じゃない」
「それはそう」
ハウケアも閉店間際に顔を出し、事情を聞くと穏やかに笑った。
「よかったじゃない。食べ物に名前がつくと、町の記憶になるわ」
「町の記憶」
「ええ。“あの冬、停電がひどかった年に食べ始めたもの”ってね。苦しかった時期のことも、温かい味と一緒なら残しやすいでしょう」
その言葉が、アヌッカの胸へしみた。
苦しかったことを、温かい味と一緒に残す。
それはたぶん、願文にも似ている。
食堂を出ると、夜の港は昼間より静かだった。けれど静けさの底で、潮の音と灯のうなる音が絶えず動いている。魔導灯はところどころ頼りなく瞬くものの、今夜はまだ落ちない。
隣を歩いていたロイトが、ふいに立ち止まった。
「アヌッカ」
「はい」
「今日はよく働いたな」
「厨房で少し手伝っただけです」
「少しではない。食堂の空気が変わっていた」
ロイトは海のほうを見たまま言う。
「人は腹が満ちると、少し本音を話す」
「私も、そう思いました」
「なら、あの料理は今後も必要だ」
「領主様の食事命令ですか」
「違う」
彼は短く首を振った。
「この町の灯を守るために、必要だ」
それは遠回しな褒め言葉だった。
しかもたぶん、本人なりにかなり真面目な。
アヌッカが思わず笑うと、ロイトは横目で見る。
「また笑う」
「今日は、自然な言い方でしたから」
「自然?」
「ええ。古い恋札を読まなくても大丈夫なほうの」
「……忘れろ」
「無理です」
「なぜだ」
「面白かったので」
「君はときどき容赦がないな」
不満そうな声音のわりに、怒ってはいない。
風が吹き、港の先の灯台が白く瞬いた。ロイトはその光を見上げ、それから低く言う。
「明日も願文の聞き取りへ出るのか」
「はい。まだ見ていない区があります」
「なら、昼は食堂へ寄れ」
「幸せ丼のために?」
「それもある」
「それ“も”」
「……」
「もうひとつは、何ですか」
「身体を冷やすな」
結局そこへ戻るのか、とアヌッカは思う。けれどその不器用さが、今は少しだけ嬉しかった。
「承知しました、氷霧侯さま」
「その呼び方はやめろ」
「では何と」
「……ロイトでいい」
「え?」
「ここでは、そう呼ぶ者もいる」
それだけ言うと、彼はさっさと歩き出してしまう。
アヌッカは一歩遅れて立ち尽くし、それから小さく息を吸った。
名を呼んでいい。
たったそれだけのことなのに、胸の奥へ温かなものが落ちていく。
足元では、厨房から持ち帰った残り香がまだ外套へ移っていた。魚と薬草と湯気の匂い。町の人たちの笑い声。空になった鍋。おかわりを頼んだ領主。
幸せという言葉を、王都ではずっと遠いものだと思っていた。
けれどこの町では、案外こういうものなのかもしれない。
冷えた日に湯気の立つ椀を囲むこと。
仕事帰りの人が少しだけ笑うこと。
そして、昨日まで他人だった誰かが、自分の名を呼ぶこと。
アヌッカは夜の港を見渡し、そっと胸の内で繰り返した。
幸せ丼。
いい名前をつけたのかもしれない、と。




