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凶のおみくじから始まる北方港町の灯恋文  作者: 乾為天女


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3/3

第3話 願いを書き換える誰か

 翌朝、アヌッカは鐘の音ではなく、窓を叩く風の音で目を覚ました。


 王都の冬は冷たくても、屋敷の窓や回廊が寒さを一枚隔ててくれていた。けれどルーンサンドの朝は違う。外の海風がそのまま家々の板壁へぶつかり、夜のあいだに町全体をきりりと締め上げていく。白い息を吐きながら身支度を整え、湯気の立つ水で顔を洗うと、眠気より先に身体がしゃんとした。


 客間を出ると、廊下の向こうから香ばしい匂いが流れてきた。


 「起きていたのね。ちょうどよかった」


 声をかけてきたのは、栗色の髪をひとつにまとめた女性だった。年はアヌッカより少し上だろうか。片腕には布見本の束、もう片方には帳面を抱えている。薄い藍色の上着に糸くずがついていて、仕事の最中にそのまま出てきたらしい。


 「私はハウケア。仕立てと帳場の両方を見ているの。あなたの部屋のシーツ、丈が合っていないって聞いたから、あとで替えに来るわ」

 「ありがとうございます。あの、昨夜はきちんとご挨拶もできず」

 「最初の日は大抵みんな風にやられるもの。気にしなくていいわ。まずは朝食にしましょう。港は空腹に厳しいから」


 言葉はてきぱきしているのに、押しつけがましさがない。アヌッカは自然と頬の力を抜いた。


 食堂代わりの広間には、もう何人かが集まっていた。パンをちぎっている灯台兵、書付を抱えた若い役人、朝から元気に声を張る船員。王都の貴族屋敷の朝食は静かで、皿の音ひとつが目立ったが、ここは人の気配ごと温かい。


 「こっちこっち!」


 大きく手を振ったのは、丸い頬の若い娘だった。明るい色の前掛けをつけていて、どこか食堂の匂いを連れている。


 「私はアレン。港の食堂で手伝いをしてるの。昨日、あんたの話は聞いたわ。王都から来た願文師さんなんでしょ?」

 「まだ見習いですけれど」

 「見習いでも、字が綺麗なら立派なもんよ」


 向かいに腰かけていた小柄な娘が、そこで鼻を鳴らした。赤茶の巻き髪に香草の匂いが移っている。


 「字が綺麗なだけじゃだめ。願いの匂いが読めるって聞いたわよ。ほんとなの?」

 「願いの、匂い?」

 「マグブラ、それは誤解を招く言い方よ」


 ハウケアがすぐにたしなめる。


 マグブラは悪びれもせず肩をすくめた。


 「だって、願いって匂いがあるじゃない。魚みたいに露骨じゃないけど。見栄っ張りの願いは鼻につくし、切実なのは喉に残るの」

 「それはあなたが香草屋だからでは」

 「そうかも」


 あっさり頷かれ、アヌッカは思わず笑ってしまった。


 三人はそれぞれまるで違う。ハウケアは場のほつれを見つけるのが早く、アレンは誰かの皿が空いていると先に気づき、マグブラは言葉の端を嗅ぎ分けるみたいに、人の本音にずかずか近づいていく。けれど居心地は悪くなかった。


 「今日はポリミリス様が保管庫を見せてくれるって」


 アレンがパン籠を寄せながら言った。


 「願文の整理って、あんたの仕事なんでしょ?」

 「はい。そのつもりです」

 「なら、町の人にも顔を覚えてもらわなきゃね」

 「ただし、最初から信じてもらえるとは思わないこと」


 ハウケアは温かな湯を注いだ杯をアヌッカへ渡す。


 「この町は親切だけど、お人よしではないの。灯が不安定になってから、皆ぴりぴりしている。よそから来た人には、なおさら」

 「……そうですね」

 「でも、見ている人は見ているわ。昨日、倒れた子のことを気にしていたでしょう」

 「ほんの少しだけ見えただけです」

 「その少しを見ないふりしないのは、大事なことよ」


 王都では、少し見えたものほど見ないふりを覚える場所だった。誰が誰に何を言われたか。誰が泣くのを堪えたか。誰が助けを求める前に諦めたか。見えても触れないほうが賢いとされていた。


 ルーンサンドでは、その逆なのかもしれない。


 朝食のあと、ポリミリスが迎えに来た。


 「お加減はいかがですか」

 「はい。ずいぶん楽になりました」

 「それは何よりです。では、まず保管庫へ参りましょう」


 執務舎の裏手にある石造りの小屋は、見た目よりずっと厳重だった。二重の鍵に、湿気を逃がすための細長い窓。中へ入ると、紙と乾燥した薬草の匂いが鼻をくすぐる。棚には束ねられた願文が年代別、地区別、用途別に仕分けられ、札が整然と垂れ下がっていた。


 「思ったより……きちんとしています」

 「きちんとさせておりますので」


 ポリミリスは淡々と答える。


 「ただし、整理されていることと、中身が正しいことは別です」

 「昨日お話しされていた“改竄”の可能性ですね」

 「ええ。月食前に願文の集まりが悪くなる年は以前にもありました。ですが近年は、集まっている枚数のわりに月種が眠ったままだ。数では説明がつかない」

 「だから、文面そのものを確かめる必要がある、と」

 「そうです。あなたのお力を借りたい」


 借りたい。


 その言葉に、アヌッカは心の中で小さく息を止めた。王都では、使う、任せる、急ぎなさい、ばかりだった。必要だから、と言われても、それは相手の事情でしかなかった。けれどポリミリスの声は、役割としての依頼でありながら、そこにこちらの意思を置く余地がある。


 「やってみます」


 最初に渡されたのは、港の南地区の漁師たちの願文だった。


 アヌッカは一枚ずつ目を通す。『今年も大漁に恵まれますように』『舟の格が上がりますように』『競りで勝てますように』。どれも間違いではない。海で働く者が願いそうな文言だ。けれど、昨日からこの町の人々を見ていて、どこかひっかかる。


 「何かありますか」

 「……少しだけ、言葉が硬いのです」

 「硬い」

 「もっと、手触りのある願いのはずです。大漁も競りも大事でしょうけれど、それだけならここまで胸に残らない」


 アヌッカは別の束へ手を伸ばした。東区の荷運び、灯台兵の家族、網の修繕を担う女たち。どの文面も整いすぎている。立派で、目的も明快で、書類としては完璧だ。なのに、それぞれの暮らしの息遣いが薄い。


 「たとえば」とアヌッカは一枚を持ち上げる。「この“競りで勝てますように”という願い。昨日、競り場を横切っただけでも、皆さんが欲しいのは勝ち負けだけではないとわかりました」

 「どういうことでしょう」

 「負けても、家に帰れば子どもがいて、鍋を囲める。それが続いてほしい。そういう願いが本当は奥にあるように思うのです」


 ポリミリスはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。


 「……似たことをロイト様も仰っていました。数字はある。紙もある。だが灯が足りない、と」

 「灯が足りない」

 「はい。形だけでは、町を照らせないのでしょう」


 そこで保管庫の扉が開いた。


 入ってきたのはロイトだった。朝の巡回帰りらしく、肩へ霧の細かな粒を乗せている。


 「進みはどうだ」

 「王都からの見習い殿が、早々に面白いことを申しております」


 ポリミリスがそう言うと、ロイトの視線がアヌッカへ向いた。昨日と同じ冷たさに見えるのに、今日はそれだけではない。試し、測り、確かめている目だ。


 「申してみろ」

 「願文が、立派すぎます」

 「立派すぎる?」

 「はい。願いとして間違いではありません。でも、暮らしている人の手が見えないんです。魚の匂いも、濡れた縄も、家へ帰る足音も、病の子の額に置く手の熱も」


 言葉にしながら、自分でも少し驚いた。王都にいたころなら、こんなふうに自分の直感をそのまま差し出すことはできなかっただろう。外れたら笑われると知っていたからだ。


 けれどロイトは笑わなかった。


 「続けろ」

 「たぶん、誰かが“こう書くべきだ”という形へ整えすぎているんです。もしくは、そもそも別の人が書いている」

 「代筆そのものは問題ではない」

 「ええ。でも、代筆するなら、もっと本人の声が残るはずです。ここには、誰の声も残っていません」


 ロイトは一枚の願文を受け取り、短く目を走らせた。そして、机へ戻す。


 「この束、搬送経路は」

 「南区の集会所から区長を経て、保管庫へ」ポリミリスが即答する。「ただし王都の祈祷院から用紙補充が入る月は、書式見本が一緒に送られてきています」

 「王都……」


 アヌッカの指先がわずかに強ばる。


 ベルノア。

 祈祷院。

 見栄えのする言葉。

 胸の中で、ばらばらだったものがゆっくり繋がりかけた。


 「心当たりがあるか」


 ロイトの問いは鋭いが、責める調子ではなかった。


 「断言はできません。けれど王都では、祭礼用の願文を“見栄えよく整える”ことが重んじられる場面がありました。読み上げる相手が高位の方ほど、生活の匂いのする言葉は嫌われます」

 「願いなのに、綺麗ごとを優先するのか」

 「そうしないと“品がない”とされるのです」

 「馬鹿げているな」

 「……私も、そう思います」


 その一言を口にしたとき、胸の奥で何かがほどけた。


 王都にいたころは、馬鹿げていると思っても、それを言葉にしてはいけないと思っていた。正しいふりをした窮屈さに、自分まで従っていたのだ。


 ロイトはわずかに眉をひそめる。


 「その顔は、思い当たる節が多そうだ」

 「あります。でも、まだ証拠ではありません」

 「なら証拠に変えればいい」


 簡単に言う。だが、その簡単さが嫌ではなかった。できない理由より、やる道筋を先に置く人なのだとわかるから。


 「本日から町を歩け」ロイトは言った。「願文を出した者に会い、口で願いを聞き直せ。保管庫の文面と照らせば、差異は浮く」

 「そんなことをして、皆さんが話してくださるでしょうか」

 「話させる」


 それを聞いたポリミリスが即座に口を挟む。


 「ロイト様が先に出ると、事情聴取のようになりますので、今回はお控えください」

 「なぜだ」

 「顔が怖いからです」

 「……」

 「ご安心を。私が同行いたします」


 ロイトは不満そうだったが、否定はしなかった。


 最初に向かったのは、港の南側にある網繕い小屋だった。女たちが木枠に網を張り、器用な指で切れた箇所を直している。潮風で赤くなった手が、休みなく動く。その中で一番年長らしい女性が、こちらに気づいて目を細めた。


 「なんだい、朝から役所仕事かい」

 「少々、願文の確認を」


 ポリミリスが穏やかに説明し、アヌッカを前へ出す。


 アヌッカは一礼した。


 「月食前にお預かりした願文の文言に間違いがないか、確かめに参りました。“家業が繁盛し、港の名がさらに高まりますように”と記されていますが、こちらでよろしいでしょうか」


 女は針を持つ手を止め、妙な顔をした。


 「なんだいそりゃ。あたし、そんな大層なこと言ったかね」

 「違うのですか」

 「違うよ。もちろん潰れたら困るけどさ、あたしが願ったのは“春までうちの孫が咳をこじらせないでいてくれますように”だよ。風邪引くたび胸がひゅうひゅう鳴るんだ」


 アヌッカとポリミリスは顔を見合わせた。


 違った。

 しかも、少しの違いではない。


 「ほかの願いも、書き方を聞かれたあと、誰かが“こう直しておきますね”って持ってったよ」と、別の女が口を挟む。「うちは“網が破れませんように”じゃなく、“夫が無茶して足を滑らせませんように”って言ったはず」

 「私は“息子が喧嘩ばかりしませんように”」

 「私は“船酔いしない嫁が来ますように”」

 「それは願いとしてどうなの」

 「切実なんだよ」


 小屋のあちこちで笑いが起きた。


 どの声も生きていた。少し俗っぽくて、身近で、格好はよくなくても、ちゃんとその人の暮らしに根ざしている。保管庫の紙束にはなかった温度だ。


 アヌッカは一つひとつ丁寧に聞き取り、書き留めていく。


 「……ありがとう」

 最後にそう言ったのは、最初の年長の女だった。

 「なんだか胸のつかえが取れたよ。誰かに願いを話すってより、いつの間にか“立派なこと”を言わなきゃならない気にさせられてたんだねえ」


 ありがとう。


 その言葉が、アヌッカの胸へ真っ直ぐ落ちた。


 王都でも礼を言われないわけではなかった。だが多くは、美しい字ですね、便利でした、助かりました、という表面の礼だった。今の“ありがとう”は違う。願いを返してくれて、ありがとう。そういう響きがあった。


 網繕い小屋を出たあとも、二人は港を歩いた。魚屋の親父、灯台兵の妻、荷運びの兄弟、船大工見習い、香草を干す老婆。聞くたびに、保管庫の文面と本人の本心はずれていた。


 どの願いも、虚栄や見栄で塗り替えられているわけではない。ただ、“公に出しても恥ずかしくない形”へ、均されている。そうして削られた部分こそが、月種を目覚めさせる鍵なのだと、アヌッカにははっきりわかった。


 「これは……かなり広い範囲ですね」


 昼過ぎ、埠頭脇の壁に身を寄せて記録をまとめながら、ポリミリスが低く言った。


 「個人の癖では済みません。手引きがある」

 「王都から届く見本でしょうか」

 「あるいは、それを口実にした別の者か」


 そこで背後から、景気のいい声が飛んできた。


 「おーい! 腹減った顔してるぞ、お役人組!」


 振り向くと、アレンが大きな木盆を抱えて立っていた。焼きたての平パンと、湯気の立つ魚の汁物、それに薬草を混ぜた小皿がいくつも乗っている。


 「差し入れよ。朝からあちこち聞いて回ってるって聞いたから」

 「助かります」


 アヌッカが頭を下げると、アレンはにっと笑った。


 「話を聞いてくれてありがと、って皆言ってたわ。あんた、ちゃんと最後まで聞くんだって」

 「それは……願いを聞く仕事なので」

 「そういうの、案外できない人が多いのよ。途中で“要するにこうでしょ”ってまとめたがるから」


 その言葉に、アヌッカは手にしたパンの温かさをしみじみ感じた。


 ちゃんと最後まで聞く。

 自分にとっては当たり前だったことが、この町では役に立つらしい。


 そこへ、マグブラも香草の袋を揺らしながら現れた。


 「聞いたわよ。保管庫の願文、やっぱり変なんでしょ」

 「まだ調べている途中です」

 「途中の顔じゃないわね。何か掴んだ顔」


 ぐいっと覗き込まれ、アヌッカは少し笑った。


 「皆さんの願いが、思っていた以上に素敵だったんです」

 「素敵?」

 「ええ。立派すぎないところが」

 「わかるー」


 マグブラは強く頷いた。


 「この町の人って、幸福を金ぴかに言わないのよね。鍋が焦げないとか、舟が戻るとか、好きな人の機嫌がちょっとましだといいとか」

 「最後のは具体的ですね」

 「具体的じゃない願いなんて、腹の足しにもならないわ」


 その言い方が可笑しくて、アヌッカはまた笑った。


 笑うたびに、胸の内にあった重たいものが少しずつ軽くなる。


 夕方、執務舎へ戻ると、ロイトが地図の前に立っていた。灯の落ちた地点を印しているらしく、机には昨夜より多い札が広がっている。


 「報告を」


 短い一言に促され、アヌッカは記録を差し出した。


 「南区だけでも、願文の文面と本人の口頭の願いに大きな差がありました。しかも一件二件ではありません」

 「傾向は」

 「立派に見える方向へ均されます。港の名誉、家業の繁栄、格式。けれど本当の願いは、もっと生活に近いものです」

 「やはりか」


 ロイトは記録を眺める。その横顔は硬いが、怒っているというより、長く疑っていたことが形になり始めた顔だった。


 「本日分だけでここまで違うなら、全区を洗えば相当数が入れ替わっているでしょう」とポリミリスが言う。

 「誰がやったかも見えますか?」

 「まだ。ですが経路は絞れます。見本配布、回収、清書、保管。そのどこかです」


 アヌッカは少しためらってから口を開いた。


 「ロイト様」

 「なんだ」

 「もし許していただけるなら、明日も続けたいです。まだ全部を見たわけではありませんし、皆さん、話してくださるので」

 「話してくださる、か」


 ロイトはふと目を上げた。


 「君は妙だな」

 「私が、ですか」

 「王都から追われてきたばかりの者が、たった一日でここまで他人の願いへ踏み込む」

 「踏み込みすぎでしょうか」

 「違う」


 返事はすぐだった。


 「踏み込まれて嫌がった者がいたか」

 「……いいえ」

 「なら、それが答えだ」


 思いがけない肯定に、アヌッカは少しだけ目を見開く。


 「君は人の願いを聞くとき、相手を小さくしない」

 「小さく、ですか」

 「王都の連中はするのだろう。立派な言葉へ直し、“その程度の願いではないはずだ”と勝手に決める。だが君は違う」


 ロイトの声は低い。淡々としているのに、一語ごとに重みがあった。


 「そのままで聞け」


 たったそれだけの言葉が、なぜこんなにも胸へ沁みるのだろう。


 アヌッカは喉の奥が少し熱くなるのを感じた。泣くほどではない。けれど、ずっと前から欲しかった言葉に似ていた。変えなくていい。削らなくていい。そのままで聞け、と言ってくれる声。


 「はい」


 やっとのことで返すと、ロイトは視線を外した。褒めた自覚でもあるのか、少しだけ耳のあたりが赤く見えたのは、たぶん気のせいではない。


 その夜、執務舎の裏庭を通りかかると、ポリミリスとロイトの声が扉越しに漏れてきた。


 「……だから申し上げているのです。今のはかなり良い言い方でした」

 「何がだ」

 「“そのままで聞け”です」

 「事実を言っただけだ」

 「事実をまっすぐ伝えるのは貴重です。ぜひ続けてください。古い恋札から学ぶ方向より健全です」

 「お前はいつも余計だな」

 「承知しております」


 アヌッカは思わず足を止め、けれど聞いてはいけない気がしてそのままそっと通り過ぎた。


 客間へ戻る道すがら、港のあちこちに明かりがともっていた。どれも大きくはない。窓辺に揺れる小灯、店先の魔導灯、遠くの灯台の白い筋。けれど、一つひとつに誰かの生活が入っている。


 今日聞いた願いが頭の中でよみがえる。


 孫の咳が悪くならないように。

 夫が足を滑らせないように。

 喧嘩ばかりの息子が、少しは無事でいるように。

 船酔いしない嫁が来るように。


 立派ではないかもしれない。

 けれど、生きている願いだった。


 自分もいつか、こんなふうに自分の願いを言葉にできるのだろうか。


 まだわからない。けれど少なくとも今日は、誰かの願いを返せた。そのことが、寒い北の夜を少しだけやわらかくした。


 窓辺に立ち、アヌッカは港を見下ろす。


 下の通りでは、昼間に会った女たちが手を振っていた。網繕い小屋の年長の女性が、大きな声で叫ぶ。


 「王都の娘さん! 明日も来なよ! 今度は孫の咳に効く煎じ方まで話してやるからね!」


 その後ろで、別の女が笑いながら言い返す。


 「願いの確認なのに、なんで薬草講座になるんだい!」


 笑い声が夜気をくぐって届く。


 アヌッカは窓を開け、思わず身を乗り出した。


 「はい! ぜひ伺います!」


 返事をすると、下からまた笑いが上がった。


 役に立つから、ではない。

 王都から来た便利な見習いだから、でもない。


 ただ、来てほしいと呼ばれた。


 その事実があまりに嬉しくて、アヌッカはしばらく窓辺から離れられなかった。


 港の風は相変わらず冷たい。けれど今夜の冷たさは、昨日より少しだけ優しく思えた。



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