第2話 氷霧侯ロイト
夜が明けるより早く、アヌッカは王都を発った。
まだ空は群青の底にあり、家々の屋根には昨夜の冷えが白く残っている。子爵家の裏口に横づけされた馬車は、旅立ちを祝うにはあまりに無口で、御者も荷を積む従僕も、余計な言葉を口にしなかった。まるで厄介な荷物を決められた場所へ運ぶだけの朝だった。
ベルノアは見送りにも出なかった。
代わりに玄関の小机へ、封のされた紹介状が一通だけ置かれていた。北方港ルーンサンドの執務方あて、とだけ記されている。労いの言葉はなく、旅の無事を祈る一文もない。まるで帳簿の端に付ける送り状のようだった。
アヌッカはそれを外套の内側へしまい、馬車へ乗り込んだ。
王都の石畳が、車輪の下で小さく震える。見慣れた通りも、まだ眠っている店先も、幼い頃に父と歩いた橋も、今朝はひどくよそよそしかった。昨日まで自分がここで生きていたことさえ、誰かの書き損じた願文みたいに曖昧になる。
膝の上には小さな鞄ひとつ。
衣類数枚。
筆と紙。
父の髪留め。
そして、凶のおみくじ。
捨てる気には、どうしてもなれなかった。
城門を抜けるころ、朝焼けがゆっくりと空の端を薄め始めた。アヌッカは小さく息を吐き、窓辺へ額をもたせる。王都を離れる寂しさがないわけではない。けれど、胸の奥でちくちくと疼くのは、懐かしさよりも、昨日まで黙っていた自分への悔しさだった。
もっと何か言えたのではないか。
もっと早く離れられたのではないか。
そんな問いに答えが出ないまま、馬車は昼近くに南の河港へ着いた。そこから北方行きの定期船へ乗り換えるらしい。
船着き場は王都の祈祷院とは違う騒がしさに満ちていた。縄の軋む音、荷を呼ぶ声、水鳥の甲高い鳴き声。魚と湿った木材の匂いが混ざり合い、アヌッカは思わず鼻先を少しだけしかめる。見送る貴族もいなければ、優雅な乗船の列もない。北へ向かう商人、出稼ぎの職人、毛織物を抱えた女たちが、それぞれの事情を抱えて乗り込んでいく。
「北方便はこちらだ。遅れるなよ」
ぶっきらぼうな船員に促され、アヌッカは板橋を渡った。
船室は上等ではないが、狭すぎるほどでもない。窓は小さく、木の壁は冷たく、椅子のきしみまで正直だった。荷を置いて座り込むと、ようやく自分が本当に遠くへ向かうのだと実感する。
「おや、おひとりですかな」
向かいの席に腰を下ろしたのは、白髪まじりの男だった。厚手の外套に海塩の跡があり、肩からは革の道具袋を下げている。北の商人か、港の職人だろう。
「はい。ルーンサンドまで」
「それはまた、ずいぶん寒いところへ」
「やはり、厳しい土地なのですね」
「冬はなあ。霧が出ると、昼でも夕方みたいに薄暗くなる。とくに今年は早くから魔導灯の具合が悪い。瞬きみたいに消えたりついたり、まったく落ち着かん」
男はやれやれと肩を回した。
アヌッカは思わず顔を上げる。
「魔導灯が?」
「お嬢さん、知らんで行くのか。月食前は毎年少し荒れるんだが、ここ数年は霧も停電もひどくてな。灯台まで機嫌を損ねる日がある。港の連中は気が立ってるよ」
月食前。
停電。
ルーンサンド。
昨日、ベルノアが口にした地名が、ようやく具体的な寒さと湿り気を帯びてくる。単なる追放先ではない。何か困りごとを抱えた土地へ、自分は送られるのだ。
「お仕事で?」
「……願文を書く手伝いを、と」
「ほう。なら、ちょうどいいかもしれんな」
男は目を細めた。
「北は見栄で飯を食えん土地だ。寒いし、風は強いし、船は気まぐれだし、みんな口も荒い。だが本音は早い。あれこれ飾る余裕がないからな」
本音は早い。
その言葉に、アヌッカは少しだけ救われた気がした。王都では本心ほど奥に隠され、綺麗な言葉ほど前へ出された。もし北の港町が逆なら、自分の力も少しはましな形で使えるのかもしれない。
船は昼すぎに出た。
河を下り、やがて広い海へ出ると、揺れが一段深くなる。窓の外は灰青色で、冬の水面は光っているというより、薄い金属板のようだった。白波の向こうに浮かぶ鳥影を見ているうち、王都の喧騒が少しずつ背中から剥がれていく。
夕刻、甲板へ出ると風は容赦なく頬を打った。
アヌッカは外套の前を押さえながら、北の空を見た。雲の隙間に細い月が出ている。その輪郭の薄さが、かえって寒さを際立たせた。
「風邪を引くぞ」
声をかけてきたのは、昼間の男ではなく、若い船員だった。手には湯気の立つ木杯がふたつある。
「ありがとうございます」
「飲みな。薄い薬草湯だが、ないよりましだ」
渡された木杯は指先にじんわり熱かった。口に含むと少し苦く、そのあとに蜂蜜のような甘みが残る。
「北方の方は、皆お優しいのですね」
「はは、買いかぶりだ。荒っぽいのも多い。だが、倒れたやつを放っとくと後味が悪いだけさ」
船員はそう言って肩をすくめた。
「ルーンサンドへ行くなら、領主様に会うこともあるだろうな」
「領主様……」
「ロイト侯。氷霧侯なんて呼ばれてる」
その呼び名は、冬の海によく似合った。
「怖い方ですか?」
「怖いというか、顔が怖い」
「顔が」
「しかも言葉が少ない。だが仕事は早い。夜中だろうが吹雪だろうが、灯が消えたと聞けば真っ先に出てくる。領主ってより港の用心棒みたいな人だ」
顔が怖いのに、灯が消えれば真っ先に出てくる。
奇妙な取り合わせに、アヌッカは少しだけ笑った。
「それは……ありがたい方なのでしょうね」
「ありがたいが、近寄りやすくはないな。嬢ちゃんが泣かされないといい」
その言葉を最後に、船員は別の仕事へ戻っていった。
アヌッカは木杯を両手で包みながら、水平線の向こうを見つめる。泣かされる。昨日までなら、その言葉に心が縮んだかもしれない。けれど今は、もう泣かされるだけで終わる自分ではいたくないと思った。
翌朝、船は北の港へ入った。
最初に見えたのは霧だった。
白く重たい幕が、海と空の境目を曖昧にしている。その奥から、黒い岩壁と背の高い灯台の影がぼんやり現れた。王都の河港が賑わいの匂いなら、ここは風そのものが働いているような場所だった。荷揚げの掛け声、鎖の鳴る音、波が木柵へ打ちつける低い音。すべてが冷たく、無駄なく、力強い。
「ルーンサンドだ」
誰かが呟く。
アヌッカは外套の襟を押さえ、下船の列へ並んだ。板橋の先では、港の役人らしい者たちが荷や人を手際よく振り分けている。ここでは誰も彼も動きが速かった。立ち止まっていると風に押し流されそうになる。
そのとき、少し先で怒声が上がった。
「おい、誰か医者を呼べ!」
「だめだ、息が浅い!」
荷運びの若い少年が、その場に崩れ落ちていた。肩に縄を食い込ませたまま、顔色を失っている。周囲の男たちが駆け寄るが、大柄な荷と人の流れに挟まれ、うまく動けない。
次の瞬間、人垣が真ん中から割れた。
「道をあけろ」
低い声だった。大きくはないのに、誰もが逆らえない声。
濃い灰色の外套をまとった青年が、まっすぐ少年の前に膝をつく。冬の海と同じ色の髪。冷えた刃のように整った横顔。周囲へ短く指示を飛ばしながら、彼は迷いなく少年を抱え上げた。
「荷は後だ。呼吸を優先する。ジーギルデの診療所へ」
「ですが、侯爵様――」
「聞こえなかったのか」
その一言で、男たちは弾かれたように動いた。
侯爵様。
アヌッカは思わず息をのむ。
あれが、ロイト。
氷霧侯という呼び名が、たしかに似合った。無駄のない所作。温度を感じさせない眼差し。誰かを助けている最中なのに、甘さや演出の気配がひとつもない。善人らしく見せようとしているのではなく、やるべきことだからやっている顔だった。
ロイトは少年を抱えたまま踵を返しかけ、そこで初めてアヌッカの存在に気づいたらしい。群衆の端で立ち尽くす彼女へ、氷色の目がひとつ向けられる。
「君は誰だ」
歓迎ではなかった。確認だった。
アヌッカは慌てて礼を取る。
「王都より参りました、アヌッカと申します。願文師見習いとして、臨時派遣の辞令を――」
「あとだ」
短く言い捨てると、ロイトはすぐに視線を戻した。
「いまは邪魔になる。執務舎で待て」
それだけ残して、彼は足早に去っていく。抱えられた少年の腕が力なく揺れ、付き従う者たちが雪崩のように後を追った。
残されたアヌッカは、吹きつける海風の中で瞬きをした。
第一印象は、最悪だった。
助ける姿はたしかに迷いがなく、見ていて胸を打たれた。けれど、あまりにも冷たい。名前を告げたのに、表情ひとつ動かない。遠くから見れば立派でも、近くにいる者には少しも容赦しない類の人かもしれない。
「驚かれましたか」
横から柔らかな声がした。
振り向くと、黒い手袋をはめた細身の男が立っていた。年の頃は三十前後だろうか。薄茶の髪を後ろへ撫でつけ、眼鏡の奥の目は静かによく働いている。
「私はポリミリスと申します。ロイト様の側近です。王都からの派遣の方ですね」
「はい。ご挨拶が遅れました」
「いえ。ちょうど悪いところへ到着なさいました」
ポリミリスは視線だけで先ほどの騒ぎの消えた通りを示した。
「この港では、到着早々に驚くことが多いのです。霧、停電、急患、喧嘩、迷子、漁獲自慢。今日はまだ穏やかなほうでしょう」
「今ので、ですか」
「はい。今のは少年が倒れただけですので」
「だけ、とおっしゃいますけれど……」
アヌッカが目を丸くすると、ポリミリスはほんのわずかに口元を和らげた。
「そういう顔をされると、少し安心します。王都から来られる方は、たいてい最初に靴の泥を気にされますから」
自分の裾を見ると、たしかに潮混じりの泥が跳ねていた。王都なら眉をひそめられそうだが、ここでは誰もそんなものを気にしていない。
「執務舎までご案内します。紹介状を拝見しても?」
「はい」
歩き出すと、港の風景が次々と目に入った。
網を繕う老人。
魚を選り分ける娘たち。
樽を転がす筋骨たくましい男。
建物の壁には白い塩がうっすら張りつき、軒先には乾かした海草が揺れている。王都の石造りとは違い、ここには生活がむき出しだった。寒さも匂いも、働く音も隠れていない。
「先ほどの少年は、大丈夫でしょうか」
「ロイト様が運んだのでしたら、おそらく」
「ずいぶん信頼していらっしゃるのですね」
「信頼と言いますか、あの方は必要なときに必要な場所へ一番に現れるので」
ポリミリスは淡々と言った。
「ただ、愛想は期待なさらないでください。とくに初対面には」
「すでに少しだけ感じました」
「少しで済みましたか。それは良かった」
冗談なのか本気なのかわからない声音だった。
執務舎は港を見渡す小高い場所にあった。二階建ての頑丈な建物で、窓からは霧の海と灯台が見える。中へ入ると、暖炉の火がやっと人心地つかせてくれた。
「こちらで少々お待ちください。部屋を整えさせます」
勧められた椅子に座ると、じわじわと足先の感覚が戻る。ほどなくして温かな茶が運ばれ、乾いた布まで渡された。
アヌッカは指先を温めながら、窓の外を見た。港は絶えず動いている。誰かの号令ひとつでではなく、それぞれが自分の役割をわかっていて、そのぶん忙しいのだ。
やがて扉が開いた。
ロイトだった。
先ほどと同じ灰色の外套を脱ぎ、濃紺の上着姿になっている。肩にはまだ外気の冷たさが残っているようで、部屋へ入っただけで空気が一段引き締まった気がした。
「少年は峠を越えた」
誰に向けたともなく言い、彼は机の向こうへ立つ。
アヌッカはほっと胸を撫で下ろした。
「良かったです」
「君が心配する相手でもない」
「ですが、目の前で倒れた方でしたから」
「……そうか」
それきり言葉が途切れる。
気まずい沈黙を破ったのはポリミリスだった。紹介状を広げ、簡潔に経緯を説明する。王都の祈祷院からの臨時派遣。月食前の願文整理補助。期間未定。
ロイトは紹介状へざっと目を通し、眉ひとつ動かさず机へ置いた。
「王都は人手不足なのか」
「いいえ。たぶん、私が」
厄介払いです、と言いかけて、アヌッカは飲み込んだ。
「……こちらで必要とされると聞きましたので」
「必要かどうかは、働きを見て決める」
氷の板みたいな返事だった。
アヌッカは内心で思う。助ける姿は本物でも、人へ向ける言葉はやさしくない。少なくとも、歓迎されてここへ来たわけではないことだけはよくわかった。
「港では月食前の予兆が強まっている」ロイトは窓の外の霧を見た。「願文の整理は急務だ。だが、余所者にいきなり保管庫を触らせるわけにもいかない。まずは町を見ろ。人を見ろ。ここで何が灯を支えているのか、その目で確かめろ」
「承知しました」
アヌッカが頷くと、ロイトは数拍だけ彼女を見た。その目には試すような硬さがある。
「泣いて帰るなら今のうちだ。北は親切ではない」
「王都も、そう親切ではありませんでした」
「……」
初めて、ロイトがはっきりと口を閉ざした。
意外だったのかもしれない。アヌッカ自身も、あんな返しをするつもりはなかった。ただ、昨日までと同じように黙って俯くのが嫌だった。
室内に短い沈黙が落ちる。
先に動いたのはロイトのほうだった。机の端へ置かれていた紙束を一枚取り、なぜかそれを見てから、低い声で言う。
「……この港の霧は深い。だが、迷った者を責めはしない」
「え?」
「君の足元にもし闇がまとわりついても、私が切り払う」
「…………はい?」
あまりにも急で、あまりにも場違いだった。
ポリミリスがゆっくり眼鏡を押し上げる。アヌッカは聞き間違いかと思って瞬きを三度した。ロイト本人だけが真顔である。
「それは、どういう」
「歓迎の意を表した」
「歓迎にしては重くありませんか」
「不足か」
「不足ではなく、方向が不思議です」
思わずそう返すと、ロイトはほんの少しだけ目を細めた。怒ったのかと思ったが、違った。たぶん、考えている。
「古い願い札に書いてあった」
「願い札」
「北方の恋占いに使う文句らしい」
「それを初対面の相手に?」
「だめなのか」
「だめというか、なぜ今それを」
アヌッカが困り果てていると、ついにポリミリスが顔を背けた。肩がわずかに震えている。笑いを堪えているのだ。
ロイトはますます険しい顔になった。
「歓迎の言葉は必要だと聞いた」
「誰に」
「ジャファルに」
「それはたぶん、あまり参考にしてはいけない方です」
今度こそポリミリスが咳払いで笑いをごまかした。
アヌッカは口元を押さえる。笑ってはいけない。相手は領主で、しかも目の前で人を助けたばかりの真面目な男だ。けれど、あまりに不器用で、あまりに真剣で、笑いがこみ上げてしまう。
「……失礼、いたしました」
「笑ったな」
「少しだけ」
「歓迎は失敗か」
「いえ」
アヌッカはようやく笑いを整え、まっすぐロイトを見た。
「とても、変でした」
「褒め言葉には聞こえない」
「でも、嘘ではないのですね」
その一言に、ロイトの表情がごくわずかに動いた。
華やかな言い回しなのに、媚びや軽さがまるでない。誰かを口説くためではなく、本当に必要だと思って口にしたのだろう。だから余計に奇妙で、だから少しだけ可笑しい。
「……王都では、ああいうふうに言われたことがありません」
そう言った瞬間、自分でも驚くほど素直な声が出た。
ロイトは答えない。ただ一拍だけ間を置いて、机の脇に立てかけてあった鐘を小さく鳴らした。
「部屋を案内させる。今日は休め。明日から動いてもらう」
「はい」
「それと」
「はい」
「霧が濃い時間は一人で海辺へ行くな。足を取られる」
「承知しました」
「……君は、こちらへ来たばかりだ。まだこの町のものではない」
冷たい言い方だった。けれど、続いた声は先ほどより少し低かった。
「だからこそ、死なれると困る」
それだけ言って、ロイトは踵を返す。
扉が閉まったあとも、アヌッカはしばらくその場で動けなかった。最初は追い払うようにしか聞こえなかった言葉が、最後には妙に胸へ残ったからだ。
死なれると困る。
歓迎の台詞よりずっと不器用で、ずっと本音に近い響きだった。
「お気を悪くなさいましたか」
ポリミリスが問う。
アヌッカはゆっくり首を振った。
「いいえ。……本当に、不思議な方なのですね」
「ええ。たいへん不思議です」
「でも、倒れた方を迷わず抱えていかれました」
「そういう方です」
「さっきの言葉も、たぶん本気で」
「ええ。あれも本気です。困ったことに」
ポリミリスはさらりと言った。
「ロイト様は、言葉を飾るのが下手です。けれど、やることはわかりやすい。むしろ、わかりやすすぎて周囲が疲れることもあります」
「周囲、とは」
「主に私です」
その返答に、アヌッカはとうとう小さく吹き出した。
笑った瞬間、胸の奥に張りついていたものがほんの少しほどける。王都を追われてから初めて、自分がただ情けないだけでここへ来たのではないのかもしれない、と感じた。
部屋へ案内される途中、窓の外では再び霧が港を薄く覆い始めていた。けれどその白さは、王都で息苦しさを覚えた曖昧さとは違う。見えにくくても、その向こうで誰かが働き、灯を守ろうとしている気配がある。
小さな客間の窓辺に立ち、アヌッカは父の髪留めに触れた。
ここでうまくやれるかどうかは、まだわからない。
ロイトは冷たくて、変で、少し怖い。
港は風が強く、霧は深く、知らない匂いばかりする。
それでも、王都にいたときより息がしやすい気がした。
外で鐘が鳴る。
港のどこかで、誰かが笑う。
遠くの灯台の明かりが、霧の向こうで一度だけ揺れた。
アヌッカは窓を少しだけ開け、胸いっぱいに潮の匂いを吸い込む。
北の空気は冷たかったが、心まで凍らせる冷たさではなかった。
明日から、この町を見る。
人を見る。
灯を支える願いを見る。
そしてできるなら、自分がここへ来た意味も見つけたい。
閉めかけた窓の隙間から、下の中庭をロイトが横切る姿が見えた。執務舎を出たあとも休まず、別の者へ指示を出している。誰かが差し出した書面を受け取る前に、足を止めて空を見た。霧の流れを読んでいるのかもしれない。
ふいに彼がこちらを見上げる。
目が合った、気がした。
アヌッカは慌てて窓を閉めた。頬が少し熱い。寒さのせいではたぶんない。
「そんな言葉、どこで覚えたの……」
誰にも聞こえない声で呟くと、自分で可笑しくなってまた笑ってしまった。
北方港ルーンサンド。
追い払われるように辿り着いたこの町で、アヌッカの新しい日々が、ようやく動き始めようとしていた。




