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凶のおみくじから始まる北方港町の灯恋文  作者: 乾為天女


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第1話 凶のおみくじと婚約破棄

 年明けの王都は、雪ではなく、白い息でできていた。


 祈祷院の石段を上り下りする人々が、朝から絶えない。毛皮の襟巻きを巻いた商人も、子どもの手を引く母親も、今年こそ良い縁に恵まれたいと頬を赤くした娘も、みな胸の内にひとつずつ願いを抱えていた。その願いを紙に写し取り、神前へ届けるための窓口に、アヌッカは座っていた。


 指先は冷えているのに、手元の紙だけは温かい。


 誰かの願いを聞き、言葉にして整え、相応しい形へ書き起こす。その仕事を、王都では願文師と呼ぶ。もっともアヌッカは、正式な願文師ではない。子爵家の娘でありながら、父の死後は継母ベルノアの意向で祈祷院の見習いとして働かされ、便利な手として使われ続けてきた。表向きは修業、実際には雑務係。紙束を運び、筆を洗い、時には身分ある夫人たちの前で美しい字だけを求められる。


 けれどアヌッカは、今日もいつも通り顔を上げて微笑んだ。


 「どうぞ。次の方」


 前に立ったのは、厚手の外套に塩の粒を残した中年の男だった。早朝に港から届いた魚を王都へ運ぶ商いでもしているのだろう。大きな手が窓口の縁に置かれ、彼は気まずそうに鼻の頭をかいた。


 「その、娘が春に嫁ぐんでさ。幸せになってほしいって書きゃあいいんだろうが、どうにも、うまく言えなくて」


 「お名前は書かれますか?」


 「いや、読む奴に笑われるのは勘弁だ。……ただ、あいつが腹を空かせずに済む暮らしで、怒鳴られもせず、できれば笑っていてくれりゃあ、それでいい」


 男はぶっきらぼうに言ったが、その最後だけ声が少しだけ掠れた。


 アヌッカは筆を持つ。男の願いの表面には「娘の良縁」。けれど、その奥にはもっと切実で、もっと生活の匂いのする本心があった。夜更けに帰ってきても温かな食卓があること。病んでも見捨てられないこと。遠い家に嫁いでも、泣く日が少ないこと。


 彼女は白い紙に静かに書きつけた。


 『新しい家で、あの子が心細い思いをせず、食卓に笑い声の絶えぬ日々を重ねられますように』


 男は目を丸くした。


 「……そう、それだ。それが言いたかった」


 「では、こちらを奉納窓口へお持ちください」


 願文を受け取る男の節くれだった指が、紙をやけに丁寧につまむ。去り際、彼は不器用に会釈をしていった。ありがとう、の四文字が、背中からそのまま零れ落ちているようだった。


 アヌッカは小さく息を吐いた。


 そういう瞬間だけは、自分の役目を好きでいられる。


 「ずいぶん楽しそうね」


 横から落ちた声は、薄い氷の板のようだった。


 振り向くと、紫がかった濃紺のドレスに身を包んだベルノアが立っていた。喪が明けてなお一分の隙もない化粧、首元を飾る真珠、冷たく整えられた微笑。継母はいつだって、人前では優雅だ。


 「年明けの祈願の日ですもの。少しでも穏やかに働けたらと思っております」

 「見習いの分際で、余計な自己満足を覚えないことね。今日は王都でも大事な日よ。変な失敗をして家名に傷をつけないでちょうだい」


 その言葉に、はい、とだけ返す。


 父が生きていた頃、子爵家の冬はもっと静かだった。暖炉の火の前で帳簿を広げる父に、アヌッカが読み書きの手伝いをする。亡き母の肖像画の前に小さな花を供え、年始には皆で祈祷院へ出向く。それが普通だった。


 父が病で倒れ、ベルノアが後妻として家に入ってからは、普通という言葉はどこかへ消えた。


 家の財を守るため。

 未熟な娘を鍛えるため。

 良縁のためには忍耐も必要。


 継母はいつも正しい言葉を選んだ。そのたびに、アヌッカは何かを失っていった。


 「そうだわ。セルギオ様があとでいらっしゃるそうよ」

 「……婚約者様が、ですか」

 「年明けのご挨拶くらい当然でしょう。あなたも少しは見栄えよくしておけばよかったのに。そんな地味な髪飾りでは、子爵家の娘というより書庫番だわ」


 ベルノアは肩をすくめ、ほのかな香水の匂いを残して奥へ去っていく。


 アヌッカは無意識に、自分の耳元へ触れた。


 青い小さな石のついた髪留めは、父が最後の年に贈ってくれたものだ。地味でも、彼女にとってはこれ以上ない宝物だった。


 昼が近づくにつれ、祈祷院はいっそう賑わった。


 神官の祝詞、鈴の音、外で売られる甘い焼き菓子の匂い。人の波に揉まれながら、アヌッカは何十枚もの願文を書き上げた。商売の繁盛、子の健康、春の旅の無事、遠くの弟からの便り。願いはどれも違うのに、不思議と行き着く先は似ている。明日が今日より少しだけ穏やかであってほしい。ただそれだけのために、人は寒い朝から祈祷院へ来るのだ。


 休憩に出るよう言われ、裏手の小さな中庭へ出ると、霜をかぶった枝の先で冬の陽が淡く砕けていた。


 中庭の隅には、年始だけ置かれるおみくじ箱がある。若い見習いたちがきゃあきゃあと声を上げながら引いては、結果に一喜一憂していた。


 「アヌッカさんも引かないの?」

 「ええ、せっかくだから」


 同僚の娘に勧められ、彼女も細い棒を一本引く。


 箱番の老神官が結果の札を渡し、含み笑いを浮かべた。


 不吉な予感がした。


 札を開く。


 凶。


 しかも、恋愛運の欄には、これ以上ないほど簡潔に書かれていた。


 『縁、結べば破れる』


 アヌッカはまばたきを二度した。


 「……ずいぶんはっきり仰るのですね」

 「神託はいつだって率直ですよ」


 老神官は楽しそうに白い眉を揺らした。


 隣の娘が気の毒そうに覗き込む。


 「だ、大丈夫よ。こういうのは悪い運を先に落とすって言うし」

 「そうね。今のうちに悪いことが全部済めば、春にはきっと」

 「春まで長いわねえ……」


 思わず口にすると、娘たちが笑った。アヌッカもつられて笑う。


 凶のおみくじなど久しぶりだったが、まあこんな日もある。縁が結べば破れる、という言葉が少し胸に引っかかったものの、婚約者であるセルギオとはこのところろくに会っていない。破れるほど結ばれているとも思えなかった。


 そのとき、中庭へ差した陽射しを遮るように、華やかな影が現れた。


 「まあ。ほんとうにいらしたのね、アヌッカ様」


 鈴を転がすような声に、周囲の空気がさっと変わる。


 リディベルだった。


 王都で近頃よく名の上がる令嬢。社交界の流行を身にまとい、今日も雪花を模した銀糸のドレスに、揺れる宝石を耳元へ下げている。彼女が歩くだけで、そばにいた見習いたちが無意識に道をあけた。


 「こんにちは、リディベル様」

 「ごきげんよう。あら、お仕事中におみくじ? ずいぶん呑気なのね」


 にこやかな口ぶりだったが、細い目の奥は笑っていなかった。


 アヌッカが礼を取ると、リディベルはわざとらしく周囲を見回した。


 「皆さん、聞いていらして? アヌッカ様ったら、本当に熱心なの。つい先日も、王子殿下の周りで目立つために、願文の順番を融通してほしいって――」

 「そのようなことは申し上げておりません」


 思わず声が硬くなる。


 リディベルは小首をかしげた。


 「あら、違ったかしら。でも、殿下がお通りになる日だけ髪飾りを変えていらしたでしょう?」

 「父の形見です。日によって変えていたのではありません」

 「まあ、そういうことになさるのね」


 くすくすという笑いが、誰かの口元から零れた。


 違う、と言いたかった。けれど王都の噂は、否定した言葉ほど面白がられる。アヌッカが息を呑んでいるうちに、リディベルは親しげな声で畳みかけた。


 「婚約者がいらっしゃるのに、他の殿方へも視線を向けるのは感心しないわ。セルギオ様もおかわいそう」


 その名が出た瞬間、背後の回廊がざわめいた。


 人の流れが割れ、上質な冬外套をまとった青年が現れる。明るい栗色の髪を整えた、端正な顔立ち。セルギオだった。子爵家より少し上の家格を持つ、アヌッカの婚約者。


 婚約が決まったのは父の存命中だ。家同士の釣り合いも悪くなく、穏やかで無難な縁だと誰もが言った。けれど父が亡くなってから、セルギオは徐々に顔を見せなくなった。届く手紙は減り、たまに会えば自分の出世や夜会の話ばかりするようになった。


 それでもアヌッカは、破談にするほどの理由もないと思っていた。少なくとも今日、この場所で、こんなふうに目の前へ現れるまでは。


 「ちょうどいいところだ」


 セルギオは中庭の中央へ立ち、周囲を見渡した。まるで見物人が十分集まるのを待っていたかのように。


 「アヌッカ。話がある」

 「はい」

 「いや、ここでいい。むしろ人がいるほうが都合がいい」


 胸の奥が、すうっと冷える。


 彼の言葉より先に、リディベルの唇がうっすらと弧を描いたのが見えた。


 「最近、君について耳にする噂が多い。王子殿下への取り入り、願文師としての立場を利用した私的な接触、見習いの身でありながら思い上がった振る舞い――」

 「誤解です」

 「誤解かどうかは問題じゃない。そう見られている時点で、もう困るんだ」


 その言葉に、周囲の何人かが息を呑んだ。


 セルギオは気の毒そうな顔を作った。作り物の優しさは、昔から妙に上手かった。


 「僕の家もこれから大事な時期でね。少しでも醜聞の種は遠ざけたい。だから、婚約はここで解消させてもらう」


 一瞬、音が消えた気がした。


 冬の空気が頬を刺す。中庭の石畳が、やけに白い。


 「……婚約を、解消」

 「君にも悪い話じゃないさ。祈祷院の見習いがお似合いなら、そのまま勤めればいい。僕はもっと家のためになる相手を選ぶべきだと判断した」


 家のため。


 その言葉は、刃物よりも綺麗で、だからこそ深く刺さった。


 アヌッカはぎゅっと札を握りしめる。恋愛運最悪、と書かれた紙が掌の中で音もなく折れた。


 「セルギオ様。少なくとも、二人だけで話すことはできませんか」

 「必要ない。曖昧にすれば、君は期待するだろう?」


 彼はすでに勝ったつもりの顔だった。期待するだろう、ではない。彼自身が、誰かの前で弱く見られたくないのだ。


 周囲の視線が刺さる。

 気の毒そうな目。

 面白がる目。

 ああやっぱり、と言いたげな目。


 アヌッカは唇を結んだ。


 泣くのは嫌だった。ここで泣けば、図星だったのだと受け取られる。すがれば、見苦しいと笑われる。怒鳴れば、噂通り品がないと言われる。


 だから、声だけは震わせないようにした。


 「……承知しました」


 その返事は、セルギオの予想よりずっと静かだったのだろう。彼は一瞬だけ目をしばたたかせたが、すぐに咳払いをして顎を上げた。


 「聞き分けがよくて助かるよ」


 そのとき、回廊の奥から軽やかな足音が響いた。


 「まあまあ、なんということでしょう」


 絹を擦る音とともに現れたベルノアは、驚いた顔をしてみせながら、目だけは少しも驚いていなかった。


 「セルギオ様、せめて事前にご相談いただければ……と言いたいところですが、家の名誉を思えば、やむを得ませんわね。継母として、私も胸が痛みます」


 胸など、まるで痛んでいない声だった。


 アヌッカはそこで初めて理解した。


 最初から仕組まれていたのだ。


 リディベルの噂。セルギオの宣言。ベルノアの登場。全部がきれいに繋がっている。


 「ですが、祈祷院にもご迷惑をおかけしてしまいましたし、このまま王都に置いておくのは本人のためにもよろしくないでしょう」


 ベルノアは周囲へ向けて、慈愛に満ちた母の顔を作る。


 「ちょうど北方の辺境港ルーンサンドで、願文師の手が足りないと聞いておりますの。短期の臨時派遣として、アヌッカをそちらへ向かわせますわ。静かな土地で頭を冷やせば、この子も少しは分別を学べるでしょう」


 ざわめきが広がった。


 ルーンサンド。

 王都から遠く離れた北の港。霧が深く、冬は厳しいと聞く。年に一度の月食祭で知られる土地だが、上流の娘が好んで行く場所ではない。


 アヌッカはベルノアを見た。


 「……今日、決まった話ではありませんね」

 「何を言うの。先方の都合もあるのよ」

 「婚約破棄のあと、すぐに?」

 「ええ。傷ついた心を癒やすには環境を変えるのが一番でしょう?」


 癒やす。


 その言葉の下にある本音は、厄介払いだ。


 アヌッカの存在は、もう子爵家の飾りにも駒にも使いづらい。ならば遠ざける。王都で悪評を背負った娘が、北方で何をしようと構わない。


 中庭の空気が、ひどく薄く感じた。


 けれどそのとき、不思議と胸の奥で別の感覚が生まれていた。悲しみの底に、細い針のようなものが一本、まっすぐ立つ。


 ここに残っても、何があるのだろう。


 セルギオは自分を家の値札で見た。

 ベルノアは使い道で見た。

 リディベルは踏みつける段差として見た。


 では、自分を自分として見る場所は、王都のどこにあるのか。


 答えは、すぐには出なかった。


 それでも、アヌッカはゆっくりと背筋を伸ばす。


 「出発は、いつですか」

 「今夜のうちに支度を。明朝には馬車を出します」

 「早いのですね」

 「あなたのためを思ってのことよ」


 最後まで、綺麗な言葉だった。


 セルギオはすでに興味を失ったように視線を外し、リディベルは勝ち誇った笑みを隠そうともしない。見習いたちは気まずそうに黙り込み、老神官だけが少しだけ眉を曇らせていた。


 アヌッカは誰にも何も言わず、中庭の隅へ歩いた。


 手の中のおみくじは、握りしめたせいで皺だらけになっている。


 『縁、結べば破れる』


 「……本当に率直ですね」


 小さく呟くと、風が一筋、枝のあいだを抜けた。


 破れたのは、縁だけではないのかもしれない。


 けれど破れた布は、縫い直せることもある。まったく別の形に仕立て直すことだってできる。


 その考えに自分で驚き、アヌッカはそっと息を吸った。


 まだ寒い。

 まだ苦しい。

 まだ悔しい。


 でも、泣くのは夜でいい。


 彼女は札を丁寧に畳み、袖の内へしまい込んだ。凶を捨てる気にはなれなかった。忘れないためだ。今日という日を。人前で切り捨てられたことも、綺麗な言葉で追い払われたことも。


 祈祷院の正面では、年始の鐘が鳴り始めていた。


 誰かの幸せを願う声があふれる日、アヌッカは自分の願いをまだうまく言えないまま、王都を離れることになった。


 明日、北へ向かう。


 霧の深い港町へ。

 月食を待つ、知らない土地へ。


 そこで何が待っているのか、彼女はまだ知らない。


 ただ、胸の奥に一本立った細い針だけが、静かに告げていた。


 このままでは終わらない、と。



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