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第五章:壊れた人形

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

地獄の訓練が始まってから、一ヶ月。

終わりの見えない苦痛は、少年の心を静かに、しかし確実に蝕んでいきました。

怒りも憎しみもすり減った先に、彼に残されたものは何か。

将軍ルキウスが望んだ「剣」とは、そして「壊れた人形」とは、どのような姿をしているのか。

シンタロウの変貌を描く第五章、お楽しみください。

 地獄は、終わらなかった。


 ルキウスの言葉通り、俺を襲う兵士の数は日に日に増していった。

 二十人になり、三十人になり、一週間が経つ頃には、五十人を超える兵士が交代で俺一人に襲いかかり続けるという、常軌を逸した「訓練」が日常と化していた。


 最初の数日、俺は怒りと憎しみを力に変えて戦った。

 ルキウスへの怒り。理不尽な運命への憎しみ。


 だが、そんな感情はすぐにすり減っていった。

 終わりなき暴力の嵐の中で、感情は生き残るための邪魔でしかなかった。


 一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。

 俺は次第に、何も考えなくなった。


 痛みを感じ、傷を負い、それでも立ち上がり、目の前の敵を殴り、蹴り、投げ飛ばす。

 思考を捨て、感情に蓋をし、ただただ反射と本能だけで動き続ける。


 俺の体は、おびただしい数の傷で覆われた。だが、それも日常になった。古い傷が癒えるそばから、新しい傷が刻まれていく。


 毎日、練兵場の隅で俺を見つめるルナの存在だけが、俺が俺であるための唯一の楔だった。


 そして、訓練開始から一ヶ月が経った。


 その日、俺を囲んでいたのは百人を超える兵士たちだった。

 もはや、彼らの顔に初期の頃のような侮りや好奇心はない。そこにあるのは、目の前の「怪物」に対する純粋な畏怖と、そしてわずかな憐憫だった。


 号令と共に、兵士たちが殺到する。


 だが、その日の俺は、今までとは違った。

 怒りも、憎しみも、恐怖もない。硝子玉のように無機質な瞳で、俺は迫りくる刃を見つめていた。


 右から迫る剣。俺はそれを殴り飛ばすのではなく、半身で受け流す。

 勢いを失った兵士の体に肩を入れ、盾のようにして左からの槍を防ぐ。

 そのまま兵士を投げ飛ばし、背後の別の兵士に激突させる。


 無駄な動きが、一切ない。

 かつてルキウスが見せた、最小限の動きで敵を制する体術。


 この一ヶ月、来る日も来る日も殺意を浴び続けた俺の体は、それを嫌でも学習していた。

 もはや俺は、感情に任せて暴れるだけの獣ではなかった。


 ただひたすらに、効率よく敵を無力化するためだけに動く、一体の「人形」。

 それが、ルキウスが望んだ俺の姿だった。


 夕暮れ時、いつものように訓練の終わりを告げる声が響くはずだった。

 だが、その声は響かない。代わりに、兵士たちの輪を割り、ルキウス本人がゆっくりと歩み出てきた。


「そこまでだ。全員下がれ」


 その声に、疲労困憊の兵士たちは安堵の息を漏らし、俺から距離を取った。


「一ヶ月だ。貴様がどれほど使える道具になったか、試させてもらう」


 ルキウスはそう言うと、静かに腰の剣を抜いた。

 俺は何も答えず、ただ無言で構える。


 先に動いたのはルキウスだった。彼の踏み込みは、他の兵士たちとは比べ物にならないほど鋭く、速い。

 だが、今の俺には、その切っ先がはっきりと見えていた。


 剣を紙一重で避け、懐に潜り込む。

 渾身の裏拳を、ルキウスの脇腹めがけて叩き込む。


 ルキウスはそれを剣の腹で受け止めるが、凄まじい衝撃に体勢を崩し、数歩後退した。


 一ヶ月前には、触れることすらできなかった相手。

 その顔に、初めて焦りのような色が浮かぶ。


 ルキウスは体勢を立て直すと、初めて本気の殺意をその目に宿した。

 だが、俺たちの間に割って入るように、伝令の兵士が息を切らして駆け込んできた。


「ご報告します、将軍! 東方より緊急の伝令です! ガルディアンの主力軍が、『鉄槌の砦』への攻撃を開始! すでに外壁の一部が破壊されたとのこと!」


 その報告を聞いたルキウスは、俺から視線を外し、剣を鞘に収めた。

 彼の目に、もはや俺との戦闘への興味はなかった。


「……上出来だ。貴様はもはや、ただの子供ではない」


 それは、賞賛ではなかった。完成した道具に対する、性能評価のような響きだった。


「ただちに全部隊に出撃準備をさせろ。――そして、この『壊れた人形』にもな」


 ルキウスが去り、練兵場には俺と、おずおずと駆け寄ってきたルナだけが残された。

 彼女は濡れた布で、俺の顔についた血と泥を優しく拭う。


「……ありがとう」


 一ヶ月ぶりに、俺が発した言葉だった。

 その声は自分でも驚くほど乾いていて、ひどく掠れていた。


 その瞬間、ルナの大きな瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。


 それは、悲しみの涙ではなかった。

 この一ヶ月、俺が失ってしまったと思っていた「何か」が、まだここに残っている。そのことに安堵した、温かい涙だった。


 俺は、その涙を拭うこともできず、ただ黙って受け止めることしかできなかった。


 明日、俺は初めて戦場へ行く。

 この少女を守るためだけに。


第五章 了


第五章『壊れた人形』、お読みいただきありがとうございました。

かつて蔑称であった「壊れた人形」という言葉が、皮肉にも彼の新たな姿を示すものとなりました。

感情を失った彼の瞳に、最後に宿った光。ルナの涙に、少しでも救いを感じていただけたなら幸いです。

さて、訓練の章は終わりです。

ですが、それは本当の地獄の始まりに過ぎません。

次回の舞台は、東方の部族連合ガルディアンとの最前線、『鉄槌の砦』。

初めての実戦。初めての戦場。初めて向けられる本物の殺意。

シンタロウが、その規格外の力を初めて「敵」に向けて振るいます。

物語は新たなステージへ移ります。シンタロウの初陣を見届けたい!と思っていただけましたら、ぜひブックマークやページ下の☆での評価をお願いいたします!

それでは、また次回の更新でお会いしましょう。

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