4話 英雄じゃない、それでも
悲鳴が世界を塗り替えた。
「逃げろぉぉぉっ!」
「な、なんだよこいつら!」
「こっちに来るなああああっ!!」
ついさっきまでスマホを片手に笑い合っていた人々が、今はただ生存本能のままに叫び、逃げ惑っている。
路地裏から現れた、魂を抜かれた人々の群れ。
彼らはゆっくりと、生きている人間が放つ生命の匂いに引き寄せられるかのように、じりじりと包囲網を狭めてきていた。
俺はその人の波に呑まれ、なすすべもなく立ち尽くしていた。
足が、アスファルトに根を張ったみたいに動かない。
腰が抜けるって、こういうことを言うのか。
(誰か……誰か、助けてくれ……!)
心の中で、情けなく叫ぶ。
(そうだ、ヒーローは!?テレビに映ってたじゃないか!氷上 玲や詩月 歌姫は、どこだよッ!?)
なんでこっちには来てくれないんだ。
新宿だけじゃなく、渋谷にも化け物が現れたって、なんで気づいてくれないんだよ!
だが、そんな都合の良い奇跡は起きない。
これが現実。
ヒーローはいつだって、少しだけ現れるのが遅いのだ。
「ぐあっ!」
逃げ惑う男に突き飛ばされ、俺は壁際に叩きつけられた。
背中を打った痛みで、少しだけ頭が冷静になる。
俺は壁を背に、目の前で繰り広げられる地獄絵図を見つめた。
脳裏に、何度も何度も繰り返しモノマネで叫んだ、憧れのヒーローのセリフが勝手に再生される。
――『ヒーローは、決して逃げない!』
――『目の前で助けを求める人がいる限り、俺は戦う!』
ああ、そうだ。
ブレイズ・シャウトなら、こんな時絶対に逃げたりしない。
たった一人でも、絶望的な状況でも、必ず敵に立ち向かっていく。
だけど。
(無理だ……)
俺はブレイズ・シャウトじゃない。
ただの響鳴というただの一般人だ。
モノマネしかできない、空っぽの人間だ。
戦う力なんて、何もない。
逃げろ。
頭の片隅で理性が叫ぶ。
あいつらの動きは鈍い。今ならまだ逃げられる。
俺一人がここに残ったって、何も変わりやしない。
そうだ、逃げるんだ。
俺が死んだって、誰も悲しまない。
俺は、そうやって今まで、ずっと逃げ続けてきたじゃないか。
そう決心して、人の波の切れ間を探した、その時だった。
俺の目は、見てしまったのだ。
「……え……」
人の流れから弾き出されたのだろう。
巨大なビジョンの柱の陰で、小さな女の子が、尻餅をついて座り込んでいた。
年は、五歳か六歳くらいか。両手で、薄汚れたクマのぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめている。
きっとパニックの中で、母親とはぐれてしまったのだ。
そして、その女の子に向かって。
三体、四体……魂のない抜け殻たちが、ゆっくりと近づいていっていた。
マズい。
このままじゃ、あの子が。
女の子の、恐怖に歪んだ顔。
その表情が、俺の脳の奥底に焼き付いて離れない、あの日の親友の顔とピタリと重なった。
――『鳴の声は、呪いだ』
まただ。
また俺は、目の前で誰かが傷つくのを、ただ見ているだけなのか……ッ!
脳内で冷たい声が囁く。
(逃げろ、響鳴)
(お前が行ったって、何もできやしない)
(それに、忘れたのか?お前の声は呪いだ。下手に手を出せば、今度はあの子を傷つけることになるかもしれないんだぞ)
そうだ。俺の声は……。
俺が何かしたって、ロクなことには……。
「……ママ……どこぉ……?」
女の子の、とてもか細いが。
絶叫と喧騒の渦の中で、不思議なくらいはっきりと、俺の耳に届いた。
その瞬間。
俺の中で、何かが、ブチリと音を立ててキレた。
「――うるさいッ!!!!」
心の声で、脳内に響く弱さを一喝する。
ヒーローじゃない?上等だッ!
空っぽ?だからなんだッ!
呪われた声?それがどうしたッ!!
理屈じゃねえんだよ!
屁理屈こねてる間に、女の子が襲われちまうだろうがッ!
俺が憧れたヒーローはな……!
勝ち目があろうがなかろうが、助けるって決めたら、絶対に前に出るんだよッ!!
「う、おおおおおおおおっ……!!」
意味の分からない雄叫びを上げながら、俺は震える足を、意志の力で無理やり動かした。
一歩、また一歩と、アスファルトを強く踏みしめる。
逃げるための足じゃない。
前に、進むための足だ。
人の波をかき分け、逆流する。
そして、女の子に手が届こうとしていた抜け殻たちの前に滑り込んだ。
ハァ、ハァ、と肩で息をする。
心臓が破裂しそうだ。
足がガクガクと震えているのが自分でも分かる。
目の前にいるのは、元は人間だったモノたち。その虚ろな目が、一斉に俺に向けられる。
怖い。
死ぬほど怖い。
今すぐにでも、泣き叫んで逃げ出したい。
だが、俺は振り返らなかった。
背後で、女の子が息を飲む気配がするからだ。
今、俺の背中がこの子の唯一の盾なんだ。
武器はない。
特別な力もない。
ただの、オーディションに落ちたばかりの、空っぽの高校生だ。
それでも。
俺は、一歩も引かなかった。
腹の底から声を絞り出そうとする。
「……や、めろ……!」
だが、恐怖とトラウマで喉がひきつり、出てきたのは、自分でも情けなくなるくらいか細い声だった。
抜け殻たちは、そんな俺の威嚇など意にも介さず、じり、と距離を詰めてくる。
ああ、クソ。
ここまでか。
だけど、それでもいい。
俺は今、確かに逃げなかった。
憧れたヒーローの背中に、ほんの少しだけ近づけた気がしたから。
俺は、迫りくる絶望をまっすぐに見据えた。