2話 呪われた声
オーディション会場を後にしてから、どれくらい経っただろうか。
俺は当てもなく、雑踏の中を彷徨っていた。耳に突っ込んだイヤホンからは、例によって『超絶音士シャウター』の主題歌が爆音で流れている。
『叫べ!魂の限り!その声は世界を救う希望だから!』
やかましい。
無意識に舌打ちが出た。希望だと?冗談じゃない。
声なんて、ただの凶器だ。使い方を間違えれば、簡単に人を傷つける。
『――響鳴さん。私たちは、あなたの声が聞きたいのですよ』
あの審査委員長の言葉が、ヒーローの歌声を突き破って、脳内で何度も反響する。
俺の声が聞きたい、か。
ああ、そうだろうな。あんたたちは、知らないからだ。
俺の、本当の声を。
あれが、どれだけ厄介で、人を傷つける、呪われたものなのかを。
「……冗談じゃない」
誰に言うでもなく、俺は呟いた。
「あんなもん、誰が聞きたいっていうんだ……」
その言葉が、引き金だった。
忘れたくても忘れられない、あの日の光景が、瞼の裏に鮮やかに蘇った――。
※
あれは、まだ俺が小学三年生だった頃のことだ。
今と違って、当時の俺は歌うことが大好きだった。
クラスで一番背が小さくて、運動も勉強もまるでダメ。そんな俺が唯一、みんなに褒めてもらえるのが、歌だった。
「なーるー!あれ歌ってくれよ、あれ!」
放課後の公園。砂場に座り込んでいた俺に、一番の親友だったタッちゃんが駆け寄ってきた。
その手には、最新のヒーローアニメ『ギャラクシー・ファイター』の主題歌CDが握られている。
「鳴の歌すげーんだよな!なんかこう、ズーン!って腹に響くんだよ!」
「そうそう!鳴が歌うと、普通の歌じゃなくなるっていうか!」
周りにいた他の友達も、キラキラした目で俺を見る。
それがたまらなく嬉しかった。誇らしかった。
俺は得意満面で胸を張って、タッちゃんからCDを受け取った。
「しょうがねえなあ。一回しか聴いたことないけど、まあ、やってやんよ!」
もちろん、嘘だ。本当は昨日発売されたこのCDを、朝からずっと聴き込んでいた。歌詞もメロディも完璧に覚えている。
でも、ここで見せるべきは、努力じゃない。才能だ。
みんなを「すげえ!」って言わせる、圧倒的な才能。
俺はジャングルジムの一番上に登って、そこを自分のステージにした。
眼下には、期待に満ちた顔で俺を見上げる、十数人の観客たち。
夕焼けが、スポットライトみたいに俺を照らしていた。
イントロを頭の中で再生する。
ただ、CDの真似をするだけじゃダメだ。
もっとカッコよく。もっと、力強く。
本物のヒーローが歌っているみたいに。
俺の魂を、この歌に乗せるんだ。
息を、大きく吸い込んだ。
「――銀河を駆ける、正義の雄叫びッ!」
俺の地声が、公園に響き渡る。
みんなが「おおーっ!」と歓声を上げた。
いいぞ。乗ってきた。
Aメロ、Bメロと、俺は感情のギアをどんどん上げていく。
ただ音程をなぞるだけじゃない。歌詞の一言一句に、想いを込める。
みんなを守るヒーローの、強い心を、この声で表現するんだ。
そして、曲はクライマックスのサビに差し掛かった。
俺はここで全てを出し切るつもりだった。
体中のエネルギーを喉の一点に集める。
もっとだ、もっと強く。この想い、みんなに届け――!
「届け、俺の歌ァァァァァァァァッ!!!!」
シャウトした瞬間だった。
世界が歪んだのだ。
俺の口から放たれた声は、もはやただの歌ではなかった。
それは、目に見えない質量の塊――音圧の暴力となって、眼下の友達に襲いかかったのだ。
空気がぶるりと震えた。
地面の砂が、まるで水面に石を投げ込んだかのように、波紋を描いて広がった。
俺が立っていたジャングルジムが、キィィィィン!と悲鳴のような金属音を立てて、激しく揺れる。
そして。
「う、うわあああああああっ!!」
一番前で聴いていたタッちゃんが、両手で強く耳を塞ぎ、その場にうずくまった。
「耳が……!耳が、痛いよぉぉぉぉっ!!」
タッちゃんの絶叫を皮切りに、他の子たちも次々と泣き叫び始める。
衝撃波に煽られて尻餅をつく子。何が起きたか分からずに、ただただ泣きじゃくる子。
地獄のような光景だった。
「……え?」
俺は、何が起きたのか理解できなかった。
なんで、みんな泣いてるんだ?
俺は、ただ、みんなを喜ばせたくて歌っただけなのに。
「た、タッちゃん……?」
ジャングルジムから飛び降りて、親友に駆け寄ろうとした俺の足は、途中で縫い止められた。
泣き声を聞きつけて駆けつけてきた、先生や、近所の大人たちの視線によって。
誰も、俺に駆け寄ってはこなかった。
誰も、「どうしたの?」と声をかけてはくれなかった。
彼らはただ、泣き叫ぶ子供たちを庇うように立ち、俺を遠巻きに見つめていた。
その目に宿っていたのは、心配の色じゃない。
もっと冷たくて、ドロリとしている……そう、「恐怖」と「拒絶」の色だった。
「あなたっ!うちの子に何したのよ!!」
金切り声とともに、タッちゃんのお母さんが俺の前に立ちはだかった。
彼女は血走った目で俺を睨みつけ、こう叫んだのだ。
「この、化け物ッ!!」
化け物。
その一言が、俺の世界を終わらせた。
「あなたの声は呪いだわ!うちの子に近づかないで!!」
大好きだった友達。信頼していた大人たち。
その全員が、俺を異物を見る目で見ていた。
俺は、自分の喉を強く押さえる。
みんなを笑顔にしたかった。褒めてもらいたかった。
そのための、俺だけの武器だったはずのこの声が、今はみんなを傷つける「呪い」でしかないのだと、この瞬間に悟ってしまった。
※
……ハッと我に返ると、俺は渋谷の雑踏のど真ん中で立ち尽くしていた。
行き交う人々が、邪魔そうに俺を避けて通っていく。
俺は無意識のうちに、あの時と同じように、自分の喉元に触れていた。
「……あの日からだ」
掠れた声で呟く。
「俺は、俺の声を殺した」
自分の地声を出すのが怖い。
だから、安全な「モノマネ」という名の殻に閉じこもった。
誰もが知っている、偉大な英雄の声ならば、誰も文句は言わない。誰も傷つかない。
そうやって、ずっと自分を偽り続けてきた。
「俺自身の声なんて、もう誰にも聞かせない」
固く唇を噛む。
「二度と、あんな思いはしたくないからだ」
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
目の前にある、渋谷で一番大きな街頭ビジョン。
最新の化粧品のCMを流していたその画面が、ブツン、と不気味な音を立てて、一瞬だけ砂嵐に変わった。
「……なんだ、今の……?」
俺が訝しげに呟いたのと、周囲の人間が「え?」「停電?」とざわめき始めたのは、ほぼ同時だった。