プロローグ
そこは、音のない部屋だった。
壁という壁は、音を吸収し、反射し、減衰させ、殺すための素材で覆われている。外の世界でどれほどの喧騒が渦巻いていようと、この部屋の中だけは墓標の中のような静寂が保たれていた。
そんな闇の中に、無数の光が点滅している。
壁一面を埋め尽くす、夥しい数のモニター。
それらが、この部屋の唯一の光源だった。
モニターの中では、声が、音が、絶えず生まれては消えていく。
中東の紛争地帯で、瓦礫に埋もれた母親の名を泣き叫ぶ少女の声。
渋谷のスクランブル交差点で、他愛ないおしゃべりに興じ、甲高い笑い声をあげる女子高生たちの声。
東京ドームのライブ会場で、アイドルの名に熱狂し、コールを張り上げるファンたちの声。
喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。
ありとあらゆる感情のスペクトルが、そこでは飽和し、混ざり合い、一つの巨大な奔流となって渦を巻いていた。
世界の脈動。人類の活力。
ある者はそれを、そう呼ぶのかもしれない。
だが、部屋の中央に座る男にとって、それらはすべて、等しく一つの意味しか持たなかった。
「……雑音だ」
静かに、男は呟いた。
巨大なミキサー卓の前に鎮座する、白皙の青年。歳の頃は二十代にも四十代にも見える、不思議な容貌をしていた。神々しいほどに整った顔立ち。だが、その瞳には一切の感情の色が浮かんでいない。まるで磨き上げられたガラス玉のようだった。
男――静寂院 無音は、白い手袋に包まれた指先をそっとコンソールに滑らせる。
「美しいと思いませんか。この世界は本来、完璧な調和のもとにあったはずなのです」
独り言。
あるいは、モニターの向こう側にいる、まだ見ぬ誰かへの語りかけ。
「しかし、人は感情という名の不協和音を奏で始めた。愛を叫び、憎しみを叫び、欲望を叫ぶ。その魂の起伏こそが、世界を歪ませるノイズの発生源なのです」
彼の声は一つの芸術品だった。
どんなアナウンサーよりも明瞭で、どんな歌手よりも心地よい。だが、その声には決定的に何かが欠けていた。
温度が、魂の揺らぎが、一切感じられないのだ。
まるで、最新のAIが合成した完璧な音声のようだった。
無音は目の前にある一本のマイクにそっと唇を寄せる。
それは、彼の言葉を世界に届けるための道具。
「だから、私が救済を与えましょう」
囁き。
しかし、その声は世界を震わせる。
「争いも、諍いも、すべては過剰な感情が引き起こす病。ならば、その発生源を止めればいい。魂の絶叫を、黙らせればいいのです」
彼がマイクにそう語りかけると、モニターの中の世界に奇妙な変化が起きた。
泣き叫んでいた少女が、ふっと涙を止め、能面のような無表情になる。
笑い合っていた女子高生たちが、言葉を失い、人形のように立ち尽くす。
熱狂していたファンたちが、掲げた拳を下ろし、ただ静かにステージを見つめ始める。
声が消える。感情が消える。活力が消える。
世界から、色が失われていく。
「さあ、静かにおなりなさい。私が与えるのは、完全なる調和……『黙殺』という名の、救済です」
無音は、その光景に満足げに頷いた。
だが、そのガラス玉のような瞳が、初めてほんのわずかに、揺らぐ。
無数のモニターの中で、一つだけ。
砂嵐のノイズが走る、古い映像を映し続けているモニターがあった。
その砂嵐の向こうに、一瞬だけある男の姿が映り込む。
太陽のような笑顔で、天に向かって拳を突き上げ、何かを雄々しく叫んでいる男の姿が。
無音の唇が、ほとんど聞き取れないほど微かに、その男の名を紡いだ。
「ザ・グレート・シャウト……」
それは、憎しみとも、哀れみとも、あるいは郷愁ともつかない、複雑な響きを帯びていた。
「友よ」
彼は初めて人間らしい感情の色を声に乗せて、マイクに語りかける。
「あなたが世界に残した最大の“呪い”――魂の絶叫という名の病も、私が必ず、浄化してみせよう」
やがて、世界は美しい静寂に満たされる。
その日のために、彼の奏でる静寂の序曲は、今、静かに始まった。
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