表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

硝子

作者: 有栖川 幽蘭

肺腑の奥底から込み上げてくる咳の衝動を、私は奥歯を噛み締めて堪える。ひゅう、と鳴る喉は乾ききった笛のようだ。師走の街路を吹き抜ける風は、氷の刃となって容赦なく頬を削ぐ。外套の襟を立て、私は宛もなく彷徨っていた。えたいの知れない憂鬱の塊が、まるで濡れた外套のように身体に纏わりつき、私を一歩ごとに地面へ引きずり込もうとする。


行き交う人々の顔はのっぺりとした仮面のようで、その誰もが私という存在には気づかぬまま、忙しない流れの中へと消えてゆく。都市の喧騒は、不思議と私の耳には届かない。それはあたかも、分厚い硝子一枚を隔てた向こう側の出来事のようであった。 私の世界では、ただ鈍い心臓の鼓動と、時折込み上げる咳の予感だけが、生々しい音として響いている。


どれほど歩いただろうか。煤けた煉瓦造りの建物が並ぶ裏通り、その一角にひっそりと佇む西洋骨董の店が、ふと私の足を止めさせた。埃を被ったショーウィンドウの奥、雑多な品々の中に、私の視線を釘付けにするものがあった。それは、何の変哲もない、手のひらに収まるほどの硝子の塊であった。球体でもなく、立方体でもない。自然が気紛れに削り出したような、いびつで、それでいて奇妙な均衡を保った形。


私は吸い寄せられるように、その硝子の前に佇んだ。内部には、気泡とも塵ともつかぬ微細な粒が無数に浮かび、あたかも凍てついた銀河をそのまま閉じ込めてしまったかのようであった。それは美しい。しかし、その美しさは、生命の温もりを一切感じさせない、絶対的な零度の美しさだった。私の病んだ肺が、もし形を持つならば、きっとこのような姿をしているに違いない。無数の病巣が、静かに、しかし確実に組織を蝕んでゆく様が、この硝子の中の星屑と重なって見えた。


硝子に映る自分の顔は、血の気の失せた、まるで亡霊のような青白さだ。私はその硝子に、ゆっくりと指先を伸ばした。つん、と触れた瞬間の、鋭いほどの冷たさ。 それは私の身体を駆け巡る熱っぽさとは正反対の、清々しいとさえ言える心地よさだった。この冷たさだけが、今の私にとって唯一の真実であるかのように思われた。私はこの硝子を、この「見すぼらしくて美しいもの」を手に入れずにはいられないという、抗いがたい衝動に駆られた。


錆びたドアベルを鳴らし、薄暗い店内へ足を踏み入れる。主人は奥の椅子で微睡んでいたが、私の気配に気づくと、無言で顔を上げた。私は言葉を発することも億劫で、ただウィンドウの硝子を指差した。主人は心得たように頷くと、その硝子の塊を布で丁寧に包み、私に手渡した。支払いを済ませ、再び街の寒気の中へ戻る。


懐に入れた硝子は、まるで氷の心臓のように、私の胸を冷やし続けた。その確かな重みと冷たさが、奇妙なことに、私の不安をいくらか和らげてくれる。 私は、それを時折取り出しては、手の中で転がした。街灯の光が硝子を透過し、屈折し、私の掌の上にささやかな虹色の幻影を落とす。それは音楽だ。音のない、光だけの快速調(アッレグロ)。 私はその束の間の美に、ほとんど恍惚となっていた。


やがて私は、街外れの古い橋の上にいた。眼下には、澱んだ水が音もなく流れている。私は欄干に寄りかかり、懐から再び硝子を取り出した。冬の冴え冴えとした月光が、その無機質な塊に吸い込まれ、内部の銀河を青白く照らし出す。


その時、私の内に、一つの黒い衝動が鎌首をもたげた。この硝子を、今、この橋の上から投げ落としたらどうなるだろう。この完璧な冷たさと静寂を、眼下の汚れた水底へ叩きつけたら。それは粉々に砕け散り、私の掌に感じられた重みも、光の幻影も、永遠に失われるだろう。その想像は、あたかも甘美な毒のように私の心を痺れさせた。この白銀色に輝く恐ろしい爆弾で、私を苛むこの灰色の憂鬱ごと、木っ端微塵に爆破してしまいたい。 私のこの脆い生命もまた、この硝子と共に砕け散って、静寂に帰すのではないか。


私は腕を振り上げた。指先から、氷の心臓が解き放たれようとした、その刹那。


私は、動けなかった。


破壊への欲望と、この束の間の美を失いたくないという執着が、私の中で拮抗する。砕け散る硝子の残響を想像する一方で、私の指は、その滑らかで硬質な感触を、手放すことを拒んでいた。


結局、私は振り上げた腕を、ゆっくりと下ろした。そして、その硝子を、もう一度強く握りしめた。その冷たさが、硬さが、かえって私がまだここに「在る」という事実を、痛いほどに突きつけてくる。それは救いなどではないかもしれない。しかし、絶望の淵で掴んだ、確かな手触りであった。


私は橋を渡りきり、自分の下宿へと続く暗い坂道を登り始めた。懐の硝子は、相変わらず冷たい。だが今は、それが私の内に巣食うそれを、静かに吸い取ってくれているようにさえ感じられた。


部屋に戻り、私はその硝子を、月光が差し込む窓辺に置いた。硝子は光を吸い、そして吐き出して、向かいの壁に、ゆらゆらと揺れる淡い光の紋様を映し出した。それはまるで、深い水の底から見上げる水面の煌めきのようであった。


私は布団に横たわり、咳を堪えることも忘れ、ただ黙って、その幻影にも似た光の明滅を見つめ続けていた。私の孤独な魂が、あの硝子玉に乗り移り、壁の上で静かに明滅しているかのようだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ