【短編】恋未満
あの頃、俺の日常は決まったリズムで動いていた。
朝、同じ時間の電車に乗り、同じ駅で降りる。
そして、その終着点に、彼女がいた。
いつも駅のベンチに座って、本を読んでいる女子高生。
周りの連中がみんな、手のひらサイズの液晶に顔を埋めている中で、彼女だけは紙の本を読んでいた。
それが、俺のすべてになった。
一種の奇妙さ、あるいは、失われた何かを見つけた感覚があった。
彼女が読んでいたのは、いつも何かの文学作品だった。
装丁は地味で、派手な帯もついていない。
俺は、彼女がどんな種類の本読んでいるのか知りたくなった。
それから、俺も本を読むようになった。
最初は手当たり次第、活字の羅列を目で追った。
しかし、ある日、彼女が読んでいたのと同じ出版社、同じような装丁の本を手に取ったとき、俺の中の歯車がカチリと音を立てて噛み合った。
言葉が、行間が、俺の意識を照らし始めた。
それは、彼女との間に、目に見えない、細い糸が結ばれた感覚だった。
ある日、彼女の隣のベンチが空いていた。
俺は吸い寄せられるように、そこに腰を下ろした。
ちょうど、彼女が手にしていたのと同じ作家の、別の作品を俺も読んでいた。
ふと、彼女の視線が俺の手に落ちるのを感じた。
ゆっくりと顔を上げると、彼女と目が合った。お互いの手にある本を見て、彼女の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
そして、小さく、しかし確かに、会釈を交わした。
その瞬間、俺の胸の中で、凍っていた何かが溶け出すような感覚が広がった。
少し、照れくさかった。
その日は、土砂降りの雨が降っていた。駅の改札を出ると、多くの人が雨宿りをしている。
その雑踏の中に、傘を持たずに立ち尽くす彼女の姿があった。俺は考えるよりも早く、自分の傘を差し出していた。
「これ、使ってください。ここから、もうすぐなんで。」
俺の声は、雨音に吸い込まれていった。
彼女は少しだけ驚いたように、俺を見上げた。
その濡れた髪が、額に張り付いている。
小さな「ありがとうございます」という声が、か細く響いた。
その瞬間、俺の胸に、説明のつかない、しかし確かな充足感が広がった。
翌日、嘘みたいに晴れた空の下、彼女は折り畳み傘を返してくれた。
それから、俺たちの間に、ごく短い、けれど柔らかな会話が生まれた。
天気のこと、授業のこと。音楽のこと。
でも、俺は決して、恋愛めいたことを尋ねる勇気は持てなかった。
彼女に彼氏がいるのか、どんなタイプの男が好きなのか。
そんな疑問は、喉の奥に引っかかったまま、決して言葉にならなかった。
それは、このひそやかな関係を壊したくないという、臆病な願いでもあった。
そうして、季節が、俺の知らないうちに、ひっそりと移ろっていくのを感じていた頃、彼女はぱったりと、駅に現れなくなった。
ある日突然、存在の痕跡を消したかのように。
駅のホームは、以前と何も変わらない喧騒に満ちていたけれど、俺にとっては、色を失ったモノクロ世界となった。
転校したのか、それとも、どこか遠くへ消えてしまったのか。
理由も分からず、俺の胸には、言いようのない後悔だけが募っていった。
あの時、もう一歩踏み出していれば。もう少し、何か、できたはずかもしれない。
そんな苦い後悔ばかり、俺の胸に染み渡っていった。
*
一年後、真夏の午後の、焼けるようなアスファルトの上を歩いていたとき、ふと、目に飛び込んできた。
街角のカフェの窓際。
彼女が、そこにいた。
あの頃と何も変わらない、背筋を伸ばして、静かに本を読んでいる横顔。
時間だけが、俺の周りをゆっくりと流れていた。
声をかけることは——できなかった。
喉の奥がカラカラに乾いて、言葉が出なかった。
ただ、遠くから、その姿を眺めるだけが精一杯だった。
彼女はきっと、俺のことなど、もう覚えていないだろう。
俺だけが、あの日の残像に、そして、あの夏の微かな紙の匂いに未だに囚われている。