表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【短編】恋未満

あの頃、俺の日常は決まったリズムで動いていた。

朝、同じ時間の電車に乗り、同じ駅で降りる。

そして、その終着点に、彼女がいた。

いつも駅のベンチに座って、本を読んでいる女子高生。

周りの連中がみんな、手のひらサイズの液晶に顔を埋めている中で、彼女だけは紙の本を読んでいた。

それが、俺のすべてになった。

一種の奇妙さ、あるいは、失われた何かを見つけた感覚があった。


彼女が読んでいたのは、いつも何かの文学作品だった。

装丁は地味で、派手な帯もついていない。

俺は、彼女がどんな種類の本読んでいるのか知りたくなった。


それから、俺も本を読むようになった。

最初は手当たり次第、活字の羅列を目で追った。

しかし、ある日、彼女が読んでいたのと同じ出版社、同じような装丁の本を手に取ったとき、俺の中の歯車がカチリと音を立てて噛み合った。

言葉が、行間が、俺の意識を照らし始めた。

それは、彼女との間に、目に見えない、細い糸が結ばれた感覚だった。


ある日、彼女の隣のベンチが空いていた。

俺は吸い寄せられるように、そこに腰を下ろした。

ちょうど、彼女が手にしていたのと同じ作家の、別の作品を俺も読んでいた。

ふと、彼女の視線が俺の手に落ちるのを感じた。

ゆっくりと顔を上げると、彼女と目が合った。お互いの手にある本を見て、彼女の口元に、微かな笑みが浮かんだ。

そして、小さく、しかし確かに、会釈を交わした。

その瞬間、俺の胸の中で、凍っていた何かが溶け出すような感覚が広がった。

少し、照れくさかった。


その日は、土砂降りの雨が降っていた。駅の改札を出ると、多くの人が雨宿りをしている。

その雑踏の中に、傘を持たずに立ち尽くす彼女の姿があった。俺は考えるよりも早く、自分の傘を差し出していた。


「これ、使ってください。ここから、もうすぐなんで。」


俺の声は、雨音に吸い込まれていった。

彼女は少しだけ驚いたように、俺を見上げた。

その濡れた髪が、額に張り付いている。

小さな「ありがとうございます」という声が、か細く響いた。

その瞬間、俺の胸に、説明のつかない、しかし確かな充足感が広がった。


翌日、嘘みたいに晴れた空の下、彼女は折り畳み傘を返してくれた。

それから、俺たちの間に、ごく短い、けれど柔らかな会話が生まれた。

天気のこと、授業のこと。音楽のこと。

でも、俺は決して、恋愛めいたことを尋ねる勇気は持てなかった。


彼女に彼氏がいるのか、どんなタイプの男が好きなのか。

そんな疑問は、喉の奥に引っかかったまま、決して言葉にならなかった。

それは、このひそやかな関係を壊したくないという、臆病な願いでもあった。


そうして、季節が、俺の知らないうちに、ひっそりと移ろっていくのを感じていた頃、彼女はぱったりと、駅に現れなくなった。

ある日突然、存在の痕跡を消したかのように。

駅のホームは、以前と何も変わらない喧騒に満ちていたけれど、俺にとっては、色を失ったモノクロ世界となった。


転校したのか、それとも、どこか遠くへ消えてしまったのか。

理由も分からず、俺の胸には、言いようのない後悔だけが募っていった。

あの時、もう一歩踏み出していれば。もう少し、何か、できたはずかもしれない。

そんな苦い後悔ばかり、俺の胸に染み渡っていった。



一年後、真夏の午後の、焼けるようなアスファルトの上を歩いていたとき、ふと、目に飛び込んできた。

街角のカフェの窓際。

彼女が、そこにいた。

あの頃と何も変わらない、背筋を伸ばして、静かに本を読んでいる横顔。


時間だけが、俺の周りをゆっくりと流れていた。

声をかけることは——できなかった。

喉の奥がカラカラに乾いて、言葉が出なかった。


ただ、遠くから、その姿を眺めるだけが精一杯だった。

彼女はきっと、俺のことなど、もう覚えていないだろう。

俺だけが、あの日の残像に、そして、あの夏の微かな紙の匂いに未だに囚われている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ