取ったら取り返すだけです
その日、“アリア・ルクレール”は王太子の隣にいた。
金糸のドレスに身を包み、貴族たちの注目を一身に集めながら、落ち着いた声で挨拶を述べる。
「皆さま、本日はお越しいただきありがとうございますわ。殿下と共に、この日を迎えられましたこと、心より感謝申し上げます」
その声音も、間の取り方も、いつものアリアと瓜二つだった。
けれど――それは“アリアを演じる”妹、リリィ・ルクレールだった。
隣に立つ王太子ユリウスは、にこやかに手を取る。
目が見えない彼にとって、触れた手が“アリア”であることの唯一の証だった。
「君の声を聞いていると、不思議と心が落ち着くよ。ありがとう、アリア」
「……光栄ですわ、殿下」
リリィは柔らかく微笑んだ。
その顔は涼しげで、仕草も淀みない。
――この瞬間だけは、確かに“姉”になれている。
王太子の目には見えないのだ。
ならば、声も手も、心までも“演じて”しまえばいい。
今日、この祝賀会で“アリア・ルクレール”として殿下の隣に立ったという事実さえ作れれば、あとは何を言われようと覆らない。
(あの人が来ることはない。……来られるはずがないもの)
リリィは心の中でほくそ笑んだ。
姉が外出した隙を突き、手配した者に“数時間の足止め”を命じた。
拘束でも監禁でもない。事故のように見せかければ、咎められることもない。
姉が戻ったときには、すでに全てが終わっている。
“先に隣に立った者が勝つ”――それが、彼女の信条だった。
だが、その時。
王宮の扉が静かに開いた。
硬い床をヒールが打つ音が、祝賀のざわめきを一瞬にして切り裂く。
「……ごきげんよう。祝賀の最中、失礼いたします」
その声に、空気が凍った。
柔らかく、それでいて芯のある声。
そして何より、確かに“彼女”のものだった。
会場の全員が、扉の方を振り返る。
そこに立っていたのは――ドレスの裾を泥に汚し、肩にはほつれた跡が残る、だが確かに“アリア・ルクレール”だった。
「……アリア?」
王太子の声がかすれた。
リリィの喉がひくりと震える。
「う、嘘……どうして……!」
アリアは真っすぐ歩を進め、会場中央へと立った。
その表情には怒りも焦りもない。ただ、冷たく張りつめた静けさがあった。
「ルクレール侯爵家、長女――本物のアリア・ルクレールでございます。
お集まりの皆さま、遅れてのご挨拶をどうかお許しくださいませ」
アリアの登場に、広間は静まり返っていた。
目が見えないはずのユリウスが、音のする方に歩を進めた。
「……君は、本当に……アリアなのか?」
ユリウスが驚愕するのも無理はなかった。
何故なら今、アリアを名乗る者がふたり、この場に立っていたからだ。
一人は、今まさに声をかけた、ドレスの裾を泥に汚しながらも毅然と立つ令嬢。
もう一人は、隣に寄り添い、彼の手を握っていた“アリア”――リリィ・ルクレール。
ふたりの姿は、どちらも“アリア・ルクレール”に見える。
顔立ち、声、仕草、どこを切り取っても酷似していた。
ざわめく貴族たちの間で、ユリウスは一歩、声の方へ進んだ。
そして、そっと手を伸ばす。
アリアは迷わずその手を取り、もう一度話す。
「殿下。わたくしが、アリア・ルクレールでございます」
ユリウスの指先が、彼女の手のひらをゆっくりなぞる。
その感触に、彼の眉がわずかに動いた。
――温度、指の長さ、握り返す力。
毎日のように交わしてきた、小さな接触の記憶が、確かな答えを導き出す。
「……君だ。こっちが、本物だ……!」
ユリウスが漏らすように言うと、隣にいた“もう一人のアリア”――リリィが、青ざめた。
「ま、待ってください殿下! あの人は偽者よ! わたくしこそ、あなたと共にいた……!」
「……なら、訊くわ」
アリアが、振り返ることなく言った。
その声音は、冷たく、そして確信に満ちていた。
「“わたくし”が初めて殿下に贈った香り袋。中に入っていた香草の名を、言ってみなさい」
リリィの肩がぴくりと震えた。
「そ、それは……あの、その……」
声が揺れる。
言葉が出ない。
アリアは振り返り、真正面から妹を見つめた。
「答えられないのなら、あなたは私ではない。
ましてや、王太子殿下の婚約者を騙り、この場に立とうとした“成りすまし”です」
アリアの宣言に、会場の空気がぴたりと止まった。
「ま、待ってよ……っ、私は……! ただ、ただあなたの代わりに……!」
リリィの声は震えていた。
勝ち誇っていた顔はすっかり青ざめ、瞳には涙がにじんでいる。
「ずるいのは姉さんの方よ……! なんでもできて、誰にでも好かれて……。
私はただ、少しだけあなたの立場を――ほんの少しだけ、手に入れたかっただけ……!」
「立場とは、奪うものではなく、積み重ねて築くものです」
アリアの声は、もはや怒りですらなかった。
静かで、冷たい。凍てつくような気品が、そこにはあった。
「殿下との絆は、日々の積み重ねです。真似ではなく、誠意でしか築けないものですわ」
リリィの肩が崩れ落ちた。
言葉を失い、ひとり呆然とその場に立ち尽くす。
そのとき――
「リリィ・ルクレール」
場の空気を一段と重くする声が、会場の奥から響いた。
王家の法務顧問が、威厳に満ちた足取りで前に出る。
「王太子殿下を騙し、婚約者を名乗り、公式な場で成りすましを行ったこと。
さらに、実姉を意図的に足止めし、名誉を毀損したこと。これらは重大な侮辱行為と見なされます」
「そ、そんな……私は……私はただ……!」
「ルクレール家次女、リリィ・ルクレール。あなたには貴族籍剥奪と、領地外追放の処分が下されます。
抗弁があれば後日に受け付けますが、この場では無効とします」
「――っ!」
リリィはその場に膝をついた。
誰の手も伸びない。誰も同情しない。
勝ち誇っていた少女は、ついに“自分の足で立つ”ことすらできなくなっていた。
静寂のなか、ユリウスが震える声で口を開いた。
「……アリア。どうして……どうして、僕は……君を信じきれなかったんだ……僕は一体何を……!婚約者を間違えるなんて愚かな事を……!」
静寂の中、ユリウスは一歩だけアリアに近づき――その場に膝をついた。
拳を強く握りしめたまま、震える声がこぼれる。
「……アリア。どうして……どうして、僕は……君を信じきれなかったんだ……」
掠れた声には、苦悩がにじんでいた。
「僕は一体……何をしていたんだ……!
婚約者を間違えるなんて、こんな……愚かなことを……!」
その頬を、一筋の涙が静かに伝う。
彼は自らの過ちを、声にすることで赦しを乞おうとしたわけではなかった。
ただ、悔いても悔いても戻らないものの重さに押しつぶされそうになっていた。
アリアは黙って彼を見ていた。
けれどその目に、責める色はなかった
「私を、リリィと比べないでほしかったんです。どれだけ似ていたって――私の気持ちは、私だけのものなんですから」
「アリア……君が隣にいてくれるなら、僕は……また選び直したい。どうか許してほしい」
アリアは小さく微笑む。
それは、ほんの少しだけ揺れて、それでも真っ直ぐな笑みだった。
「それなら……次は、迷わず“私”の手を取ってくださいね」
そう言って差し出された手に、ユリウスはそっと自分の手を重ねた。
そこにあったのは、もう見間違えることのない、彼だけのアリアのぬくもりだった。
そして、アリアはもう一度だけ、会場を振り返る。
「取られたら取り返すだけです。それが、私のやり方ですのよ――殿下」