【第5夜】
「こんばんわ」
次の夜も、やはり魔法使いは現れた。
「やっぱり、来るんですね」
「うん。入らないから、安心して」
魔法使いは不安定な窓枠にひょいと腰掛け、窓の外に足を投げ出して笑った。
その気ままな様子に羨ましくなりながら、シャーサは昼間に考えていたことを口に出す。
「…実は、私は婚約したんです。だからあなたに、再度お別れをと思いまして。昨日言えなくて、ごめんなさい」
魔法使いはシャーサを見つめてから、眉を下げて寂しそうに微笑む。
「……そうかい」
「は、い」
だって、今更婚約を断れるはずがないのだ、とシャーサは魔法使いから目を逸らす。
「ごめんなさい、」
「謝ることないさ」
優しくかけられる言葉に、ごめんなさい、とシャーサはなおも謝る。
その様子に、魔法使いはふむ、と顎に手をやる。
「…ボクは、自由を以って、こうして君と話している」
魔法使いは考えるように、目を伏せた。
「君が誰か別の人の元へ行っても、ボクはこの自由を持って、君に会いたいと願い続けてしまうかもしれない」
シャーサの言葉が本心からではないと気が付いているかのような言葉に、シャーサはぎくりと肩を揺らす。
「それは、そんなことは、私が、耐えられません」
「どうして?」
「幸せになってほしいんです。私の事なんて、考えずに、」
「何であれ、君のことを考える事が、いちばんの幸せなんだ」
シャーサは唇を噛みしめる。
この人と一緒にいたい、と思ってしまう。
こんな言葉をかけられて嬉しくないはずがないのだ。
けれど、シャーサは母を裏切りたくない。
どういう選択をしようと、誰かの気分を害する結果になってしまう事実に、胸がきしむ。
「駄目、駄目なんです…。わたし、は」
どうして自分なんだろう、と思ってしまう。
婚約、告白…本来喜ぶべきはずのことが、自分のせいでこんなふうにねじ曲がってしまう。
シャーサはぎゅっと目をつぶり、心から絞り出された言葉を吐き出した。
「わ、わたし、は…きえて、しまいたい」
魔法使いはその言葉に瞬きをする。
「わたしが、いるのが、間違いだったんです」
「………、」
「私でなければ…私がいなければ、きっと、全部、上手くいってた。みんな、幸せだったんです」
言葉と共に流れ出る涙が、一層自分の弱さを自覚させて、シャーサは顔を擦る。
「シャーサ」
黙って聞いていた魔法使いから発される言葉に、シャーサは顔を上げる。
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
目の前の魔法使いは、いつになく真剣な顔をしていた。
「シャーサ、存在が間違いなんて、そんな事は言ってはいけない」
言い含めるようにゆっくりと魔法使いは言葉を紡ぐ。
「確かに生きたのは、君自身なのだから、それだけは、間違えてはいけない」
なんとなく叱られているようなばつの悪さに、シャーサは魔法使いを睨んだ。
「間違えてなんて、ない」
拗ねるように低く、早口でシャーサは言い返す。
「あなたは、価値のある、人間だから。…私と、違うから、そんな簡単に、」
ああ、こんなことが言いたいんじゃないのだ。
彼が自分を思ってかけてくれた言葉に対し、酷いことを言っている自覚があった。
それでも、今のシャーサは、他人と自分への呪詛を吐く口が止まらなかった。
自分の絶望を、否定して欲しくない。
けれど、誰かに違うと慰められたい。
そんなシャーサに、魔法使いは怒りも呆れもしなかった。
「秤を、」
シャーサを落ち着かせるように、魔法使いは目を合わせる。
「そんなに簡単に、誰かに、明け渡さないでくれ」
シャーサは魔法使いの言葉の意図がくみ取れず、押し黙る。
「ひとは、注がれるまま、枯れるままで、過ごしてゆかれないんだ」
「ど…いう、意味、ですか」
昂っていた感情を萎ませながら、シャーサは鼻をすする。
「君を、愛するものや、君が、なにに愛されるかは…。だれに、愛されたのか、だって。…君が、決めるんだ」
魔法使いは慈愛の満ちた笑みを、シャーサに向ける。
「よく、分からない、です」
自分で決めることをほとんどしてこなかったシャーサには、あまりピンとこなかった。
「…何を、見つめて、何と、生きたいのか。誰に何を言われようと、何を示されようと。最後には、君が選ぶ。そういう事を言ったんだ」
母に望まれて伸ばした髪。母の生活のためにする家事。母の決めた結婚相手。
委ねることしかしてこなかったシャーサは、母が示す選択肢無しで生きられる想像ができなかった。
「そんなこと、出来ない、出来なかった。…選んでも、きっと意味が無い」
けれど、目の前の魔法使いは、ころころと笑って首を傾げる。
「さあ、それは、どうだろう」
「わ、私には、何も無いから、そんな権利はないです」
「…もし、本当に何も無くたって、選ぶ事は出来るさ」
魔法使いの言葉は夜風のように、シャーサの脳内を優しく冷やした。
「選んでいいのさ」