【第2夜】
それは、舞踏会から数か月前の出来事だった。
魔法使いは、長命だった。
世界の端から端まで旅をしてきたし、この世の決まり事を半分くらいは知っていた。
あまりに長生きだったため、池で眠っていたら勝手に神様として祀り上げられたり、食べたら不老不死になると思われて追われてしまったり、それはそれは、いろんな経験をした。
そしてその日は運悪く、ちょっぴり過激なものたちとドンパチやりあうことになってしまった日だった。とにかく遠くへ逃げようと、ありったけの力で跳ぶ。
しかし着地点を誤って、そのまま池に落ちた魔法使いは、血も汗も全部を水に溶かし、ついでになけなしの魔力もとけてしまって、姿が変わる。
しっかりと肺に水が入るが、この程度では死ねないので、あわてず丁寧に水を掻き、陸に体を引き上げた。
水を吐き出し、長い毛が張り付く感触にぶるぶると体を震わせる。
災難だなんていちいち思わない。無事に逃げられただけで、幸運だ。
そして、運命の出会いなんて飽きるほど体験してきたはずの魔法使いは、その日、運命の出会いをした。
「…猫?」
後ろから聞こえた声にピンと尻尾を立て、耳を声の方向に向ける。
ゆっくりと近付いてくる気配に、顔だけ振り向くと、一人の少女がいた。
洗濯をしていたのか、カゴを持って、袖をまくり上げている。
痩せているというよりは痩せすぎて、くすんだ顔色。
落ち着いて大人びているというよりは諦めているようなどこか暗い表情。
心配そうに眉をよせ、少女はエプロンをほどき、ゆっくりと猫に被せて抱き上げた。
「魚でも追っていたんですか」
どちらかと言えば追われていたんだ。
そう返そうとするが、消耗しすぎて話すこともできず、ナーと小さく鳴くことしかできない。
「ミルクなら、出せますが。連れて帰っても大丈夫かな…」
少女はそう言いながら歩き始める。
着いた先は小さな家で、お世辞にも裕福そうな家ではない。しかし中は綺麗に埃を払われ、整理整頓されている。
少女は猫を暖炉の近くに布ごと下ろすと、手慣れた様子で火をつけた。
ゆっくりと伝わる熱に温められ、猫はほっと体を丸める。
しばらくすると、少女は小さな皿に温めたミルクを入れて猫の前に出した。
「今は、母もいないので…秘密ですよ」
少女は猫がゆっくりと皿に口を付けたのを見て、安心した表情で言った。目元を緩ませると随分と雰囲気が柔らかい。
手を伸ばして猫を撫でながら、少女はひとり言のように話し始めた。
「昔、猫と喋ったことがあるんです。もう詳しく、何を話したか覚えていないのですが」
ぽつぽつと思い出を話す少女に、猫はぼんやりと思い出した。
猫は、この少女のことを知っている。
十数年前に立ち寄った町の隅で、泣いていた少女。
「もっと遊びに行きたいとか、そんな愚痴だったんだと思います」
ああ、そうだ。どこにでもいるような。家の手伝いで忙しくて、遊びたくても遊べない少女。
本の中のお姫様に憧れるような、普通の女の子。
「私と友達になりたいって言って、遊んでくれて」
その町に滞在する間。彼女と遊んだのだ。
永く生きて、生かされて、多くの人間に自分を求められ、少し疲れていた。
だというのに、少女は自分と話すだけで、話を聞くだけで、ひどく嬉しそうにするものだから、もっと笑顔になってほしいと思ったのだ。
ミルクを飲み終わった猫を、少女は撫でながら懐かしそうな表情をする。
「もしかすると、神様だったのかもしれないです。私とお喋りしたり遊んだりするだけで嬉しいって言ってくれて…。その時の私は本当に幼かったから、喜ばせるための嘘だったのかもしれないけれど」
(ボクがしたかったことを、しただけだよ。うそなんて、どこにもない。)
伝えられない言葉がもどかしく、猫は撫でる手に擦り寄る。
「もし、あなたが、その猫の神様と知り合いなら、伝えてくれますか?」
じ、と少女の顔を見つめる。
少女はどこか遠くを見るようにして、ぽつりと言った。
「母が幸せになりますように。私が、いなくなりますように。それで、私が全部無くなる前に少しだけ、誰かに」
はく、と小さく息を吐いて、唇を噛んでから、少女はぽつりと言った。
「愛されたい」
猫は、昔、少女が言っていたことを思い出す。
「絵本の魔法使いのように、優しくて綺麗な人と手をつなぎたい」「国中を探してもらえるくらい、誰かに好きになってほしい」そんなことを恥ずかしそうに、寂しそうに言っていた。
彼女は今でも、あの寂しそうにしていた頃のままだ。
(…きみにとって、)
(かみさまって、何なのだろうね)
(きみにとって優しくて、綺麗で…手をにぎってくれる、だれかのこと?)
(もしそうなら、それなら、ボクは)
(きみのかみさまになりたい)