塵霊<じんれい>
胴部に札を食らった四本足は、慌てて距離を取った。
犬の形を保つことが難しくなったのか、ぐにゃぐにゃとしたアメーバのように形を変えていく。
特別な除霊の力が込められたこの”お札”は、俺たち除霊師が塵霊に対抗するための最大の武器だ。
この札に触れた塵霊は、その存在の一部を消滅させる。まだ未熟な塵霊なら一枚押し当てるだけで、丸ごと消滅させられるほどの力が込められている。
犬塚は、ぽかん、と口を開いて呆然としていた。
「いま始まったところだけど大丈夫?」
「ぜ、全然余裕です! 私も手伝い……」
犬塚が言いかける途中、アメーバ状になったそれは仲間を呼んだのか、周囲に小さな球状の塵霊が集まり始めた。その数は十体程度だろうか。
「もしかして、これって結構ヤバめなやつですか……?」
「いや、全然よくある」
ふと、奥に見える教室のドアがひとりでに開いた。そのドアの向こうからは、いくつもの机や椅子が宙に浮いた状態でゆっくりと教室を出てくる。そして、集まった塵霊たちの前で、ぴたりと動きを止めた。
まるで、武器を構えているみたいな構図だ。
「今度こそ、本当にヤバくない……?」
「いや、割とよくある。中型以上の塵霊なら、ポルターガイストを使いこなすのも珍しくないし」
そこで犬塚はいよいよ絶句した。
とはいえ、同時に操っている物が多すぎる。集めた仲間の力でも借りているのかもしれない。
その刹那。空中に集められたモノたちが、いっせいに放たれた。椅子、机、巨大な三角定規。どれもが、成人男性が思い切りボールを投げた程度の速さで迫ってくる。
「避けて!」
身体を捻り、小さく屈んで、次々に飛来する凶器をかわしていく。椅子の脚がかすかに頬をかすめて痛みが走った。
「ていうか、塵霊って人間の魂を食べるんですよね? なんでこんな全力で物理攻撃をしてくるわけ!?」
犬塚は泣き言にも似た叫びをあげた。
余裕がない状況になると、犬塚は急に見た目通りになるみたいだ。廊下の隅にうずくまって、両手で頭を抱えている。
「塵霊が食べるのは、心の波形が似ている人間だけだからね。今の俺たちなんて、向こうから見たらただの排除すべき敵なんだよ!」
飛来したすべての凶器をかわすと、相手にはついに弾切れになった。仕掛けるなら、この瞬間だった。
両足に力を込めて、前方に向かってぐっと加速する。札を数枚取り出し、身体を回転させながら周囲の小さな塵霊を薙ぎ払うように除霊していく。
正面に浮かぶアメーバ状の塵霊から、いくつもの触手が伸びた。それがいっせいに迫ってくる。
が、こっちが距離を詰めるのが先だった。触手をかわしながら、数枚の札をまとめて本体に押し当てる。瞬間、光が弾けた。
ある程度のサイズまで成長した塵霊は、その身体のどこかにコアを持つ。一際明るく光る球状のそれが、アメーバ状になった身体の中心に見えた。もう一枚だけおまけで札を抜き取って、そこに押し当てる。
バジジジッ! 悲鳴にも似た大きな音が響く。それが終わりの合図だった。ふらふらと揺れてから、それは火の粉を散らすように消えていった。
再び、廊下には静寂が戻った。
「お、終わった……?」
「とりあえずね。この校舎の中には、まだうじゃうじゃと残ってると思うけど」
犬塚の肩から、どっと力が抜けたのが見て分かった。このまま廊下に倒れ込んでしまいそうなほど、大きく息を吐いている。
「鴨居さんは、もう何度もこんな経験をしてきたんですか?」
「まあそれなりに長いからね。ただ、今回は少し特殊かもしれないけど」
「特殊?」
「中高生くらいの年代が、一番感情が不安定になる時期だから。学校は塵霊にとって最適な繁殖スポットなんだよ。しかも、長い歴史がある旧校舎なんて、これ以上ないくらいの環境なんじゃないかな」
この旧校舎からは、今までに感じたことのないほどに異様な気配がする。いくら歴史のある学校の校舎だからとはいえ、それだけでは説明がつかないレベルだ。
それなのに、なぜか犬塚は嬉しそうな顔をした。
「けど、それって つまり、今の状況に耐えられたなら、もうこの後はなにがきても大丈夫ってことですよね!」
「残念だけど、さっきの状況くらいならよくあるよ。たぶん今はほんの序の口で、本当にキツくなるのはこれからだろうし」
「鴨居さんは冷静ですね。さっきだって、あんなにたくさん敵が出てきたり、物が飛んできたりしたのに、全然余裕な顔をしてたし」
犬塚は廊下の隅でまた小さくなっている。落ち込んでいるんだろうか。
「冷静とか、そういうのじゃないよ。塵霊との戦いなんて、慣れればただの単純作業だし」
除霊師という仕事は、常に危険と背中合わせにある。
塵霊が操る凶器によって大怪我を負ったという事例もあれば、精神を乗っ取られて廃人になったという話も聞いている。そんなスリルだけは十分な仕事でも、やることといえばどんな現場でも変わらない。武器となる札を使って、ひたすらに敵を殲滅する。
今回みたいに誰かと行動するケースは稀で、これまでずっと一人で任務をこなしてきた。除霊師になったのが十八歳の時で、それから数えて五年が経った。
当たり前の感覚なんて、もうすっかり麻痺してしまっていた。
「で、でも私だって、次はちゃんとやりますから! 初めてだったから、ちょっと驚いただけで……!」
犬塚は勢いよく立ち上がって、自分に気合を入れ直した。根拠のない自信なのか、それともただの強がりなのか。彼女のことは、まだよく分からない。
ふと気配がしてライトを奥へ向ける。廊下を抜けた先には広いエントランスが見えた。その中に、中型の塵霊がいる。バスケットボールほどのサイズの、シンプルな球体だ。
この旧校舎にはまだ無数の塵霊が住んでいるはずで、ヤツらは息つく暇なんて与えてくれない。
「さっそく、その”次”が来たみたいだよ」
「え、もう!?」
犬塚は慌ててポケットを漁ったりなんかしている。ひょっとしたら、制服のポケットにでも札をしまっているんだろうか。
俺は腰の札へ手を伸ばして身構える。すぐにでも襲ってくると思った。だが、その球体の塵霊はこちらに興味も示さずに、エントランスの死角へ移動して見えなくなった。
やっと札を取り出せた犬塚も、そこで異変に気づいたみたいだ。
「全然、気づいてなさそうですね」
塵霊は人間に対して強い察知能力を持っている。こっちに気づいていない可能性は考えにくいが塵霊にも個体差がある。
それでも、嫌な予感は消えてくれない。
「……まさか」
不意に、一つの可能性が頭をよぎる。
俺はライトを切って廊下を走った。
「ちょ、鴨居さん!?」
走りながら、犬塚にもライトを消すように仕草で促す。
アイツがこっちに目もくれないのは、それ以上に優先度の高い何かがあるから。塵霊たちがなによりも優先するのは――。
犬塚がライトの灯りを消すと、周囲は再び完全な闇に包まれる。何も見えない中、記憶と勘だけを頼りに廊下を走って、ちょうどエントランスへ差し掛かる位置で足を止めた。
廊下の壁が途切れるその場所から、エントランスを覗く。と、左手側に二つの光が見えた。
一つはさっきの球状の塵霊で、もう一つはもっと人工的で強力なライトだ。それはどこか別の廊下から届いて、エントランスまでかすかに照らしていた。
やっと追いついた犬塚に耳打ちをする。
「一つ、大事な仕事を頼みたいんだけど」
「仕事、ですか?」
「誰か人が入ってきてる。あの塵霊は俺が消すから、その瞬間だけ侵入者の目をそらして欲しい」
あの人工的な光は、おそらく携帯のライト機能だ。球体の塵霊は、ゆっくりとそのライトの光源の方へと向かっている。確実に、狙いはその携帯の持ち主の人間だ。
「目をそらさせるって言っても、そんなのどうやれば……」
「どうにでもできるよ。たとえば、思い切り光を当てて目を潰すとか」
言って、俺は自分のライトを犬塚へ手渡す。この暗闇の中で不意に照らされれば、数秒くらいは視界を奪えるはずだ。
犬塚は少し戸惑う様子を見せたあと、「行ってきます……!」と走り出していった。犬塚が役割を果たせるかは、あとはただ信じることしかできない。俺にできることは、タイミングを合わせて一瞬でケリをつけること。
犬塚の後を追って、なるべく足音を消して走る。殺気に気づいたのか、塵霊の意識がこっちに向いたのが分かった。それに、携帯のライトの位置が想定よりも近い。携帯の持ち主は、ちょうどこのエントランスに入ろうとしていた。
気づかれる!
その時、「わ!」という声。直後に、ドサッと何かが倒れる音がした。一瞬なにが起きたのかと思って、すぐに犬塚が転んだのだと気づいた。突然の物音に驚いたのか、携帯のライトが大きく揺れた。
想定とは違うが、結果オーライだ。
その一瞬の隙を狙って、俺は球体の塵霊へ向かって数枚の札を一度に叩きつける。反撃をしようと大きく身体を広げたところにもう一撃。今度は左手に掴んだ札で、露出したコアに追い討ちをかけた。
コアが破壊された塵霊は霧散する。それから程なくして、携帯のライトが俺を照らした。
振り向くと、ライトを構えて立っていたのは一人の制服姿の女子生徒だ。その顔には見覚えがあった。
これで三度目の対面になる彼女は、田村保乃科だった。