夜の旧校舎
「なんていうか、さすがに夜の学校は雰囲気ありますね……」
夜の八時。
生徒たちが全員帰宅し終えた学校の敷地の中。目の前には旧校舎がそびえていて、隣には犬塚が立っている。この学校という場所で浮かないように、お互いにスーツと制服で来ていた。
実際、夜になって学校の警備はますます厳しくなっている。敷地に入り直す時も、正門の付近には見回りをする警備員がいて、自分は新しい教師だと説明をするはめになった。
新校舎には、職員室を中心にいくつか明かりが残っているけど、敷地全体はすっかり闇に落ちている。
夜の学校が持つ独特の空気が辺りを支配していた。
國城東高校の敷地は、東西の方向に長い四角の形をしている。四角形の南側に正門があって、東側に新校舎。その隣に少し小ぶりな旧校舎がある。その二つの校舎の間を抜けた先に校庭が広がって、体育館は正門を抜けたすぐ真横だ。
新校舎と正門は一本道でつながっているから、仕事を終えて帰宅する教師の目が旧校舎の方まで向くことはないはずだ。
「心の準備は大丈夫?」
「だ、大丈夫です……! 全然緊張なんてしてませんから」
隣に立つ犬塚の身体は明らかに硬くなっている。それでも、わざわざ指摘したりはしない。実戦に入れば、すぐに緊張する余裕もなくなるはずだ。
「それじゃあ、さっそく仕事を始めようか」
教師の真似事をしたり余計な面倒ごともあったけど、やっとここからが本業の時間だ。この旧校舎に潜む塵霊をすべて消し去って、そして……。
旧校舎の入り口の扉に手をかけ、ゆっくりとそれを開く。朝と同じ、目の前には靴棚が並んでいる。窓から差し込む外からの光がないせいか、朝よりもずっと深い闇に包まれていた。
校舎の中に入った犬塚は、声もなく固まっている。
必要な荷物をまとめたウエストポーチから、筒型のライトを取り出す。電源を入れると、パッと視界が広がった。
「わっ。明るい……」
「ランタン代わりにもなる特別製だから。犬塚も用意はしてある?」
塵霊と呼ばれる存在の動きがもっとも活発になるのは、日暮れから深夜までの間。だからこそ、闇の中でも動けるような準備は必須になる。
犬塚がポーチから取り出したのは、明らかに安物のライトだった。
「それ、百均……?」
「近くに他にお店がなくて」
犬塚のライトは、ぼんやりと狭い範囲を照らしている。まだ戦いが始まってすらいないのに、不安の残る滑り出しだ。
ライトの先端を動かして、前方を探ってみる。特に異変がないことを確認して、玄関を上がる。近くの壁に電気のスイッチを見つけたけど、押してみても反応はなかった。
ふと、後ろに気配がないことを気づいて振り向いた。
犬塚が、ドアの手前で立ち止まったままだった。
「来ないなら置いていくけど」
「す、すいません! 大丈夫です」
犬塚は慌ててついてくる。表情が冴えないのは、暗がりでもよく分かった。ただ怖がっているというには、少し違和感がある様子だ。
「もしかして、結構霊感強い方だったりする?」
「は、はい。たぶんそれなりには」
この旧校舎は、微かに異質な気配がする。今までいくつも現場を経験してきたけど、この校舎からはなにか底知れない雰囲気を感じた。
もしかしたら、犬塚はそれに怯えているのかもしれない。
「全然、俺一人でやれるし、無理しなくていいから」
改めて正面へ向き直す。玄関からは、左右と正面へ三方向に廊下が伸びている。廊下は完全な闇に沈んでいて、ライトで照らしてもまるで奥まで見通すことができない。あたりは不気味なほどの静寂に包まれていて、不思議なほどに外の物音も聞こえてこない。月明かりさえ窓からは見えなくて、この旧校舎の中だけが、外の世界から切り離されてしまったかのように思える。
まるで心霊スポットだ。
その瞬間、淡く光る球体が靴棚の陰から姿を見せた。その光球は風に揺れることもなく、その場にじっと浮かんでいる。
「じ、塵霊……!」
犬塚が怯えた声を漏らした。
「見たことはあるよね?」
「一応、見たことだけなら……。改めて見ると、本当に人魂みたい」
「その喩えは、あながち間違いじゃないかもね。塵霊がどうやって生まれるのかは知ってる?」
正面の廊下を進みながら訊いてみた。どうせまともに説明なんて受けてないだろうとは、容易に想像がついた。
犬塚は怯えながらも、一歩後ろをピッタリとついてくる。
「えっと、なんか勝手に発生するって。リオさんが」
悪い予感が当たった。
「塵霊は人間がいない場所からは生まれない。そこで暮らす人間の心や感情が塵のように積もっていくことによって生まれるんだ。だから、"塵霊"ってわけ」
「人の心……」
真っ暗な廊下を、周囲を照らしながら慎重に進む。ライトに照らされた二つの円形の光だけが、ゆらゆらと歩く体に合わせて揺れている。
塵霊の気配はすぐ近くからいくつも感じている。なにか得体の知れないものが、この校舎中を動き回っている。
「何かに傷ついたり悲しんだり。あるいは、何かに喜んだり感激したり。そういう目に見えない感情の残滓が、長い時間の中で少しずつ積もっていくんだ」
「それが、あの光になるんですか?」
「そう。そして形を得たヤツらは、今度は心が不安定な人間の魂を狙って食べるようになる。そうやって自分に取り込むことで、どんどん大きくなっていくってわけ」
「そこだけは聞きました。心の形が似てる人を見つけたら、その人が油断したところを襲うんだって」
だからこそ、塵霊は駆除しなければならない。この旧校舎の塵霊たちが新校舎に通う生徒にすら危害を加えることを、俺は痛いほど知っている。
ふと、廊下の奥に見えるそれに気づいて足を止めた。
「座学の時間は終わりみたいだね」
進路を塞ぐように立っている「四本足の光」があった。
中型犬のシルエットを模したような淡い光の塊。目玉も口もないが、じっとこっちを見つめているのだと伝わってくる。
「まさか、あれも塵霊なんですか?」
「塵霊に決まった形はないからね。生まれたばかりの雑魚は電球程度のサイズだけど、成長すればどこまでだってデカくなる」
「そ、その話は聞いてなかったです……」
犬塚の顔が引きつるのが暗闇の中でも分かった。
「それより、構えた方がいいよ。仕掛けてくる」
俺が言い終わるのと同時、目の前の四本足が音もなく駆け出した。物理法則なんて無視した動きで、一直線に迫ってくる。
俺は腰につけたポーチから一枚の”お札”を取り出す。四本足が飛びかかり、その身体が眼前に迫る。前脚が俺の身体を捉えようとする寸前、取り出した札をその胴部に押し当てた。
瞬間、強力な電気が流れたような音が響く。札をぶつけた箇所の光が弾けた。