はじめての生徒
今夜の八時に決めた仕事の前に、こなすべき仕事がもう一つある。
学校で生徒に授業をするという、俺の人生で初めてとなる、最大の関門が待っていた。
一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。その音を聞きながら、これから授業をするクラスの教室を目指した。
教室は基本的に学年ごとにまとまっていて、この二階には三年生の教室が集まっている。職員室から移動して手前にあるのが、スポーツに力を入れるためのコースの生徒が在籍する教室だ。ここの教室の前は、いつも他のクラスとは違う空気が流れている。
たった五分の休み時間でも、廊下で立ち話をしている生徒も多い。さすがは運動部なのか、こっちに気づくとしっかりあいさつをしてくる。
それに適当に返していると、壁にもたれて真剣に携帯の画面を見つめる男子生徒が目に入った。スポーツ専科の生徒ということもあってか、身長も高くて体格がいい。
彼が画面を見つめる目は少しもぶれず、一切の邪念を感じない。短く切り揃えられた髪と端正な顔立ちとが相まって、その横顔がとても美しいものに見えた。
なにをそこまで真剣に見ているのか、思わず興味を引かれてしまう。
その男子は、視線に気づいて振り向いた。
「なんですか?」
「いや。スマホの校則、どうなってたかなって」
「授業中の使用以外は、基本は自由です」
壁にもたれたまま男子生徒は答えた。その時、手に持っていた携帯の角度が変わって、画面の中まで見ることができた。
映っていたのは、野球のピッチャーが投げる映像だった。ピッチャーだけがアップになって、たぶん動作を確認するための映像なんだろう。
野球部の生徒なんだろうか。うちの野球部は、それなりの強豪校だったはずだけど。
ひとこと、その生徒に謝罪とお礼だけを告げて、また奥を目指す。
スポーツ専科の教室を超えて少し歩くと、目的の教室が見えてくる。最初に授業を担当することになったのは、三年G組のクラスだった。
今まで一度も生徒に授業をしたこともないのに、いきなり三年生はなかなかにハードルが高い。そもそも、高校時代から勉強自体がご無沙汰なんだ。まともに教えられるわけがないのは、分かりきっている。
教室の前で立ち止まって、心の準備を整える。
それなりの進学校の生徒なんだ。どうせみんな勝手に勉強してるに決まってる。
適当に教科書を音読しながら板書して、あとは適当に演習をやらせていればいい。大きな問題にならないようにやり過ごすのが、なによりも大事なことだ。
教室の中に入ると、生徒たちの視線がいっせいに飛んでくる。黒板の前は台になっていて、そこに乗るだけで、いよいよ授業を始めるんだという実感が湧いてきた。
必要な教科書を取り出して教壇の上に並べる。準備を進めていると、ふと前から気配がした。顔を上げると、一人の生徒が教壇を挟んで前に立っていた。
見覚えがある。朝、しつこく話しかけてきた女子生徒だ。
「怪しい人かと思ったら、先生だったんですね」
「もしかして、不審者だとでも思ってた?」
「それはもう、すごく怪しかったですから。学期の途中だし、新しい先生だとは想像つかないですよ」
俺が教師と分かった今でも、今朝と態度は変わらない。なにが面白いのか、ニコニコと明るい笑顔を浮かべている。
「そういえば、全校集会のあいさつ、クラスで話題になってましたよ? すっごいやる気なさそうな先生が来たって」
彼女は目の前の教壇から身を乗り出す勢いで話を続ける。
とにかく顔が近い。しかも、じっと目を見ながら話してくるものだから、いろいろと良くない。
「最低限、授業はちゃんとやるよ」
「あ、でもね。女子の間では、結構カッコいいって評判になってたり」
「授業、始めるよ」
俺は努めて素っ気なく言い放って、強引に話を打ち切る。授業の準備に戻ると、あからさまに不満を顔に出した。
「えー、可愛い生徒が目の前にいるのにその態度なんですか?」
「お前は早く席に着け」
「お前じゃなくて保乃科ですー」
狙っているのか、下の名前しか言わないところも腹が立つ。生徒を名前で呼ぶ教師がどこにいるんだ。
そういえば、担当するクラスの名簿を受け取っていたことを思い出す。教科書と一緒にしまっていたそれを取り出して、このクラスのものを開く。
「あ、名簿見るのは禁止!」
彼女が慌てて手で遮ろうとするより先、「ほのか」はあっさりと見つかった。
「田村。席に着け」
田村保乃科。それが、彼女の名前だった。
「むー、見つけるの早すぎ……。先生は、もうちょっと生徒と交流しようっていう気はないんですか?」
唇を尖らせる素振りしながらも、わずかに本気で苛立っているような気がした。
少し突き放しすぎたかもしれない。一瞬、そんな反省が頭をよぎったけど、すぐにその考えは打ち消した。別に生徒と仲良しをするために、教師のフリをしているわけじゃない。
どうせ、この任務が終わるまでの無意味なつながりだ。
「別に興味もないし。悪いけど、そこまでは俺の仕事じゃないから」
そう突き放すと、田村は「ふうん」と、つまらなそうに自分の席へと向かっていった。
最初の授業は、予定通り教科書を読み上げつつ問題集を解かせるだけで、どうにか乗り切ることができた。