困った相棒
最初に担当する授業までは、まだ少し時間がある。
自由に動けるうちに、もう一つやっておくべきことがあった。
職員室から続く廊下を歩いて、目的の人物のもとを目指す。角を曲がると、廊下の先にある教室のドアの前で、一人の女子生徒が立っているのが見えた。
もうすぐ一時間目の授業が始まるというこの時間に、廊下を歩いている生徒はそれほど多くない。それに、その生徒が前に立っている教室は、授業では使われない部屋のはずだ。その生徒はこっちに気づくと、教室のドアを開けて中に入っていった。
俺のことを呼んでいる。その態度と遠目に見えた顔には一つ心当たりがある。どうやら用事の方から会いに来てくれたみたいだ。
あとを追って教室のドアを開ける。中に入ると、その女子生徒は腕を組んで仁王立ちをして待ち構えていた。
「えっと、きみがリオの言ってた――」
声をかけるのと同時だった。
突然、彼女が突進してくる。
「たあああ!!」
その勢いのまま、叫び声とともに思い切り右足を高く上げて蹴りを放つ。反射的にそれを防ぐと、今度は攻め方を変えて、パンチを放ってくる。左右の乱撃。何度も必死に打ってくるけど、対処するのは難しくない。
この子がリオの言ってた新人じゃないのか? 事前に見せられた写真では、こんな顔をしてたはずだけど。
一六〇センチもなさそうな小さな身体に、ゆるくパーマのかかった髪。そして、くっきりとした顔立ちも確認していた通りだ。
そんなことを冷静に考えながら、彼女の攻撃をいなし続ける。突然のことで戸惑ったけど、これ以上付き合う必要もなさそうだ。
突き出された右手を掴み、その力を逆に利用してバランスを崩す。「えっ」と小さな悲鳴を上げた時、トドメに足払いをかければ、彼女の身体はあっという間に地面に転がった。
彼女は、なにが起きたのか分からないというように、呆然と天井を見上げている。もう戦意もなさそうだし、押さえつける必要もなさそうだ。
「きみ、一緒に任務にあたるっていう新人だよね? いきなり襲いかかってきて、なにがしたいわけ?」
彼女はやっと仰向けの身体を起こす。
「すいません。私、これが初めての任務で………。自分がどこまで通用するか試してみたかったんです」
さすがに少し返答に困った。
この仕事にはそれほど上司も部下もないけれど、年季が違う相手にいきなり挑むのは無鉄砲がすぎる。多少腕に覚えがあるならそれも分かるけど、この子の場合、あまりにも弱すぎた。
「まあ、これでよく身の丈は分かったでしょ」
「あ、あの! たしかに今回は負けちゃいましたけど、実戦なら役に立ちます! リオさんにも、ちゃんと鍛えてもらいましたし」
その自信がどこからくるのか。なぜか強気な態度に押し切られて、なにも言い返せない。
「私、犬塚みちるって言います。今はこんな格好ですけど、今年スカウトさればかりの十九歳です!」
犬塚と名乗った彼女は、ぺこりと頭を下げて「よろしくお願いします」と続けた。
その勢いに若干気圧されながら、「よろしく」と伝えておく。
彼女は今、生徒に扮するためにこの学校の制服を着ている。スカートを短くして、髪も明るく染めてパーマもかけて、見た目は不真面目な女子学生そのものだ。
「犬塚はいつからここに潜入してるの?」
「もう今月の頭からです。だから、この学校のことはなんでも私に訊いてください」
犬塚はなぜかやけに得意げだ。
今が五月の半ばだから、もう半月は潜入を続けていることになる。
「じゃあ、この半月でなにか分かったことはあった?」
「え!?」
犬塚は思い切り困った顔をした。
「購買のサンドイッチは四限の終わりと同時に走らないと買えません!」
どうやらそれは、犬塚なりに真剣に考えての大真面目に答えているらしい。どうしたものかと困っていると、「それより仕事の話です!」と憤慨された。
俺も仕事の話をしたつもりだったのに。
「鴨居さんが来たっていうことは、さっそく仕事が始まるんですよね?」
少し話をして分かったのは、仕事に対する熱意だけは十分ということ。不真面目な見た目に反して、真剣な様子が伝わってくる。
「この潜入だって、仕事の一部だよ」
「それでも、これは本業じゃありません! 私はなにをすればいいですか?」
犬塚は文字通り前のめりになって訊いてくる。なにかここまで仕事にこだわる理由があるんだろうか。
この仕事をしている人間は、きっと誰もが事情を抱えている。彼女だって例に漏れないはずで、俺だってそれは変わらない。
だけど、こんな風に前のめりになる時期は、もうとっくに通りすぎてしまった。
「俺たちがこの学校でやることなんて一つだけだよ」
「えっと、それは……」
俺たちがこの学校に潜入したのは、ただ一つの目的のため。
「旧校舎に潜む『塵霊』を、一体残らず消し去ること。そのために俺たちはここにいるんだから」
それが除霊師としての俺たちに与えられた、唯一にして最大の目的。こうして教師や生徒のふりをするのも、その目的を果たすための手段でしかない。
まだいまいちピンときていない犬塚の態度を見て俺は続ける。
「今夜八時、旧校舎の入り口で集合にしようか。その頃には、生徒もみんな帰ってるだろうし」
その時がこの任務の本当のスタートだ。
「はいっ!」
犬塚は気合の入った声で返事をした。