熊侯爵の明るい家族計画
抜けるような青空のよく晴れた、晩春とも初夏ともとれるようなそんなある日。
某国の大聖堂で、その国の第一王子の結婚式が執り行われた。
王子は第一位王位継承権をもち、王を始め臣下の期待を一身に背負いながらも、国民の誰にも愛されるという、まさに夢物語の王子のよう。
そしてその隣に並ぶ花嫁は、隣の大国の数多いる王女の末の姫。
明らかな政略結婚でありながらも、地道に親交を深め愛を育んだ末の、今日である。
誰もが祝福し、誰もが羨む。国を挙げての盛大な結婚式であった。
そしてそのちょうど一年後。
同じ大聖堂で、これまたとある結婚式が執り行われた。
誓い合う新たな夫婦となるのは、侯爵の身でありながら屈強な身体を持ち近衛兵として現役のジオルグ・アーグナーと、一代限りの男爵位を賜った大豪商の孫であり、この婚姻のために伯爵家養女となったマリカ・ベイルズである。
「…では、誓いのキスを」
長ったらしい司祭の祝言の後、やっと動くことを許されたと思ったら不意打ちの要求。
いや、ちゃんとリハーサルはあったのだから不意打ちでもなんでもないのだが、思っていた以上に長い祝言と緊張に、ジオルグも肩に力が入っていたらしい。
しかも新婦と顔を合わせたのは、今日を含めてまだ三回目。
明らかな政略結婚である一回り以上も年上の男に、まだ十九歳の彼女は嫌悪感を抱くのではないだろうか。
逡巡の末ジオルグは、彼女のまろい額に唇を贈った。
* * *
なぜジオルグが一回り以上も年下の花嫁を娶るに至ったのか。
きっかけは、一年前の王太子の結婚である。
「殿下もついに結婚かぁ…」
「となると次は世継ぎだよな。陛下はまだまだお元気だから急がないだろうけど」
「関係ないだろそんなの。それよりあの可愛らしい姫様が殿下に喘がされると思うと…」
「ぁあー………」
話が大分下世話な方向に傾きだしたが、通りすがりに聞こえただけの部下達の会話には目をつぶった。
それよりも衝撃だったのは、次の台詞である。
「他の貴族達もさぁ、子作りラッシュになるんだろーなー」
殿下の結婚、そしてお世継ぎ。
となれば、そのご学友やら側近やら婚約者やらを狙って、年の近しい貴族達は子作りラッシュになるであろうことは明白である。
そもそもジオルグには結婚願望はなかった。
兄がいるからと、幼い頃から剣を握り鍛える事が許された。
ありがたいことに多少才能があったらしく剣の腕はみるみる上達し、ついには近衛兵としてそれなりの地位を得られた。
しかし、父が思いがけない事故で早くに亡くなり、侯爵を継いでいた兄が突然強引に隣の領地の侯爵令嬢の元へと婿入りをした。大恋愛の末にたった一人の令嬢しかいない隣の侯爵の元へ入婿となる兄の幸せを願い、仕方なしにジオルグが侯爵を継ぐこととなった。
そういった類の勉強を全くしてこなかったジオルグには荷が重いであろうと、長年仕えてきた侍従も、先代から領主を支えてきた家令も、王都のタウンハウスで兄付であった護衛達も、兄は誰一人として供に連れず、本当に身一つで旅立っていった。
それでもなお身体を鍛えるしか出来ない自分が継ぐには、侯爵の位は重かった。
領地経営など勉強もしたことがない。
人の機微には疎く、まして貴族令嬢ともなれば何をしゃべればいいのかすらわからない。
そんな自分が結婚など、想像も出来ないけれど。
「殿下のお子様のご学友かぁ…」
ジオルグは殿下馬鹿である、とよくそう評される。否定はしない。
一回り年下の殿下を心の底から尊敬し一生を捧げると誓った出来事から、もうすでに十数年も経っているにも関わらず、その思い出はジオルグの中で色褪せることはない。
その出来事については割愛するが、とにかく彼は殿下を尊敬し敬愛し全てを捧げている。
そんな殿下に、もしも子供が生まれたら。
可愛くないわけがない、愛さないわけがない。そしてもし、もしもこんな自分にも子供がいて、殿下の御子の隣に並んだとしたら。
ちょっと、いやかなり、とてつもなく心惹かれる光景ではないだろうか。
「もしも、こんな自分でも良ければ結婚して子供を産んでくれる女性はいるであろうか…」
動機が不純過ぎるが、本心でもあった。
侯爵の身ではあるものの、社交はからきし、近衛の仕事一筋。それだけであれば彼もここまで悩むことはなかったろう。爵位目当てで近づきたい輩はたぶん決して少なくない。けれどそれ以上に、彼は自分の見てくれが、年頃の令嬢どころか、根本的に女性からは決して好まれるものではないと理解していた。
高身長が多い近衛騎士たちの中でも群を抜いて背が高く、さらに貴族としては逞しすぎる体躯を持ち、こげ茶の髪は短く刈り上げており、同じこげ茶の髭は毎朝剃っているにも関わらず夕方には既にうっすらと伸びて触ればじょりじょりと音がしそうな勢いだ。王宮に出仕する身として見苦しくないようにと、手の甲なども剃ってはいるが、制服を脱げば体中が毛に覆われているといっても過言ではない。顔つきだって、よく見れば灰色の目が涼やかだと言ってくれるのは兄だけで、厳めしいと評して問題ないだろう。柔和な表情など、自分でもできる気がしない。子供や若いご令嬢と目が合っただけで泣かれたこともある。
ついたあだ名は熊侯爵。
不名誉と思うなかれ、見たままそのとおりである。それでももしも、万が一、というものがあるのなら。
ポツリとこぼした子が欲しいとの言葉を拾い上げたのは、王都のタウンハウスにいる執事であった。
常日頃から侯爵の位は重すぎる、自分は結婚せず死んだら爵位も返上すると言って憚らないジオルグを窘めることに少々疲れていた彼は、ここぞとばかりに力を発揮した。
普段はジオルグの予定を把握しつつ来客や贈答品の管理から屋敷の人事まで全てを切り盛りしているその明晰な頭脳と、これまでに培ってきた人脈を惜しみ無く駆使して、彼はジオルグの花嫁探しを始めた。
どうせ見つかるわけがない、そう高をくくってジオルグは楽観視していた。
子供がほしいのであって、結婚したいわけではない。
最低な自覚があるので、花嫁なぞ見つからない方がいいに決まっている。
しかししばらくして仕事を終えて帰宅したジオルグを、普段は物静かで表情も最低限しか表に出さない執事が満面の笑顔で待ち構えていた。
「若様、お手紙が届いてございます」
基本的に騎士団に詰めているジオルグは、近衛以外の仕事の一切合切をこの執事に任せている。
領地の差配はこれまた領地にいる別の古参の家令が務めているので、基本的にこの王都のタウンハウスでジオルグが侯爵としてすることはほぼないに等しい。
また、遠回しで貴族的な表現が苦手なジオルグは、侯爵本人宛の手紙ですら、この執事にすべて開封して中身を検めることを良しとしている。
ただ、どうしてもジオルグの許可がいるときは書類が添えられていてあとは判を押すだけという体のほぼ確認事項であり、直筆で手紙を書いたり返さなければいけない場合にはなんと下書きを添えてあることもある。
だというのに、今差し出されている盆には、二通の封筒だけが乗っていた。
一通は、見覚えのある上質なブルーグレーの封筒に、兄の字で自分の名が。
もう一通は薄紅ともとれるような淡い橙色の封筒に、これまたやはり己の名前が書かれている。
丁寧に書かれたであろうそれは、どちらかというと女性の文字のような気もする。裏返して見たこっくりとつやのある赤茶の封蝋には、まったくもって見覚えはない。あえて言うならば、普段はいかなる場合も表情を変えない執事が、にこにこと満面の笑みを浮かべているのが一番恐ろしい。
いつもと様子の違う彼をさっさと遠ざけるべく、まずは兄からの手紙を読むことにした。
『婚約おめでとう』
端的に言えば、そう書いてある。
遠回しな表現が苦手なジオルグのために、ごく私的な手紙の時には兄は砕けた表現を使って書いてくれるのだが、珍しくジオルグがその裏の真意を探ろうとしてしまった。
ジオルグは、婚約なんかしていない。
なのに手紙の兄ときたら、いかに祝うにふさわしい事柄だとか、相手の娘は大変良い娘だから大事にしなさいとか、結婚式はいつにしようかだとか、ジオルグを寿ぐ言葉が延々と便箋5枚に亘って書き連ねられている。
腑に落ちないながらも兄の手紙を盆に戻し、もう一つの封筒を手に取った。
ちらりと執事を伺えば、これまたにっこりと笑みを返され、背中をツゥっと冷たい汗が伝った。
心の中でえいやっとばかりに気合を込めて、ペーパーナイフで一息に封を破った。
『ご婚約いただき、ありがとうございます』
何度読み返しても、そこには婚約者の機嫌を伺う言葉で始まり、自己紹介が続き、良き日(結婚式だなんて認めたくない)が来ることを祈っております、とこげ茶のインクでしたためられていた。
だから婚約などしていないと、誰に言えばいいのか。
大げさについてしまったため息は、すぐ横に控えていた執事には届かなかったらしい。
これまた笑顔で言われた言葉が、
「ジオルグ・アーグナー卿、ご婚約おめでとうございます」
「…した覚えはないのだが」
「いいえ、とんでもございません。先日お渡しした書類にサインなさったではありませんか」
普段は若様と口うるさく、この年になっていい加減やめてくれと何度言っても改めなかったくせに、ここぞとばかりに持ち上げてくる。
しかも気づかぬうちにサインもさせられていたらしい。
いかに自分が侯爵としては無能であるか、改めて知った思いだ。
だからこそ、こんな自分にどこぞの良家の子女をあてこんで良いわけがない。
穏便に断りたい旨を告げれば、一度締結なさった契約を反故にするおつもりですかと至極まっとうに叱られ(自分の意志は関係なくだまし討ちのように締結されていたことについては黙っておいた)、ジオルグの次の休みにこの家で顔合わせの予定だと告げられた。
「…兄上の見込んだ方であろう、婚約して問題ないんだな?」
「もちろんでございます」
そうして迎えた顔合わせの茶会の日。
夏の盛りを過ぎてようやく涼やかな風が吹くようになった頃だったので、侯爵家自慢の中庭を見下ろすテラスにて、茶会が開かれた。
この日のためにとこれまた執事がいつの間にか仕立てていた、濃いグレーの生地に濃紺の糸でストライプをきかせた涼しげなベストとスラックスをまとったジオルグは、いつもの近衛の制服に比べれば格段に威圧感が減っているであろうが、それでも泣く子も黙る雰囲気を醸していることは自覚していた。
少しでも印象が柔らかくなればいいと座ったまま迎えようとしているのは無礼も承知だが、顔を見たとたんに気を失われたり、恐怖のあまり叫び出されるのは勘弁願いたい。
一代限りの男爵位を賜った大豪商の孫であるという婚約者は、侯爵に嫁ぐために兄の計らいで遠縁の伯爵家の養女となったらしいので、爵位としてはこちらが上であるから多少の無礼には目を瞑ってもらいたい、と思っていたのだが。
執事に案内され部屋に入ってきたのは、小さく線の細い女性だった。
「ベイルズ伯爵の娘、マリカでございます」
伯爵家で教育されたであろうカーテシーは、まだ慣れないぎこちなさがあるものの所作としては完璧だった。
彼女の視線が下がったのをいいことに、ジオルグは上から下まで彼女を眺める。
身長はたぶんジオルグの胸元までしかないであろう、きっと女性の平均よりは低いはずだ。
肩口で切りそろえらえたつややかな黒髪は、前下がりのストレート。左耳の上に大輪の白い花が咲いているのだが、それがダリアというこの国では珍しい花だということをジオルグは知らない。
少しずつ色味の違う淡い水色の布を幾重にも重ねた訪問着は、ウエストを濃い青の幅広のリボンできゅっと締め上げられており、ほっそりとした肢体をさらに華奢に見せている。
ゆっくりと上げられた顔と、目が合った。
「お客を座って迎えるなどとは何事ですか」
少し吊り気味の大きな瞳は、凪いだ海のような紺碧で、光の加減で時折うっすらと紫がかって見える。
その目が自分を認めたとたん、さっきまでのたおやかな淑女の礼が、一瞬にして強い意志をたたえて光った。
「それが、侯爵を戴く者としての礼儀ですか」
瞳が強く非難の色に染まり、少し高めの声がはっきりとジオルグをしかる。
反射的にジオルグは立ち上がり、つい右手を軽く握りこみ胸に当てるという近衛の礼をとった。
「悪かった。せめて威圧感がないようにと思ったのだが…あなたには不要のようだ」
まっすぐに見上げてくる紺碧の瞳には、畏怖の色はうかがえない。
この屋敷で働く女性以外にそうやって見上げられるのはとても久しぶりだった。
なんせジオルグに話しかけてくる女性というのは、職務上仕方なく少しの恐れをにじませながら向かってくる王城の侍女達か、ジオルグの見掛けにも負けずに爵位目当てで近寄ってくるある意味盲目の女性たちのどちらかだった。
「貴殿の婚約者として並び立つのに、なんの怖れがありましょう」
強い視線でもって見上げてくる彼女に、ジオルグはほんの少しの好感を持った。
初対面としてはそこそこに長く、茶会としては大変短い会合は、お互いの表面を撫でる程度の会話で終了したのだが、次に顔を合わせたのはなんと婚礼の衣装合わせだった。
茶会が終わってからは、相も変わらず近衛騎士としてそれなりに忙しく過ごして早三ヵ月。
その間どちらかへの訪問はおろか、手紙のやりとりもなかったにもかかわらず、事態は着々と進行していたらしい。
とある休みの日に、久しぶりに一人で遠乗りでも行こうかと侍女に着替えの準備を頼んだところ、ちょうどようございましたといくつかあるうちの一番広い応接室に向かうよう指示された。
首を傾げつつ来客の予定は聞いていなかったように思うのだが、そこには父の代から懇意にしている仕立て屋夫妻と、自分の記憶違いでなければ、婚約者殿が歓談していた。
「お邪魔しております」
気づいたマリカが立ち上がり礼を取ると、一緒に夫妻も立ち上がる。
「若様、ご婚約おめでとうございます」
「若様はとても良い婚約者をお迎えになられましたねぇ」
若様はやめてくれといっても誰もやめてくれないので、もう半分くらいはあきらめている。
「マリカ様はとても滑らかな肌をしてらっしゃいますから、白が映えますわ」
大聖堂における婚姻式は近衛の正装でいいものの、女性の衣装やその後の晩餐などはそうもいかない。
自分が口をはさむ間もなく、婚礼に関する衣装についてがマリカの采配でどんどん決まっていった。
ジオルグといえば、それを横で眺めていただけである。
ごく稀に立たされてはあて布をされ、同じようにあて布をされたマリカの隣に立つ。身長差がありすぎて、仕立て屋夫妻が四苦八苦していた。
時間はかかったものの、なんとか役目は終えたらしく、夕方には解放された。
せっかくだからとマリカを晩餐に誘えば、この後も予定があるからと丁重に辞されてしまう。
先ほどは普通に話していたと思っていたのに、無表情で馬車に乗り込む婚約者殿を玄関ポーチで見送った。
「…嫌われてるのだろうか」
こんな顔でこんな体格で侯爵位持ちではあるが、ジオルグだってただの男だ。
兄の見立てた婚約者に文句を言うつもりはないが、せめて良好な関係が築ければいいと思うのはごくごく普通のことではないだろうか。
そんな杞憂を胸に抱きつつ、しかし手紙やプレゼントなど気の利いたことなどできるわけもなく、通常通りに職務に励んでいた。
そしてそれ以降、ジオルグは婚約者に会うこともなく、諸々の準備にかかわることすらなく、婚姻式当日を迎え、初夜を迎えたのである。
「待たせた」
真っ白で柔らかで頼りない夜着を纏い、妻となったマリカが、夫婦の寝室となった広い部屋の広い寝台に座っているのを見たとき、ジオルグはとてつもない感情に襲われた。
薄く紅のひかれた唇をなぞりたい。
その黒髪に見え隠れする首筋に触れたい。
凛と伸びた背筋が仰け反る様を堪能したい。
伏し目がちな瞳にかかる綺麗なカーヴを描く睫毛を濡らしたい。
光量を極限まで落とされた照明に照らされた、妻となったその人の姿に、どうしようもなく欲が沸いた。
けれどそれを上回る、圧倒的な罪悪感。
彼女は、自分が子供が欲しいと呟いてしまったために生贄にされた、裕福な商家であればまだ親の庇護下にいてもおかしくない年頃の世間も知らないであろう少女…とまでは言わないが。
それを一見煌びやかだがその実、腹黒いなんて言葉では言い表せないほどの泥沼な貴族社会に放り込むなんて。
19歳、成人しているとは聞いていたが、それにしたって、華奢で、小さい。
幼いとは思わなかった。
まだ三度しか顔を合わせていないが、はっきりと己で言葉を発し、射るほどに強く視線を向けられた。
不思議と、好ましい感情しか抱けなかった。
それなのにこれから、自分はきっと無体を強いる事に、そして怯えられ、いつか嫌われてしまうかもしれないことに、ひどく怯えている。
彼女のまっすぐな目が自分を射た。
その瞳がどうか濁らないようにと、祈りにも似た想いを抱きながら、ゆっくりと寝台の縁に腰掛ける彼女にひざまずいた。
「あなたには、何ら苦痛のない生活を送ってもらいたい」
* * *
………殊勝にも、そう本気で思っていた時期が、ジオルグにもあった。本当だ。
思い返せば、普段は教会にもさほど通わず、神頼みなど心の弱いものが縋るのだと思っていたジオルグが、祈りにも似た気持ちでその妻となったマリカに触れた初夜。
ジオルグの杞憂は、あっけないほど音を立てて崩れ去った。
マリカは恥じらいながらも、大変大胆に、ジオルグに触れたのである。
ジオルグだってさほど経験は多いほうではない。下世話な話をすると女性と床に就いた数は商売女のほうが多いくらいだ(独身貴族の付き合いだと思って、大目に見てほしい)。
感情を乗せることが少ないマリカの頬はほの青い月光に照らされてなお紅潮しているとわかるほどに色づき、毛むくじゃらの体では恐ろしかろうと夜着を脱がなかったのに、微かに震える細い指がジオルグの厚く逞しい身体を寝台の上に暴きたてた。
そしてジオルグは、初夜の床で、至上の楽園を見た。
年甲斐もなく夢中になってしまった自分を恥じ、婚姻休暇明けの近衛の仕事では、少しでも時間が空けば自主的な訓練に明け暮れた。
けれどひとたび家に帰ってくれば、新妻があれやこれやと采配するようになった侯爵邸は、その雰囲気を少しずつ変えつつも思いのほか心地よく、また三日と空けずに妻を床へ誘う始末だ。
新婚生活は、驚くほど順調に進んでいった。
侯爵夫人として着飾るようになったマリカは美しかったし、親族や近衛隊の面々に挨拶する姿も如才ない。
凹凸が足りないとこっそり呟いた部下は後日個人訓練を施し、所詮は成金の平民風情がと吐き捨てた遠縁は、兄の了承を得てから縁を切った。
けれどそういったジオルグの気遣いも必要ないくらい、あっという間にマリカは侯爵家になじみ、存在感を増していった。
幼いころからよく祖父である男爵の手伝いをしていたらしく商人としての経営の素地はあったところに、兄や領地にいる家令達と連携を取りながら経営に携わり、領地に引きこもる先代侯爵夫人である義母を師と仰ぎ侯爵夫人としての教養を身につけ、まだまだ至らないところはあるもののその手腕を発揮しつつあるらしい。
らしい、というのは執事からの評価を聞いたからだ。
元々近衛の仕事以外は執事や領地の家令達に任せっきりで、侯爵としての仕事など微々たるものであったが、ここのところその微々すらなくなりつつある。
…あるのだが、また少し、近衛の詰め所ではなく侯爵家の執務室にいる時間を増やさねばなるまい。
「旦那様、そんなところに居られては邪魔ですから、どうぞお部屋でお待ちください」
「あぁ…うん」
いつもは静かな廊下を、熟練のメイドがせわしなく駆けていく。
手には厚手で清潔な白い布を抱えて、入っていった部屋からはほんのりと湯気が立ち上っている。
メイドを見送ったジオルグは、所在なげに視線をさまよわせ、その部屋に向かって2歩踏み出しては3歩下がりを繰り返し、その大きな図体で行きかうメイドたちの邪魔となっていた。
部屋で待てと言われた回数も、もう2桁は超えていると思うのだが、おとなしく言うことを聞く気にはなれなかった。
「旦那様、せめてあちらでお待ちくださいませ」
「む…」
「こんな時、ただただ男は待つしかできないのでございますよ」
なんとも情けないものですがね、そう執事が言いながら指し示されたのは、少し離れた飾り階段の踊り場にある長椅子だった。
落ち着いてなどいられないが、ここにいても邪魔になるのはわかっているので、仕方なしに移動することにする。
ここからあの長椅子が見えるのならば、あそこからも今部屋の扉が見えているはずで、人の出入りはすぐわかるし、離れたくはないのでせめてこの部屋が見える位置にいたかった。
今あの部屋で、マリカが陣痛に耐えている。
しばらく前から日当たりの良い広い客間を、厚手のカーペットを敷き詰めて段差をなくし、リネンの類は手に入るもので一番上等で肌触りの良いものにそろえなおし、とにかく妊婦のマリカが居心地の良いように整えてあった。
昨日の夕食後から、腹に違和感があると首を傾げたマリカに付き添って、彼女のために整えた客間で二人過ごしていたのだが、明らかに痛みを訴えだした妻におろおろと触れようか迷っていたら、いよいよマリカ付の侍女に部屋を追い出されてしまった。
時折、開いたドアの隙間を縫って、部屋で炊かれる湯気の合間から、くぐもったようなうめき声が聞こえる。
その間隔が徐々に短くなっているようで恐ろしかった。
ただジリジリと、祈るようなその気持ちで、良い知らせだけを待っていた。
「旦那様!お生まれになりましたよ!」
細く、マリカとは明らかに違う特有の泣き声が聞こえ、産婆と侍女たちのわぁっという歓声が聞こえた。
思わず立ち上がり呆然と扉を凝視していると、ついに開いた扉から年若い侍女が顔を出した。
駆けよって早く中に入りたいのだが、どうしたことか足が動かない。
「元気な男の子ですよ」
「今お子様は産湯を使っておられますし、奥様はまだ後産がありますから、しばらくはそのままお待ちくださいまし」
無情にも、まだ赤子にもマリカにすら会えないらしい。
またもじりじりと、それでも先ほどよりもよっぽど緊張感はなく、再度長椅子に腰を下ろしたのだが、ちっとも落ち着かない。
執事が淹れてくれた紅茶を飲んだが、全く味がわからなかった。
「ジオルグ・アーグナー卿、ご子息様の誕生おめでとうございます」
「あぁ」
「無事にお世継ぎに恵まれましたね」
「…あぁ」
「…まさか腑抜けてらっしゃいますか?まだまだこれからだといいますのに」
「……あぁ」
執事のからかいにも即座には反応できず、ただただ呆然とする主にさすがに執事も苦笑気味だ。
そんなジオルグもようやっと部屋に入ることを許され、入り口近くに据えられていた湯桶で丁寧に手を洗うと、一目散に妻の横たわる寝台へと向かった。
「マリカ…」
「はい、旦那様」
横たわるマリカの頬は、これ以上ないほど青白く思わず熱を分けようとその頬に手を伸ばすが、表情はどこか満ち足りていて微かに安堵する。
産婆が後ろで、初産のせいか出血が少し多かったが、しばらく安静にしていればすぐ元気になると太鼓判を押した。その横で侯爵家の侍医もうなずいている。医療が発達したとて、まだまだ出産は女性にとって命懸けだ。
婚約から結婚までの無関心さが嘘のように、今ではこの妻が、ジオルグには何物にも代えがたく、失うことなど考えられない。
「そなたが無事なら、それでよい…」
「そんなことおっしゃらず、我が子も抱いてやってくださいまし」
マリカが侍女に目配せすれば、ゆっくりと運ばれてきたのは侯爵家の意匠が彫り込まれたベビーベッドだった。
無垢の白木を丁寧に磨いて作られたそれは、自分や兄も使っていたものらしい。
毛足の長いカーペットに車輪を沈ませながら、ひどくゆっくりと近づいてくるそれをのぞき込むと、なにやら小さな塊がひとつ。
マリカの横たわる寝台のシーツと同じ絹で作られたおくるみの中で眠る、小さなちいさな赤子。
真っ赤な頬に、うっすらと生えた頭髪は自分よりも淡い茶色だろうか、瞑った瞼も鼻も口も耳もすべてが小さく、握りこんだ指はしわくちゃだ。
壊してしまわないか心配で、手を伸ばすことも出来やしない。
「本当に…私の子だろうか」
思わずつぶやいた言葉で部屋が凍り付いたことに、ジオルグは気付かなかった。
一歩間違えれば妻の不貞を疑う言葉なのだが、こんなにも柔らかそうで、すよすよと穏やかに微かに寝息を立てる小さな生き物が、身体も大きく毛むくじゃらで繊細とは程遠い自分の子供だとは、ジオルグには到底信じられない。
触れるのが恐ろしくて、代わりに差し出されたマリカの手を握った。
「旦那様のお子ですわ」
かわいいでしょう?とマリカがほほ笑む。
よくよく見れば、とてもかわいいなどとは思えないくらい皺くちゃの子猿だし、時折小鼻がぴくりと動く。
ふぁ、と小さな口が開いて、寝ているはずなのにあくびをする。
思わずびくりと緊張に身を縮こまらせていると、握りしめた手にさらに皺を作りながらぐぐっと伸びをしたかと思うと、突然ぱたりと力が抜けて、またも寝入ってしまった。
微動だにせず、その一連の動きを凝視していたジオルグは、ゆっくりと持ち上げられたマリカの手が頬を撫でて、やっと息をすることを思い出した。
「…そうか」
じわりと視界がにじむ。
「そうか」
にじんだ視界の中でマリカがほほ笑む。
頬にあったマリカの細い指が、ジオルグの睫毛をなぞった。
「良い名を、付けてくれ」
「まぁ。旦那様は考えてくださらないの?」
「その…俺にそんなセンスはない」
「一緒に、考えましょうね」
マリカがまた幸せそうに微笑む。
ジオルグは情けなくも、涙が止まらない。
こんなことは、父が亡くなった時以来だった。
* * *
「ちちうえ」
「うむ」
「じぇいは、けっとうをもうしこみます」
マリカがいくつか候補を挙げ、ジオルグがとてつもなく悩んだ結果、アーグナー家の嫡子にはジェレイドと名付けられた。
皆から愛情を一身に受けすくすくと育ったジェレイドの最近のお気に入りは、近衛騎士である父におもちゃの剣で戦いを挑むことである。
先日迎えた三歳の誕生日で父に与えられた剣は、なんと近衛の儀礼剣を模した大変豪奢な代物であった。実際の父の剣の半分以下という長さではあるが、柄から鍔にかけて本物そっくりに精巧な細工がされており、ジェレイドの父よりも少し明るい灰眼を思わせる銀色の房飾りがついている。刀身はよく磨かれた白木で、子供が持つにはいささか重い。
しかしその重さが振り回すのに程よい重さらしく、振り回して遊んだ折に手からすっぽ抜けた剣が、祖母である元侯爵夫人お気に入りの飾り壺に見事に命中し、壺は大変大きな音を立ててただの陶器片となり果てた。その大きすぎる音に驚いて固まったジェレイドは、駆け付けた母の顔を見て泣きに泣いた。我が子と壺だったものの残骸を交互に見比べたマリカは、片付けようとするメイドを制し、ジェレイドが泣き止むと笑顔で息子に語りかけた。
ひとつ、あなたの不注意で大奥様が大切にされていた壺が割れました、謝りに行ってきなさい。
ひとつ、あなたの行動でメイドの仕事が増えました、その振る舞いが侯爵家のすべてを背負っていると自覚なさい。
ひとつ、その剣は旦那様からの頂き物です、大切に扱いなさい。
とても三才の我が子に向けるものではない凄みのある笑顔に、再度ジェレイドは凍り付いた。
後ろに控えるメイド達も、奥様に逆らってはいけない、旦那様よりも大奥様よりも、この年若い奥様には決して、と意を新たに箒と塵取りを握りしめ口を引き結ぶ。
「何より母は、あなたのことが心配です。怪我がなくてよかった…!」
先ほどの逃げ出したくなるほどの笑顔はどこにもなく、そこにはただただ我が子を心配する瞳を潤ませた母の姿があた。叱られたためか、安堵のためか、はたまたその表情の落差に追いつけないのか、ジェレイドが再度泣き声を上げ、マリカがそっとそれを抱きしめる。
メイド達もほっと息をつき、壺が乗っていた台が少し寂しげに佇む以外、何事もなかったかのように元通りになった。孫に大甘の大奥様こと元侯爵夫人は、怪我がなくてよかったと笑顔を見せたが、自室でこっそりため息をついていたそうな。
そんなこともあり、ジェレイドがその剣を振るうのは、もっぱら侯爵邸の庭、それも邸宅よりも少しばかり離れた場所でのみとなった。
父が休みの良く晴れた日には、朝食を食べ終えればすぐに父を庭へと連れ出す。大人ばかりの屋敷に剣の相手をしてくれるものは少ないが、父が休みの日だけは違う。
領地や奥向きの差配はすべてマリカがこなしてしまうため、非番の日のジオルグはのんびりとしたものだ。息子の相手、しかも自分の唯一の得意分野である剣ともなれば、二人して一日中打ち合っても(といってもジオルグにとっては遊び以外の何物でもないが)飽きたらず、食事とジェレイドの昼寝以外の時間は、ずっと二人で庭にいるといっても過言ではない。
ジオルグに似たのか、ジェレイドは体を動かすことが好きらしく、子供特有の常に全力で遊ぶというのを体現しているので、先ほどまで元気に走り回っていたのに突然ぱたりと寝てしまい、周囲の大人たちを啞然とさせることもままあった。ジオルグが休みの日にはそれが顕著で、いかに二人が全力で走り回っているかが知れよう。
まだまだ遊ぶことが仕事とはいえ、さすがにマリカが声を上げたのが、夫婦の居間でジオルグが月明かりの中でウィスキーをちびちび傾けている時だった。
「旦那様、そろそろジェレイドにも教師をつけましょう」
「…まだ早くないか?」
「早すぎることはございません。それにこのままでは、ジェレイドまで脳筋になってしまいます」
ジ ェ レ イ ド ま で 。
はっきりと言われ、ジオルグは言葉に詰まった。
「…ジェレイドを騎士にするのはダメなのか」
「駄目とは言っておりません。選択肢をお与えくださいと言っているのです」
剣筋だって悪くないし(まだ三歳だ、親バカにもほどがあるのは自覚している)、何より剣が好きだ。
自分だって近衛騎士としての仕事に大層誇りを持っているし、男子の夢として騎士は、それも貴族であるから近衛騎士になることは憧れの職業の一つでもある。
嫡男ではあるものの、爵位を継ぐのはまだ先であろうし、近衛騎士になるのに嫡男ではいけないということはない。
「…旦那様は、もっと自分が賢かったら良いのに、と思ったことはございませんか」
藪から棒に言われた言葉に、ジオルグは若干たじろいだ。
確かに自分は普段から頭を使うことが苦手で、侯爵としての仕事はマリカが担ってくれるのをいいことに何もしていない。
現在ジオルグは一応班長という要職についてはいるが、それほどえらいわけではないし、剣の腕はそれなりだと自負しているもののそれ以外はからきしで、爵位と年齢による慣例で仕方なく祀り上げられた様なものだ。
近衛隊の日常の警備計画を組んだり、視察時の王族の警護計画を立てたりする机仕事は大層疲れる上に、やっとのことで仕上げた書類はまだまだ甘いと他の長たちに赤入れされる。
であるからこそ、出来ないものは出来ないと諦め、ひたすら剣技の研鑽と体力づくりに励んできた。
敬愛する王太子殿下を、どんな時でも、それこそ自分ひとり対多数の敵という構図になったとしても、お守りできるように。
「剣技を磨かれることが悪いことだとは言いません。近衛騎士だってとても大切なお仕事ですもの。けれどもそれと同じくらい、殿下のおそばで殿下の公務をお手伝いすることも、とても素晴らしい事とは思いませんか」
ジェレイドはとにかく体を動かす遊びが好きだ、だから騎士として育てる。
悪いことではないのだけれど、侯爵家の嫡男として生まれたからにはそればっかりでは困る。
実際に剣を握るだけの人生であったジオルグは、継ぐはずのない侯爵位を継いで、剣技だけではままならないことが多くあるのを知った。
武力で殿下をお守りする以前に、そうならないよう机上で別の戦いがあることも知っている。
殿下をお守りするのが自分ひとりになったとしても最後まで戦い抜く自信はあるが、自分が倒れたら誰がお守りするのか、そもそもそうならないために、日々王城の文官たちがその頭脳でもって別の戦いに明け暮れているのを、自分は誰より身近に見てきた。
何より、自分が殿下のそばに侍るのは、近衛騎士としてしかもローテーションで組まれているわずかな時間だけ。
殿下の側近として侍る文官たちに比べたらわずかな時間であるので、その地位に焦がれたことも皆無ではないが、自分の頭の足りなさは十分に承知しているので、憧れすら抱けなかった。
それが、もしかして自分の息子がしっかりと学び、励み、その地位に立つのに十分な教養を得られたとしたら。
ちょうど昨年、殿下にもお子がお生まれになった。
しかも男子、王族直系の由緒正しき王子である。
敬愛する殿下のお子の隣に、自分の子供が常にお側に控えている、まさに婚前に夢見た光景ではないだろうか。
当時は実現するとは全くもって思っていなかった。
どうしたことか、それが今、手の届くところにある、かもしれない。
実現するかは、ジェレイドの成長と教育次第なのだ。
「教師を付けます、いいですね」
もはや決定事項の伝達だ。
この家の主人は、とうの昔にマリカになった、逆らえない。
それなのに親族を集めた会合やら稀に出席する夜会なんかでは、マリカは楚々としてジオルグの半歩後ろに佇み、時には優雅な仕草でジオルグの腕にその嫋やかな手を絡ませるのに、決して出しゃばらずむしろ控えめで、交わす会話には時折ジオルグを立てる言葉を差し込んでくる。これにはジオルグも座りが悪くなるものの、外でそれを出さないくらいの腹はある。単に妻に褒められるのは悪い気がしないから、ということかもしれないが。
ともかく、これまで何もかもを彼女に任せっきりではあったが、それらはすべてにおいて順調に回っていた。
社交然り、領地の運営然り、屋敷の差配然り…ジオルグの昼のみならず、夜の生活然り。
アーグナー侯爵家において、マリカはなくてはならない存在となっている。
「マリカに任せる」
ジオルグに出来る事といえば、鷹揚にうなずくのみだ。
* * *
うっすらと汗ばむようになってきた昼間の陽気とは裏腹に、夜はまだひんやりとした空気が肌を撫でる頃。
妻の体温を思い出しながら一人の寝台にもぐろうかと、常ならばめったに座ることのない一人掛けのソファから腰を上げた深夜。
コツコツといつもよりもいささか早い調子のノックに、こちらも足早に駆け寄って、声を掛けられるより前にドアを開いた。
「旦那様、お手紙でございます」
盆にも載せず、受け取ってすぐここまで来たのだろう、執事の息が珍しく微かだが上がっている。
むしり取るようにその柔らかな橙色の封筒を受け取れば、見慣れた妻の筆跡で自分の名前が。
ペーパーナイフも使わず封蝋を弾け飛ばしつつ開いても、この時ばかりは執事も黙って見守ってくれた。
中身は、たったの便せん一枚。
茶会に誘う手紙のような侯爵夫人として泰然とした妻の文章ではなく、屋敷の中でこまごまと指示を出すときのすっと伸びた妻の背筋のように簡潔な言葉で。
『無事、生まれました。女の子です』
昨年の秋口に最後の王宮での夜会が終わり、政治的にもゆとりのある時期だからと、ジオルグには珍しく少し長めの休みを取り、妻と二人の子供が社交シーズンを終えて領地に帰るのに付き添った。
領地に引きこもり、嫁を指導したり手伝いながらとのんびり余生を過ごしている未だ元気な元侯爵夫人は、孫たちの帰還を諸手を挙げて歓迎した。
事あるごとに領地と王都を行ったり来たりする妻とは違い、王都にいるのが常である侯爵の帰還に領地の本宅に勤める者たちを微かにざわめかせたが、そこはさすが侯爵家本宅に勤める者たちである、一瞬の間に侯爵一家がくつろげるようすべてを整えてみせた。
王都のタウンハウスの倍はあろうかという本邸の広大な庭を走り回る長男は、教師をつけられて多少の落ち着きは見せたものの、外で遊ぶ時にはいまだに父からもらった剣を手放さないし、やっと歩き始めた次男は既にジェレイドを上回るわんぱくぶりを見せつけて周囲の大人たちをハラハラさせている。
そんな様子を眺めながら数日を過ごし、いざ王都に戻ろうかと準備を始めたその日、なんと妻の三人目の懐妊が発覚した。
さすがの貫録を見せる妻とは反対に、ジオルグは今回も大層うろたえ、領地に残って出産するという妻を残し、後ろ髪をひかれつつ仕方なしに王都に戻った。
妻のいないタウンハウスはとても寒い。
上の子二人は王都で産んだので、一人で過ごす冬は大層堪えた。
やっと寒さも緩み、若葉が光る頃になって届いた、待ちに待った吉報である。
睡眠不足もなんのその、上機嫌で出仕する姿は、周囲から見れば常と変わらず無表情の大熊だが、近しいものが見れば確かに上機嫌であろうと知れるほどには目元が緩んでいた。
「何かいいことでもあったのか」
そこにジオルグの尊敬してやまない王太子殿下から直々にお声を頂いたとあれば、その顔もさらに緩もうというものである。
「は。領地の妻から、無事子が生まれたと手紙が届きました」
「そうか、それは良い…アーグナー卿、おめでとう」
一児の父となり、更なる深みをたたえた王太子の目元も、たかが一騎士に向けられるものとは思えないほどに柔らかく弧を描いた。
「そのお言葉だけで、恐悦至極に存じます」
王城内の、しかも一応警備中であるので、ジオルグは右手を胸に当てる略礼だけにとどめるも、合わせた視線は王太子からすればトロリと蕩けそうなほどである。
それには苦笑のみを返し、王太子は側近と共に執務室に入る。
常ならばジオルグはそのまま重厚な扉の前にとどまり、来客があれば簡単な取次などもしている。
けれど王太子がその扉をくぐりきる前に、思い出したかのように振り返り、再度ジオルグに声をかけた。
「夜番に代わる前に、少し話をさせてくれ」
「承知いたしました」
前例のない声掛けに一瞬ジオルグに緊張が走るが、すぐに通常程度の緊張をみなぎらせて、今度こそ敬礼でもって返した。
一週間後、ジオルグは二人の部下とともにアーグナー侯爵領へと旅立った。
王太子殿下を、自領の本邸へと迎える準備をするためである。
名目は、周辺各地の視察の拠点にアーグナー領を、という指名であった。
自領に王太子殿下をお迎えするということは、まぁとにかくすべてが大変なことではあるのだが、とても名誉なことでもある。
王家直々の速達で本邸に手紙が行っているはずだが、護衛騎士ではなく侯爵として迎えるようにとの殿下直々のお達しもあり、ジオルグは馬を駆る手に力を込めた。
殿下には申し訳ないが、当面会えないと思っていた妻と子供らに会う口実ができたことで、ジオルグもいささか浮き立っている。
のんびりと馬車に揺られれば五日はかかる行程を、愛馬を急かし宥めて三日で駆けさせてしまった。
連れ立った部下たちと共に、十二分に労ってやらなくては。
月が明るい深夜というには少しだけ早いであろう時間に、ついに自領の本邸が見えた。
めったに帰ってこない本邸には若干の懐かしさを覚えるが、今現在は一応、王太子殿下の先触れという立場である。
気を引き締めなして馬を預けると、部下と共に本邸へ足を踏み入れた。
「長旅、お疲れ様でございました」
「……マリカ」
「閣下、どのようなご用件で参られましたか」
目があった瞬間、ほんの少しだけ柔らかく崩れた目元が、何事もなかったかのように細められた。
どうやらジオルグは対応を間違えたようだ。仕事に厳しい妻の反応に、慌てて居ずまいを正す。
「王太子殿下の名代として、先駆けて参りました。こちらが正式な書状となります、お納めください」
「かしこまりました」
恭しく受け取ったそれをそのまま控えていた執事に渡すと、彼女の表情もぐっと和らぎ、形式ばったやりとりの終了を感じてジオルグも今度こそ肩の力を抜いた。
「…さて皆様、お疲れでございましょう。お二方には軽食と客間をご用意しておりますので、明日の昼までどうぞお寛ぎ下さい。旦那様はわたくしと奥へ」
侍女に案内され廊下に消えていく部下を視界の隅で見送り、ジオルグは妻に向きなおる。
こんな夜更けにまだ起きていたことも驚きであるが、それよりなにより。
「まだ寝ていなくていいのか。体はつらくないのか?」
産後間もないマリカが出迎えてくれたことが、何より驚きだった。
ジェレイドを産んですぐのマリカは、出産という大仕事をやり遂げ気丈に振舞ってはいたが、ふっくら艶々としていた妊娠期に比べて痛ましいほどに消耗していた。すぐにでも立ち上がろうとするマリカを寝台に縛り付けるため、産前から内定していた一人に加えて、急遽二人目の乳母を雇うこととなったのも今ではいい思い出である。
そんなマリカは、先日三人目を出産したばかりで、それからまだ一カ月も経っていない。
ジオルグは隙あらば妻を抱き上げようを窺っているのだが、それを察した妻がひらりと一歩先を歩く。
「もう三人目ですもの。寝たきりは退屈ですわ」
体が慣れたこともあるが、まだまだ甘えたい年頃のやんちゃ坊主が二人もいるのだ、寝台に伏してばかりもいられない。
更には王太子御一行来訪の知らせである。マリカがいなければ、何事もうまく回らないであろうことは、屋敷の者だけでなくジオルグにだってわかっていた。
「すまない、こんな時期に…」
「旦那様のお仕えする御方ですもの。喜んでおもてなしさせていただきますわ」
実際には、ジオルグの属する近衛騎士団は王族・王宮を守る立場であって、王太子殿下個人に仕えているわけではない。
隊によっては国王陛下付などの専属とする部隊もあるが、ジオルグ率いる近衛騎士団第二部隊第五班は、王族の警護を主とする立場であるから、もちろん王太子の周辺を警護することが多くあるものの、専属というわけではない。
それでもなおマリカは、ジオルグが職務としては王族を警護する立場だが、王太子個人を崇拝している(といっても過言ではない)事を理解してくれている。
それだけでジオルグは十分満足していたのだが、いつの間にか家族が増え、愛しいもの、守りたいと思うものが増えた。
マリカがジオルグにいくつか確認をしながら進めば、向かう先がいつも本邸で使う夫婦の居間とは行き先が違うようだと気付く。
部下たちとはかなり離れた客室の前に案内され、ジオルグはまさかと目をみはった。
「先程寝ついたばかりなのでお静かに」
そっと人差し指を口元に当てたマリカが、柔らかく微笑む。
こくこくと緊張の面持ちでうなづいたジオルグに、マリカの夜目に見ても白い指がドアノブにゆっくりと触れた。
生まれたばかりの我が子を堪能し、母にあまりかまってもらえない息子達をかまいつつ、部下たちと警備計画を立てていたジオルグは、今日ついに、自領の本邸へ王太子殿下を迎えることとなった。
警備以外についてはほとんどノータッチに近いが、産後間もない妻に任せきりなのが申し訳なく、遊んでとせがむ子供たちを肩車したり両脇に抱えたりしながら各所への伝達をかって出たり、一応それなりの最終判断を任されたりとせわしなく過ごすこと数日、ついに迎えたこの日。
玄関前のアプローチに王家の紋を掲げた馬車が停まり、軽やかに降りてきた王太子は輝かんばかりの笑顔だった。
「やあジオルグ、出迎えありがとう」
侍従を連れた王太子の、なんと凛々しい事か。
ジオルグは一瞬見惚れかけ、慌てて居住まいをただすと、正式な臣下の礼を取った。
「此度のご滞在先を我が領にお選びいただきましたこと、誠に光栄にございます」
「あぁ、よろしく頼む」
いつもとは異なる立場でのやりとりに、ジオルグは直前まで隣の妻と後ろに控える家令に、一言一句間違えぬようにと何度も何度もたったこれだけのやりとりを繰り返していたのだが、なんとか噛まずに言い終えることができた。それを知っていたかのように、王太子は微笑ましいような笑みを浮かべる。
玄関ホールで待ち受ける一糸乱れぬ使用人たちの礼に軽く手を挙げ、ジオルグの案内で王太子は歩を進めた。
「侯爵として、多少は身についてきたんじゃないのか」
「いえ、まだまだ学ぶことの方が多いばかりで…妻には苦労を掛けます」
「…自覚はあるのか」
「えぇ。まぁ…」
気まずげに目をそらすジオルグに、王太子はくつりを笑う。
書類仕事は苦手だがそれ以外の勤務態度は実直真面目で、剣の腕が立ちかつ殿下バカを自認している、そんな男に懐かれて王太子も時折、彼を重用することがあった。
ただの近衛騎士とその護衛対象にしては、二人の仲は少々気安い。
「近衛を辞める気はないのか」
「全くございませんが」
「お前、侯爵だろう。大丈夫なのか?」
「よく出来た妻がおりますので」
「辞めた方が子供と一緒にいられるぞ?」
最後の一言は、お子が生まれた父親としての本音だろうか。
以前とは少し違う柔らかに目元を緩める王太子のその表情が、妻子への慈しみを雄弁に語っている。
「旦那様から、仕事を取り上げないでくださいませ」
控えているだけだったマリカが、一歩進み出てたどり着いた客間の扉を開く。
侯爵邸の中でも一番広く上等な客間は、古めかしくも丁寧に使い込まれたであろうことが伺える飴色の伝統的な調度品がそろい、その中に現代的な流行の小物でアクセントをつけた、いかにも貴賓のための部屋である。
張りのあるソファに一行が腰を落ち着け、侍従やら近衛やらが部屋の要所に配置についたのを見届けると、侍女が押してきたカートをマリカが引き継ぎ、侯爵夫人手ずから紅茶を淹れた。
使われている茶器や、添えられた菓子に王太子が目を凝らして、微かに驚きの声が漏れる。
「もしかして、王宮と同じものをそろえてくれたのかな?」
「えぇ、旦那様の発案ですわ。少しでも心休まるようにと、珍しく旦那様が手配しましたのよ」
「…それは言わない約束ではなかったか」
そうだったかととぼけるマリカの手はよどみなく動き、王太子の前に白磁のカップが差し出された。
毒見役の侍従が銀のスプーンで一口飲んでから目配せし一歩下がると、王太子が口を付けた途端、今度こそ声を上げてうぅんと唸った。
「城で飲むのと同じ味がするのだが…」
「花茶の淹れ方は、妃殿下にお教えいただきました」
王太子妃の母国には、それはもう様々な色の茶がある。
香りを楽しむものから、ガラスの茶器の中で花開く様を愛でるものまで様々だが、王太子が好むように妃が淹れるそれは、葉の香りよりも香ばしさが勝るのだが、わずかな湯温の差でひどい渋みが出てしまうものだ。
幼いころから様々な茶を嗜み、湯気や触れる茶器の熱だけで湯温を正確に読み取る王太子妃に比べ、マリカが同等に淹れられるようになるには、それなりの苦労があったろう。
しかも侯爵夫人が王太子のためにとあれば、その寵を得んとすなどと勘繰られかねないのを、なんと王太子妃自ら指導したとは。
元々マリカは商家の娘であった。それも一代限りではあるが男爵位を賜るほどの大商会を立ち上げ、王室御用達も目前と勢いのある大豪商の孫娘である。
その商会を大きくしたのが、当時、一早くこの国に東方の茶を仕入れたことであった。
紆余曲折の苦労の末、とある荘園との契約を果たした商人は、なんとその地で妻を娶り、五人もの子を設けた。
それから一家で助け合いながら商会を切り盛りし、今では庶民向けの安い大衆茶から希少価値のある花茶まで、この国に流通する茶の半分はこの商会が関わっているといっても過言ではないだろう。当然、王室にも王太子妃の母国の茶が献上される。
初めのうちは妃も、もともとこの国の王室に出入りしている商会などの兼ね合いもあり、懐かしさから楽しむ程度に留めていたのだが、初めての懐妊・出産とあらば、万全の態勢が敷かれていようとも、漠然とした不安も心細い事も多々あろう。この国で用意されたものはもちろん一級品であるし、不満などあろうはずがない。母国からももちろん大量の贈り物がされたのだが、そこには友好国としての敬意を表すため、そして妃の郷愁を安易に誘わないために、母国を感じさせるような伝統的なものは一切の排除がなされていた。
そこへかの商会からアーグナー侯爵家経由で、母国の伝統的な刺繍の入った産着やおくるみ、更には妃のためのリネンや肌触りの良いゆったりとした部屋着などが献上されたのだ。珍しくとても良いものが手に入ったからと、他意はない旨をわざわざ但し書きのされた献上品である。
妃が喜ばないわけがなかった。
「我が妻が世話になっているようだな」
「いいえ。妃殿下にはお目をかけていただき、とても感謝しております」
しかも献上の際に侯爵に付き添った侯爵夫人は、妃の母国に多い漆黒の髪であった。
聞けば彼女の祖母の出身が、妃の母国であるという。
子供らの年が近いこともあり、妃のお茶会に侯爵夫人が頻繁に呼ばれるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
元をたどれば平民出身である侯爵夫人に、やっかみや陰口は多いものの、社交の場では常に侯爵に付き従い楚々と過ごし、王太子妃の覚えめでたいとあれば、おおっぴらに糾弾する者もいない。まぁ、陰に入ればそれなりにいろいろあるのだが、女同士のそれらが侯爵に気づかれるわけもなく、夫人のほうはこれも社交のうちと軽くあしらえるように姑や妃に日々教育されている。
「仲がいいようで何よりだ」
「末永く、良しなに」
「で、侯爵は近衛を辞める気はないのか」
「…辞職しろという勧告ですか」
「いやいや、ただの確認だよ」
朗らかにほほ笑みあった二人とは対象に、ジオルグの眉間に深いしわが刻まれた。
そんなにもしつこく確認してくる王太子に、さすがのジオルグもこれはもう別の意図があるのではと勘繰ってしまうのも仕方がない。
普段はそんなもったいぶった言い回しをあまりしてこない王太子に、何とも言えない不安がよぎる。
「だってもういい歳じゃないか。辞めたってだれも咎めないぞ」
確かにジオルグはもう四十をとうに超え、近衛騎士のなかで言えばかなり高齢の部類に入る。
役職に就く者の多くは立ち番などの現場を退き、体力の衰えを理由に辞める者もいれば、後進育成のために指導役に就く者もいる。
だがジオルグは、かなうならば一生現役で王太子をお守りする立場でありたいと願っている。
確かに多少体力が落ちたとは感じるが、それ以外の剣技だったり観察眼だったりでそれを補えていると自負している。
まだまだ退く気はないし、マリカもそれを是としてくれているはずだ。
「生涯、お側でお使いください」
「旦那様の生き甲斐をお奪いにならないでくださいませ」
夫婦それぞれの決意の表情で言われてしまえば、さすがの王太子も分が悪い。
やれやれといった表情で両手を挙げて、素直に降参した。
「悪かった、他意はない。こき使ってやるからこれからもよろしく頼む」
吹っ切れたような表情で、王太子がにやりと笑う。
「もちろんですとも」
「…長居が過ぎてしまったようですわね。遠路でお疲れでしょう、晩餐までゆっくりとお休みくださいませ」
「あぁ、そうさせてもらおう」
王太子の視察も順調に進み、ついに迎えた最終日。
水面下では上へ下への大騒ぎだったが、そこは侯爵邸で働く使用人達である、客人の前では平然と淡々と作業をこなしていく。
周辺各地の貴族や有力者たちを集めた晩餐もつつがなく終了し、あとはサロンで男性は葉巻と酒を、貴婦人は茶とささやかな甘味で締めくくろうと移動し始めたころだった。
「アーグナー卿、それから夫人も。ちょっといいかな」
主賓である王太子に声をかけられれば、いくら主催である侯爵夫妻が不在であっても咎められることはない。
サロンから離れ、当てがわれた貴賓室へと足を向ける王太子に、呼ばれた理由のわからない夫妻は目配せしながら首を傾げあった。
「人払いを」
飲み物を準備し終えた使用人たちを全員下がらせ、部屋付きのはずの近衛騎士や侍従たちも心得たように扉の向こうへ消えた。
残ったのは王太子と侯爵夫妻、それから一人だけ直立不動のまま移動しなかった近衛騎士、の四人である。
「君たちに、頼みがある」
人前で見せる優雅な仕草とは全く別物の様子で、ティーカップを鷲掴みごくりとのどを潤した王太子は、一度大きく息を吐いてから、急に頭を下げんばかりの前のめりになりつつ口火を切った。
視察はまぁついでのようなものだ、と少し目を泳がせながら聞いてもいない言い訳をするさまは、平素のゆったりと鷹揚に振舞うさまとはかけ離れていて、ジオルグは目を瞬かせる。
もしかして、緊張してらっしゃるのであろうか。
隣の妻はとちらりと伺えば、背筋を伸ばしたまま微動だにしていなかった。
「これはまだしばらく伏せていてほしいのだが…我が妻が懐妊した」
「それは…おめでとうございます…!」
「妃殿下のご懐妊、心よりお祝い申し上げます」
「あぁ、ありがとう。それでだな、アーグナー卿には第一部隊への異動を、夫人には子の乳母を頼みたい」
寿いだ夫妻のその口が、そのまま驚きに固まった。
近衛騎士団第一部隊といえば、王宮全体を警備する第二部隊とは違い、国王陛下夫妻ひいては王族らを専属で警護する部隊である。
現在第一部隊は、国王夫妻をお守りする第一班にはじまり、王弟夫妻付の第二班、王太子夫妻とまだ幼い王子を担当する第三班までがある。
懐妊が判明し、ゆくゆくはお子が増え、第三班の負担が増えることは自明であろう。
なので生まれる前に二人の子のために第四班を立ち上げて、今のうちから万全の警備態勢を敷いておきたい。
そしてその第四班の班長にジオルグを推薦する、と王太子自ら打ち明けてくれているのだ。
ジオルグに、断るという選択肢があろうはずがない。
ひとつだけ、懸念があるとすれば。
「命に代えましても、お守りするという意志と術はあるつもりです。ですが…」
「頭がたりない?」
「…はい」
どんなに腕が良くても、どんなに意志が固かろうとも、要人の警護とはそれだけで勤まるものではない。
これまでの王宮を守るというのは、決められた区画を警備するという、ある意味わかりやすい仕事であった。
広間や王族の私室の扉の前の立ち番であれば、危険に対するある程度の予測がたやすい。
だが、王族個人を警備するとなれば、脅威がどこからやってくるのかありとあらゆるシミュレーションを行わなければならず、また今回のような視察であれば、それに基づいた旅程のルートや宿泊先での警備体制などを考えなければならない。
いざ事が起こってから対処できる自信はあるが、そうならないための計画を立てることはどうも苦手だ。
「自覚があるなら十分だ」
断ることはなさそうだと分かっている王太子が、安心させるように両手を広げる。
「そのために、こいつをお前の副官につける」
「近衛騎士団第一部隊第三班に所属しております、アインと申します」
「まだ若いが、三班班長の推薦だ。こいつの立てる計画はとにかく周到だぞ」
「誉め言葉として受け取っておきます」
ジオルグも知っている顔だが、その人となりまではわからない。
だが、王太子はじめ、騎士団内での信も厚いようだ。
それならばもう、ジオルグにためらいなどあろうはずがない。
「異動の件、しかと賜りました。この命に代えましても、王子殿下らをお守り致します」
立ち上がり、正式な騎士団の礼でもって応える。
いつか近衛騎士として王太子付になることが夢だった。
自分にはどうしても足りない物があるのはわかっていたが、それを学べるほどの余裕も器用さもなかったから、半ばあきらめかけていた。
それなのにこれは、王太子直々に、彼の一番守りたいであろう者の一人を預かる立場を任されるのだ。
これほど栄誉なことが、他にあるだろうか。
「この命に代えましても、必ず」
ぎり、と握りしめた拳に、かみしめた奥歯に気力が漲る。
これほどまでに、力が、喜びが体を駆け巡ることなど初めてだった。
「あぁ、頼んだぞ」
しかし、その横で彼の妻が、意を決したように言葉を発する。
「…わたくしを乳母にとのお話ですが…辞退をさせてくださいませ」
聞いたジオルグの喉がひゅっと嫌な音を立てたが、さすがの妻も大層緊張しているらしい。
細い指をそろえた膝の上できゅっと握りしめている。
そのあまりに白い指先が気になって、ジオルグはそっと妻の手を己の手で包み込んだ。
「うーん、夫人ならそう言うと思ったんだけどさ」
王太子殿下の口調もだいぶ砕けてきている。
晩餐でお酒が入ったせいもあるだろうし、先ほどジオルグが諾と答えて安堵したからかもしれない。
「大変光栄で栄誉なこととは存じておりますし、お断りするのも心苦しいのですが…。わたくしは、現在は侯爵夫人という立場にございますが、そもそもは平民出身でございます。血統正しき王族の、それも王太子殿下のお子様の乳母など勤まる訳がございません」
社交界での侯爵夫人としての評価は決して低くはないし、王太子妃のお気に入りであると周知されつつある。
それでもまだ、血統を重んじ元は平民というだけで、排除しようとする一派は少なからずいるのだ。
マリカ一人が対象ならば、まだいいだろう。マリカ自身あるいは侯爵家への評判や嫌がらせだけで済む。
けれど、乳母として仕えるのであれば、話は別だ。
王太子妃周辺に害が及ぶようなことはあってはならないし、ひいては平民の乳母がついたからと、生まれるお子に中傷が向き、ゆくゆくは正統であるはずの生まれや王位継承権に、謂れのない瑕を付けることになるかもしれないのだ。
たかが乳母一人を雇うだけの話だが、王家のそれも王位継承権を持つであろうお子の乳母である。
人選に万が一があってはいけない。
「うちの奥さんも、君のことはえらい気に入ってるしね」
もちろんマリカだって妃殿下にはなにくれと目をかけてもらっていて有難い以上に、その人となりに触れて大変お慕いもしているが、それにしたってリスクの方が大きすぎる。
重ねて辞意を述べようとしたマリカを、王太子が軽く手を挙げて留めた。
「ここ最近、貴賤に関わらず有用なものを採りたてる動きがあるのを知っているか」
「…昨年、陛下が提案された新しい雇用制度のことですわね」
「あぁ。とても有用な制度だとは思うんだが…思った以上に反発が強くてね」
陛下は国王としては天才どころか鬼才と呼ぶべき程に施政に優れた方ではあるが、少々…だいぶ人の機微に疎いところがある。
今話題に出された雇用制度も、これまでの貴族のみで行われてきた排他的な政治を、貴族だけではない優秀な者を集めて行っていこうというものだ。
新しく人が入ればその分去らねばならない者も出てくるだろう。それを危惧してなかなか具体的に進んではいないのが現状だ。
「ここに、カーマイン侯爵子息からの手紙がある」
「兄上から?」
「あぁ。義父にあたる侯爵は領地持ちで宮仕えはしなかったが、陛下とは昔馴染みでね。今でも親交があるんだ」
当時既にアーグナーの侯爵位を継いでいた兄は、大恋愛の末、カーマイン侯爵の一人娘のところへ婿に入った。
どちらも名門と呼んで差し支えない家柄だが、特にカーマイン家は古くから王家に仕える由緒正しき家柄であったので、婚姻や爵位をめぐって派閥の均衡やら、陛下はじめ親族一同の許しを得るなどの膨大な根回しだけでなく、煩雑な手続きが山程あったにも関わらず、兄は涼しい顔でそれらすべてをやってのけた。
現在はカーマインの地について新たに学び直しつつ、社交に精を出しているらしい。
頭を使う方面において大変優秀な兄からの手紙の内容など、ジオルグには見当もつかなかった。
「男爵の孫とはいえ、元は平民であるアーグナー侯爵夫人がいかに優秀であるか。それから、元が平民であるがゆえに、今陛下が推し進める政策の導入にいかに有用であるか。そして正式に採用が決まれば、夫人の乳母としての後ろ盾はもちろん、王家の意向についてもカーマイン家が全面的に支持する、と。…夫婦そろって愛されてるねぇ」
そのあまりの内容に、ジオルグは顔をほころばせ、普段はどちらかというと表情に乏しいはずのマリカは明らかな渋面を作った。
自身の妻が手放しで褒められることに夫は喜び、妻はその責任の重大さに慄きつつも、すでに外堀は埋められ断れないことを知り頭を抱える。
祖父を含めた家族親族らから叩き込まれた商魂が、青い顔のままではあるが、これからについての計算計画を始めた。
入用なものは、登城するにあたり新たに服やら小物やらも追加しなくては、商会の宣伝も兼ねているのだから姉のうちの一人が相談に乗ってくれるはず、邸宅を留守の間の采配や子供の世話係も新たに増やさなくては…現実逃避にも似たそれらを頭の中でこねくり回していると、くっと王太子の笑う気配がした。
「…失礼いたしました」
「いや、面白いものが見れたからね」
あまりの驚きに王太子の存在を失念してしまっていたようだ、慌てて目を伏せる。
「それに、これはうちの奥さんたっての希望でもあるんだ。そばにいてやってくれると嬉しい」
「それは…もちろんでございます」
既に出産の経験があるとはいえ、まだまだ産前産後に命を落とすものも少なくない。
万全の体制ではあるが、それでも不安がないわけではないのだ。
年が同じでお互いに子供がいる。母国と所縁のある人物で、普段からも気の置けない友人の一人として交流もある。そんな人物が乳母となれば、どれだけ安心できるだろうか。
政務云々は抜きにしても、マリカも妃殿下を支えたいと願う一人なのだ。
「乳母といっても三人雇ううちの一人だ、気楽に構えてほしい。頼まれてくれるな?」
「はい。謹んでお受けいたします」
「よろしく頼んだ」
* * *
「なぁ、マリカ。話があるんだ」
「なんでしょう、旦那様」
ベッドの横に陣取り、妻の小さな手を握る。
横たわるマリカの顔色はどう見たって良くはないし、握りしめた手はかさついて張りもない。
まだ末の娘がデビュタントを迎えたばかりで、孫の一人も見ていない。
二人で歳を重ねてきたが、もしいつか死後の世界へと旅立つ時が来たら、それは自分が先だと思っていた。
けれど病に侵されたマリカの体は明らかに衰弱し、明るいはずの屋敷全体が沈み込むようにほの暗く感じる。
「…謝りたいことが、あるんだ」
「なんですか」
ふふ、と力なく笑うマリカの笑みは、それでも穏やかだ。
常にしゃんと背筋を伸ばしていた妻が、力なく横たわる姿はいつにもまして小さく見えた。
「一回りも上の男に嫁がせて申し訳なかった。
俺が、殿下の子供の隣に自分の子供を並ばせたいなどと大仰な夢を持ってしまったばっかりに、君をこの家に縛り付けてしまった…」
うなだれながらぽつりぽつりと話す夫に、マリカはぱちくりと目を瞬かせる。
その珍しく幼げな表情と動作に、ジオルグは愛しさとやるせなさがこみあげてくるが、努めて表情筋を動かさないように力を込めた。
「君はいつでも完璧だった。
初めて会った私を恐れるでもなくしかりとばし、近衛の仕事しかできない私を責めず、家の内向きの事だけでなく侯爵としての私の仕事が何もないほど、この家のために尽くしてくれた。君がいなければこの家はきっと取り潰されていた、本当だ。それくらい私は何にもできなかったのに、君がすべて私の代わりとなって取り仕切ってくれたことで、陛下の覚えもめでたく、皇后陛下にも重用されている。すべて君の功績だ」
ジオルグのすべてであった王太子殿下は、今では国王となって立派にこの国を統治なさっている。
皇后のみならず現王太子らと共に、アーグナー家は侯爵家としては異例なほど王族と近しく家族ぐるみの付き合いをしている。
それに、それまで屋敷の誰もがジオルグのことを若様と呼んでいたのが、いつの間にか旦那様と呼ばれるようになった。
マリカが嫁にきて変わったことのうちの些細な一つだが、ジオルグにとってはとても大きな変化であった。
「君は良い母でもあった。
ジェレイドをはじめ五人もの子供に恵まれた。初めてジェレイドに教師を付けるといわれたときは戸惑ったものだが、今となってみれば異論をはさむ余地もない事だったのが後になってわかった。結局ジェレイドは私と同じ近衛騎士となったが、私とは全く違う。ただ戦うだけでなく如何に守るか、どうやって部下を使うか。いざ戦う前からいろんな場所で様々な者と共に戦っている。きっと近衛を率いる立場になるだろう…親バカというか?違うぞ、君がそうやって育てたのだ」
入隊可能な年齢になるのを待てずに近衛の門戸を叩いた長男は、上官には猫なで声で媚びられ、陰では親のコネと蔑まれた。
ジオルグは何もしなかった(出来なかったという方が正しい)のだが、いつの間にか彼自身の努力が一部に認められ、独自の地位を築きつつある。
「三男が家を継ぐのはおかしいと言われたこともあったな…。長男は王家に仕え、次男が隣国に留学したきり帰ってこないのであれば仕方なかろう。まぁ元来興味のあることは突き詰めたがるあいつには、家の事よりも研究の方が性に合っているようだ。極稀に顔を見せても研究の事ばかりで、久しぶりに会った執事がちょっと引いていたのは笑ったが、本人が楽しそうなのが何よりだ」
奔放な次男とは対照的に、三男は幼いころからマリカにべったりで、皇后に呼ばれて登城する母に良く泣きついていたものだ。
おかげでマリカは城に上がる以外のすべて、タウンハウスの執務室にも領地の視察にも実家となった伯爵家や生まれた商会にまで、三男を連れ歩く羽目になった。
その結果、タウンハウスに出入りする貴族やら商人のみならず、領地の重役や果ては農民にまで可愛がられ、まだ至らないことは多々あるものの、今では立派にマリカの代わりを務めている。
「女は度胸と愛嬌だ、などと…誰に似たのだろうな?デビュタントの夜会直前まで帰ってこないものだから心配したが、いざ陛下にご挨拶をと拝すれば、初対面であるはずの第二王子殿下が目を瞬かせていらした。どこで何をしていたんだか…恐ろしくて聞いておらんわ」
「『裏庭』に、行っているそうですよ」
裏庭とは、正式には王室第三庭園といい、貴族街のはずれにある閑散とした庭園である。
建国当初からある由緒ある庭園ではあるが、庭園というよりありのままの自然を生かした公園、といえば聞こえはいいだろうか。
「人目に付かないので、王家や所縁のある公爵家のご子息の遊び場になることもあるそうですよ。先代陛下も昔は裏庭でやんちゃなさったとか…聞いてませんか?」
「初耳だ…」
何年か前についに念願の陛下付の班へと異動になったジオルグは、時折あわただしく駆けていく王子付の近衛の面々を懐かしくも微笑ましく見守っていた。
護衛の側からすればとても優秀であった現陛下に比べ、先代陛下は相当な変わり者かつ破天荒で、予定通りに進むことの方が少なく近衛泣かせであったと聞いている。ジオルグが勤める頃にはかなり落ち着き、マシになったとは諸先輩方から聞いていたが、まさかその性質が孫の王子殿下に継がれているとは。
「侯爵として、一人の親として、君には感謝してもしきれないほどたくさんの幸せをもらった。私のくだらなかった夢は、これ以上ないほどに叶っている。君がぜんぶ叶えてくれた。
…だから今度は、君の望みを叶えたい。君がくれた恩に報いたい」
とある商家に生まれた少女は、その家が爵位を持つ大豪商だったばっかりに政略結婚の駒にされてしまった。
彼女は生来の才覚と努力による振舞いと吸収した知識でもって、嫁いだ家のために尽くした。
もう、いいではないか。
彼女だって幸せになるべきだ。
これほどまでに衰弱してしまうまで、その言葉を告げられなかった自分が悔やまれる。
「君の、望みはなんだ」
財産であればいくらでも捧げよう、そもそも彼女が築き上げたものがほとんどだ。当然の権利である。
離縁を求めるならば…この身が引き裂かれるように辛いが、それでも肯こう。爵位を笠に着て結婚を迫った男の元を去りたいと言われたら反論の余地はない。
「では…これからは、私に愛を囁いてくださいますか…?」
ほんの少しだけためらった後、握りしめた手に微かに力が込められた。
紡がれた言葉は、ジオルグの胸の奥に突き刺さる。
「旦那様には内密にとお願いしておりましたが、最初に釣書を持ち込んだのはわたくしです。義兄様であるカーマイン侯爵閣下にお願いして、他にいらした候補の方の家には直接お話をさせていただき、結婚を整えていただきました」
それこそ初耳である。
マリカから望まれたのだということも、他にも候補がいたことも。
今でこそマリカでなくてはと思っているが、当時の自分はきっと誰でもよかった、傲慢にも。
「こんな小娘ではその気になってすらいただけないと思いまして、初夜の寝室に香を焚きました」
ただの香ではなかったと、そのいたずら気な瞳が物語っている。
所謂、娼館で使われるような代物であろう。
妻の顔がいろんな方面に広い事は、この身をもって知っていた。
「陛下に嫉妬することもございましたが、それも含めてこその旦那様ですもの。この家の内向きのことなど些事ですわ」
それに愛しい旦那様との子に囲まれておりましたし、と続けるマリカに開いた口が塞がらない。
初めて知る事実ばかりだ。
妻は隠し事まで完璧だったようだ。
「まぁ、全部子供たちや使用人達は知っているのですけれど」
…前言撤回。隠し事が完璧だったのは、ジオルグに対してのみらしい。
「ですから、お慕いする方に嫁ぐことができて、そのお方を支えるお手伝いをして、子供たちにも恵まれて…わたくしは本当に幸せでした。唯一の心残りとすれば、お慕いする旦那様に愛されなかったことでしょうか」
政略結婚なのだから愛してはいけない、いつか離れていく者を愛しいと思ってはいけない。
そう言い聞かせて、頑なに言葉だけは捧げてこなかった。
愛のない結婚を強いてしまった罪悪感から、どうしてもその言葉だけは囁くことすらできなかった。
とっくの昔に、愛おしいと、唯一無二の愛だと、知っていたのに。
「ねぇ旦那様、病に侵された女の戯言だと思って聞いてくださいまし。今だけで良いのです。わたくしにお言葉をくださいませ。それだけでわたくしは、世界一幸せな女になれるのですわ」
目頭が熱く、視界が滲む。
妻の手を握りしめる指は震えていた。
「…マリカ」
「はい」
「あい、している…君のことを、ずっとずっと、愛していた。今も、これからもずっと」
「はい、嬉しゅうございます」
「愛しているんだ。だからまだ生きて…どうか私を一人にしないでくれ」
「もう少しだけ頑張ってみますわ」
「初孫を一緒に見たくはないか」
「素敵なお誘いですわね。でもこればっかりはねぇ…」
「昨日、公爵家から手紙が届いた。春に生まれるそうだ」
「まぁ…」
心底驚いたというような妻の顔に、人生で初めてしてやったりと思った。
公爵家に嫁いだ長女からの手紙は喜びにあふれていた。
母に孫の顔を見せたいと切実な願いも書かれていて、胸が締め付けられた。
マリカがこの冬を越すのは厳しいと医者に言われている。
少しでも母子の気力につながれば良いと思うのは、先の糸が見えないほどに細いからだろう。
「それは…気合を入れ直さないといけませんわね」
それからすぐに、ジオルグは初めて無期の長期休暇をとった。妻を看取るためである。
いつ戻れるかわからないと近衛を辞すつもりで隊長を訪ねたら、陛下と共に無期休暇で構わないからとたいそう引き留められた。
それもこれもすべて妻の支えがあったからこそと、再度マリカへの感謝で胸を満たして、ありがたく休暇を受け取った。
屋敷に戻ったジオルグは、敬愛する陛下のことは忘れ、まめまめしく妻の世話を焼いた。
そのあまりのたどたどしさは、妻の笑いを誘う。
使用人たちは陰では手間が増えたとぼやきながらも、これまで見たこともないほど満たされていると物語るこの屋敷の主人(決してジオルグの事ではない)の笑顔に絆されて、根気よくジオルグを指導した。
ベッドサイドには冷たすぎない水差しを用意し、食べやすいようにと口当たりの良い菓子を店先で試食しては購入したりもした。
天気の良い日にはソファーを窓辺に移動して肩を寄せ合って茶を飲み、凍えるほど寒い夜には冷えた体を抱きしめて眠った。
また、事あるごとに妻に愛を囁いた。
これまで一度も口にしたことのなかった言葉は、それまで言えなかったことが嘘のようにすんなりとジオルグの体に馴染んだ。
己の腕の中で目覚めた妻に。車椅子に座る妻の旋毛にキスをしながら。アフタヌーンティーを啄むように楽しむ妻の頬を撫でながら。ジオルグはひと冬の間に、一生分の愛を囁いた。
その度にマリカは面映ゆそうに微笑み、私もですよと小さな小さな声で答えた。
そしてついに、庭の雪割草が初めて蕾をほころばせた早朝、マリカは決して覚めない眠りについた。
侯爵邸が嘆きに満ちたその三日後、長女が嫁いだ公爵邸では赤子の元気な泣き声が響き渡ったという。
葬儀を終えたばかりのジオルグは不幸があったばかりだからと生まれて一週間後の祝いの席を辞したのだが、娘のみならずその義父となった公爵閣下にも強く望まれ、気乗りしないままに公爵家の晩餐へと向かった。
晩餐の前にと連れられたのは、屋敷でも奥まった区画の一室。
広い部屋は毛足の長い柔らかな絨毯が敷き詰められ、いたる所にクッションや可愛らしいぬいぐるみが置かれている。
その中央に鎮座するのは、天蓋の付いた大層上品なベビーベッドであった。
侯爵家との格の違いをまざまざと見せつけられるが、その横にたたずむ長女の腕の中から目が離せなかった。
うっすらと生えた金の髪の毛は父のものと同じである、長女は自分に似て暗い茶色の髪をしていたから。
けれど、ぱちぱちを瞬きを繰り返すその瞳は、きらきらと輝いていた。
凪いだ海のような紺碧で、光の加減で時折うっすらと紫に見える。
「母様と同じ色、でしょう?」
今にも泣きそうな顔で、娘が笑っている。
「マリーベルよ。だっこしてあげて」
震える手では、とても赤子なんか抱きしめられそうにない。
マリーベルを抱いた娘ごと抱きしめて、声を押し殺して泣いた。妻が死んだときに尽きたと思っていた涙は、まだ残っていたらしい。
それからのジオルグは、家のことは息子達に任せ、近衛の指導役として生涯を過ごした。
実戦を主とした指導で新人たちを鍛え上げ、辞める者も少なからずいたが、畏怖と尊敬を抱きつつ活躍する者も多かったようである。
そして酷暑ともいうべきその日の演習後、馬を降りたところでばたりと倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
父らしい死に様だったと、拳を握り締めて長男は語った。
『ねぇだんなさま。わたしをせかいいちしあわせなおんなにしてくれて、ありがとう…』