世に悩みの種は尽きず
釈然としないまま車に戻り、まだ未練げな陽美さんに、犬に構いたければいつでも教会にどうぞ、と言い置いて帰路につく。
黙ってハンドルを握るわたしに、後部座席の黒犬が大欠伸をして言った。
『デートの誘いを断られたからって、そんなに落ち込むなよ。礼拝に行くも行かないも個人の自由ってやつさ』
「やっぱり盗み聞きしてたな。地獄耳か、それともまさか、わたしに盗聴器でも仕掛けたのか」
『さあ、どうだろうな? とにかく、俺はやめとけって言っただろ』
「おまえこそ、杉田家の事情を聞いておきながら、陽美さんに向かって『拾ってください、ご主人様』みたいな態度で媚びたんじゃないだろうな」
『犬が悲しそうな上目遣いをするのは、進化の結果って話を知ってるか? 表情豊かな犬のほうが人間に好まれやすくて、生きのびて子孫を残せたっていう』
「ごまかすんじゃない」
黒犬はふいと顔を背けて、窓の外に鼻面を出した。わたしはルームミラーに向かってしかめっ面をする。
険悪な沈黙のうちに車は山道を走り、教会前に着いた。すっかり日が傾いて、木々の梢を通った黄金色の光が、音楽のように降り注いでいる。この素晴らしい美しさは天の祝福そのものだ。古びた教会が荘厳さに満ちて輝かしい。
空を仰いで神を讃えると、心が穏やかに静まった。主は偉大なるかな。
まるで我が家に帰り着いたかのごとく当然の態度で門扉を押し開ける黒犬にも、寛容になれるというものだ。
「陽美さんはおまえに何か言ったか?」
『いいや、なーんにも。黙ってひたすら撫でてくれたよ。おかげで頭のてっぺんの毛がぺったんこだ』
ぶるるっ、と黒犬は全身をゆすって毛並みを整える。そんな仕草はいかにも本物らしいが、残念ながらこいつは犬じゃない。
わたしは黙ってじっとダミアンを見つめた。悪魔はしらを切ろうと毛繕いのふりをしていたが、ややあってため息をついた。
『言わなくてもだいたいわかるだろ? 親への不満、学校への不満、部活の人間関係の不満。思春期の子供につきものの苛立ちが勢揃いだ。ああ、恋の悩みはまだなかったな。少なくとも真剣深刻なレベルでは。可愛いもんさ』
「……不満、不満、不満、か」
わたしは唸って額を押さえた。
天使同様、悪魔も人の心を読める。しかも恐らく、我々よりもやすやすと。それは彼らが人の心に取り入って惑わすことを本領としているからだろうし、我々よりも悪魔のほうが、不完全でうつろいやすい人間に近い存在だからだろう。
ただ、心を読める、と言ってもそれが“正しい”とは限らない。その時々の思いや考えを読み取れても、別の時にはまた違っているものだ。それだけでなく、我々も悪魔も、それぞれの立場と価値観に基づいて人の心を解釈するため、あるがままの人間の心を解っているのかと問われると、もはや返答のしようがない。
ダミアンは陽美さんが不満を募らせていると言ったけれど、わたしが彼女の心を読んだなら、それは不満ではなく悲しみだと理解するかもしれない。苛立ちではなく苦痛であるかも。
『とにかく、おまえのお目当ては喜美子ばーちゃんだろ。若いお嬢ちゃんの相手は俺に任せて、本命への求愛を頑張りな』
「下世話な言い方をするな。前途ある若者が悪魔にたぶらかされるのを見過ごすようでは、天使失格だ」
『それじゃ、前途のないばーちゃんを誘惑しよう』
「揚げ足を取るな! あと失礼だぞ!」
確かに『本命』は喜美子さんだけど、彼女が教会に行くためには、家族の協力が不可欠だ。あるいはせめて家で祈ったり聖書を読んだりする時間を取るだけであっても、家族関係が良好でなければ難しい。杉田家の全員を気にかけないと、うまくいかないだろう。
とは言え、その喜美子さんの頼みに応じてこいつを陽美さんに近付けていいものか、怪しくなってきた。飼い主が引き取りに来た、ということにして地獄に追い返したほうがいいんじゃないだろうか。礼拝堂の聖水盤を掃除して、聖別した水を大量に用意して浴びせてやるとか。
『おーい、物騒なこと考えるなよ? 俺を追い払っても別のやつが来るだけだぞ。それこそアライグマやイノシシに化けてここらの畑を荒らしまくって人心を乱す、ってな手法を取るようなやつとか。最近は雀もハウスに侵入して実をつつくし、そうなったらおまえさんも簡単に退治できないだろう』
「…………」
脅しに屈するのは腹立たしいが、300年近く付き合って、ある種の微妙な“信頼関係”が成立している相手の代わりに、何をするかまったく読めない敵が襲来するのは避けたい。査定に響くどころか、人間たちに被害が出てしまう。
わたしが不機嫌に黙り込んでいると、黒犬は後ろ足でガシガシと首を掻いて、面倒臭そうに言い足した。
『よその犬を可愛がって憂さを晴らして満足するか、飼えない不満と親への鬱憤を募らせるかは、本人次第。だろ? それとも何か、おまえさんは、不満を募らせるぐらいなら犬なんか視界にも入れるな、心を惑わすものは徹底的に遠ざけろ、ってのかい』
「黙れ。ただ正論を装って、自分の悪事をごまかしているだけのくせに」
『おいおーい、いまさら何を言ってんだ、悪魔が正しいことするわけないじゃないか。もちろん俺は悪いコトしてるんですよ。俺を止めようとするより、せいぜい自分の仕事に励んだらどうだい、神父サマ』
ええいまったく、ああ言えばこう言う!
相手をしていたら、せっかく美しい眺めに洗われた心が濁ってしまう。わたしはうんざり首を振って、司祭館に足を向けた。
チャッチャッチャッ、と軽やかな爪音を立てて、黒犬がついて来る。清められた礼拝堂には入れないが、生活の場である司祭館なら平気なので、快適な屋内で雨風をしのごうというわけだ。これだけ敵意を煽っておいて平気で住まいに上がり込むんだから、悪魔というやつはつくづく図々しい。
鍵を開けて中に入ると、当たり前だが昨日から何も状態は変わっていなかった。外はすっきり草刈りが済んだものの、建物の中は手つかずだ。
埃だらけの床、天井の隅には蜘蛛の巣。書斎と寝室を兼ねた部屋では、昨日に放り込んだ荷物がそのまま待っていた。ベッドのマットレスにはカバーもかかっておらず、じめっとしている。黒犬が構わず飛び乗って、ぐるぐる回ってからどすんと身体を沈めて丸くなった。
食事も睡眠も必要ないから、さしあたって問題はないけれど、気分が滅入るのは否めない。ここで既に一夜を明かしたと聞いたら、普通の人間はわたしをいたく憐れむか、いっそ正気を疑うだろう。
思えば人界に来たばかりの頃は、“まともな生活”を装う意義も、そのささやかな楽しさも、まったくわかっていなかった。今、普通の人間の反応が想像できるのは、成長したと言って良いのかもしれない。それとも人界に毒されたんだろうか。
まあいい。とにかく、目先の問題を処理していかなければ。
「大工道具より先に掃除道具だったな……次は忘れないようにしよう」
客を招き入れる予定はないけれど、田舎では往々にして、いきなり訪ねてきた近所の人が玄関を開けて入っていくる、なんてことがあり得る。早いところ掃除しなければ。
わたしは手帳とペンを取り出して、必要な物のリストアップにかかった。
それにしても、これって標準的な天使の業務内容なんだろうか?