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口には出さないけれど

「陽美ちゃん、今日は午後も部活って言ってたんだけど……」


 つぶやいてから、表のほうに身を乗り出して「お帰り」と声をかける。陽美さんはこちらを振り返って「ただいま」と答えはしたものの、わたしの顔を見て、その場で躊躇した。


「早かったのね」


 喜美子さんが気にせず朗らかに言う。質問ではなく、穏やかな確認だ。陽美さんはほっとしたように表情を緩め、作業場に入ってきた。


「何やってるの」

「ああ、司祭様がね、草刈り機のお礼にって、わざわざ手伝いに来てくださったの」

「ふーん。良かったね」


 やりとりは素っ気ないが、声にはやはり温もりがある。母親である美里さんとの関係はギスギスしているようだけど、おばあちゃんがいる、というのが安心につながっているんだろう。

 わたしは出しゃばらず、礼儀正しい無関心を装って作業を続けたが、陽美さんから予期せぬ質問を投げかけられて手が止まった。


「あの犬、名前つけたんですか?」

「……ええ、はい。ダミアンと」


 若干怯みつつ答えると、案の定、なんとも言えない顔をされた。わたしは首を竦めて補足する。


「保護情報をウェブに上げたら、知り合いが即座に『黒犬といったらダミアンに決まってる』と謎の主張をしてきまして」

「何それ」

「いや、わたしにもさっぱり。別の名前にしようと言ったんですが、押し切られたんです」


 知り合い、というか本犬ほんにんだが。

 出会った当初からあいつは、その時代ごとに悪魔らしいイメージの名前を選んでは取り替えてきた。真名はわからない。ダミアンはここ三十年ほどの名前だ。ホラー映画の古典に登場する悪魔の申し子か、ヘッセの文学作品から取ったのかと思ったが、何やら別のサブカルチャーが元ネタらしい。

 どうでもいいが司祭の飼い犬を気取るつもりなら、せめてもっと平凡な名前にしろと言いたい。天界ゆかりの名前にしろなんて地獄的な要求はしないから。


 陽美さんはまだ変な顔をしていたものの、名前についてそれ以上突っ込むのはやめようと決めてくれたらしい。うつむいてぽつりとつぶやいた。


「そっか。名前、つけちゃったんだ」

「あなたが名付けたかったですか?」


 訊いてみると、陽美さんは無言で首を振った。ふむ。どうやらこれは……


「間に合わせの名前ですから、覚えてしまう前に飼い主が見付かるといいんですけどね」

「……はい」


 ぼそりと聞き取れないほどの返事をして、彼女はまた犬のところへ戻って行った。はい、と言いながらもまるで肯定の響きがない声音、切望の隠されたまなざしが、口にされない想いを代弁している。

 なるほど。本当は彼女も犬を飼いたいのか。ノミ取り薬のことまで知っていたのは、そういう動機で情報を集めていたからだろう。

 わたしの推測を、喜美子さんが裏付けてくれた。


「陽美ちゃん、昔からずっと犬を飼いたいって言ってるんですけどね。世話が大変だから、娘が断固反対していまして」

「そうですね。現実問題として、可愛いだけでは飼えませんね」

「ええ。散歩も、餌も……昔は陽美ちゃんたちも小さくて手がかかったし、かといって今は今で忙しいし、わたしも飼ってあげなさいとは言えなくて」


 ふう、と喜美子さんは寂しそうにため息をつく。

 子供の懇願に負けてペットを飼えば、世話の負担は主婦の肩に載ることが多い。約束を守らせて子供に世話をさせても、常にすべての責任を負えるわけじゃないからだ。

 家族の世話に農作業、さらにペットの世話まで加わったら、とてもやりきれない。喜美子さん自身、その苦労が骨身に染みているから、陽美さんの味方もできないんだろう。

 でも、まだ中学生の陽美さんにそこまではわからない。自分の望みを拒否された、言うことを聞いてもらえなかった、という思いだけが募る。


「パートさんを一人でも雇えば、少しは余裕ができると思うんですけど。人が見付からないみたいでしてね。人手不足ですから」

「大変ですね……」


 他人事のように言うしかない身が歯がゆい。人口減少による労働力不足、わけても一次産業はもうずっと前からこの問題に苦しんでいる。


 もちろん、明るい見通しが皆無というのじゃない。省力化や栽培法の様々な工夫、最近ではAIを使って施肥や薬剤散布のタイミングをはかるといったことまでされている。

 これまでの長い歴史、多くの文明で、人類は数々の難題を乗り越えてきた。滅んだ国も消えた民族もあるけれど、総体としての人類は常に前へ、より良い世界へと進歩してきた。

 だからいずれ、この問題もまた乗り越えられるだろうと、わたしは信じている。


 とはいえ個々の事情はまたそれとして、厳然と存在するのも確かだ。わたしは喜美子さんのほうに身を乗り出し、真摯に言った。


「微力ながら、ここにいる間だけでも、お手伝いさせてください」

「まあ、まさか司祭様にそんなことさせられません。大事なおつとめがあるのに」

「もちろん、毎日の祈りや教会の修理をおろそかにはしません。ですが当面わたしのつとめはそれだけで、祝祭日の催しどころか主日ミサすら、できる状態ではありませんから」


 司祭は日曜以外も毎朝ミサを捧げなければならないけれど、それは当然、信徒さんが誰かしらやって来る教会での話。一人も参加者がいなければミサは立てられないし、どのみち現状ここの礼拝堂ではとても無理だ。埃まみれ蜘蛛の巣だらけ、祭壇や会衆席のそこかしこにかびが生えて、腐り落ちた部分もあるときては。


「いずれにしても日中は、信徒さんを訪ねるのも司祭の仕事です。その信徒さんがお困りなら手助けするのは当然でしょう」

「あらあら、それじゃあ司祭様を独り占めしてしまいますね。この辺りにいるクリスチャンはわたしだけみたいですし」


 喜美子さんはちょっと笑い、外の孫に視線をやってから続けた。


「これだけ手伝っていただけたら、もう充分です。でも、もしお時間があるなら、夕方にあのワンちゃんを散歩させる時、ここに寄っていただけますか。うまく時間が合えば、陽美ちゃんが撫でたりできるかと」

「良いかもしれませんね。ええ、そうします。教会のほうでも日のあるうちは門扉に繋いでおいて、通りがけに触れるようにしておきましょう」

「ありがとうございます。わたしがもっと、陽美ちゃんに何かしてあげられたらいいんですけどねぇ。せめて娘がもう少し柔らかい態度を取ってくれたら、と思うんですが、本当に余裕がないのはよく分かるので……せめて陽美ちゃんの気持ちをあのワンちゃんになだめてもらって、わたしは娘を苛立たせないように、頑張らないと」


 訥々とそこまで語り、はたと我に返ったように喜美子さんは小さく首を振った。


「ごめんなさい、司祭様だからとつい、益体やくたいもない愚痴をこぼしてしまって。失礼しました。今日はもうたくさん折っていただきましたし、これで結構です」

「そうですか? では……」


 何でも話してくだっていいんですよ、と応じる隙もなかった。もう帰るようにやんわりと促され、わたしはぺこりと一礼して立ち上がった。そのまま作業場を出かけたところで、そうだ、と思い出して回れ右する。


「喜美子さん。もうじき聖霊降臨祭ペンテコステです、ひかり台の教会で礼拝に参加されませんか」


 虚を突かれたように、喜美子さんは一瞬、硬直した。まったく予想外だったのか、本当に何か……まさか、という感じで。


 ペンテコステはキリスト教の三大祭りといわれる祭日のひとつだ。他のふたつ、クリスマスとイースターに比べて一般的な日本人にはあまりなじみがないけれど、復活後に昇天したイエスから弟子たちに聖霊の注がれた、大切な日。

 ギリシャ語で五十日目を意味し五旬祭とも言われる通り、イースターから五十日目の日曜で、今年は六月九日になる。移動祭日なので、教会から遠ざかっていたら今年は何月何日か知らなくてもしょうがない。

 けれど喜美子さんの反応は、どこかもっと、深いところに根があるように見えた。

 ただし、表に出しては、柔らかく苦笑しただけだったけれど。


「……ああ、そう言えば今ぐらいの時期でしたねぇ。ごめんなさい、教会に行かなくなって、すっかり疎くなってしまって。聖週間もイースターも、いつの間にか……クリスマスだけは家族でお祝いするから、忘れませんけど」

「ツリーとチキンとケーキで?」

「ええ。日本式クリスマス」


 冗談めかした口調には、礼拝は無しで、という含みがあった。そうか、もう何年も、一度も、ミサに与っていないんだなぁ。気の毒に。

 それならぜひペンテコステには、と思ったけれど、彼女は相変わらず本心の読めない微笑で謝絶した。


「ご厚意は大変ありがたいんですけど、日曜日も出荷作業がありますから。農繁期は仕方ありません。せっかく思い出させていただいたので、久しぶりに家でしっかりお祈りしたいと思います」


 深く頭を下げられて、それ以上は誘えなかった。


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