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人に歴史あり

 昼食が済んだ頃合をはかって、わたしは杉田家に車を走らせた。例によって後部座席には、不満たらたらの黒犬が乗っている。トロだのウニだの穴子だの、呪文のように寿司ネタをつぶやき続けて鬱陶しいことこの上ない。


「寿司が食べたいなら勝手にすればいいだろう。人間の姿だって取れるのは知っているぞ。わたしはおまえを監禁してるわけじゃない」

『わかってないなー。俺はおまえさんに美味いもの食って堕落して欲しいの!』

「地獄に帰れ」


 本当にまったく、ろくでもない。

 人間が節度をもって美食を追求することについては、堕落とまでは言えない。植物のように光合成するわけではない人間にとって、生きるとは食べること。主に与えられた生命をまっとうするなら、食べる喜びを噛みしめることも必要だ。

 しかし我々天使は事情が違うので、迂闊に誘惑に乗せられてはならない。人界になじんでいるヒラ天使の中にさえ、聖別されたもののほかは水しか摂らないと決めている厳格な者もいるほどだ。

 わたし? ……必要に応じて、支障が出ない範囲で楽しんでいるというところかな。何がなんでも飲食しないスタンスを貫くと不自然になるし、人間らしい喜びを理解しておくことも大切だから。


『つまんねーな、すっかりお堅くなっちまって。人界穢れでうまく飛べずにビッグ・ベンから落ちたのがトラウマになっちまったか』

「思い出させないでくれ!」


 ……ごほん。

 ともあれ、作業場に着いた。リードを繋げる適当な場所がないので、犬は車内に居残りだ。どうせ地獄耳で会話を盗み聞きするんだろうけど。

 中では喜美子さんが一人で待っていた。

 今日は出荷が休みという話の通り、ほかには誰もおらず、ブドウを満載したコンテナもない。広い作業台の真ん中に段ボール板の束が置かれていた。


「こんにちは、喜美子さん」

「ああ、すみません神父様。厚かましいことをお願いしまして」

「とんでもない、こちらこそお世話になりました。教会の惨状を伝えてくださったんですね」


 笑いながら言って、段ボールの前の椅子に腰を下ろす。喜美子さんが恐縮した。


「泰子さんが失礼を申し上げたのでなかったら、いいんですが。昔からあの方は、なんでも聞いてなんでも話すという感じで……悪い人じゃないんですけど」

「わかりますよ。ああいう方は珍しくありません、慣れてます。さて、これをどうすればいいんでしょうか」

「まず端のここを折って取ります。これが中の仕切りになりますから。あとはこうして四辺を立てて、ツメを差し込んで」


 手際よく喜美子さんが組み立てるのを見て覚え、ではいざ、と取りかかる。わたしの手つきに問題がないことを確かめると、喜美子さんは別の作業台に行き、床に置いてあったコンテナを上に載せてパック詰めを始めた。


「それは?」

「昨日、詰められなかったぶんです。一番下の等級のだから、後回しにしていて」

「なるほど。ずいぶんバラバラだと思いました」


 当たり前だが自然の植物である以上、実のつきかたにも差がある。大きな粒がぎっしりついた房もあれば、小さな粒がまばらについただけの、房の形をしていないものも。店できれいな果実しか目にしなければ、想像してもみないだろう。

 品種改良と栽培技術の進化で立派な果実がたくさん穫れるようになったと言っても、やはりすべてが同じようにはいかない。


「甘さは負けてないんですけどね」


 言いながら喜美子さんはパックにセロハンをかけた。

 わたしはせっせと箱を折りながら、彼女の手早さに感心する。


「それも、この箱に詰めるんですね。毎日何箱ぐらい使うんですか」

「250から、多い日で300ぐらいですね」

「300!? ……はあ、それじゃ折っても折っても足りなくなるわけだ」

「冬の間に用意して倉庫に貯めておくんですけど、スペースにも限りがありますから」


 話しながらも、お互い手は休めない。できた箱を壁際のストックへ運ぶついでに、壁に貼られた農協からのお知らせを見ると、等級ごとに1パックの房数と重さの範囲が決められていた。なるほど、これに合わせて詰めるわけか。

 重さを調整する手間がかかりそうなものなのに、喜美子さんはほとんど迷わず房を選び、詰めていく。たまに別の房に取り替えたり、端を切り落としたりする時も、もたもた悩んだりしない。


「早いですねぇ。手に取るだけで重さがわかってらっしゃるみたいだ」

「慣れですよ。ずっとやってますから、勝手に手が動くんです。逆に、これは何グラムぐらい、とかいちいち考えると上手くいかなかったりして」


 おかしそうに喜美子さんが笑った。なるほど、無意識は意識より仕事が上手、というやつかな。ひたすら数をこなすことで無意識が学習し、どこがどうと説明はできないのになぜか判る、という域に達する。ヒヨコの雌雄鑑別師や、第二次大戦中のイギリスの対空監視員と同じだ。


「一種の職人芸ですね。素晴らしい」

「そんな大げさなものじゃありませんよ」


 わたしが感嘆すると、喜美子さんは苦笑で謙遜した。が、その表情がふっと翳る。

 そのまま彼女が口をつぐんだので、わたしは怪訝に思いながらも持ち場に戻って仕事を再開した。

 しばらくして、独り言のようなつぶやきが隣でぽつりぽつりと落ち、こちらに転がってきた。


「嫁いできたばかりの頃は、本当に何にもできなくて。怒られてばっかりでした。農家の生活がこんなに忙しいなんて、思っていなくて……もちろん、日本中どこも大変だったわけですけど。高度経済成長、って今では夢の時代みたいに言われますけど、その中を生きてきたわたしたちは、ただ必死だったんですよ」


 口調も声音も静かで、何かの意見や感想を求めているようではなかった。だからわたしはただ、ええ、と促すようにそっと相槌を打つ。

 少し沈黙し、彼女は一段と声を落として続けた。


「父は公務員でしてね。ですからわたしは、のんびり育ったんだと思います。ここに来て初めて『働かざる者食うべからず』の本当の厳しさを知りました。どうにか一人前になった後も、毎日、休む間もなかった。子供を育て、舅姑を送り、それから夫……あっという間に何十年も過ぎてしまいましたねぇ。気がついたらすっかり老いさらばえて、またお荷物になっちゃって。今度は娘に怒られてます」


 ふふっ、と諦めと自嘲がまじった哀しい笑いがこぼれた。

 わたしは反射的に「そんなことは」と否定しようとしたが、彼女は、いいんですよ、というように緩く首を振って拒絶した。


「すっかり老眼も進んで、手も遅くなって。ずっとやっていたことなのに、要領を忘れてしまったり。いないよりマシ、という程度ですわねぇ。それはもう、仕方ないことです。みんな通る道ですから。ただ、そんな忙しい人生でも、わたしには信仰の支えがありましたから。それは幸せだったと思いますよ。今になって司祭様がわざわざ来てくださるなんて、吉田さんから聞いた時はびっくりしました。これはいよいよ、お迎えが近いかしら、って」


 茶目っ気たっぷりにおどけた喜美子さんに、わたしは苦笑するしかなかった。


「何をおっしゃるんですか、そんなに若々しくてお元気なのに」

「あら、若々しいだなんて久しぶりに言われました。嬉しいわ」


 恥ずかしそうに笑う喜美子さんの雰囲気が、ぱっと華やぐ。いくつになっても褒められると嬉しいのが人の子だ。

 ちょうどその時、外でワフッと犬が鳴いた。見ると、制服姿の陽美さんが車のそばに立って、窓越しに黒犬を撫でている。喜美子さんが首をかしげた。


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