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草刈り十字軍来る(6月1日 土曜日)

 暑い。

 なんだこの暑さは。

 まだ梅雨入りしてもいないとは思われない気温だ。容赦ない日差しに照りつけられて気温はぐんぐん上昇、午前中からすでに真夏日寸前。


 さすがにカソックで草刈りはできない。風通しの良いポロシャツとハーフパンツに着替えたけれど、それでも軽くめまいを起こしそうだ。

 おまけに、丈高く生い茂る雑草のなかには肌を切る鋭い葉をしたものや、くしゃみを引き起こす花粉を撒き散らすものも多い。刈り取った途端に小さな虫がわっと飛び立って鼻や口に入りそうになるし。

 肉体があるというのは時々不便だな……


『あぁあっちいぃ~! なんだよもー、天界の連中、気が早すぎんじゃね? まだ六月になったばかりだぞ。エアコンの効いた建物に入れない外飼い犬の身にもなれ!』


 いや、物質の肉体を持たないくせにうるさい奴もいるが。


「素っ裸でそこらの冷たい地面にひっくり返って涼めるご身分なんだから、文句を言うな」


 こちとら仮にも人間なので、そうもいかない。そしてここの教会と司祭館(とは名ばかりの小屋)は、エアコンはついているものの恐らく動かない。結論としては、わたしよりあいつのほうが断然快適のはずだ。


 黒犬は長い舌を垂らしながら、大きな栗の木が落とす日陰に移動すると、去年のイガの残りを注意深く避けて寝そべった。

 ちょうど花が満開で、緑の梢に白い房がもっさり被さって重たげだ。ここに人が集まっていた頃は、皆で秋に栗を拾って焼いたりしたんだろうか。

 見る人がいなくても花は咲き、収穫して味わう人がいなくても実をつける。それは当たり前の自然の営みだけれど、世話を放棄された果樹がただそのサイクルを繰り返しているのは、どこか少し寂しい。


『日陰もあんまり涼しくない……なぁ、ペット用のひんやりシート買ってくれよ。昨日ラジオで通販してたやつ』

「あの状況で放送が聞こえていたのか?」

『そりゃおまえ、地獄耳だからさ。電話番号も覚えてるぞ、いいか、フリーダイヤル』

「知るか。自分で買え」


 おのれ駄犬め。感傷に浸る暇もない。


『おまえ用の、通気性抜群・敷きパッドと冷感タオルもまとめて買えばお得だぞ。熱がこもらなくて快眠! 濡らして首に巻くだけでひーんやり! 今まさに欲しいだろ? 熱中症予防にぜひ!』

「今度は物欲を煽りにきたな。その手に乗るか」

『いやいや本当に心配してるんだって、珍しくも正真正銘の善意さ。その身体は天使ボディと違って、普通に不具合が出るんだからな』

「ならわたしも、体温調節が難しい犬の身体を慮って、涼しい礼拝堂に入れてやろうか」

『やめて死んじゃう』


 哀れっぽくキュゥンと鳴いて、前足の間に鼻面を埋める悪魔が一匹。ああもう、この外見でなかったら踏んでやるのに。


 わたしは手を休めて立ち上がると、日陰に置いた水筒の水を飲んで一息ついた。どこそこの天然水とかではなく、ただの水道水だ。プラゴミ削減、経費節約。

 もちろん、飲食しなくてもこの身体に“不具合”は出ない。怪我や病気にしても、意識するだけで正常な状態に戻すことができる。

 ただ、人間の肉体に本来必要なもの――食事や休息、睡眠――をいくらか摂取すれば、維持が楽にはなるのだ。あまり人間に寄せすぎると、今度は天使としての活動に支障が出るけれど、ほどほどにすれば問題ない。


『うぅ暑い……今からこれじゃ、夏本番が思いやられる』

「ぐだぐだ言うな。地獄ゲヘナの火には慣れてるだろう」

『地獄のおもてなしは人間専用だよ、残念ながら俺たち自身の保養地じゃないんでね』

「知ってる。ただの嫌味だ」

『おまえは悪魔か!?』


 失敬な。天使は正直なだけだ。優しいふりをして取り入る、不誠実な悪魔と一緒にしないでもらいたい。

 と言い返したいところだが、わたしは黙って門のほうへ向かった。エンジン音が近付いてきたからだ。


 じきに白い軽トラックが姿を現した。運転席にいるのは、吉田さん……じゃないな。初めて見る顔だ。

 訝っている間にもトラックは門前で止まり、初老の夫婦らしき二人が下りてきた。


「どうも、こんにちはぁ。神父さんですか?」


 癖毛の小柄な女性が陽気な声で問いながら、まったく気後れも警戒もせず敷地に入ってきた。後ろでは男性が、荷台から草刈り機を下ろしている。おや、まさか。


「はい、坂上と申します」

「あら日本人なのねー。ちょっと外人さんっぽいと思ったんだけど。違った?」

「ああ、母がロシアの出身です」

「やっぱりねぇ! はじめまして、杉田泰子です。あっちは主人のいさむさん」

「はじめまして。杉田さん、ということは喜美子さんのご親戚ですか」

「ええ、主人が分家筋なんですよ。あたしは本家ですけど、兄と喜美子さんが結婚するより先にもうこの人と結婚して家を出てましたんで、喜美子さんとは兄嫁と小姑って関係じゃなくて、お友達感覚でねぇ。歳も近いし」

「そうなんですか」


 うわぁ。押しが強いうえに、よくしゃべる人だ。初対面からわずか数分で、名前から詳細な血縁関係まで判明してしまったぞ。


「それで喜美子さんから昨日、神父さんのことも聞いたんですよ。前に通りがかった時、もう屋根の十字架も見えないぐらいだったから、草刈りが大変なんじゃないかって話だったんで、それならうちの人が行こうって。あたしもお手伝いに」

「ご親切に、ありがとうございます。そちらもお忙しいでしょうに」

「ああ、そんなの気にしないで。いいのいいの、明日は市場がないから、今日は出荷もお休み。若くて優しい感じの神父さんって聞いたもんだから、野次馬しに来たんですよ」


 泰子さんは明るく笑っておどけた。わたしは苦笑を返し、勇さんのほうにも頭を下げる。奥さんとは対照的に、こちらは口をぐっとへの字に引き結んだまま、会釈を返してくれた。

 その間にも泰子さんは忙しくきょろきょろし、黒犬を見つけて嬉しそうな声を上げる。


「あ、あの子ね! とっても人懐っこいワンちゃんがいるって。あらあらぁ~暑さでへばっちゃったかしら。でも尻尾振ってくれるのね、いい子いい子」


 満面の笑みでいそいそと近寄り、しゃがみこむ。おざなりに尻尾を振っていた黒犬は、仕方なさそうにごろんとひっくり返って腹を出した。


『ばーちゃん元気すぎだろ……あちぃんですよ俺は』

「はいはい、おなか撫でて欲しいんでちゅか~。本当に懐っこい子ねぇ、可愛いわぁ」

『ぅおーい神父サマ、草刈り十字軍が目的地を外れてっぞー。いい笑顔で見守ってないで、呼び戻してくれよ』


 うんうん、実に微笑ましい情景だなぁ。最初にサービスしすぎるから引っ込みがつかなくなるんだ、馬鹿め。

 わたしは犬に背を向け、勇さんにお礼を言った。


「本当に助かります。昨日はなんとか通り道だけ切り開いたんですが」


 門扉から教会の玄関までと、そこから横にある栗の木の下を通って司祭館まで。さして広くもない敷地だけど、いざ草刈りしてみると、これが案外はかどらなくて参った。


「全体、刈っちまっていいか? 花壇とか植木とかは……」

「あったかもしれませんが、もう所在不明ですから構わずに」

「ま、そうだなぁ。一応、なんかそれっぽいのが出てきたら、残すようにはしてみるけど。じゃ、ちょっと犬連れて離れてな」

「はい、お願いします」


 勇さんがぐるりと一通り眺め渡して、草刈り機のベルトを肩にかけ、保護ゴーグルをかけてハンドルを握る。わたしは急ぎ足で司祭館へ向かい、ドア際に置いたリードを取って戻ると、黒犬を門扉につないでやった。

 太陽がだいぶ高くなっているので塀の影はほとんどないが、周囲の木立が提供する日陰でしのげるだろう。


「しばらくそこで我慢してろよ」

『仕方ねーか……なぁ、本当にひんやりシート買う気ない?』

「しつこい。諦めろ」


 小声で念を押していると、背後から泰子さんが「お利口さんねー!」と身を乗り出してきた。


「ちゃんと言うこと聞いておとなしくしてるのねぇ。どこかで訓練されてたのかしら。されてたに決まってるわねぇ、こんなにいい子なんだし。飼い主さん、きっと心配してるでしょうねぇ。保護情報とか、どこかに出しました? 今はほら、ネットで情報交換とかできるんでしょ」

「そうですね、写真を上げておけば飼い主が見付かるかも」


 飼い主なんかいないと知っているので、嘘もつけず曖昧にごまかしたところで、勇さんが草刈り機のスイッチを入れる。派手な騒音のおかげで会話が途切れ、ほっとした。


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