犬を巡る諸問題
「いいえ」
瞬時に否定した。絶対にない、だとか汚い言葉が飛び出すのを堪えたのは褒めてほしい。いやまったく、危うく天使としての品格を損なうところだった。
『ひっでえな! そんな、死んでもありえない、ってな声で否定しなくてもいいだろうが、俺とおまえの仲だろ? 融通の利かない天使サマめ。飼い犬じゃないなら、俺がおまえについて来たのをどう説明するんだよ。嘘も方便って諺ぐらい押さえとけ』
やかましい、地獄に落ちろ。
心で罵りながらも聖職者らしい微笑は崩さない。わたしは怒りや敵意のいっさいを顔に出さないまま、不思議そうに背後を一瞥して首を傾げた。
「教会に着いて手始めに草刈りをしていたら、いつの間にかそこにいたんですよ。あまり汚れていないし、平気で車に乗り込んでついてくるので、この辺りの飼い犬が脱走したのかと思ったんですが」
「いやぁ……近所では見たことないですねぇ」
浩平さんも訝しげに首をひねる。ここいらでは黒ラブは人気がないらしい。
「野犬ですかね。保健所に連絡しますか?」
『ぅおい! やめろ犬殺し!』
ぎょっとなって駄犬が飛び起きる。わっ、と希美さんが声を上げた。
「すごい、話してることわかるみたい。賢いワンちゃんだね~! 大丈夫だよ、そんなことしないって」
いい子いい子、と彼女は犬の頭を撫でてやり、もちろん保護するよね、と信じきった純真な目をわたしに向けた。おお神よ助けたまえ。
『そうだよなー! 心優しい神父サマが殺生なんてなぁ? 荒れ果てた教会に住み着いた哀れな宿なし犬を追い払うとか、そんな無情なこと、しないよなー!』
後で焼くぞ駄犬。いや待て、火より水責めのほうが効くかもしれない。
わたしは姉妹に向けて、安心なさい、の笑みを見せた。
「当面は迷い犬の情報を調べつつ、番犬代わりに教会で保護しておきましょう。でもそうなると、まずノミ取りシャンプーをしなければなりませんね。お二人とも、腕が痒くなったりしていませんか?」
『おいやめろ、シャンプーはよせ。ノミなんかいないって知ってるだろう』
言われて初めて気付いたようで、姉妹はちょっと不安そうに腕を見たり、急にそこらが痒くなったのかぽりぽり掻いたりした。
「うーん……ちょっと痒い、かな?」
「大丈夫、だと思いますけど」
二人はそれぞれ曖昧に答える。それから陽美さんが黒犬を見やり、その目に怯えを見て取ったのか、ぼそぼそと犬を弁護した。
「ペット用のノミ・ダニ退治の薬、首に垂らすだけで一ヶ月とか効果が続くって聞いたんで。迷い犬なら、まだ効いてるのかも」
「ああ、なるほど」
納得したふうに相槌を打ちながら、わたしはやや意外な気持ちになった。たしか杉田家はペットを飼っていないはずだ。友達から聞いたんだろうか。だとしても、ペットのノミ取り事情なんて話題にのぼるものかな?
そこへ、奥から母親の叱声が飛んできた。
「陽美、希美! いつまで遊んでるの、手伝いはもう終わり?」
厳しく咎める声音に、陽美さんが表情をこわばらせる。むっつり黙ったまま一言も答えず、ふいと顔を背けて立ち上がると、そのまま母屋のほうへ歩み去ってしまった。
残された妹が取り繕うように明るい声を上げる。
「待って、もうちょっとやるから! あと百円ぶん!」
笑顔で言ってマットに駆け戻り、せっせと箱折り作業を再開する。察するに、手伝いをした時間か折った箱の数で、小遣いをもらう約束になっているんだろう。美里さんは苦い顔で長女が去ったほうを睨み、壁際に置かれたクリップボードを取って、何やら書きつけている。
わたしは恐縮しながら謝った。
「すみません、すっかりお邪魔してしまいまして」
「いいえ、神父さんはいいんですよ。お仕事でいらっしゃったんですから」
ころっとよそ行きの声音になり、美里さんは愛想よく笑って否定の仕草をした。
とは言え、それならと居続けるには、さすがに気まずい。
「ご挨拶だけのつもりが、長居してしまいました。今日はこれで失礼します。もう少し教会のほうが片付いたら、またいろいろお話ししましょう」
喜美子さんに向かってそう言うと、わたしは一家に会釈して作業場を後にした。
当然のように黒犬もついて来る。わたしは胡散臭い気分でつやつやの毛並みを見下ろし、ぼそっと小声でつぶやいた。
「またホームセンターに行かないとな……」
『シャンプーは要らないって結論に達したんじゃなかったか!?』
「首輪とリードだ、馬鹿」
『あー、そっか。着けないと駄目か。通報されたら面倒だもんなぁ。洒落たやつを選んでくれよ、天界基準で決めるのは勘弁だ』
思わず苦笑いしそうになり、わたしは口元を引き締めた。こんなことで悪魔と意見の一致を見るなんて、上司に知れたら千時間特別研修にぶち込まれてしまう。
「選ぶほどの種類はないだろうさ、安心しろ」
言いながら車のドアを開け、乗り込む。問題はむしろ、それが経費として認められるかどうかだ。何しろ無給なので、天使マネーで落ちなければ、コツコツちまちま稼いだ人界通貨の個人的な貯えから出さなければならない。
わたしはルームミラーに映る黒犬を一瞥し、こっそりため息をついた。
山道を下って駅前のホームセンターへ車を走らせながら、杉田家の人々の印象を思い返し、改めて自分の仕事について考える。
どうやら今回の指示は、直属の上司よりもだいぶ上のほうから下りてきたらしい。ここに行ってこうしなさい、というだけで、現在の天界側の状況や目的についての説明がいっさい無いからだ。
サリエルが自分の考えで必要と判断した行動をわたしに委ねる場合なら、指示だけでなく背景の説明も必ず――たまに忘れられる時を除いて――なされる。わたしがその指針にもとづいて動けるように。この学校で邪悪がこの生徒を狙っているから、生命と魂を守りなさい、といった具合だ。
けれど今回は意図が明瞭でない。
行きなさい、と告げられて行けば、そこに主のはからいを見いだす、古式ゆかしいやり方。
「気を引き締めないとな」
口の中でつぶやく。教会から遠ざかっている喜美子さんの心を引き戻し、隣町での礼拝に連れていけばいいとか、一緒に聖書を読めばいいとか、そんな単純な話ではないだろう。
そうでなくとも悪魔が余計なちょっかいを出してくるんだから。
わたしがハンドルを握る手に力を込めると同時に、後部座席で黒犬が大欠伸をして言った。
『しっかしなー、これって余計なお世話じゃね? 喜美子ばーちゃん、正直もう神父サマとか教会とか面倒くさい、ってな雰囲気だったじゃないか。そっとしといてやれよ』
「悪魔のささやきが天使に効くと思うな」
ぴしゃりとはねつけてやったものの、少し気になってはいたから、それ以上は言えずに口をつぐむ。
喜美子さんの態度は確かに微妙な感じだった。学校をサボって久しいところへ先生が訪ねてきた、ぐらいの気まずさはもちろんあるだろうけど、どうもそれだけでもないような。
歓迎されてはいるし、彼女が完全に神に背を向けたわけじゃないのもわかる。もしそうなら、信者として知覚されないはずだ。
『親切で言ってるんだぞー。無理やり連れ戻そうったって逆効果だって。いまどき真面目な宗教なんて流行らねえよ。ドラマや漫画のネタにはなっても、本当にこっちに来てくれるお客さんの少ないこと少ないこと、あぁー世知辛い』
「地獄が暇なのは結構じゃないか」
『鼻で笑いやがったな。天国だって余裕ぶっこいてられる状況じゃないだろうに』
「そっちほどじゃない。人はいつだって救いを求めているし、我らが主は常に手を差し伸べられているんだから。それより、そろそろ黙ってくれ」
『うん? 痛いとこ突いちまったか?』
「違う。犬を相手に議論する痛ましい飼い主だと見られたくないだけだ」
しゃべっている間にホームセンターに着いた。駐車場は七割がた埋まっていて、カートを押して歩く人もそこらにいる。うっかりすると、地獄だなんだと怪しいフレーズの入った独り言を聞かれてしまうじゃないか。
一回できれいにぴたりと駐車スペースに入れ、エンジンを切る。後ろで駄犬がシートに伏せて、押し殺した笑いを漏らした。犬のくせにヒヒヒとか変な声を立てるんじゃない。
『いいじゃないか、愛犬家の司祭様! 何が痛ましいもんか、微笑ましいぞ。地域住民の皆様の好感度爆上げ間違いなし!』
「黙れ。そこで大人しくしてろよ」
低く唸って鼻面に指をつきつけ、降車してドアを閉める。
ああそうとも、ペットと会話する飼い主が痛ましいなんて思っちゃいない。犬に語りかける人間、それをまっすぐ見つめて主人の意向を理解しようとつとめる犬、両者の間にかよう信頼は実に麗しい。
ただひとつ問題なのは。
わたしが、あいつと、そういう仲だと誤解されるのが、死んでも嫌なだけだ!