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「さて、クリスマス礼拝も滞りなく済んで土橋神父の腰痛も快癒、君の仕事は無事に終わったわけだが」
黒檀の重厚なデスクの向こうで、物憂げな表情の天使が感情のない声音で言った。そこで不吉に一区切りしてから、わたしの顔に視線をひたと当てて続ける。
「わざわざ呼び出された理由に心当たりは?」
「……それはもう、充分に」
わたしは殊勝に答え、ため息をこらえて室内を見回した。いつもながら、ここは圧倒される。パピルスの巻物や石板粘土板、羊皮紙の書物、近現代のペーパーバックまでぎっしりと詰まった本棚が高くそびえ、その果てしない彼方から静穏な天上の光が降り注ぐ。
もちろん、ここにある書はすべて実物ではない。物質として手に取ることもできるけれど、いわば知識という象徴の集積だ。知を重んじるサリエルの趣味らしい。
棚の隙間には多様な緑の蔓や蔦が這い回り、神秘的な花をそこかしこに咲かせている。ほのかな湿度と穏やかな香りがなんとも優しい。
わたしが座らされているソファも厳密には物質ではないのだけど、柔らかさと反発の程よいバランスで、肉体を持つ身にはありがたい。いや心理的には針の筵だけど。
サリエルは黙っている。自己申告しろということか。
わたしはしばし瞑目したのち、重い口を開いた。
「母子に危険が迫っていることに気付かず事前に止め損ない、その不始末を奇蹟で強引に取り繕ったことは、申し開きのしようもありません。また、傷を癒やし記憶を書き換えたところで、脅かされ傷つけられたことは事実。いかような処分譴責も受けましょう。ですが……確かにわたしは失敗しましたが、間違ったことをしたとは思いません」
言い切って、まっすぐにサリエルの瞳を見返す。天使としてなんら恥じるところのない行いだったと信じているから。
サリエルは何を考えているのか、よくわからない表情でわたしを見ていた。無表情とも違う、かといって人間的な何かしらの感情が窺えるわけでもない……つまりそう、いかにも天使らしい顔つき。
人界暮らしが長いものだから、どうにもこれが落ち着かない。
わたしが目をそらしたくなってきた頃に、ようやくサリエルは声を発した。
「そもそも、だが。件の悪魔の動きは、むろん我々のほうでも捕捉していた」
「――えっ」
「その上で、君……坂上神父に命じたのは、土橋神父のサポートのみ。なぜか。説明が必要かな?」
なにやら雲行きが怪しくなってきた。わたしは気持ち小さくなって、「お願いします」と答える。サリエルは淡々と続けた。
「悪魔のもくろみは頓挫すると、わかっていたからだ。あれが手先に選んだ男は、君が赴任するよりも前から、元妻と子の生活を監視していた。毎日のようにやってきて、長時間同じ場所に車を駐めて。だから、近隣住民の何人かが不審に思っていた」
「……」
「君は大貫母子に接触した日、帰路で敵意を感じて周囲を見回した。その視界に紺色の乗用車があったことは――覚えていない。だろうな。その運転席にいた男は君に見られたと思い込み、車を駐める場所を変えた。結果として、今日も同じ場所にあの車があったら通報しよう、と思っていた住民が、機を逸してしまった」
「では……、わたしが」
土橋神父に頼まれたお使いの途中で、拓也君に気を取られてそちらに関心を移したから。早く帰って腰痛患者のかわりに用事を片付けなければ、と判断する前に、おなかを空かせた子供の世話を優先したから。
――自分に課せられた使命が何だったか、その意味も失念して。
「もし君が関わらなければ、あの日に警官が職務質問にやってきて、彼は忌々しく思いながらも立ち去り、少なくとも当面は遠ざかっていただろう。母子は彼の接近に気付くこともなく、平穏無事だった」
言葉もない。わたしはがっくりうなだれ、顔を覆った。ああ、なんてことだ。
わたしの関与が彼を母子につなぎとめ、さらには恐らく余計な敵意を煽った。母子が誰の支援も得られず二人だけで寂しく過ごしていたら、彼はああまで怒り任せに暴力をふるいはしなかったのでは?
けれど。それでも。
わたしのしたことが間違っていたとは思わない。関わるべきでないと知っていたとしても、あの店で拓也君に出会ったあと、そのまま見捨てることなどできなかったろう。
息を吐き、顔を上げる。視線の先にはサリエルの笑みがあった。わたしの反応までも完全に見通していた、という笑み。
「指示されていない人間に不用意な接触をし、あまつさえ本来の使命よりも熱意をもって肩入れしたあげくに無用の暴力を招き、その損害の補填を奇蹟に頼った。この結果のみをもって評価するならば、君はいったん地上勤務を離れるべきだと結論づけるところだ。あまりにも天使の規範を逸脱していると言わざるを得ない。だが……その逸脱によって、幼い魂が失っていた世界への信頼を取り戻し、温かな善意が確かに存在するという経験を与え、さらには教会に対する好意の種を蒔いたことは、誉むべき成果だ」
笑みが深くなり、祝福のさざ波が打ち寄せる。わたしのおこないが認められ、肯定された喜びが胸に満ちてゆく。サリエルの言葉は単に上位にある一天使の言葉ではない。天のあるじ、あらゆる命を見守りたもう主の、御心の反射だ。
「よって今回の件については功罪相殺としよう。よくやったとは言えないが、むろん処罰もない。……安心して地上に帰るがいい」
サリエルは小さくうなずき、退出を指示するというより赦しのしるしのように手をもたげた。わたしはほっと安堵して立ち上がる。
そこで初めて、サリエルは人間味のある表情を見せた。面白そうな、含みのある微笑。
「個人的な感想としては、久しぶりに邪悪をぶん殴る天使を見られたのは良かったな。昔を思い出して愉快だった。礼を言う」
……えーっと。部下としては、上司の冗談にどう対処するかは悩ましい問題なので、できれば勘弁願いたいのですが。昔って、二千年ぐらい前? たしかにあの頃は天使も悪魔もわりとおおっぴらに地上で殴り合っていたようですが。
わたしが何とも応じられずにいると、サリエルはすっとまた感情を消した。ふたたび手をもたげ、今度ははっきりと退出を促す。わたしが一礼して背を向けたところで、「ああそうだ」と彼は思い出したように言い添えた。
「使い切った奇蹟の力は年明けまで補充されないからな。それまで、くれぐれも不慮の事故には気をつけるように」
「年明け!?」
思わず情けない顔で振り返ったわたしに与えられたのは、温かみの欠片もない天使管理職のまなざしだった。
「クリスマスに世界中で景気よく奇蹟を連発されたのだから、余分の在庫などない。それに加えて現在、地上の医療は限界ぎりぎりだ。迂闊に事故れば普通に死んでしまうぞ、坂上神父」
天使としての存在は消滅せずとも、坂上神父の肉体は死ぬ。そうなれば当然、地上勤務にさようならだ。
「……重々、注意します」
「うん。ご苦労だった。しばらく羽を伸ばして休みたまえ」
皮肉かな、それとも冗談のつもりかな。わたしは曖昧に会釈すると、久しぶりの天界を後にした。
――で、地上に戻ってきたわけですが。
「さ、寒い……」
短時間とはいえ快適な天界で過ごした後では、地上の風は堪える……!
路肩に駐めた愛車に寄りかかり、自販機の熱いお茶で暖を取る。足元には黒犬がいるものの、さすがに拓也君のようにこいつを湯たんぽにするのは御免こうむる。
というかそもそも、すっかりへしゃげて地面に伏せたきり起き上がろうとしないのだから、抱きかかえようもないのだが。
『クソッタレ天使め、本っ当につくづく天界の奴らは性格が悪いな! 人が涙ぐましい地道な努力をしてるってのに、そら失敗するぞーって高見の見物かよ。あぁぁーまとめて地獄に落ちろ! いや待て駄目だ、地獄を通過して奈落の底まで落ちてしまえ』
「言っても無駄だろうが、そもそもそんな努力をするな、って話だろう。はぁ……おまえのせいで散々だ」
『うるせーよ、なんだかんだ言っておまえは親切な神父様ごっこでいい気分になれて、ミンスパイにもありついたじゃねーか。こちとら苦労が水の泡になった上、チキンもケーキも食えずじまいなんだぞ。勤勉なわんこにプレゼントがあったっていいじゃねーか』
「悪魔の分際でサンタにおねだりするな。クリスマスソングを聴かせるぞ」
まったく、厚かましい。
……しかしまぁ、今回はお互い、いいとこなしのクリスマスだった、という点では痛み分けと言って良いかもしれない。なんの慰めにもならないが。
『くっそー、あそこでつい熱くなって吠えちまわなかったら上手くいってたのになあぁ! おまえの判断ミスのおかげでむしろ当初より良い感じで小僧が暗黒面へ真っ逆さまだったのに何がワンだ何が。オウンゴールで善行カウントされちまうとか霊魂削られる……自慢の毛並みがハゲそうだよちくしょう』
ぶつくさぶつくさ、悪魔が延々と泣き言を並べ立てる。やれやれ、付き合いきれないな。
わたしはため息を深々と吐き出し、運転席のドアを開けた。それからちらりと足元に目を落とす。
「乗るか?」
『ぅおっ!? おいおいどうしたよ、まさかクリスマスプレゼントのつもりじゃないだろうな』
「この寒空の下、吹きさらしの路傍で年越しなんて憐れだと思っただけだ。嫌ならいい、来るな。2020年と一緒に二度と戻らぬ永遠の彼方へ去ってしまえ」
『そこは「失せろ」の一言で済ませろよ!』
文句を言いながらも、黒犬はすちゃっと起き上がって運転席に跳び乗る。それからシートの隙間をくぐり抜けて後部座席へ。まるで我が家のような振る舞いだ、忌々しい。
けれど今日のところは我慢してやろう。天使パワーもすっからかんで、次の使命が下るまでの宙ぶらりん期間は、少しだけ寄る辺なくて物寂しい。腹立たしい敵がすぐそばにいれば、自分のなすべきことも立場も忘れずに済むというものだ。
『おい。本っ当ーに、なんか企んでないか? おまえが楽しそうだと不気味だな……』
黒犬が珍しく不安げな顔をする。わたしは答えず、ふんと鼻で笑ってやった。せいぜい困惑するがいい。どうせ来年にはまたいつもの敵同士だ。
それまでのわずか数日、つかの間の平穏を楽しむとしよう。
せわしなく生きる人間の皆さんも、良いお年を!
(終)




