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※DVの描写があります。閲覧注意。
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ふう、なんとか配り終わったぞ。
一日じゅう町内を歩き回って任務を完遂したわたしは、教会に戻って思わずほっと大きく息をついた。
用意した焼き菓子の小袋は、自治会の協力を得て、小学生のお子さんがいる家庭に届けられた。毎年の“おはなし会”のかわりに、土橋神父お手製の『そもそもクリスマスってどんな日?』という可愛らしいペーパーも同封してある。
こういう贈り物ができるのも、この土地に根を下ろして長年地道に活動してきた成果だろう。土橋神父には頭が下がる。
例年なら今日の夜にもミサをおこなっているのだけど、今年は残念ながら取りやめだ。明日の午前中に一回だけ。それも、聖歌なし、応唱も代表者ひとりだけ、という寂しさだけれど、できるかぎり集会の回数と規模を減らさなければならないから、仕方ない。
「いやあ、助かったよ。本当に、君が来てくれなかったら僕ひとりで身動き取れないまま、クリスマスなのに教会を閉めて、病院でうめいてなきゃいけないところだった」
あはは、とのんきに土橋神父が笑う。いやそこは笑ってる場合ではないのでは……。
「子供たち、喜んでくれるといいねぇ」
「ええ。残りは明日の参加者さんに渡すぶんですね」
バスケットに選り分けられた小袋は、町外から来る信徒さんのぶんだ。子供用の焼き菓子と、大人の皆さんには小さなミンスパイを用意した。間違いなく喜んでくれると思う。ひとつだけ自分用に買って味見したら、たいへん美味しかったので。
百年前にイギリスで食べたのとはだいぶ違うけれど、それでも伝統のレシピと風味はちゃんと伝えられていて懐かしい。これなら日本でも受け入れられるだろう、と店主さんに言ったら、とても嬉しそうだった。
天使としても、またひとつクリスマスの伝統が新たな土地に根付けば、嬉しい限りだ。
幸せな未来の予想に胸が温まった――直後。
「……っ!?」
一瞬、背筋が凍り付くような悪寒に襲われた。
まずい。これは警告だ。わたしが祝福を授けた人間に、危険が迫っている。大貫さんに何かあったに違いない。帰ってきて沈み込んだばかりのソファから跳ね起きる。
いきなりの動作に、土橋神父が目を丸くしたけれど、言い訳を考える余裕もない。
「すみません、……っええと、一軒、届けるのを忘れていました!」
叫ぶように言ってバスケットの小袋をひとつ掴み、外へ飛び出す。空にはもう一番星、殴りつけるような寒風が骨まで染みる。
くそっ! 毒づいて辺りを見回した。クリスマスイブのこんな時間に、商店街でもない住宅地で外を出歩く人影は皆無だ。もちろん黒犬の影もない。あの悪魔め。なんとなく存在に慣れて放置してきたのが間違いだった。縛り上げて樽に詰めておくべきだった!
悪寒が急激に酷くなる。駄目だ、走って行ったのでは手遅れになる。車でも。
ああ神よ、わたしの落ち度で罪なき人が害されるなど、どうかありませんように! 査定がどうなろうと知るものか!
天使の視力を用いてもう一度辺りを見回し、誰にも見られていないのを確認すると、わたしは地を蹴って舞い上がった。翼を大きく広げて空間を翔び越える。
間に合え!
※
「やめて、拓也には近付かないで!」
女が震える声で訴えた。なんだかねぇ。圧倒的に力が劣って、明らかに自分は踏まれるだけのミジンコだってわかってるだろうに、なんで人間ってやつはそれでも何か要求できると思うんだろうな。対話に望みがあるとでも? 無駄無駄。
ほら、怒らせちまった。
「黙れ!」
男が憤怒の形相になり、プレゼントの箱を女に投げつける。それだけでは足らず、髪を掴んで頭を揺さぶり、床に投げ倒して蹴りつける。
「何様のつもりだ、このアバズレが! もうさっそく男を連れ込みやがって、男の財布から金を抜かなきゃ子供にメシも食わせられないくせに! よくも、そんなざまでっ、親権だとか言えたな! おまえがやってるのは実子誘拐ってんだよ!」
わめきながら二度、三度と蹴り続ける。ダイニングから小僧が叫んだ。
「やめろよ! ディナーでも何でも行くから、やめろ!」
子供の制止にいったん男は動きを止め、荒い息をしながらぎろりと息子を振り返った。憐憫の笑みを浮かべ、そしてまた牙を剝いて女を罵る。
「拓也が昼間、何やってるか知ってるのか。店の試食を食い荒らしたり、他人が置き忘れた弁当をかっぱらったり、肉屋ごときに憐れまれてコロッケ恵んでもらったり!」
ひとつひとつ挙げられて、小僧の顔がこわばる。褒められたことじゃないってのは自覚してても、生きるためだと思っていたんだろう。不思議な黒犬が助けてくれるのも、神様だかなんだかしらんが許されているからだと、なんとなく自分を免罪していたのに、それを糾弾された――よりによって世界で一番憎いクソ親父に。
小僧がわなわな震えだしたのにも気付かず、男はまた女の髪を引っ掴んだ。
「俺の息子に乞食させやがって! この恥知らず!!」
直後、ガタンと大きな音がした。男が振り返ると、小僧が台所で包丁を取り出したところだった。
空気が緊迫する。女が口を動かして「拓也、だめ」と言おうとしたようだが、声にはならなかった。
「おい。おいおい、拓也。なんだそれは」
男は失笑し、あくまで余裕のある表情を取り繕ったが、作り笑いなのは明らかだ。小僧は瞬きもせず、ぎらつく双眸で父親を睨みつけたまま、包丁を両手で構えてじりじりと距離を詰めていく。本気だと悟った男も笑みを消し、わずかに後ずさる。
そうだ、いいぞ! そのままやっちまえ。そうすればおまえは自由になれる。刺したっておまえは罪に問われやしない、いたいけな子供なんだからな。
このクソ親父さえいなければ、おまえは自由に生きていける。そら、今こそ叛逆だ!
俺の思念に背中を押されるように、小僧の踏み込みが大きくなる。
そこだ、行け、行け! やっちまえ、今だ!!
「ワンッ!!」
――あ。やべ。
突然響き渡った犬の声に、三人は揃ってぎょっとなった。とりわけ小僧は、冷水を浴びせられたように竦んじまった。目から熱がいっぺんに引いて、包丁を構えた手が下がる。
ヤバいヤバい、ちょ、萎えんな小僧、目の前に敵がいるんだぞ!!
小僧から消えた炎は父親のほうに乗り移った。残忍な冷笑が顔いっぱいに広がる。威圧しながら小僧ににじり寄り、
「なんだ、やっぱり本気じゃなかったか? そうだよなぁ、親に向かってそんなこと」
ニタニタ笑いがスッと消え、拳が振り上げられる。
『ああもう、ちくしょう!!』
「うわっ!」
「なっ――!?」
俺が実体化して小僧の前に飛び出すのと、まばゆい光をまとった天使が舞い降りて父親を殴り倒すのが、同時だった。
『天使パワー全開にすんじゃねえ眩しいだろうが! そもそも来るのが遅ぇ!』
「うるさい、駄犬!」
言い返しながら天使が男の頭をがっしと掴む。バチッ、と稲妻が走って男の身体が痙攣し、動かなくなった。無造作にそれを放り出して、天使は倒れている女に駆け寄る。
光に目をやられて突っ伏しているところへ、そっと手を置いて一言、二言。治療して、眠らせてやったんだろう。申し訳なさそうに、けれど最悪の事態は避けられたと安堵した様子で微笑んで、ぐしゃぐしゃに乱れた髪を軽く手櫛で整えてやる。
さて俺はこっちだ。振り返ると同時に、小僧の手から力が抜けて、包丁が落っこちた。
「キャイン!」
あああっぶねえぇぇ! 尻尾が切れるとこだった!!
俺の悲鳴で我に返った小僧が、何度も瞬きしながら、俺と天使を見比べる。じきに膝が抜けて、小僧も床にへたりこんでしまった。それから、今さらながらに恐怖に襲われたらしく身震いし、我が身を抱いて歯をカチカチ鳴らしだす。しゃーねえなぁ、もう。
ぺたりと寄り添って頬を舐めてやると、小僧は俺の身体に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。俺は湯たんぽじゃねえぞ。……いいけどよ。
じきに震えがおさまったものの、小僧はまだ俺を離さないまま、顔を上げて母親のほうを見やった。ボンクラ天使が振り返り、にっこりする。この野郎、その顔は身動き取れない俺のざまを面白がってる笑いだな? 後で見てろよ。
「……えっと、あの」
何からどう言っていいのかわからず、小僧は口ごもる。天使はゆっくり屈んで包丁を拾い、安全圏まで退避させてから、小僧の前に膝をついた。
「間に合って良かった。よく我慢しましたね、拓也君」
「……その翼、本物?」
「本物ですが、物質的な翼ではありませんね」
「天使? え、マジで?」
だって天使っていったら赤ちゃんか、さもなきゃ若い美人だろ、と言いたそうな声音だ。幻滅させられて気の毒になぁ。しかもクリスマスイブにとか、ひでえ冗談だ。
当のおっさん天使は気にしたそぶりもなく、天使らしい微笑みで言った。
「申し訳ありませんが、今夜起きたことは忘れていただきます。いくらクリスマスと言っても、何でもありにはできませんのでね。クリスマスのごちそうを用意している途中で、疲れていたお母さんは、ちょっと休憩した途端に眠ってしまった。あなたは代わりにお皿を並べて、料理を温めて、お母さんを起こしにいく。誰も来なかったし、危ない目にも怖い目にも遭わなかった。いいですね?」
「待っ……、じゃあ、そいつは?」
おとなしく聞いていた小僧が、はっとなって血相を変え、床に転がる父親を視線で刺す。あいつも無罪放免されるのか、冗談じゃない、そんな不正義ってあるもんか!……ってな怒りがふつふつ沸いてやがる。うーん心地良いねぇ、やっぱりこうでなくちゃ。
天使は小僧の頭に手を置いて、お得意の祝福を授けた。おいやめろ、至近距離に俺がいるんだぞ火の粉がかかるじゃねーかペッペッ。
「大丈夫、この人からも今夜の記憶を消しておきます。この場所を見付けたこともね。ついでに、あなたとお母さんの存在を、心の中で少しだけ“どうでもいい”ほうへ移しておきますから。これからは、あなたたちを見付けて人生に踏み込んでやろう、という強い気持ちが起こらなくなるでしょう」
小僧はややこしい顔になって、なんとも答えられず目を伏せる。
こんな親父が刑務所にぶち込まれもしないのか、ってえ不満はわかるが、まぁしょーがねえ。人間のつくった法律じゃ、そいつは難しかろうよ。地獄に連れてってやってもいいが、今は天使サマが見てるしな。
『おーい、さっさと撤収しようぜ。ぐずぐずしてたらチキンが冷めちまう』
小僧も湯たんぽはもう要らねえだろ。軽く身体を揺すって腕をほどかせて、一足お先に姿を見えなくする。天使も心得て、DV親父の襟首を片手でむんずと掴んでぶら下げると、にっこり笑って聖夜にお決まりの挨拶を告げた。
「拓也君、いつか気が向いたら教会に遊びに来てくださいね。土橋神父も気にかけていますから。それじゃあ、メリークリスマス!」
軽く手を挙げ、翼をばさりとひと打ち。光が渦を巻いて天使とクソ親父の姿を包み込み、消し去る。それから光は奇蹟の波になって、部屋に広がっていった。記憶を書き換えて何もなかったことにするなんて、あいつの奇蹟パワー払底したんじゃねーか? それともクリスマスには割増ボーナスがつくのかね。
おっと、巻き込まれないように逃げなきゃな。やれやれ、今回は骨折り損のくたびれもうけ……っと、ん? あのボンクラ、焼き菓子の小袋ひとつ落っことしていきやがった。いなかったはずの神父が忘れ物しちゃいかんだろうが、俺が食って……
――ま、いいか。
あれっ、神父さん来たっけ、だとか小僧が不思議がるぐらいは、奇蹟のおこぼれが残ってるのも粋だろうよ。
なんたって、人間どものわがままな願いが溢れるクリスマスなんだから!




