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良い子で伏せている俺の頭上で、本人の噂話が始まった。
いつからこの犬が見えるのか、何か嫌な目に遭わされたのか(失礼な!)とか、用心深く探りを入れる神父に、小僧――拓也少年は無愛想にぼそぼそ答えていく。
「最初に見たのは、十一月のはじめ頃。帰り道で曲がり角にいたから、めっちゃビビって変な声が出た。けど、近くにいた誰も気付いてなくて……なんで、って思ってる間にぱっと消えたんだ」
そうさ、生身の犬だと誤解されちゃ面倒だからな? 最初が肝心、ってな。
「それから、なんでか時々見えるようになって……一週間ぐらい、かなぁ。こいつがいるの、食べ物がある時だってわかったんだ。あのケーキ屋とか、そこのおばちゃんがコロッケくれる時とか」
そうそう。コンビニから出てきた奴がスマホの通話に気を取られて、買った弁当その辺に置き忘れていくタイミングとかな。
たいした悪事じゃねーだろ、どうせ烏にたかられるだけのもんを先に失敬したってだけだ。だからそんな疑いの目で見るなよ天使サマ。俺のおかげでおまえさんのコロッケもすんなり受け取られたんじゃねーか。
「そうでしたか。……拓也君、家でちゃんとごはんを食べられていますか? 全然足りないのでは?」
「……給食、あるから」
つまり給食が頼みの綱、ってこった。神父が寄り添うように背をかがめてささやく。
「一度、お家の人と話をさせてください。わたしは最近こちらに来たばかりで、地域の事情はよく知りませんが、教会の土橋神父なら何か助けになる方法を知っているはずです」
「教会?」
「はい。元町二丁目にあるキリスト教会です。正体不明の怪しいところじゃありませんよ。ここからだと歩いて二十分ぐらいかかるので、知らないかもしれませんが」
と言われたって、教会に縁の無い日本人にはうさんくせーよなぁ。その疑い、当然だとも。
拓也少年は困惑顔をしてから、俺のほうに目を向けた。食い物のありかを教えてくれる不思議な犬のほうが、妙に親切な初対面の大人なんかより、よっぽど信用できるってもんだ。なぁ?
けどまぁ、そいつには好きにさせてやるといいさ。どうせ今回は手遅れだからな。
俺は無邪気な犬らしく小僧と目を合わせ、ちらっと神父を見てから尻尾をぱたぱた振ってやった。
OKサインを読み取って、小僧は姿勢を正して神父に向き直る。それから最後の確認のように問うた。
「おっさん、子供いる?」
「……? いいえ、独身なので」
「ふぅん。ならいいや。今日は母さん、家にいるはずだから、ついて来たら?」
素っ気なく言って、コロッケの空袋を小さく丸めてポケットに突っ込み、立ち上がる。意味不明な納得ぶりに、神父は目をぱちくりさせていた。仕方ねえな、教えてやるか。
俺はうんと伸びをして、小僧の後について歩き出しながら、事前に仕入れた情報をちょっとばかり分けてやった。
『そいつの父親がクズなのさ。外で親切ないい人面して、家じゃ暴君。自分の体面を保つために、嫁さん子供を利用する奴だ。地域の集まりとか催しに気前よくあれこれ提供して、それを用意すんのはいつも嫁さんだけ。子供にも模範的行動を強要して、ちょっと失敗すりゃぶん殴る。俺に恥をかかせるな、つってな』
だから、自分の子供がいるのに外で他人に親切ふりまく大人はクソだ、って学習したわけだよ。おやおや、いまさら人間に失望したかい、天使サマ?
しんなり萎れた中年神父の背中が、夕暮れの迫る冬空の下で寒々しい。なかなか憐れな風情があって良いな、だとか悦に入っていたら、じきにボンクラ天使は気を取り直した。なんだ、はえーなオイ。
「ところで拓也君。あのケーキ屋さんの焼き菓子、よっぽど美味しいんですね」
「……」
「おなかが空いているのだとしても、全部ひとりで食べられてしまったら、お店の人が困りますよ」
諭す声音はずいぶんとお優しい。父親からの仕打ちを思い出させないように気をつかっているんだろう。んなことしたって無駄無駄、いっぺんずたぼろにされた心はそう簡単に他人の言葉を受け入れやしねえっての。
案の定、小僧は行く手をむすっと睨みつけたまま、押し黙っている。
「あれは、大勢の人にお店の味を知ってもらうためのものですから。全然誰も食べないのも困りますが、ひとりだけがたくさん食べてしまうのも、困るんです。……自分では買えないのなら、せめてほかの誰かに、あそこのお菓子はすごく美味しい、と広めてあげてくださいね」
食べたこと自体は悪くない、責めていない。そういう口調で穏やかに言って、説教は切り上げる。相変わらず小僧はだんまりで、漂う空気は気まずいものの、険悪とまではいかずに済んだ。
ちょうどそこで三叉路に着いた。宅地開発の時に誰かが妙な洒落っ気を出したのか、それとも地主の要求でもあったのか、真ん中に小さな緑地があってヒマラヤスギの大木がどーんと立っている。それが今は、電飾されてクリスマスツリーになっていた。
薄桃色の夕空を背にしてキラキラと、幻想的な雰囲気だ。ほう、と神父が嬉しそうに感嘆した。
「これは素敵ですね」
近隣の小金持ち住民が張り切ったのか、低い枝には星や天使のオーナメントがぶら下がり、幹のまわりにサンタと雪だるまの人形まで置かれている。どうせ今年はパーティーやらイベントやらができないから、憂さ晴らしにせめて、ってなところだろう。実に人間らしい虚飾だよ。
目を細めて梢を見上げる神父とは対照的に、小僧は苦い顔になって低く唸った。
「クリスマスなんか最低だ」
『本当にな!』
ワフッ、と同意を示した俺に、小僧はちょっと驚いた顔をしてから、苦笑いを見せた。
ああまったく同感だよ。浮かれ騒げる恵まれた奴らは、それどころじゃない人間がいることなんざまるっきり無視して、自分たちの幸福に酔いしれる。
このキラキラした光景を見て、DV親父と過ごしたサイテーなクリスマスの記憶で胃がよじれる子供がいる一方で、幸せな奴は浮かれてカメラを向けてネットに上げ、運良くバズって何万いいねだとかもらって大はしゃぎしてる。
まさにこの世は地獄ってなもんだ。いっそ本物の地獄に来いよ、なぁ小僧。
ボンクラ天使も、自分が残酷なことを言ったと気付いたらしい。どんな表情をしようか数秒迷い、それから微苦笑して小僧の前に屈んだ。
「今年はきっと、いいことがありますよ」
「なんで」
「だってほら、この不思議な犬が来てくれたじゃないですか。きっと神様のおつかいなんですよ」
『やめろクソ天使!』
ガフッ、と吠えた俺に、ボンクラ天使はくっそ忌々しくもいい笑顔を向けやがった。
「ほらね!」
「う、うん……?」
ぬあぁぁぁ!! 納得すんな小僧ー!!!
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黒犬は憤慨を抑えかねて、しきりに頭を振ったり鼻を鳴らしたりしている。ざまみろ、ははは。何を企んでいるか知らないが、意図せず善行を積んで清くなってしまえ。
気分良く歩き、暗くなる前に拓也君の住まいに着いた。築二十年一回もリフォームされていないような外観のアパートだ。一階あたり五戸の二階建て。空室も多いらしく、郵便受けにチラシお断りのガムテープが貼られている。
拓也君の家は一階の端だ。表札は出ていない。
「じゃあ、お母さんを呼んできてもらえますか。できるだけ手短に済ませますから」
ん、とうなずいて、拓也君がドアを開ける。ちらりと見えた玄関口に、男物の靴はなかった。
ただいま、かーちゃん、お客さん……そんな呼びかけに、困惑と警戒のいりまじった女性の声が何やら応じて。しばしのやりとりの後、三十代とおぼしき母親が姿を現した。
「突然お邪魔してすみません。わたくし、坂上と申します」
「はあ、神父さんだとか。あの、拓也がコロッケをいただいたそうで。申し訳ありません」
言って彼女は深々と頭を下げる。ありがたさと悔しさと情けなさ、それに不信感。様々な感情が仕草と声音の端々から漂ってくる。
「いいえ、些細なことです。こちらこそ不躾で恐縮ですが……支援が必要なのではありませんか」
そっとささやいた途端、細い肩がこわばった。拒絶される前に、急いで言葉をつなげる。
「お名前やご事情を伏せたいのであれば、そのようにできる方法を相談します。わたしはつい最近こちらに来たばかりなので、地域のことには疎いのですが、教会の土橋神父なら何かご存じでしょう。今は困窮している方も多いので、フードバンクなどの活動もあちこちで増えていますし」
返事があるまでに、長い沈黙があった。うつむいて唇を噛みしめていた大貫さんは、背後で冷蔵庫を開け閉めする音がしたのをきっかけに、ふっと息を漏らして顔を上げた。
「正直に言うと、食料品をいただけるのなら、何より助かります。お米とか。でも……人が集まるところには出来るだけ、行きたくなくて」
「人目につきたくない、ということですね」
「はい。それだけじゃなく……活動の様子とか写真でネットに上げたり、今日はこんな人が来ましたとか、名前は出さなくてもコメントしたりするじゃないですか。ああいうの、怖くて」
ぎゅっと眉根に皺を寄せて、我が身を抱く。隠れなければならない、逃げなければならない人の仕草。
「……万が一、元夫に見付かったらと思うと。離婚は成立したし、接近禁止命令とか出されたんですけど、そんなの……守る人じゃないから。何するかわからない」
言葉尻が恐怖で震えた。ああ、可哀想に。
わたしはそっと彼女の頭に手を置き、少しだけ天使パワーを注いで祝福を授けた。心が落ち着くように。恐怖に凍りつかずいられるように。
手を離すと、彼女はそこで初めて接触に気付いたように、目をしばたたいた。うん、初対面の他人に頭を触られるなんて、暴力に怯えてきた人にとっては耐えがたいから、自分に驚くのも当然だろう。これも天使のなせるわざ。
わたしは安心させるように微笑んで見せた。
「そんな状況で、あなたはよく耐えていらっしゃる。わかりました。あなたの懸念を伝えて、どういう形で支援できるか、相談してきます。あ、わたしが今いるのはここの教会なので、何かありましたらご連絡を」
スマホの地図で教会の情報を表示し、彼女のほうに向けて差し出す。大貫さんは、こんなところに、と意外そうな声を漏らした。それからやっと、少しだけ表情を和らげて頭を下げる。
「ありがとうございます。……裁判の間はシェルターのお世話になってたんですけど、その後は……絶対に跡をつけられないように、親戚も経歴も全然関係のない場所、ご近所にあれこれ詮索されそうにない場所に引っ越さなきゃ、って考えて。ここに来たのは去年ですけど、誰も……最低限、拓也の学校でのつながりだけで……誰も、頼れなくて。だから」
嗚咽をこらえ、もう一度、ありがとうございます、と感謝する。わたしは深くうなずいて請け合った。
「もう大丈夫ですよ。では、今日はこれで失礼しますが、また近いうちにお邪魔します。お留守でしたら郵便受けにメモを入れておきますから」
「はい。お世話をかけますが、よろしくお願いします」
お辞儀を交わし、奥からひょこっと首を伸ばして様子を窺う拓也君に軽く手を振って、踵を返す。階段の暗がりにいる黒犬と目が合った。
『へいへいお疲れさん。早く帰って腰痛神父の世話をしてやれよ。今まさに一人で晩飯の用意でもしようとして、さらに悪化させてるかもしれんぜ?』
悪魔め、ここに居座るつもりか。まだこの母子にちょっかいを出すつもりだな?
睨みつけてやったが、いつものごとく蛙の面に水。くそ、毎日でも様子を見に来るからな!
気がかりではあるが、そもそも土橋神父をサポートするのが今回の使命だし、やむを得ない。ダミアンの言う通り、本当に今頃、彼が台所の床で芋虫になっているかも知れないし。
ああ、人間の肉体というのはつくづく不便なものだなぁ。
通りに出るともう街灯が点っていた。空を見上げるとまだ美しい夕焼けの名残が輝いているけれど、風はすっかり冷たい。急いで帰らないと。
コートの前をかき合わせて歩き出したその時、ふと妙な気配を感じて立ち止まる。
うっすらとした敵意。誰の?
見回したが、薄暮の中、他に出歩く人影は見当たらない。というかそもそも、わたしに敵意を向ける者がここにいる道理がないのだが……いるとしたらあの悪魔だけだろう。
――なんだろう。本当に、あいつがいる・いないに関わらず、警戒すべきなのかもしれない。
天使の視力で念入りに辺りを調べようか、と思った矢先、ポケットでスマホが震えた。通話の着信だ。慌てて出ると土橋神父だった。
「ああ良かった、どこかで迷子になってるんじゃないかと! 君、今日こそは一緒に晩ごはん食べるだろうね? もう作ったから早く帰って来なさい」
「無理しないで、じっとしてて下さいよ……」
「いや、おなか空いたんだよ。とにかく、待ってるから」
一方的に言って通話が切れる。
さて、どうやって相伴を断ったものかな……。




