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「焼き菓子は何種類かありますが、アレルギーに配慮した取り合わせが必要ですね。今のところ一番人気があるのはブラウニーとブロンディーですけど、どちらもナッツが入っていますし」
「そうか、アレルギーの問題がありましたね」
わたしは悪魔の挑発を断固無視して、頼まれた仕事に集中していた。美味しそうなミンスパイの誘惑は墜落の記憶で封印。大丈夫だ、お菓子には負けない。と思ったら、
「小麦粉と乳製品を使わずに、米粉と豆乳で作ったものもあるんですけど。試食されますか? 今、用意します」
予想外の伏兵が出てきた。返事を待たずに、彼女は手早く数種類の焼き菓子を一口サイズに切って小鉢に入れる。どうしよう。
いや、これは仕事の一環なわけだし、この流れで断るわけにもいかないし。
「どうぞ。これが豆乳のケーキで、こっちが……」
説明しかけていた店主さんが途中ではっとなった。どうしたのかと訝る間もなく、外から小さな人影が入ってきて、遠慮もためらいもなく手を伸ばした。
「あっ」
「待って、駄目です! それはこちらのお客様の」
制止も間に合わず、子供の手が焼き菓子を鷲掴みにする。呆気にとられているわたしの目の前で、小学生の男児がお菓子をまとめて口に入れた。
頬を膨らませてもぐもぐしながら、残っていたひとつを掴み取る。なぜかわたしにじろりと敵意のまなざしを向けてから、男児は一言も発さず走り出ていった。
……なんとまぁ。
『いい間抜け面だな、アーリャ君。天使サマが捧げものを横からかっ攫われてなすすべもないとか、落ちぶれたもんだねぇ』
悪魔がニヤニヤ笑いのこもった思念を寄越した。なるほどおまえの差し金か。
わたしが渋い顔で犬を睨むと、店主さんが誤解して恐縮した。
「申し訳ありません、すぐに新しいのをご用意しますね」
「あ、いえ、それは結構です。メモでもいいので、種類と値段の一覧をいただけますか? 持ち帰って責任者と相談したいので。……今の子、よく来るんですか」
通りに気がかりな視線を向けたままの店主さんに問いかける。案の定、彼女は憂鬱げに「はい」とうなずいた。
「開店してしばらくは、なかなかお客様がつかなくて。それで、とにかくまず味を知ってもらおうと、試食を置いてみたんです。それで少しずつ効果が出てきた頃に、あの子が来て……さっきみたいにがさっと全部。最初に注意し損ねてしまって、それから度々やられるようになったので、しばらく試食はやめていたんですけど」
「親御さんは?」
「一緒にいたことはありません。いつも一人で来るんです。一度、気に入ってくれたのなら今度は買ってね、と言ったら、ものすごい顔をされて。暴れ出すんじゃないかと怖くなるような……結局その時は、なんにも答えずに出て行ったんですけど」
訥々と説明し、店主さんはそっとため息をついた。彼女が懸念していることがわかり、わたしも眉をひそめる。
「虐待されているのではないか、心配ですね」
「単にマナーを教わっていないだけ、ならいいんですけど……すみません、商品の一覧ですね。すぐお持ちします」
接客の途中だと思い出し、彼女は明るい声で言って、レジ横の狭い事務スペースに向かう。
笑みを取り繕っても、その横顔からは憂いの靄が晴れていない。それはそうだろう。環境問題を意識して苺を使わないような人が、飢えている子供を見過ごす無力を気に病まないはずがない。
春に開店したばかりで、その後じきに新型コロナの流行が始まったとなれば、今も恐らくひどい赤字だろう。そんな状態では、好きなだけ食べさせてあげよう、などと言っていられない。
かと言ってあの子の事情に踏み込むのも、やはり彼女には難しいだろう。
トラブルになった時、近隣住民に味方してもらえる地盤を持たない新参者だし、そうでなくとも商売人の立場は弱いものだ。悪い噂ひとつで店が潰れかねないから、理不尽な目に遭わされても抗議できない。
時間的にも、店を切り回しているのは実質的に彼女ひとりだろうから、他人の世話までしている余裕はない。そもそもあの子が身にまとう、人間不信の棘の鋭さときたら、誰だって怯むだろう。
――というわけで、一覧を受け取って店を出たわたしは、懐かしい味への未練を断ち切って男児の追跡にかかった。当然のように黒犬もついてくる。
『追いかけてどうするんだ、ええ? おまえさんの仕事じゃないと思うがね。ぎっくり腰の爺さんを一人でほったらかしていいのかい』
「うるさい。悪魔にそそのかされている子供の救出が最優先だ」
小声でささやき、まとわりつく犬を乱暴な足さばきで牽制する。ダミアンは腹立たしくも軽やかに身をかわし、ととっ、と先へ行って一軒の店先で止まった。精肉店だ。まさか肉を買ってくれとか要求するつもりじゃないだろうな。
わたしが胡乱な目つきをすると、ダミアンはぴょこっと耳を動かしてから、鼻先で通りの斜向かいを示した。小さな公園だ。隅っこのベンチで、さっきの子供が残りの焼き菓子を食べていた。
『運がいい日は、この肉屋のおばちゃんにコロッケ恵んでもらって、あそこで食べてるんだよ。水飲み場もあるしな。今日はおばちゃんがいないから駄目だったらしい』
なるほど。悪魔の示唆に乗るのは気に食わないが、手ぶらで話しかけても相手にされなさそうだしな……よし。
まだ温かいコロッケをふたつ買って紙袋に入れてもらい、公園に向かう。こちらの接近に気付いた少年はあからさまに警戒したけれど、逃げ出すのはプライドが許さないらしい。強い目でわたしを睨んだまま、身構えてじっと待ち受けている。
わたしは数歩の距離を空けて立ち止まり、コロッケの袋を持ち上げて見せた。
「やあ、さっきの君。良かったらこれも食べませんか。まだ温かいですよ」
「……おっさん、誰」
礼儀はともかく、ひとまず口をきいてくれたので良しとしよう。せめておじさんと呼んで欲しかったけど。
些細なことで地味にダメージを受けたのを察した黒犬が、例によってヒヒヒ笑いを漏らす。ついそれを睨んでしまったが、その反応を見て少年のほうも態度を変えた。
「そいつが見えるの?」
訊いた声から棘が抜けている。まだ警戒は強いけれど、敵意が消えて、ただ不審げな顔つきになって。
ああ、ええと。これは……認めたほうが話しやすくなるかな。
「この黒い犬のことですか」
「――!」
少年が目と口を丸く開いた。どうやら、自分にだけ見える怪奇現象だと思っていたらしい。ようやく同じものが見える他人に出会えて、どうしたら良いか決めかねているようだ。
「隣、いいですか」
「えっ、ああ、うん」
まごつきながらもベンチの半分を空けてくれたので、わたしは遠慮なく腰を下ろした。当然のように黒犬もやってきて足元に寝そべる。少年は信じられないというように、犬とわたしを何度も見比べた。
「あんた、なんで……この犬、何? 知ってる?」
「さて、わたしにはただの黒いラブラドールに見えますが。とりあえず、冷めないうちにどうぞ」
さすがにまだ拒絶されるかなと思ったけれど、意外にも、少年はすんなり袋を受け取った。あまつさえ、小声で「ありがと」とつぶやきまでして。
それから彼は、うつむいて、喉元まで出かかっている感情をせき止めるように、コロッケを口いっぱいに頬張った。
「ゆっくり食べないと、喉が詰まりますよ。……さて、と。わたしは神父で、坂上といいます。あなたの名前を教えていただけますか」
少年は黙って口をもぐもぐさせながら、ランドセルにぶら下がった体操服の袋を持ち上げて見せた。五年二組、大貫拓也。黒いマジックの文字は大人の筆跡だったので、少しホッとする。持ち物に名前を書いてくれる親ではあるようだ。
それに、食べながらしゃべるのは行儀か悪いとか、何かもらったらお礼を言いなさいとか、そういう基本的なことはきちんと教えているらしい。
となると、なぜケーキ屋であのふるまいなのか、そこが不思議なのだけど……ふむ。どこから攻略したものかな。




