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「おっ。よっ、とっ、はっ……もうちょい!」
「無理しないでください、そこはわたしがやりますから!」
「なんの、このぐらい大丈夫。ほら取れ――」
うごっ、だかなんだか不明瞭な呻きを漏らしたきり、初老の司祭が動きを止めた。
だから言ったのに……。
ああどうも、皆さんこんにちは天使です。
相変わらず坂上神父として地上勤務に励んでおりますよ。今はとある町の小さな教会で、腰痛が悪化した土橋神父をクリスマスまでサポートするという、わりと具体的で分かりやすいミッション遂行中。
ともあれ、土橋神父いわく「この程度はしょっちゅうだから病院に行くまでもない」とのことで(そんなに頻繁にやらかしているのなら、もっと大事にして欲しいものだ)ひとまずコルセットを着けて安静にしてもらい、選手交代。戸棚の上から一年間使われていない箱をよっこらせと下ろして、様々な飾りを取り出した。
プレゼピオ(イエス降誕の場面を再現した馬小屋の模型)は目立つところに。東方の三博士は当日まで訪れないから、少し離して置く。リースは祭壇奥の壁に。ほかにも細々とあれこれ。
一通り臨時助手の仕事ぶりを確認した土橋神父は、次のミッションとして意外なことを頼んできた。
「ケーキ屋さん、ですか?」
「うん。うちは毎年イブに子供向けの“お話会”を開いて、ケーキを振る舞っていたんだけどね。あと当日の礼拝の後で簡単な茶話会をしたり……でも今年はコロナでそれが出来ないからさ。せめてお土産に焼き菓子でも配って、子供たちに忘れられないようにしなくちゃなぁと」
「なるほど」
思わず笑みがこぼれる。子供たちをケーキで釣るのはどこでも使われる手口だけれど、土橋神父は単なる布教目的でそうしているのじゃないとわかったからだ。
わたしが面白そうな顔になったものだから、彼はささやかな嘘を見透かされたと察し、わざとらしい平静さを装って目をそらした。
この教会がある地域は、荒んだ、とまでは言わないものの、裕福ではない家が多い。駅前にも洒落たカフェや高級フレンチだとかは一軒もなく、古びた大衆居酒屋だけが目につく、そんなところ。だから子供たちも、普段あまり素敵なスイーツの類には縁がない。
土橋神父はそんな子供たちに、せめてクリスマスぐらい美味しいお菓子を食べさせてあげたいと願っているらしい。ごほんと咳払いして彼は言った。
「ただ残念なことに、毎年頼んでいた町内のケーキ屋さん、閉業されてしまったんだよ。どこか近くで対応してくれそうな店がないか、検索してみたんだけど、決めかねていてねぇ」
「どれどれ」
失礼、と断って、差し出されたスマホを受け取る。画面に表示された近隣マップには、ぽつんぽつんと赤い印が立っていた。うーん、どれも車でなければ行けない距離だし結構高そうな……おや?
「ここは? 一軒だけ近くの店がありますね」
「うん、そこなら僕も歩いて行けるなと思ったんだけど、まだ偵察してないんだ。今年の春にできたばかりらしくて、口コミもないし」
「なるほど。ええと、店の名前は……」
ごほっ。むせた。
不意打ちで目に飛び込んできた文字は『アンジュ』すなわち、天使。
いや、実際そりゃもう昔からちまたに溢れてますよええ、お菓子関連に限らず美容に服飾、最近はもっぱら介護業界で使われすぎて、もはやキラキラしさもすっかり剥げ落ちた感のある名詞ですけども!
……ああ。絶対これ偶然じゃないな。ないでしょ、サリエル?
地図を見るに、天使のケーキ屋さんは徒歩圏内とは言っても、大人がてきぱき歩いて二十分ほどかかりそうな場所だ。魔女の一撃にやられた土橋神父には行かせられない。
というわけで、天使が天使を偵察に向かう運びとなった。
幸い穏やかに晴れた昼下がり、まだ陽射しも充分暖かい。日没が早いからあまりのんびりはできないが、日暮れて寒くなるまでには帰れるだろう。
散歩がてら、築十年以上の小さな家や集合住宅の並ぶ細い道を通り、用水路に沿って田圃の間を抜けて。少し交通量の多いバス通りに出ると、ぽつんぽつんと個人商店があらわれる。
すっかり看板の色が褪せて文字が消えかけている理髪店やクリーニング店、シャッターが下りたままの自転車店、準備中の札がかかった居酒屋。
そんな通りを折れて裏通りに入った、ちょっとわかりにくい位置に、目指すケーキ屋があった。
のぼりが表に出ていなければ見過ごしてしまいそうな、小さな店だ。オーナメントを吊したゴールドクレストの鉢植えを置いて、クリスマスを演出しているのが微笑ましい。
感染対策だろう、入り口は開放されていた。他の客はいないようだ。なにがなし、そっと忍び寄って中を窺う。
その時だった。
『ぃよーぅ、相棒』
すっかり馴染んだ思念の声が飛んできて、わたしはぎょっと振り返った。直後、口から堪え損ねた奇声が漏れる。
「ガッ」
神よ! あの悪魔を追い払ってくださったのではなかったのですか!?
電柱の陰にお座りして、まるで無邪気な目つきでこちらを見つめる黒犬が一匹。
しばらく姿を現さなかったから、今回は、今回こそは邪魔されずに済むと思ったのに……!
※
はっはっはー、そう簡単に悪魔から逃げられると思うなよ。
俺はこれ見よがしにパタパタ尻尾を振ってやった。膝に手を突いてうなだれる中年神父、憐れで笑いが止まらんね。
ちなみに今は“俺が姿を見せたいと思った相手にだけ見えるモード”なので、迷い犬として通報される心配もない。それはあちらさんにも察知できるから、姿勢を立て直す時にぎろりと睨んだだけで、俺に向かってはこなかった。悔しいのぅ、悔しいのぅ。はははは。
何事もなかったような態度を取り繕って、天使が天使の店に入る。開けっぱなしだから会話も筒抜けだ。
「すみません、ちょっとお伺いしたいのですが」
「あっ、はい! すぐに!」
ショーケースの向こうに誰もいなかったから、奥に向かって呼びかける。そうしながらも、視線は並んだケーキを素早く品定めしている辺り、相変わらず食い気に弱い奴だよ。
『なぁなぁ、俺は二段目の洋梨タルトが美味そうだと思うんだが、おまえさんはどれが好みだい』
もちろん返事はない。背中がぴくりとしただけだ。楽しいねぇ。
『オペラも良さそうだよな。伝統的なレシピで変なアレンジしてないっぽいのがいい。あ、焼き菓子もおすすめだぞ。コーヒーマロンってやつ、客が落っことしたのを失敬したけど香ばしくて』
神父が密かに拳を握りかけたと同時に、あたふたと奥から店主が現れた。なんで知ってるかって? ちょいと前からここに張り込んでたからさ。
ケーキ屋につきものの若いお姉ちゃん、ではなくて、おばちゃんになりかけの女だ。茶色っぽい髪をきちんとまとめて、洒落た三角巾を着けている。奥にはもうひとり、パティシエの妹がいるが、こっちは接客はしない。姉妹ふたりで営むこぢんまりした商いだ。
「お待たせしました、ご注文はお決まりですか?」
「いいえ、今日はクリスマスケーキのことで相談がありまして」
神父がそう切り出すと、店主は朗らかな笑みをたたえたまま微かに緊張した。そして、表に貼りだしてあるのと同じ、お手製のチラシを手渡す。
「クリスマスケーキですね。当店でご用意できるのは、この四種類になります」
「ああ失礼。説明が足りませんでしたね。ホールケーキではなく、お土産に配るものなんですが……おや、しかしこれは変わった品揃えですね」
言いかけて、チラシの内容に気を取られる。そうだろうとも、おまえさんが惹かれそうなやつだよな。
今の日本じゃクリスマスケーキと言ったら苺たっぷりスポンジケーキだ。雪のように白いクリームに真っ赤な苺。
この店のチラシにはそれがない。ヨーロッパの伝統菓子、クグロフにシュトーレン、ミンスパイといったドライフルーツを使ったやつが三種。仕方なくのようにショートケーキも一種類入っているが、果物は苺じゃなくてリンゴと洋梨だ。
「やぁ、懐かしいなぁ。以前イギリスに住んでいたことがありまして、クリスマスのミンスパイが楽しみだったんですよ」
「そうなんですか! やっぱり本場の伝統はいいですよね。……日本の、苺ショートも美味しいんですけど。個人的に、それはやっぱり自然な苺の季節に食べるものだろう、って思いがあるんです」
「確かにわたしも日本に来て驚きましたね。本来は四月や五月の果物ですから」
「そう、そうなんです。なのに真冬に、日本全国でいっせいに苺ショートを食べるだなんて、そのためにどれだけ石油を燃やしているのかって考えたら怖くって」
神父に同意されて、店主の声に熱がこもる。あー、やだやだ優等生の会話ってのはつまらねえな。俺は鼻を鳴らして横から水を差してやった。
『馬鹿らしい、真冬に苺を欲しがって、知恵と技術でそれを可能にしちまうのが人間ってもんだろ。いいじゃねーか、クリスマスには苺ショートを買う、なんならガンガンに暖房の効いた部屋でアイスも食う! 最高だろ。それで地球が燃えるってんなら、また知恵と技術で対処する。不自由を我慢してまで、神がお定めになった自然の通りに従う必要なんかないさ。むしろ人類は叛逆したから進歩してきたんだぜ』
まあ、それで進歩が間に合わずに滅んだら、人類は地上を授けられるに値しない生き物だったってだけの話だ。神のご贔屓にあずかるなんざ、そもそものはじめから分不相応なのさ。
と、これだけ挑発してやっても、ボンクラ天使は振り返りたそうなそぶりも見せない。やれやれ、ご立派ご立派。っていうか頭ん中、幸せなミンスパイの記憶で一杯になってんじゃねーのかアレ。そんなだからロンドン塔から落ちるんだっての。
「でも、いきなり皆がグレタさんみたいには行動できませんし、苺農家さんだって困るし……だからせめて自分の店では、クリスマスにはこんな素敵な伝統のお菓子があるんですよ、果物だって今の時季にちゃんと美味しいものがいっぱいありますよ、って広めていきたいんです」
「とても素晴らしいことだと思いますよ」
熱弁をふるう店主に、にこにこと神父が相槌を打つ。途端に店主は我に返ったようにあたふたした。ここからでも見えるぐらい、顔が真っ赤だ。
「すみません、つい。共感していただけたのが嬉しくて……ええと、お土産に配られるということでしたね」
やっと正気に返ったか。あんまり気にすんなよー、そいつは人間の自白を引き出すのが大得意の天使サマだからな。べらべら余計なことまでしゃべっちまうのも仕方ないさ。本人は心を読んでるつもりじゃないから性質が悪い。まったく、どっちが悪魔だかわかりゃしねえ。
「シュトーレンを切り分けるか、小さなミンスパイをたくさん作りましょうか?」
「クリスマスらしくて良いですね。ああでも……子供たちに渡すそうですから、どうでしょう。ドライフルーツ、しっかり洋酒漬けなのでは」
「あぁー、そうですね、小さいお子様にはちょっと。でしたら焼き菓子をふたつみっつ袋に入れて、クリスマスのシールとリボン、という感じで」
「そうですね、予算的にもそれが無難かと」
神父がようやく本来目的のお使いをこなしていく。ミンスパイに未練たらたらなのがわかるぞー、視線がしょっちゅうそっちに向いてやがる。食え食え、食って重くなっちまえ。
『美味そうだよなー、スパイスとリキュールの香り豊かなミンスミート、随分ごぶさたしてるだろ? せっかくのクリスマスだぜ、ほらほら。なんなら俺が半分食ってやるからさ』
おっと、初めて神父サマが拳を固めたぞ。半分ってのが気に入らないのか。ケチめ。
とか煽ってる場合じゃなかった。ここしばらくでよーく覚えた人間の臭いが微かに鼻をかすめ、俺は通りの先へと視線を向ける。
このケーキ屋に張り込んでたのは、別にボンクラ天使が来るとわかってたからじゃない。いやまぁ、あいつ案件だろうとは予測してたがね。
来た来た。
ランドセル背負った生意気そうなガキ。大貫拓也、小学五年生。
――俺の獲物だ。




