表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/39

黒犬とシャンプー(後)

 何かが壁に投げつけられる音がして、ガキは半泣きで外に出てきた。手には潰れた菓子パンがひとつ。めそめそ泣きながらガレージの隅にうずくまって、涙で湿ったパンを口に押し込む。おいおい、窒息するぞ。


 やれやれ。俺はガキの頬を舐めてやり、ちょいとばかり小細工して、濡れたままだった髪や服を乾かしてやった。俺の毛皮はもちろん、とっくにふかふかだ。

 ガキは気付いてない様子でパンをがっつき、最後の一欠片を口にいれようとしてハッとなった。


「あっ……わんわんのぶん! はい!」


 いらねーよ、そんなまずそうなもん。いらねえって、ホント謹んで辞退申し上げますつってんだろ押しつけんなコラ鼻に入るやーめーろー。

 結局、文字通り押しの強さに負けてパンを食わされてしまった。しょっぺぇ。


「きょうはおかーさん、きげん悪かったねぇ。しょーがないかぁ。あしたはがんばって、もっといいもの探してこようね。そしたらわんわんも、いっしょにごはん食べて、おやすみできるよ」


 ガレージの隅に置かれた古いマットレスと、ボロ毛布。そこがガキの定位置らしい。獲物に恵まれて、ついでに女の機嫌が良ければ、家の中で眠れるんだろう。

 このガキは自分の境遇に不満も疑問も持ってないようで、当たり前のようにそれを受け入れている。ただ今日はたまたま動物と一緒に寝られるのが嬉しいらしく、俺にぴったり抱きついて毛布にくるまった。


 この様子じゃ、学校も行ってねえんだろうな。寂れた界隈じゃあるが、近隣住民の干渉があっても良さそうなもんだが……親がアレだから関わり合いを嫌って避けられてんのか。

 まったく、胸くそ悪い。こういうのは悪徳じゃなくて、ただの退廃、否、衰退だ。ああ、つまんねー。


 しかしこのガキには見込みがある。この境遇にも折れずに育てば、善悪の区別がつかないくせにやたらとしたたかな、面白い人間になるかもしれない。

 そんな興味もあって、俺はガキに付き合ってやることにした。


 朝から街をうろついて、間抜けな観光客の手荷物を荒らしたり。

 公園でピクニックだとか余裕かましてる奴らのメシをかっぱらったり。

 チンピラの喧嘩を陰から煽るだけ煽って、そっちに注目が集まってる間に店先の品物をくすねたり。


 あの手この手を駆使するのはなかなか楽しかったし、ガキは俺が犬にしちゃできすぎだって思うだけの常識もない、良い相棒だった。


 気にくわないのは、そうやってせしめた戦利品を、このガキはまったく何ひとつ惜しまず、飲んだくれの母親に差し出しちまうことだ。それで見返りに得られるのは、出来合いの惣菜や安物のパン、油っぽいスナックだけ。たまに笑顔のひとつも向けられりゃ、大喜び。


 これじゃあ、とても成長は見込めない。無垢すぎる。期待外れもいいとこだ。

 しかも毎日毎日、ねぐらに帰る度にシャンプーの洗礼に見舞われるとくる。冗談じゃない。

 いい加減うんざりしてきた頃、そろそろ担当のボンクラ天使を見に戻らなきゃならんと気付いて、俺はガキに別れを告げることにした。


 いつものように街に出て、適当にその辺をぶらついて。

 ここらでいいか、と俺はガキの隣を離れた。


「わんわん? どこ行くの」


 新手の作戦か、と訊く声音。俺は無視して、交通量の多い車道をすいすいっと横切った。


「待って、待ってよー!」


 歩道に取り残されたガキがぴょんぴょん跳ねる。俺は反対側から振り返り、軽く尻尾を振ってやる。あばよ、のしるし。

 なぜだか俺の意思を読み取ることに長けたガキは、目を大きく見開いてその場に立ち尽くした。泣きわめいて追いかけて来なかったのは褒めてやってもいい。そのまま強く生きろよ。


 俺は満足してそのまま背を向けかけ――ぎょっ、と空を振り仰いだ。


 天使だ。

 受肉してない、純粋でまじりっけなしの、天界の使い。あのボンクラみたいに優柔不断でも非効率でもない、与えられた使命を徹底的に効率よく果たすだけの。

 その透明で無機質な目が見ているのは、あのガキで……


 やばい。

 連れて行かれる!


 反射的に俺は、車道に逆戻りしていた。同時にちょいと後ろで追突事故が起き、弾き飛ばされた車が歩道に突っ込んでいく。呆然と突っ立っているガキめがけてまっすぐに。


 俺はガキと車の間に飛び込み、全力で壁になった。車の質量と速度を受け止めて、犬の姿を保てず霧になっちまったが、目的は果たせた。俺にぶち当たった車は一瞬宙に浮き、空回りしたタイヤが止まって、どすんと着地する。後に残されたのは、腰を抜かしたガキひとり。

 惨劇を見まいと目を瞑っていた運転手が、大慌てで飛び出してくる。


「大丈夫か、坊や!」

「……っ、わ……わんわ……うわああぁあん!!!」


 ガキの号泣が通りに響き渡り、野次馬が騒ぎ、警官が駆けつけてきて。

 そんな光景を、俺は上空から眺めていた。ふわふわ霧になって漂いながら。

 任務を邪魔された天使がじろりとこっちを見たものの、まぁ良く出来たやつだよ、何も言わずに天界に戻って行きやがった。現場の判断で動かず、いちいち報告してから次の指示を仰ぐってわけだ。

 オフだってのに、はからずも立派に悪魔のおつとめを果たしちまうとは、柄でもない。お疲れ様だよ、やれやれ。



   ※ ※ ※



 とまあ、そんなわけで。シャンプーと聞くだけであの時の衝撃がよみがえるし、本当に洗われた日には霊魂ゴリゴリ削られるのは間違いなし。

 だから嫌なんだ。納得していただけましたかね?


 いやいや待て待て、なんだその顔。よしてくれ、俺がガキを救ったって?

 冗談じゃない。悪魔が善行をするわけねえだろう。


 考えてみろよ、あんな馬鹿で無垢なガキは天国に行くのがふさわしいんだ。地上で生きれば生きるほど、ろくでもない目に遭う。

 人間ってのは弱者を見捨てず生かすことで、種全体の生存をはかる方向に進化し、繁栄を遂げてきた――が、それはつまり、弱者を利用し搾取し踏みつけにすることで全体が生き延びる、ってこった。

 違う? 違うもんか、あんたが食ってるもの、身につけてるもの、使ってるもの、何もかも弱い奴らの資源と労力を買い叩いて供給されてるだろ。あるいはあんた自身が買い叩かれてる側かな?


 つまりはそういうこった。

 あの後ガキは警察のご厄介になって、福祉の連中がクソ親から引き離したかもしれねえが、どうせは弱者、誰かに利用されるだけだ。悪徳を育てるのにちょっとばかり貢献して、天国に入れず地獄の浅いところに来るか、リンボ界ってな便利なところへ送られる。

 だから俺は、悪魔の仕事をしただけさ。


 っていうか、最初に断ったろ、これは“お話”だって。

 真に受けるなよ、お客さん。

 悪魔の話を信じるなんて、お人好しも大概にしないと、あのボンクラ天使みたいになっちまうぞ!



(終)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ